エロティシズム

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エロティシズム: eroticism: erotismo: érotisme: Erotik)は、リビドー美的次元に焦点を当てた概念である。とりわけ性的活動への期待感に関連しているが、喚起や期待といった状態だけではなく、あらゆる表現手段を用いてそうした感情をかき立てようとする試みについても用いられる。なお、芸術ジャンルとしてのエロティシズムについては項目エロティカを参照。

概要

エロティシズムという言葉の語源はギリシア神話の愛の神エロースの名前である。エロティシズムは官能愛または人間の性衝動(リビドー)のことだと考えられている。西洋哲学やキリスト教はをエロス、フィーリア、アガペーの3種類に区別している。この3者のうちエロスはもっとも自己中心的で、自己への配慮に満ちていると考えられている。

古代ギリシア哲学はギリシア神話をひっくり返し、様々な仕方で、エロティシズムの高度に美的な意味やセクシュアリティの問題をどのようにわれわれが理解しているかを明らかにしている。結局のところエロスとは混乱した性的欲望を表象する原始的な神であり、さらに言えば異性からの性的欲望を切望する異性愛的なものでもある。プラトンイデア論では、エロスはイデア的な美と究極性を主体が切望することに対応している。エロスとは肉体同士の調和的合一であるだけではなく、認識と快楽との合一でもあるのだ。主体がみずからを超えて客体的な他者と交渉しようとするとき、エロスはほとんど超越の表明でさえある。フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユの考えでは、エロティシズムとはわれわれ自身の主観性の限界へ向かおうとする運動であり、合理的世界を解体する侵犯行為なのであるが、この侵犯はつねに束の間のものに終わる。この点でタブー(禁忌)を犯す行為と関わるが、そのタブーは倫理的要請から来るものではなく、いわば「聖なるタブー」を侵犯する不可能性から「」にも肉薄するものとなる。

さらにエロスやエロティックな表現に対する異議として、欲望の対象が欲望主体の欲求の単なる投影にすぎないような主客関係を助長する、というものがある。エロスとしての愛は、フィーリア(友情)やアガペー(無償の愛)よりも卑しいと考えられている。しかし逆説的なことに、エロティックな関心は欲望主体自身を個体化し、脱個体化する。

何がエロティックなのかという理解は時代や地域によって変わるため、エロティシズムを一律に定義することは難しいと考える者もいる。例えばルーベンスが描いた官能的な裸体は、17世紀にそれが庇護者に献呈されるため製作されたときにはエロティックないしポルノグラフィックだと考えられただろう。同様にイギリスアメリカ合衆国でも、D・H・ローレンスの小説『チャタレイ夫人の恋人』は性を露骨に扱ったために猥褻とされ、1928年の完成から30年間にわたって多くの国で出版や流通に適さないとされてきたが、今日では学校の標準的な文学テクストと見なしている地域さえあるだろう。別の例を出すなら、アフリカのファルス陰茎)の彫刻は伝統的に勢力の象徴とみなされてきたのであって、あまりエロティックと呼ぶべきものではない。

詳細・哲学

エロティシズムと有限性

20世紀に入ってジョルジュ・バタイユは、エロティシズムが人間の主観性と、人間性の境界線を解消する機能を持っているが、合理的な世界を解消するのは一時的な現象であると分析した[1]。バタイユによれば、エロティシズムとは有限な個体に対してしか現れない。有限な個体は自己中心的であるが、我知らず他者との共同へと促されているのを感じる。このように自己を失う危険を冒しつつ他者との共同へと、肉体的な共同へと、さらにエマニュエル・レヴィナスが肉体の感性的近接性を説明するために用いた言い方で言えば感じるものと感じられるものの共同へと身を溶け込ませようとすることが、すなわち快楽なのである。エロティシズムが現れる理由の大きなものは、われわれのものとは異なるようにつくられた身体に対する好奇心、あるいはむしろそのような身体に対する魅惑なのである。

もっと根底的にはエロティシズムは、異なる二人の人物がもつ二つの世界がやがて一致するという約束である。確かにそのことは肉体的にでなければ不可能であるが、いずれにせよ一つの約束なのである(プラトンの『饗宴』中でアリストパネスが語る逸話を参照)。

このように愛の営みは冒瀆という性格を帯びている。エロティシズムは戦いであり、他者を隠れ家から引きずり出し、身をさらさせる。サルトルによれば愛撫とはほんものの魔術なのである。愛撫を受けると身体は備給され、身体化される。すなわち単なる肉体としてではなく、人格の住まった肉体として、自由として現れ出るのである。とはいえ ミシェル・レリスも言うように、「聖なるものに属する言葉を用いる」のは「結局のところ聖なるものを破壊し、その異質性を少しずつ剥ぎ取っていくこと」にすぎない。

同じくプラトンの『饗宴』においてソクラテスは、エロティシズム(エロス)が恋人同士の共同とか補完とかより気高いものを目標としていると述べている。すなわちエロティシズムは「真理」へ向かう身ぶりだと言うのである。

宗教としては、エロティシズムは個人を、を超える創造的な力に直面させる。 おそらくそれはとかの観念とかいったものというよりも、生命とか、生物学的意味での性(セクシュアリティ)とか、繁殖といったものである。

聖なるものとしての性は畏怖すべきものでもあり魅惑的なものでもある。バタイユによれば、性は反道徳的であるというよりも、生命と種の保存の名において個人的道徳を失効させるものである。エロティシズムは、個体が自己の中に閉じこもることを拒むという点では死と共通するものをもっている。個体の意識や自我はこの閉じこもりを基礎にしているからである。性衝動が繁殖と結びつくと、自己保存の本能という地平を越える。個体はやがて滅びるから繁殖を行うのではなく、生命が更新されるためには個体は滅びなければならないのである。生と死という一見反対のものが一つであり、豊饒をもたらすという芸術を古代人は「死と再生の秘儀」という形で伝承してきた。ギリシア神話でそれはディオニュソスと呼ばれたもので、バッカスの暴力的な秘儀の中に狂信女たちは陶酔を見たのである。

セクシュアリティと誘惑

シモーヌ・ド・ボーヴォワールは『第二の性』の中で、哺乳類の場合には性は雄と雌で異なる意味をもっているということを強調した。雌の場合、「個体性は要求されない。雌は、種の保存のために自己放棄が必要だとすれば、自己を放棄するのである」。それゆえ雄のほうは誘惑者の役割をとりわけ果たすことになる。これはさらには侵略者の役割となるかもしれず、過剰なまでの気前のよさを無償で示すことによって、生命力を見せつけることであるかもしれない。媚態(コケットリー)とは気を引きながら決して相手のものにならないことであり、拒みながら与えることであるが、それが雌の不安の表現であるのは、雌はその身に子を宿し、(出産という形で)我が身を疎外するものだからである。

従ってポルノグラフィとエロティシズムを明確にするのは正しい。ポルノグラフィとはある種欲望の否定であり、他者の人格の否定なのである。猥褻はリアリズムの特徴を帯びている。そこでは肉体や性行為は、モノとして示される。女性性は否定される。それは隠れてしか存在しないからだ。とはいえ、エロス的な営みの根底には、肉体という地平がある。エロス的な営みが他者に純潔の衣を着せるのは、この衣を剥ぐためでしかない。レヴィナスによれば「芸術における美は女性の顔における美しさを転化させる」。なぜなら芸術的美は、女性の顔から深みと肉体的狼狽を奪い、女性の美しさを絵画とか彫刻といった中立的素材ですっかり覆われた形態に変えてしまうからだ。「転化」という言葉はもしかすればプラトン的愛(プラトニック・ラブ)のことを暗示しているかもしれない。プラトン的愛は少年を対象としており、昇華によって肉体的美から魂と観念の美へと昇っていくことをめざすからである。しかしエロス的裸出性においては「顔は摩滅し」、「曖昧なものと化して獣性へと延長されていく」。レヴィナスによれば美の曖昧さは顔そのものの曖昧さである。顔は敬うよう求めつつ、冒瀆にさらされてもいる。

ただしエロティシズムは欲望の荒々しさとは正反対のものである。あるいは少なくとも荒々しい欲望を隠そうとする。アランによれば、エロティシズムは熱狂的な近しさを表明するものであると同時に、熱狂を抑制する能力を明示するものでもある。この意味でエロティシズムは昇華なのであるが、それはセクシュアリティ(性)からわれわれの目をそらすためのものというよりも、万難を排してセクシュアリティを純化するためなのである。こうしてエロティシズムは一個の芸術となり、生命の律動となる。

放蕩

かつてショーペンハウアーは、恋の駆け引きの軽薄さと輝きが、性行為の厳粛さ--ショーペンハウアーによればまったく動物的な--とまったく対照をなしていることに衝撃を受けた。このため彼はエロス的営みを単なる幻想とみなし、生命そのものによって恋人たちの知性と個体性に対してかけられた罠だと考えた。しかしまったく反対に、エロティシズムはほとんど生殖の問題を考慮しないからこそ、そのままにしておけばすぐに消え去ってしまう性衝動に反して、快楽と欲望を長続きさせるのだ、ということに注目してみることもできる。

このようにエロティシズムは根底的に人間のものである。実際、ヒトに特徴的なのは、動物と違って発情期と性的に無関心な時期との循環がないということである。この不決定の空間において公序良俗の観念も発達するし、同時にまた放蕩(自由思想)も進化していく。もはや欲望は自然に発露するものというよりも、誘惑の技術によって掻き立てられるものなのである。生物学的ないし社会的なあらゆる正当化から快楽が解放され、無思慮無節操にひけらかされる。そのときエロティシズムの中で、かつてセクシュアリティを快楽と欲望の駆け引きにすべく文化的に創意工夫を重ねて付け加えたり取り除いたりしてきた一切のものが、混ざり合ってしまう。そのとき恋愛することは、あまりに束縛が強すぎ、あまりに深刻すぎるものになってしまう。プラトンは『パイドロス』の中で弁論家のリュシアスに、愛がないのに誘惑してくる人たちにこそ味方すべきだと言わせている。彼らより恋人たちの方がよほど軽率で煩わしいものだからである。やがてエロティシズムは、芸術とか会話術のように、文明的洗練を表現する一形式にすぎなくなるだろう、というわけである。しかしそのようにみなすのは、エロス的快楽を凡庸化し、それを味覚の快楽のモデルで考えようとするやや愚かしい試みである。そもそもエロティシズムとは、他の身体との、他者との、他の経験や他の意識という計り知ることのできないものとの対決ではないだろうか。

そしてもちろん、ドン・ファンの形象が表しているように、放蕩の中には反逆の身ぶりがある。人は火遊びをし、ミシェル・レリスの言う「雄牛の角」をもてあそぶ。すなわち、性と死の聖なる力が、みずからの身を焦がす危険を冒しつつ、近づいていくのである。人はみずからの個体性とみずからの独立を脅かす力に挑む。結婚、病、愛などのことだ。そのとき人はついに不変である。また放蕩は男性優位主義にも近い。実際、シモーヌ・ド・ボーヴォワールも述べていたように、哺乳類の雄は雌を受胎させた瞬間にその雌への関心を失う。従って「雄はみずからの個体性を乗り越えるその瞬間に、再び個体性の虜になる」。もちろん避妊の普及と風俗の解放によって、女性にもこの種のエロティックな営みが可能になるとも言える。

脚注

  1. ^ L'érotisme, by Georges Bataille, Paris (1957: UK publication 1962) ISBN 978-2-7073-0253-3

関連項目

外部リンク