イーストエンド・オブ・ロンドン

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ブリック・レーン(2005年)
ジョン・ロックが1747年に完成させたロンドン地図の一部、イーストエンドの外には原野が広がる。
オリンピック・パーク

イーストエンド・オブ・ロンドン (East End of London) は、イングランドロンドンにおいてシティ・オブ・ロンドンの中世期の防壁の東側とテムズ川の北側の地域を指す。しかし、正式な地域の境界は存在しない。ウエストエンドに対する下町。かつて切り裂きジャックの現場となった所である。テムズ川が曲流しており、それに沿ってたくさんのドックが建ち並ぶ。毎年恒例で、9月にイースト・ミーツ・ウェスト・カーニバル、12月にはスピタルフィールズの音楽祭がある。

イーストエンドの語に対する軽蔑的な用法は19世紀後半に始まったが、これはロンドンの人口の拡大によって、極端な過密状態につながり、イーストエンドの地域へ貧困層移民層が集中したことに起因する[1][2]。これらは、1827年セイント・キャサリン・ドックズの建設と1840年から1875年にかけて建設されたターミナル駅によってスラムと集合住居が一掃され、多くの人々がイーストエンドへ移り住んだことから、さらなる悪化を引き起こした。およそ1世紀の間、イーストエンドは貧困、人口過密、病気、犯罪を意味した[3]

19世紀に著しい発展があった。当初、イーストエンドはシティの防壁周辺か大通り沿いの村が特徴であったが、川と沼地と農地に囲まれている地域であり、海運とイギリス海軍にとって必要な条件を満たす地域でもあった。プール・オブ・ロンドンが利用されていたが、船の建造、修理に関する産業が盛んになり、職を求める地方の人々を引きつけた。連続した移民の波は、17世紀ユグノー難民から始めり、新しい郊外のスピタルフィールズで住宅地が作られた[4]。この後にアイルランド人の波、アシュケナージ・ユダヤ人が続き、20世紀にバングラデシュ人が続いた。ほとんどの移民が衣類産業に従事した。経験を要しない単純労働は、イーストエンドでの低所得と貧困を招いた。これは18世紀中期に改革論者の注意を引き、労働組合や労働協会が作られた。イーストエンドの急進主義は、労働党の編成と女性参政権の成立に貢献した。

過密地域に住所をもたせる行政の試みは、ロンドン・シティ・カウンシルによって20世紀初期に始まった。第二次世界大戦は、ドック、鉄道、工業地帯が継続的に攻撃目標に選定され、イーストエンドを荒廃させた。同時に郊外へ住民の離散をもたらし、1950年代に新しい住居が建設された[3]1980年のポート・オブ・ロンドンのイーストエンドドックの閉鎖によって、再開発が始まった。カナリー・ワーフ開発、改善されたインフラストラクチャー、オリンピック・パークなどは、イーストエンドに変化が訪れていることを意味するが、一部ではイギリスで最悪の貧困層を含んでいる[5]

脚注

  1. ^ Oxford Dictionary of London Place Names, A Mills (2000)
  2. ^ Andrew August Poor Women's Lives: Gender, Work, and Poverty in Late-Victorian London, pp 35-6 (Fairleigh Dickinson University Press, 1999) ISBN 0838638074
  3. ^ a b The East End Alan Palmer, (John Murray, London 1989) ISBN 071955666X
  4. ^ Bethnal Green: Settlement and Building to 1836, A History of the County of Middlesex: Volume 11: Stepney, Bethnal Green (1998), pp. 91–5 Date accessed: 17 April 2007
  5. ^ Chris Hammett Unequal City: London in the Global Arena (2003) Routledge ISBN 0-415-31730-4