アンディ・ブラウン
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アンディ・ブラウン (Andy Brown, 1959年3月19日 - ) は、モータースポーツエンジニアリング会社であるACB Consultancy Ltd.を運営する英国の空力エンジニア。 ブリストル, サマセット生まれ[1]。
キャリア
学業
1977年9月 - 1984年7月
18歳からブリストル(Bristol)のフィルトン[2](Filton)のブリティッシュ・エアロスペース(現在のエアバス)の実習生を勤めつつ就学し、22歳の1981年にバース大学(University of Bath)[3]で航空工学を卒業し、正式採用となり、 風洞および機械工場向けのメインフレームコンピュータソフトウェアの作成および保守を担当。
主要なプロジェクトには、ユーロファイター(「タイフーン」)の吸気ダクトの開発支援で、エンジン前方コンプレッサーリングでの圧力分布プロットが含まれていた。
職歴
マーチ・エンジニアリング
1984年 - 1987年10月
オックスフォードシャーのビスター(Bicester)に所在する、マーチ・エンジニアリングに所属し、当初は、1985年マーチのシャーシ開発を担当。
(米国市場向けの「ワイルドキャット」ARS車(Indy Light:86A/1, 86A/2)への変換、および日本向けのフォーミュラ2バージョン(86J)への変換を含む)862、86B、87B車の設計、風洞試験、開発の全体的な責任を負った。(それには、技術的な問題に関する顧客連絡が含まれていた。)
(1981年以降の、米国市場向けの8*C系のチーフデザイナーは、アラン・マーテンス。)
この期間中、マーチの「ワークス」チームであるオニクスレースエンジニアリングで国際F3000のレースエンジニアも務めた。
この期間中の結果は、
(1985年)マーチ85Bで、発足初年度の国際F3000選手権で、クリスチャン・ダナーが勝利。
(1986年)マーチ86Bで、国際F3000選手権で、イワン・カペリが勝利。
(1986年)マーチ86Jで、日本F2選手権で、中島悟が勝利。
(1987年)マーチ87Bで、国際F3000選手権で、ステファノ・モデナが勝利。
85B, 86B, 86J, 87B の4車種合計の製造総数は、87基に及んだ[4]。
レイトンハウス・フォーミュラワン
1987年10月 - 1990年12月
レースエンジニアとしてマーチ・レイトンハウス・フォーミュラワン・チームに所属し、ブラックリーの古いマーチ風洞(Comtec風洞)で、エイドリアン・ニューウェイと仕事をした。
"車のレースでの特定"というR&Dの責任者で、グージェルミンを担当。
トラブルシートの作成と進行、チームシャーシの更新の進行、テストカーがレースカーと同じ仕様に保たれることの保証など、技術的な問題についてレースチーム、テストチーム、および製図事務所の間での連絡を取りました。
ビスター(Bicester)製図事務所での職務には、サスペンション形状と応力解析を担当するCADエンジニアの他に、ウイングの組み立てチェックと治具設定が含まれていた。
ブラバムヤマハ
1991年、ブラバム・ヤマハ・フォーミュラ1・チームに加入し、チーフレースエンジニアとテストエンジニアを勤め、マーティン・ブランドルを担当した。
ガルマーエンジニアリング
1991年11月 - 1994年3月
ブラウンは、アラン・マーテンスの副テクニカルディレクターとして、ビスター(Bicester)の1988年設立のガルマー・エンジニアリングに加わり、空力責任者として、Galmer G92の設計に手を入れ、資金提供者のガレスレーシング(Galles Racing)のために空力テストプログラムを管理した。
1992年に自身のデザインした車でインディ500を制覇し、4つのレースで優勝。92年チャンピオンシップでAl Unser Jrが3位(Galmer G92) [5][6][7]。
1993年には、ビスターデザインオフィスの責任者として、LolaT93Indycarsの空力テストプログラムを管理した。
パックウエスト・レーシング
1993年5月 - 1998年10月
ブラウンは1993年にスタートするパックウエスト・レーシング(PacWest Racing)の創設メンバー兼チーフエンジニアになる。
1993年の年末に、ガルマー・エンジニアリングはパックウエスト(インディアナポリス, US)のオーナーのブルース・マッコウ(Bruce McCaw)による買収を受ける[8]。
エアロダイナミストとして、グージェルミンのレースエンジニア、チーフレースエンジニアを勤め、レースカーのR&Dを進める。
1993年のスタートアップの7人のオペレーションから、1998年までに120人の人員組織までチームの構築を支援した。
また、1997年にカリフォルニア州フォンタナで、240.9 mph (387.7 km/h)という新しいクローズドコースの世界記録を樹立した。
パンサーレーシング
1998年12月 - 2005年11月
これに続いて、チーフエンジニアとしてパンサーレーシング(インディアナポリス, US)に加わり、2001年と2002年に連続してインディレーシングリーグシリーズのチャンピオンシップを獲得した。
チップ・ガナッシ・レーシング
2005年12月 - 2010年12月
2005年のインディカー・シリーズとインディアナポリス500チャンピオンのダン・ウェルドンがドライブするNo.10ターゲットホンダパワードダラーラのレースエンジニアとしてチップ・ガナッシ・レーシング(インディアナポリス, US)に加わった。
ACB Consultancy
2010年1月 -
ブラウンは英国に戻り、ACB Consultancy Ltd.(Buckingham, UK)を設立した。
インディカーの経歴を持つ同社のビジネス上の関心のほとんどは、当然ながら米国にあり、主な顧客はチップ・ガナッシ・レーシングとホンダ・パフォーマンス・ディベロップメント。
脚注
- ^ “Andy Brown”. OldRacingCars.com. 2022年7月11日閲覧。
- ^ “Patchway, フィルトン, ブリストル BS34 6FB UK (地図)”. google maps. 2022年8月10日閲覧。
- ^ “バース大学 Claverton Down, バース BA2 7AY, UK (地図)”. google maps. 2022年8月10日閲覧。
- ^ “March Chassis Types”. web.archive.org. 2022年8月9日閲覧。
- ^ “Galmer G92(p1)”. racer.com. 2022年7月20日閲覧。
- ^ “Galmer G92(p2)”. racer.com. 2022年7月20日閲覧。
- ^ “Galmer G92 (アダムクーパー)”. motorsportmagazine.com. 2022年7月20日閲覧。
- ^ “the future for david richards - grandprix.com-news”. 2022年6月29日閲覧。