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あきつ丸

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1944年時の「あきつ丸」
艦歴
発注 播磨造船所
起工 1939年11月
進水 1941年9月24日
竣工 1942年1月
戦没 1944年11月15日
除籍
性能諸元
総トン 9,433トン
全長 152m
水線長 143.8m
全幅 19.5m
吃水 7.86m
飛行甲板 長さ123m
幅22.5m
機関 形式不明重油専焼水管缶4基
+形式不明ギヤード・タービン2基2軸
最大出力 13000hp
最大速力 21.0ノット
航続距離
乗員
兵装 八八式 7.5cm(44口径)単装高射砲2基(1943年:4基)
三八式 7.5cm(31口径)野砲10基
20mm単装高射機関銃数丁
九六式25mm(56口径)機銃2基
搭載機 8機(輸送任務時には中型機20~30機弱を搭載可能)
上陸用舟艇 大発動艇27隻

あきつ丸(あきつまる)は、第二次世界大戦期に大日本帝国陸軍が建造・運用した揚陸艦秋津丸は誤表記。日本陸軍では特殊船(丙型)に分類された。上陸用舟艇を27隻搭載しているほか、搭載航空機による敵部隊への攻撃が考慮されていたため、「神州丸」と同じく現在の強襲揚陸艦の先駆けとも言える。

建造の経緯

多数の上陸用舟艇を一度に発進させることの出来る「神州丸」は、各地の演習や作戦でその能力を十分に発揮していた。この実績から、日本陸軍は神州丸に範をとった上陸舟艇母艦(陸軍特殊船)の建造を計画し、揚陸作戦能力の強化を狙った。

ところが、予算の制約により、大量の上陸舟艇母艦を「神州丸」のような陸軍省保有船として維持することは難しかった。そこで、陸軍は、優秀船舶建造助成施設制度を適用、戦時の際に徴用することを前提として海運会社に補助金を出し、上陸舟艇母艦を民間籍の商船として建造させることにした。終戦までに起工されたのは貨客船型の甲型・M甲型が6隻、耐氷構造の貨物船型の甲(小型)が1隻、航空母艦型の丙型・M丙型が3隻あり、「あきつ丸」はその第1船で丙型として建造された。同じ丙型の姉妹船として、「にぎつ丸」が建造されている。

航空艤装

三式指揮連絡機を運用中の「あきつ丸」(1944年)

「あきつ丸」の最大の特徴は、全通した飛行甲板を有する航空母艦型の船型にある。島型艦橋煙突は右舷に寄せられ、飛行甲板の下には航空機格納庫を備えている。飛行甲板後端に設置された航空機用エレベーターで、格納庫から飛行甲板へ航空機を移動できた。当初の計画では、平時には飛行甲板を張らずに貨客船風にしておき、有事の際に飛行甲板を張って完成させることになっていた。実際には太平洋戦争の勃発が確実となったため、当初から飛行甲板を張った状態で竣工した。

このような空母型の船型になった理由は、上陸戦時に戦闘機を発進させ、上陸部隊の航空支援を行うという構想があったためである。九七式戦闘機13機の搭載が計画されていた。当初の構想では、航空機の着艦は想定されておらず、搭載機は占領した陸上飛行場に着陸するか乗員だけを救助する計画であった。そのため、通常の航空母艦なら着艦コースとなる船体後部中央にはデリックマストが屹立しており、着艦制動装置も無く、エレベーターの装備位置も飛行甲板後端のみだった。速力も航空母艦としては低速であることから、新造時には航空機の着艦は困難であった。

本船の竣工時には南方作戦も終盤ですでに上陸戦を行うような状況でなかったこともあり、実戦で戦闘機による上陸支援を行うことは無かった。航空艤装は、航空機や車両の海上輸送用の搭載スペースとして流用された。一式戦「隼」I型からII型に機種改編する飛行第50戦隊の機体輸送などに従事している。

太平洋戦争も後半になり連合軍潜水艦による日本軍輸送船の被害が激増すると、陸軍は、船団護衛を目的とした独自の海上航空兵力の構築を検討し始めた。海軍との折衝の末、「あきつ丸」が陸軍版護衛空母の候補となった。1943年(昭和18年)中には、まずカ号観測機の搭載が計画され、翌年までに着艦実験が行われた。実験の結果などを踏まえ、1944年(昭和19年)4月から7月にかけて甲板後部のデリック等を取り除き、陸軍独自に開発させた着艦制動装置を設置するなど航空艤装の改装が行われた。搭載機は三式指揮連絡機に決定し、これを装備する独立飛行第1中隊が編成された。実験的な洋上哨戒も実施されたが、船団護衛時に本格的に護衛空母として運用される機会は無かった。本船の撃沈時にも、格納庫は各種輸送物資の搭載などに使われていた。

船歴

  • 1939年11月 - 播磨造船にて起工
  • 1942年1月 - 竣工。同時に陸軍に徴用
  • 1943年 - 航空機運搬船・輸送船として使用
  • 1944年4月-7月 - 飛行甲板を拡張、制動装置、着船指示灯、着船標識などを追加
  • 1944年11月15日 - ヒ81船団に加入してマニラへの陸軍部隊の輸送任務中、五島列島沖において、アメリカ海軍潜水艦「クイーンフィッシュ」の雷撃を受け弾薬が誘爆炎上、転覆沈没。輸送中の兵員含め2,300名戦死。

脚注


参考文献

  • 秋本實「陸軍の空母」『日本航空母艦史』世界の艦船481号(増刊)、1994年、178-181頁。
  • 大内健二『護衛空母入門―その運用とメカニズム』光人社〈NF文庫〉、2005年。
  • 瀬名尭彦「昭和の日本陸軍船艇」『世界の艦船』506号、1996年、22-23頁。
  • 松原茂生、遠藤昭『陸軍船舶戦争』戦誌刊行会、1996年。

関連項目