三沢糾
三沢 糾 | |
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誕生 |
1878年10月12日 日本 兵庫県八部郡神戸町(現・神戸市) |
死没 |
1942年5月25日(63歳没) 満洲国 関東州旅順市外田家屯(現・ 中華人民共和国 遼寧省大連市旅順口区) |
職業 | 教育者 |
国籍 | 日本 |
教育 | 哲学博士(クラーク大学・1907年) |
最終学歴 | クラーク大学 |
代表作 | 『国民性と教育方針』(1910年) |
配偶者 | 田鶴 |
子供 | 達朗(長男)、文(長女・鹿子木久雄妻) |
親族 | 立身(父)、たか子(母)、武清(兄)、広岡久右衛門(弟) |
三沢 糾(みさわ ただす、1878年(明治11年)10月12日 - 1942年(昭和17年)5月25日)は日本の教育者。広島高等師範学校教授を経て、和歌山県立海草中学校(現・向陽中学・高校)校長、大阪府立高津中学校(現・高津高校)初代校長、大阪府立第十二中学校(現・生野高校)校長事務取扱、台北高等学校校長、(旧制)成城高等学校校長、哈爾浜学院院長と多くの学校のトップを務めた。
人物と来歴
1906(明治40)年、クラーク大学心理学科を卒業し、博士号を取得。博士論文『現代の教育者たちとその理念』は後に出版された。
水産講習所のドイツ語講師などを経て、1912(明治45)年、広島高等師範学校教授に就任。広島高師附属中学校主事を務めた後、1915年、和歌山県立海草中学校(現・向陽高校)校長となった。
1918年、新たに設立された大阪府立第十一中学校(後に高津中学校に改称)の初代校長に就任。1923年、校長訓辞で「自由と創造」に言及。1924年に大阪府立中学として初めて女性教師3人を採用するなど、大正デモクラシーの気風の中で自由な校風を確立した。そのため、創立わずか数年で全国的に有名になり、多くの見学者が訪れた。後にNHK連続テレビ小説「はっさい先生」に登場する上本町中学校長のモデルとなった。
1925年、台北高等学校校長として台湾に赴任。生活指導を担当する「生徒監」を廃止し、学校紛争を防止。「自由の鐘」を米国の農場から移設した。
1929年、京都帝国大学学生科長に就任。1931年、成城学園に転じ、教育顧問を経て(旧制)成城高等学校校長になったが、学園紛争のため3か月で辞任した。その後、神戸女学院の院長に誘われたが、受けなかった。
1935年、旧満州にわたり哈爾浜学院院長を務めたが、関東軍との折衝に限界を感じ、1938年退任。1939年から長男夫婦とリンゴ園を経営しながら執筆活動に入った。
1942年、脳溢血のため64歳で死去。遺骨は菩提寺の芳心寺(鳥取県鳥取市)に葬られた。
著作
- 著書
- Modern Educators and Their Ideals. D. Appleton & Co., 1909.
- 『国民性と教育方針』 冨山房、1910年7月
- 『時代と教育』 警醒社書店、1910年11月
- 『教師の覚醒と其修養』 啓成社、1911年2月 / ゆまに書房〈明治・大正教師論文献集成〉、1990年9月、ISBN 4896683080
関連文献
- 『蕉蕾集 三沢先生二十五年忌記念号』 台北高校同窓会、1966年5月
- 上沼八郎著 『実録はっさい先生 : 知られざる教師たちの物語』 協同出版、1988年1月、ISBN 4319200160
公職 | ||
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先代 台湾総督府高等学校長事務取扱 吉川貞次郎 |
台湾総督府台北高等学校長 1927年 - 1929年 台湾総督府高等学校長 1925年 - 1927年 |
次代 下村虎六郎 |
先代 (新設) |
大阪府立高津中学校長 1919年 - 1925年 大阪府立第十一中学校長 1918年 - 1919年 |
次代 羽生隆 |
先代 (新設) |
大阪府立第十二中学校長事務取扱 1920年 |
次代 校長 池田多助 |
先代 (新設) |
和歌山県立海草中学校長 1915年 - 1918年 |
次代 妹尾盛親 |
先代 長谷川乙彦 |
広島高等師範学校附属中学校主事 1914年 - 1915年 |
次代 塚原政次 |
その他の役職 | ||
先代 高田富蔵 |
哈爾浜学院長 1935年 - 1938年 |
次代 三毛一夫 |
先代 小原國芳 |
成城高等学校長 1933年 |
次代 児玉秀雄 |
先代 小原國芳 |
成城高等女学校長 1933年 |
次代 児玉秀雄 |