Wikipedia‐ノート:出典を明記する/過去ログ3

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緊急の場合の新しい参考文献の暫定的な表記の提案[編集]

★今後、参考文献の量を増やすという意味も考えて、 「国立国会図書館等のOPACの表示をそのまま貼り付ける」形式の 簡略的な参考文献引用方法を提案します。

この方法を取るメリットは

  1. 簡略なのに実は最も詳細。
  2. 引用に時間がかからないので、出典の明記に消極的になる。(通りすがりの人が出典を加えてくれる可能性も上がる)
  3. コピペなのでミスが生じる可能性がほとんどない。

などです。採用しない場合のデメリットは


  1. 編集の過程でミスが生じて、文献にたどり着けなくなる可能性が生じる
  2. 引用に時間がかり、出典の明記に消極的になる。


となります。この方法の欠点は 国立国会図書館OPAC[1]を含め、OPACの検索結果は通常アカデミックなライティングにおける文献の表記法とは異なる書き方をしていて、 例えば、アカデミックライティングでは、


  1. CHARLES KITTEL 固体物理入門 第7版;宇野良清・津屋昇・森田章・. 山下次郎共訳、丸善株式会社.

と書くのだけどもOPACでは


  1. 固体物理学入門. 上 / Charles Kittel[他]. -- 新版. -- 丸善, 1968


となっていることです。尚、東大、京大、東工大、阪大等の有名大学のOPACの表示も国会図書館に準じていて、 どこで調べても”正しい”形式で文献一覧が書かれているわけではないということを念のため…。 (多分検索の世界ではこの表記が正しいのでしょう。)


しかし、情報量としては、国会図書館流の表記は、通常のアカデミックライティングで見られる方式と等価な情報を含むので、気に入らない人や暇な人はいつでも時間さえあれば簡単に修正できます。この段階でミスがあったとしても、履歴には正しい情報が残るのでこの段階でミスが生じる可能性については考慮不要と思われます。

これは前々から僕自身も気がついていたのですが面倒だから修正せずにそのまま、 国立国会図書館OPACの表示を貼り付けているところもあり、実は心苦しい面もありますが…。 夜仮面様 2007年10月19日 (金) 17:01 (UTC)

★情報量と正確さいう点ではいいんですが(何度か間違いも見たことありますが)、読んでないのにコピペが増えそうな気がして、乗り気になれないかなあ。--Ks aka 98 2007年10月23日 (火) 02:28 (UTC)
手間がかからないって点では良いと思いますが、ご提案の形式で参考文献を示すってのは何となく受け入れがたいです。特に著者の書き方の部分。例に出ている「キッテル固体物理学入門」も、チャールズ・キッテルが著者なんだけども、翻訳をした方々も大きな貢献をしているわけで、それを省略してしまうってのは失礼ではないかと思うのです。参考文献って、OPACのように本が特定できればいい、ということだけではないことのような気がします。「先人の業績に対する敬意」という感覚的な理由ではありますが、多少面倒でも、学術論文で採用されている形式の方が良いかな、と思うのです。(同様の理由で、「気に入らない人が後から直せばいい」という考え方も何となく違和感を感じます。悪いとは思いませんが。)--野良猫 2007年10月23日 (火) 03:33 (UTC)
★うーん、実はこれは結構ややこしい問題なのではないかな、と思ってます。というのは、きっちりした「文献の引用スタイル」として明言しようとすると、現在は結構いいかげんに運用されているところの、「ウィキペディアにおける参考文献のスタイル」全体の議論にまで踏み込むことになりかねないというか。本当は参考文献のスタイルについては、もっとしっかりした議論と方針が必要なんだろうと思ってるんですが、なかなか取りまとめも大変そうで踏み出せなかったりするんですが。えーと、どこから意見を述べたらいいだろうか。
えーと、OPAC形式の出典表示についてですが、まず最初に、それをどういう位置付けに置こうとするのか、という点を考える必要があります。ここでいう「位置付け」というのは、例えば (1)その記事がある種の「完成形」となったとき、例えば秀逸な記事として選ばれたり、活字媒体として配布されるようなことになったときに、『その記事の参考文献のリストが、そのフォーマットで統一されていてもよい』ということにするのか、あるいは、(2) とりあえず「検証可能性」で要求される出典のポインタとして表示するもので、「完成形」のときには適宜、置き換えが必要となる(=スタイル修正の余地があるものとする)ものだと位置づけるのか、ということにあたります。
まぁ(2)として使う分には何の問題もないはずだと思います。実際、夜仮面様さんの提案も「修正されること」を念頭においておられるようなので、(2)だと思うんですが、この提案は、もしかしたら(1)としても使えるような位置付けにしたい、とも受け取られるわけでして。私は、(1)の方法はやっぱりアカデミックライティングに準拠するのがよいのではないかな、と感じます。つまり「OPAC方式で出典を記載するのはOKだが、最終的には別のアカデミックライティング準拠のフォーマットに(少なくともその記事中では)統一されることが望ましい」ということで。
個人的には、ウィキペディアにおいて出典を記載するときの情報としては、(A)『文献への到達の(=検証)可能性』を確保する最低限の情報、(B)+アカデミックライティングにおける定型的なフォーマットに必要な情報、(C)+それ以外の非必須な情報、(D)+WEB媒体に特有な情報 (ISDNやPMIDなど)、というような、ある種の階層構造みたいなものを考えておくといいんじゃないかな、と思ってます。例えば原著論文なんかだと、「筆頭著者、雑誌名、巻、年、始ページ」さえあれば、とりあえず(A)は満たせますが、(B)ではさらに「共著者、論文タイトル、終ページ」が必要になる。(C)は発行月や号数かな? で、出典としてはとりあえず(A)を記載しておいてくれればいいんだけれど、最終的には (A+B+D)の情報を記載して、それを一定のフォーマットでスタイリングしていくように持っていきたい……というような作業工程になるのではないかと。--Y tambe 2007年10月23日 (火) 03:50 (UTC)
★あ、それから追加でもう一点。上の(1)(2)のどちらであるにせよ、「OPACの書誌情報を『コピーペーストで貼付ける』という行為は、著作権違反に該当するのではないか」という意見が出てきて、削除依頼に提起される可能性というのは、十分に予見されることだと思います。なので、実際に上のような方針を提案されるのであれば、このことについても事前に少し話し合って、ある程度の共通見解を示せるなら示しておいた方が、後々に問題が出てもスムーズに解決できるのではないかと思います。
この件について、現時点での私の判断としては、とりあえず「OPACの書誌情報については、事実の単純な列記に該当し、著作性があるとは言えないのではないか」ということを述べておきたいと思います。過去には、データベースの著作性について問題になった事例もあったと聞いてはいますが、少なくともOPACの書式にはそこまでの独自性、著作性は見いだせないのではないか、また、データベースそのものを他所で再構築するのが目的ではないため、著作権の侵害が問われることはないのではないか、ということを、あくまで個人的な見解として述べておきます。ただし、このあたりは、私より詳しい人がいると思いますので、そちらの判断をあおぎたいと思います。--Y tambe 2007年10月23日 (火) 08:39 (UTC)
★(ついでに思いつきでもう一点)例えば、OPACやWebCat plusで検索した書誌情報ページのURLを入れたら、そのまま{{cite book}}形式に変換した結果を出力してくれるようなツールがあったら便利かもしれないですね。もっというなら、PubMedの結果を{{cite journal}}形式に変えるようなツールとか。これの日本語版みたいな感じで。それなら、上で挙げたような「後から修正」の問題や、著作権の問題はクリアできそうな気がします。Ks aka 98さんが懸念している点については増長させてしまうかもしれないけど。--Y tambe 2007年10月23日 (火) 09:05 (UTC)(英語版を見つけたので微修正Y tambe 2007年10月23日 (火) 09:20 (UTC))


★ここまでの意見への対応

私は、推進側なので、以下は推進する方向から考証を進めますが、中立の立場に立ったとしても 現状は、『明確な意味では反対がなく、合理性も理解いただけるが、 心的な問題として抵抗がある』あるいは『細部においての議論がなされていない』という と総括出来ると思います。

さて、では、これまでの意見を分析した上で、論点を整理しましょう まず、


(1)安易な文献引用につながらないか (2)OPAC形式の出典表示についてですが、まず最初に、それをどういう位置付けに置こうとするのか (3)OPACの書誌情報を『コピーペーストで貼付ける』という行為は、著作権違反に該当するのではないか (4)アカデミックライティング以外の方式での引用文献が、心的に受け入れられない


などがご提案されているものと思います。

(1)安易な文献引用につながらないかについて
まず、(1)については、文献引用の根幹に関わる部分であり、ここで論じる問題ではないと 思います。ここで議論すべき問題は『暫定的、簡略的な表記法として、僕が提案した新しい書式を認める か否か』という問題です。『どういう文献を引用するべきか』については、『Wikipediaの文献の引用』という 明らかにこの問題よりも高次の問題であり、恐らくスタイルのとり方に依存しない問題と思います。

総合的に考えれば、『安易な文献の引用』というのは『後で本格的に引用を行う者にとっ文献案内』を行ううえでは かえって豊かになり、『載っている文献が読めない』(難しすぎる/言語の壁等)ということを減らせるとおもいます。 1つしか挙げないとするなら、分かりやすさよりも権威を重視しますので…。


ここで、本題とは反れますがWikipediaの文献の引用に関して、僕は

  1. レターと入門書を除き、全体を通読する必要はない(こう考えるか否かがプロとアマチュアの違いだとさえ思っている)
  2. そもそも概ね理解していることがらについて、説明しているはずなので、文献の引用については

『お疑いの方はそちらをあたってください』 『これから本格的に調べモノをする人にとっての文献案内をする』

  という点が本質的である


と考えていることを表明しておきます。理解している事柄については『書いてある/ない』の判定は簡単ですし、 従って軽く読めば概ね問題ないと思われます。関係ない文献の有無については、 『後で気になる人が、ノートで疑問を発する』ということを認める形を取れば 問題ないと思います。


(2)OPAC形式の出典表示についてですが、まず最初に、それをどういう位置付けに置こうとするのか
僕の提案する方法は、飽くまで『簡略』であり、『暫定』であり、それ以上ではありません。 積極的に修正を提案する必要のあるものです。


(3)OPACの書誌情報を『コピーペーストで貼付ける』という行為は、著作権違反に該当するのではないか
OPACの書誌情報は、事実の単純な列記ですが、それ以前に、「この形式」を 問題とするならば、本式の書き方も、どこかの雑誌の表記からとってきたものだし それも問題になるということがいえます。

「OPACからコピペしてよい」とは言わず、「所謂OPACなどで採択されている書式 も認める」といえば問題ないのではないかと思います。 その上で、Y tambさんのおっしゃるようなツールの開発を推奨する文言を付記するという のもよいとおもいます。


(4)アカデミックライティング以外の方式での引用文献が、心的に受け入れられない
心的な問題は、心的な問題です。ただ総じて言えば時代は楽なほうに動いていくものです。 本質的な価値のない行為は簡略化されていくのです。


『このページでは、簡略式の文献表示法、あるいは正しくない文献表示法が用いられています。 Template:Cite book等を用いて、出典表示の表記法を正式のものに改めるようよう勤めてください。』

のようなテンプレートを作成するのもよいものだとおもいます。(作り方がわかれば作ります。)

以上と皆様のご意見を踏まえ、以下のようにすればどうでしょう (書誌情報の書き方(和書)以下の項目として作成)

夜仮面様さんの(4)は僕(User:Noraneko)宛だと思いますが、「アカデミックライティング以外の方式での引用文献が、心的に受け入れられない」ではありません。「著者を省略することは受け入れがたい」という趣旨です。それと「心的な問題だから議論に値しない」とも受け取れる書き方ですが、そういう意味ですか?--野良猫 2007年10月23日 (火) 15:15 (UTC)
★著者を省略する(et.alに変える)ことは、アカデミックライティングの上でもよくあることで、正式な学術論文でも認められている話です。従って、僕の提案の是非には関係しないと思われます。あと、「うけいれがたい」のみでは、「心的」と解釈せざるを得ない点があることをご理解下さい。問題は「採用に値するか否か」であり、その根拠たりえるかが議論のうえでは重要となります。現状を見たうえで、僕の提案を採択することが、Wikipdeiaの理念と、合理的か否かという観点に照らしてよいか否かです。ただ、「受け入れがたい」とだけ書かれた「心的」な話に配慮して、「正式な表記への移行を促すテンプレートの作成」を以て「正式でないこと」を表明する方法を追加して提案しておきます。夜仮面様 2007年10月23日 (火) 16:26 (UTC)


★ども。仮に反対を表明しておきます。「心的」なつもりはないんですが、ちょっと、伝えるのに手間がかかりそうなのと、別件でめんどくさいまとめをしているのと、実生活で忙しいのが重なっているので、一二日待ってください。--Ks aka 98 2007年10月23日 (火) 15:31 (UTC)
★「そんなに長い間待てません」の一言であなたの貴重なご意見が消されてしまったら、無視されてしまったら

どう思いますか?問題はそういうことでもあるわけです。「根拠や判断のプロセスが不明瞭」な場合、「疑問の提案」→「削除提案」あるいは「大幅書き換え」などとなるのは当たり前の話です。同様に、学問の世界でも「違和感」だとか「受け入れがたさ」があるとコメントしたとして、具体的な話(「根拠となる事実と推論の過程」 )をするまでに2~3日もかかっていては、学会は終わってしまいます(査読の場合は2~3週間待ってくれますが)。コメントされた側も、それを見ていた側も「なんかわけのわからんことを言ってきたやつがいるな」で終わります。ところが、雑でもいいから、推論の過程と根拠となる事実をを雑然とでも出していたりすると、「頭のいい人」が意見を拾って「論理展開」の助けをしてくれる可能性があり、後のポスターの時間やバンケットの時間などに議論が行われる可能性があります。


そういう要求が出た場合には、緊急に文献を多数出せば、確認が容易になりますし、第三者判断をゆだねる上で助かるわけです。「きれいに」書く必要はないから「根拠となる事実と推論の過程」だけでも急いで出せというのが、「文章を書ける人は沢山いる」時代においては親切なのではというのが私の考えで、どうも、そのあたりの姿勢あたりから相違があるようにおもいます。どっちが正しいかというと、難しい話ですが。(どっちもそれなりには正しいのでしょうが)


そういうことも踏まえて、「あまり望まれる話ではないけども、急ぎで『信頼のおける根拠』が見たい人のために 一時的に提出する」ということだけについてならば、私の提案も悪くないと思うのですが…。(図らずも執筆に2~3ヶ月間が開くこともあるわけで、その間「分かりやすい文献」が2~3あげてあっれば、そして単に「キッテル」とか「綿貫」のような表記つまり、分かってる人にしかわからない表記であるよりかは幾分マシだろうと。)


余談ですが、これは「博士号を長きに渡って取れない大学院生(所謂高齢院生や崩れ)」、「職に就けない博士(所謂OD)」に多いのですが、「文献を頭から尻まで全部よんで全てを行間まで完璧に理解する必要がある」と誤解している人が結構いて、これでは、ひたすら読書をするだけになります(文献学ではどうか知りませんが)。では、それで正確な読解が可能なのかというと、案外雑に読んでいるハズの「プロ」のほうが正しく読んでいたり…。この辺考えるとまず、「文献を完全に理解していなければ引用してはならない」というのはナンセンスです。「博士号を取れない大学院生」、「職に就けない博士」がよくこだわることの中に「本の行間」というのがありますが、そんなあたりまで考えていては深読みになります。「書いてあるか否か」の判定は、案外軽いというか簡単というかそういうものですよね。(逆に判断に時間を要すなら独自研究の疑いさえ出てくる。)

夜仮面様さんのご提案には以下の点で疑問があります。(個人的感覚を離れる努力をしたつもりです)

  1. ご提案の方法では論文のページ番号を知ることはできないが、ページ番号が無くても良い理由は何か。
  2. OPACを使うのならば、当該文献の詳細情報を表示することができるわけで、この情報をTemplate:Cite bookにコピー&ペーストするという方法を取らない理由は何か。この方法も比較的簡便かつ正確な方法だと考えられるが。
  3. 緊急に出典を提示しなければならない場合とはどんな場合か。記事が削除されたとしても履歴を使って記述を復帰できるのであり、そのとき十分な出典を添えて復帰させればよいだけではないのか。
  4. OPAC等を使えば、文献を読んだことさえ無くても適当なキーワードを選ぶことによってそれらしい出典を提示することができる。しかし、出典の提示方法が簡便になることによって虚偽の出典が増えるかもしれないという懸念も生まれる。この懸念を払拭する方法があるとすればどのような方法か。払拭できない場合は、この懸念を受け入れてもなお余りある利点が必要だがそれは何か。

これらについて改めて回答願えますでしょうか。現時点では、ご提案対して議論不十分を理由に反対を表明します。--野良猫 2007年10月23日 (火) 22:14 (UTC)


★野良猫さんへ
>ご提案の方法では論文のページ番号を知ることはできないが、ページ番号が無くても良い理由は何か

論文ってOPACで検索できたんでしたっけ?(検証してないので分かりませんが…。) Science Directさえ面倒なんで滅多に使わない人間なんで、あんまりそのへんの事情をしらないですが…。 (エルゼビア系にかかったときはマジウゼーとか言ってる人なんで)

和書の扱いについての話をしているつもりだったのですが…。 著書の場合は、大概の場合目次か索引を見れば分かるので、 よほど親切な人か、あるいはよほど初歩的な解説書を除いて ページ数まで書くことはないのではとおもうのですが。 今まで、英語/日本語問わず、ある程度権威ある著書や、論文で、著書を引用する場合に ページ番号書いてあることは見たことないです。(注意してみていないかもしれませんが)


>OPACを使うのならば、当該文献の詳細情報を表示することができるわけで、

後でまとめてやればよいのではありませんかというのが私の提案です。ついでにいうと、 OPAC以外の”変な”書き方をしている場合にも、警告テンプレートを貼れるようにしておこうかと。


>緊急に出典を提示しなければならない場合とはどんな

要出典、検証可能性など極めてネガティブな嫌疑がかけられた場合です。

>そのとき十分な出典を添えて復帰させればよいだけではないのか。

完全に削除されるケースをさしていたつもりだったのですが。

>出典の提示方法が簡便になることによって虚偽の出典が増えるかもしれない

僕はそんなことにはならないと思います。というのが例えばNatureやScienceのような 雑誌類については、今でもそのジャーナルのサイトに行けばどこのコンピュータからでも 「正しい表記」の文献表示を得ることが出来ます。そして、(アブストを除いて)中身は 大学とかからしか見れません。その点で、現状もたいしてかわらないでしょう。


ということで、何故そんなことを心配なさるのか、正直言うと理解できません。

厳密なことを言うと、僕自身、和書については、(ものにもよるけども)あんまりしっかり 読まないで記事を書いている面があります。ただ、引く場合には一応内容の整合性の確認はしているつもりです。 (直接の専門になると僕の意見に有利になるような書きかたをしてしまう可能性があるので その辺は避けて書いていますが、)専門に近い領域の話をしている場合には、恐らく ”きちんと”和書をよんで書いていることは滅多になく、「書いてあること」は確認したうえで ざっと図書館とか本屋で眺めて”分かりやすそう”と思ったものも含めて書いてるなんてこともあるんじゃないかと 思います。ほかの人の場合でもそういう可能性はそう低くないと思います。その事情は以前にお話したとおりで、 大体の場合は、どこで学んだかしらないけども何故か知ってるという感じだからです。逆に言えばそういう人意外は 書かないほうがいいとさえ思います。(そうでない状態で真面目に書いてる記事になればなるほど自分で 見ててだめだなと思いますし…。)


ただ、逆に非専門になるとまったく知らないわけで、そういうことを短期で勉強しなきゃいけない場合には 「大雑把な理解と、それを学ぶ上で必要な事柄の概要と、躓きそうな場所に先手を打って対応することと」 ということが欲しいとおもいますし、そういう点を注意して書いていますが、さらにいうと、 出来れば和書で、しかも権威よりもとっつきやすくて分かりやすい本をてっとりばやく探したいわけです。 よほど難解な本を除いて、部分部分が整合しているか否かは非専門でも分かると思うのですが、 全体像を一気に学ぶとなると、これは結構大変。そういうのに対応するために便利にしたい。 そう考えたときに、「文献」が沢山紹介されていると便利かなと思うんです。


つまり、書く側は、「ざっと見た」人のほうがよく、読む人は、「沢山選択肢がないとこまる」 という事情を考えると、ボクの表記法を”まかり”通させたほうがいいのかなとおもうわけです。 望ましくないかどうかは別として。


>払拭できない場合は、この懸念を受け入れてもなお余りある利点が必要だがそれは何か。


正直いうと、暫定表記として採用してしまえば3年ぐらいしたらWikipedia内のディフェクトスタンダードに なってしまって、5年ぐらいしたらWikipedia外でもディフェクトスタンダードになってしまうのではないかと 思っているのですが…。


そういうことを思う思わない以前に、 Wikipediaの記事においては、出典が少ないそれどころか、そもそも出典をまったく書いてない記事が多い。これは最悪の状態だ。これが僕の意見です。そしてこの提案の根底にあるものの一つです。


僕自身の場合も含めて、引かない理由は、面倒だからです。ボクは最終段階では、他の人よりもはるかに多く引きますが、そのときに、きちんとした書式になおしてやっていくのが面倒だなと思うわけです。 いや、参考文献の整理って何度も言うけど結構面倒なんですよ。1個やると3分ぐらいかかるでしょ? 10個引けば30分ですよ。でも、1個の記事で10で足りますか?ボクは、「本質的には足りないけども ケチがつくには至らない程度にはなる」と思っています。でも学術的な記事で10個も引いてるのって僕ぐらいですよ。(アニメとかの記事は除く)日本語でもの書くときに一番時間がかかるのは文献整理だったりするなんてことありますよね。(書式の統一とか時間がかかる。英語の場合は、リストからコピペするだけなんで、案外楽なんですが)

このめんどくさいというのは結構本質的です。これを「どうでもいい」と考えるのは精神論で科学の姿勢とは真っ向対立します。ほとんどの事故はめんどくさいという気持ちがどこかで働くことによります。現状の「学術系の記事において参考文献がないあるいは異様に少ない」という最悪の状態、言い換えればスダブでもないのに「調べモノにならない」状態を払拭する上では、ちょい悪ぐらいの話を「まぁ公式にはいいとはいわないけども目くじらたてないよ」というぐらいで認めたらどうですかということを言ってるわけです。


文献の質についてノートで議論が起こるぐらいにならないとだめだというのが僕の考えです。起こってないのが不思議なぐらいです。最後は「一次情報に還れる」というのが基本である以上。 夜仮面様 2007年10月25日 (木) 14:51 (UTC)

1つめの質問は、夜仮面様さんのいう参考文献とは何か、を調べる質問でした。further readingsに使うのかreferencesに使うのか。further readingsとして挙げる場合はページ番号は無くても良い。その本をできれば丸ごと読んで欲しいのだから。referencesの場合にはページ番号は必須。「いつ、どこで、だれが、どんな主張をしたか」を検証できるようにしなければならないから。ページ番号を示さず「この本のどこかに書いてあるから探せ」ではreferenceにならない。例えば「キッテル固体物理学入門(第8版、ハードカバー版)」のp.256の脚注1)やp.329の脚注1)ではreferenceにはページ番号がしっかりと書かれている。

2つめは、予想していた答え。後回しにする理由まで答えて欲しかった。それについては、次の3つめの質問の答えを援用する。

3つめの質問の答えで、夜仮面様さんはすこし誤解してるのでは無いかと思った。要出典、検証可能性が張られただけでは記事の削除は行われない。この場合、記述が編集除去というかたちで記事からは消えるかもしれないが、履歴には過去の版として残っている。だから緊急性などは全くなく暫定的な書き方をする合理的理由とはならない。

4つめの質問は、意図が正しく伝わらなかったようである。「虚偽の出典」とは、「記述に対して提示された出典の内容がが当該記述と関係していないもの」というような意味で書いた。中身を読まずにタイトルだけ挙げて文献の数を水増しするような行為が増えるのではないか、という趣旨の質問だったのだが、これは僕の書き方が悪かったのかもしれない。

その他の意見については夜仮面様さんの個人的事情に思えるので「Wikipdeiaの理念と、合理的か否かという観点に照らしてよいか否かです」という言葉に則り割愛。

結局のところ、夜仮面様さんの提案をガイドラインに掲載する理由は「簡単だから」ということだけである。(出典というものは「簡単だから載せる」「面倒だから載せない」というものではないが。)その一方で「後で修正作業を行う」手間が増え、前の質問4で示したように「どこかで聞いた話を元に、文献を読まず、内容の適・不適を考えず、ただ検索だけして文献の数を水増しするような行為が増える」可能性も捨てきれず、メリットよりもデメリットが上回ると考えられる。よって夜仮面様さんの提案は認容できない。夜仮面様さんの提案をWikipedia:出典を明記するに記載してガイドラインに組み込むことに反対する。--野良猫 2007年10月25日 (木) 19:59 (UTC)

蛇足。「ちょい悪ぐらいの話を『まぁ公式にはいいとはいわないけども目くじらたてないよ』というぐらいで認めたらどうですかということを言ってるわけです。」とのことですが、それは理解している。でも、個人的にOPAC書式使って、後でこっそり直しておくんだったら、別にガイドラインに掲載させる必要は無いはず。夜仮面様さんが提案に至った理由は「簡単で便利だから他の人も使ってみたらどうだろうか」ってなところだと推察するが、いろいろ考えると「諸刃の剣」で今のところはデメリットの方が大きそうだから今はガイドラインに掲載するのは避けるべき、ってことです。
既に他の方が何度も指摘していますが、「出典を提示する上で省くことができない情報は何か」を議論して、その上で「OPAC方式は必要な要件を満たしているか」を議論する、それが終わってから導入のメリット・デメリットを考える。これらの手順を省いて利便性だけを説いても実りのある議論にはならないでしょう。--野良猫 2007年10月25日 (木) 19:59 (UTC)

★概ね理解しました。 >「出典を提示する上で省くことができない情報は何か」を議論して、その上で「OPAC方式は必要な要件を満たしているか」を議論する、それが終わってから導入のメリット・デメリットを考える。これらの手順を省いて利便性だけを説いても実りのある議論にはならないでしょう


分かりました。この議論は白紙にしましょう。その上で、「出典を提示する上で省くことができない情報は何か」を議論してというのは、不毛だからやめましょう。原理原則から話をする議論は、一見大変すばらいしことをしているようにみえて僕の経験上では実りがあったためしがなく、その手の議論には時間を割けません。そういう議論に陥るようならば、手を引きます。「穏当な断り方だった」という解釈で間違いないですよね。


あと、個人的な関心からの話ですが、 これは、僕自身の心得違いなのかもしれませんが、further readingsにとreferencesの違いが どの程度厳密に行われているのかという点については、実際には案外いい加減なものでしょうという のがあるわけです。その違いが重要と考えられる野良猫さんが ほとんどの科学系の記事がほとんどまったく参考文献を挙げていない現状をどう見られるのか という点をできればきちんと説明いただきたかったなと思っています。

>出典というものは「簡単だから載せる」「面倒だから載せない」というものではないが。

原則論を言えばそうなんだけども、参考文献の引用って案外不親切なもんですよね。権威ある文献で「なっとくする」とか「理解しやすい」とか言う類の本を引くことはないですし、でもそういうのが引いてあれば、便利かなと思うんですよ。


最後に、趣旨を明らかにせずに質問して、後になって「実はこういう趣旨だった」といわれた点は、ぼくのやる気をなくす上はとても功を奏したようです。議論は心理テストではないということのわからぬ 野良猫さんではあるまいに。単にこちらの「察する力」が足りなかったのかもしれませんが…。察しで議論をするものでもないでしょう。まったく残念です。通常質問する場合には「正しく趣旨を伝えるように最大限を尽くす」というのが 少なくともアカデミックの場では正しいのですが、何故そんな朝まで生テレビのようなことをされたのか?この一点を以って、議論の相手としての扱いが変わった(信用、信頼を失った)として文句をいえないことは、ご承知のこととおもうので、あまりくどくどと言う気はあいませんが…。


この一文がなければ、野良猫さんに対してもすなおに「ありがとう」で終われたのですが、残念です。

夜仮面様 2007年10月26日 (金) 15:52 (UTC)

そうですか。最後の最後までお互いにお互いの主張を理解し合うことができなかったようですね。とても残念なことです。
件の質問は、それぞれの疑問点について夜仮面様さんがどういう認識でいるのか聞くためのもの(要約欄に「論点の整理のため」と書いた)、だったんですが。まあ確かに、夜仮面様さんが誤解していると思われる部分に対して、誤解をあぶり出すような質問ではあったかもしれません。(その点では朝まで生テレビ類似行為との揶揄は当を得ているかも)しかし、私の能力不足のせいだと思いますが、そうでもしないと夜仮面様さんとの議論は成り立たないとも思っていました。夜仮面様さんは衒学的な文章でひたすら自説の優位性を説いているようにしか映らなかった。相手が抱いた懸念に対して斟酌しているようには見えなかった。とはいえ、私がとった行動は非難されるものであったわけですから、この点についてはお詫びします。
最後に、夜仮面様さんの疑問について一応答えておくことにしましょう。
「『出典を提示する上で省くことができない情報は何か』を議論してというのは、不毛だからやめましょう。」
これも私の思い違いなのかもしれませんが、Y tambeさんの 2007年10月24日 (水) 03:59 (UTC)の発言にある「各論を書くのではなく、総論として書く」というのは「出典を提示する上で省くことができない情報は何か」ということだと認識していました。
「その違いが重要と考えられる野良猫さんがほとんどの科学系の記事がほとんどまったく参考文献を挙げていない現状をどう見られるのか」
答えは簡単です。必要だと思ったら時間があるときに少しずつ私のペースで書き加えていきいます。WP:NORと勘違いされそうな記事は科学系の記事にはそれほど無いように思えますし。
繰り返しになりますが、今回の件に関しては、私の方に軽率な行為があり不快な思いをさせたことについてはお詫びします。--野良猫 2007年10月26日 (金) 19:13 (UTC)

★出典表示の暫定的な表記法について[編集]

記事の正確性に疑問が提出された場合、出典の明記を要求された場合など緊急を要す場合には、暫定的な表記として、国立国会図書館などの全国の図書館のOPACで採用されている形式(OPAC形式)による参考文献の表示が、一時的に可能である。

OPAC形式とは、ここでは

  1. キッテル 固体物理学入門 第8版〈上〉 / Charles Kittel (原著), 宇野 良清 、他(翻訳), . -- 東京 : 丸善 , 2005.12 ISBN 4621076531

のように

  1. 著書名 / 著者1、 著者2 、他, . -- 出版地 : 出版社 , 出版年.月 ISBN

の順、あるいはそれに準ずる順番に表記された表記法であり、国会図書館をはじめ全国の主要大学の図書館のOPAC採用されている表記法を指す。つまり、OPACで著書を検索した場合にブラウザーに表示される形式である。

また、Wikipedia:スタブやサブスダブ等のように「執筆中の記事」においても、「記事の正確性に関する疑問が発されること」や「出典の明記等の要求がが予想される場合」に限り、一時的であるならばこのOPAC形式の使用を認める。

一時的、暫定的とは、ここでは1ヶ月程度を意味する。

また、この形式で出典が表記された場合も、「出典の妥当性」等の「内容面での判断」は正式な表記法と同様に行うものとするが、記事の執筆者や閲覧者(特に出典の明記を要求したもの)は、協力して、可能な限り早急に正式な表記法への移行に勤める必要がある。

尚、この形式を用いて文献引用を行った場合には、必ず、「不完全な文献表示法」に関するテンプレートを表示すること。

夜仮面様 2007年10月23日 (火) 12:57 (UTC)

★補足(Y tambe様へ)
ご丁寧なご返信と、貴重なご提案ありがとうございました。 Y tambe様も場合によっては僕も含め、僕の提案がすばらしいと思っている者 は誰もいないと思いますが、では、現状をみて、暫定的な案として「それほど間違ってはないが なんとなくいや」という意見から「要出典への対応などを考えれば、記事はみんなでつくるものなんだしまぁ しょうがないかもしれない」(Y tambe様は概ねこのあたり)から 「現状を改善することになるので、多少インフォーマルでも、不正確よりかはまし」(僕) の間で推移しているものと見ています。

私の意見は、上記の要出典に関する意見にも対応しています。長期にわたり示されないならば、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないの方針により掲載が難しくなりますが 専門に近い人にとっては当たり前でも、一般の人間には衝撃的な事実あるいは、胡散臭く見える こともあり、この辺は、出典を上げろといわれればそうせねばなりませんが 整列とかを自分でやってると、それだけで案外時間を要す(疑問がもたれる場合には かなりの文献を挙げなきゃ納得してもらえない場合がある)わけです。この辺は 論文を書いたことがある人なら分かると思います。日本語の解説を書く場合、 文献整理が一番時間がかかるなんてこともあるぐらいですし…。

まず、和書を仕事で引用することがないので、僕個人としては和書事態の扱いは個人的にはぞんざいで、 でもWikipediaを使う場合には「原著論文は引用するけども、やはり権威ある和書(だいたいは訳)と わかりやすい和書」を極力引くようにしています。

それでも、要出典をいわれることや記事の正確性を問われることがあり、私が暇なときに 問われるとは限らないのですね。だから困るわけです。要出典というのは、確かに 「本を紹介してくれないと、正しいかどうか検証できない」という話で、 出来れば誠意をもって対応しなきいけないことで、誠意というなら 極力すばやくという話なんだけども…。

そう考えたときに「キッテル」と入れればOPACは完全な情報を出してくれるわけですね。 これはありがたい。

それも採用可能なら、例えば「記事を書いた人、記事を書いた人ではないが出典のありかをしっている 人」が簡単に参加できる。

僕自身はこの表記法は「暫定」でなければならないと思ってます。しかし、 では「本式」がどれだけ守られてるか、(僕みたいに本式を知っていて、 悪いと知りつつ守らないことがある人がいうのもなんだけど)や、どれだけ情報が完全なのかは ほんとうにこころもとないというのもご指摘のとおりだと思います。

夜仮面様 2007年10月23日 (火) 13:45 (UTC)

★(誰の発言か判りにくかったので、途中の改行を一部除去しました)えーと、予想通り話が発散しつつあるなぁ(論文と書籍の書き方の違いとか、Further readingsとReferencesの使い分けとか、それぞれについての「リファレンスワーク」のあり方とか、全部ごっちゃにしながら議論しようとしてるので……こりゃ、まとまりようがないよなあ)、というのが印象ですが、まぁそれはさておきまして。
多分、夜仮面様さんには私の発言の意図がうまく伝わってないと思います。また、野良猫さんやKs aka 98さんも同様の意見を述べておられますので、どちらかというと我々の説明不足だったというよりは、夜仮面様さんがまだ我々の説明を十分に理解し咀嚼できてないのではないかなと思います(要するに、まだ「まとめ」を述べるには、時期尚早だと)。これは別に一刻を争うような案件ではないので、一つずつ見解の相違を修正しながら、進めていくべきかと思います。
夜仮面様さんは、私が上に挙げた最初の質問に対して、(1)(2)という位置付けにおいて、(2)、つまり「暫定的な書式」として位置づけるという回答を述べてくださったので、次のステップです。
これもやはり根本的な疑義になるのですが、「『暫定的な書式』というのであれば、そのような書式についてわざわざ方針に盛り込み、明記しておく必要があるのか」という点を挙げます。
この点について、私は「OPACの形式を明記する必要はない」と考えます。OPACの書式の順にこだわらずとも、書誌の特定が可能な情報(上で私が"A"と分類した書誌情報)が書かれていれば、どんな形式でも「暫定的な出典表示」の用は果たすと考えます。ならば、OPAC形式だけをことさらに取り上げる必要はないし、むしろその一つを取り上げることで、それを「最終的に統一する文献書式」と混同してしまう事態(上の議論であったような(1)と(2)の混同)を招きかねないと思うからです。
ただし、その一方で、この方針に「出典の特定のために最低限必要な情報」について記述しておくことは、有用だと思います。つまり「OPACの形式」という各論を書くのではなく、総論として書く必要がある、というのが私の考えです。この点に関して(返事は2-3日後くらいがいいと思います)考えを聞かせて下さい。--Y tambe 2007年10月24日 (水) 03:59 (UTC)


★先にも述べたように、Wikipediaには一次情報としての権威が無く、”きちんと”調べモノをする場合には 後で他の”きちんとした”ものをあたる必要がある。しかし、Wikipediaを用いることで、”きちんとした” 調べモノをする上での時間が大幅に削減される可能性がある。

しかしながら、現状では「正しいか否か」を含めて、出典が少なすぎる。恐らく、論文に書く場合には そういうとこまで出典を明記しないだろうというところでも極力出典をするようにしたい/させたい というのがボクの意見です。

アニメ関係はともかく、学術的な記事については、(仮に論文だったとしても)出典が少なすぎる。まして 補助的な調べモノだと考えたときには(ボクは比較的沢山引用しているつもりだけども)少なすぎる。これは 「出典を増やしましょう」といっても絶対に増えない。楽に出典できるようにしなければ。


ということで、飽くまで暫定的ならば、「書くべきことを全部書いている」なら 出典をしたことにするということにしてよいのではと。その上でOPACのコピペは 楽だよという話なんです。


実際のところ、正しい表記法を知ってるか否かで、教養が知れるというのは分かりますが。

夜仮面様 2007年10月25日 (木) 15:12 (UTC)

★ええと。ノートの意見は「待てません」では消されないはずですし、本文であれば、消されたら、後に出典を付して復帰させるまでです。
ぼくがもっとも懸念しているのは(1)(2)にまたがると思うのですが、「安易な文献記載」です。どういう文献を引用すべきか、というのは別の問題と認識しています。

引用というものが何を指すかわかっていない利用者や、出典を示すと言うことはどういうことかをどうしても理解して頂けない利用者や、挙げる資料は執筆者が実際に目を通したものでなければならないということを理解していない利用者、改訂などによる違いの重要さを理解していない利用者も、ウィキペディアには参加しています。書誌情報の記載を簡便化することにを明示的に許容することによって、キーワード検索して適当にチョイスして参考文献欄へコピペとか、版を区別しないままコピペして放置とか、ページ数などの補足を怠ったまま放置とか、そういうことが助長されることへの懸念です。

(3)について、書誌情報、その書式に著作物性はないと考えます。
(4)は特にこだわりません。
夜仮面様さんやY tambeさんのような、書式を承知していて、ある程度容易に文献類にアクセスすることができて、知識や能力の上で記述内容を確認することができる方ばかりが参加しているのであれば、問題は生じないでしょう。たとえば夜仮面様さんが、数ヶ月程度OPAC書法を暫定的に用いるくらいなら、ここでご提案されなくても、用いてしまえばよいのではないか、と思います。学術的に認められている書式に則らなくても、それを理由に削除や除去の対象となることはありません。暫定にOPAC書法を用いることを明文化して認めなくとも、夜仮面様さんがやろうとしていることは実行できます。
また、ウィキペディアでの執筆や編集は、それほど急がなければならないものではないですから、数ヶ月かけて出典を記してからの投稿でもよいと思うのですね。論文であれば、「早さ」が重要になってくることもあるでしょうが、百科事典の記述は、そうではありません。閲覧者のことを考えれば、できるだけ早く閲覧可能な情報を増やすことが好ましいですが、それほどシリアスなものではない。“緊急”にしなければいけないのは、よほどひどい荒らしや個人情報の記載への対処くらいでしょう。
以上のことから、暫定的にOPAC書式を用いることについては、まったく反対するつもりはありませんが、明文化することに反対します。(余談ですが今は8版が出てるのか!>キッテル)
Y tambe さんの「「出典の特定のために最低限必要な情報」について記述しておく」という提案には賛成します。
といったところで。お待たせして申し訳ありませんでした。--Ks aka 98 2007年10月24日 (水) 18:22 (UTC)


>引用というものが何を指すかわかっていない利用者や、出典を示すと言うことはどういうことかをどうしても理解して頂けない利用者や

ものによるでしょうあるていどの目安はあるけども、本来的に金科玉条はないですよね。Wikipediaにおいてどういう引用が望ましいのかは、いろいろ上のほうでも僕なりの意見をいっているけども、本題とは別の話です

版の違いの重要性を説く人もいますが、これも著書の場合には実際にはあまり重要ではなく(だから著書なんですけど)、常に最新版をみればよい。重要だとしたら、理科年表みたいな数字物ですかねこれは、版をまちがうと痛いこともありますが…。1刷り2刷り3刷とそろえるのはマニアのしごとですし(ひだまりぜりーとか)。(これは僕自身もミスる可能性があるので怖いんですけどもさほどしんこくえはない)それいいだすと、論文引用する場合にコメントとかまで見ろよという話になり(これは見落とすと結構痛い)、到底見てるとは思えない引用が結構あるんですけども…。

その他は他の人も指摘していたことで、上で述べたので割愛します。 夜仮面様 2007年10月25日 (木) 15:51 (UTC)

版の違いは、たとえばランダウ=リフシッツの『力学』ならばどの版であろうとたいした問題にはなりませんが、人物伝や概念史関係の記述、あるいは近代史など、特に戦争のような大きな節目を挟んで版が重なっている資料を用いる場合は、重要になってきます。また、記述後、大きく変化した版が現れるかもしれません。しっかり記述することを利用者に義務づけるまではしなくていいと思いますが、「最新版をみればよい」としてしまうわけにはいかない分野もあることをご理解頂けますでしょうか。

引用については、どういう引用が、ではなくて、「引用と転載の区別も付いていないような利用者」です。

思うに、夜仮面様さんのほうが、ぼくよりも、ウィキペディアの執筆者の水準を高く見ていて、それが運用上の判断の違いになっているのではないかなと感じています。学術的な記事について、まっとうな記述ができる執筆者であれば、せめて現にその資料を見て執筆しているのであれば、それぞれに利便性と従来の作法と当座の労力などから判断して、暫定的にOPACの記法を用いても、何の問題も生じないでしょう。現在の方針は、それを妨げるものではなく、もしOPACの記法で書いてあるから検証可能性を満たさないという意見が出ていれば、それは方針の誤解あるいは濫用です。あくまでも暫定であり、書式を直さなくとも、せめて奥付との照合を前提とできるのであれば、便法を採ってもよいと思うのですね。ところが、方針で明示されている便法を採り、読んだ記憶のある書名で検索してコピペしたり、確認なしにコピペをしてほどほどに方針を守っているというつもりになってしまう利用者が登場することを、懸念しているのです。--Ks aka 98 2007年10月25日 (木) 16:54 (UTC)

★ 概ね理解しました。僕はこれ以上、正式ルール化にこだわる気はありません。ご時間を頂戴したことありがとうございました。 夜仮面様 2007年10月26日 (金) 15:52 (UTC)

いえいえ。ほどほどに手を抜きながら(笑)、末永い執筆をお願いします。--Ks aka 98 2007年10月26日 (金) 16:00 (UTC)

ページ末尾の参考文献について[編集]

”ページ末尾の参考文献の見出しの下に、参考文献を箇条書き (*) で記す”とありますが、記事が増え多数の方が記事を追加していくと、どれが参考文献の記事か、どれが出典のある記事か、分からなくなってきます。なにか区別する方法はないでしょうか。--220.152.28.71 2007年11月4日 (日) 01:10 (UTC)

分野によって違うかもしれませんが、「参考文献」は、直接記述との関連は薄いもの(時代背景の確認とか)も含めて、参考にした文献として挙げるものだと理解しています。個々の記述に対して、「ほげほげによれば云々」と書いたり、脚注を用いたりすることで、個々の記述の情報源を示すことで、区別が可能です。参考文献のところに、詳細な書誌情報を加え、本文や脚注では「誰某1993」などと省略する記法もあります。--Ks aka 98 2007年11月4日 (日) 04:46 (UTC)
しかし、ごく一部の方は”参考文献”にあげているから十分だろ! といった態度です。今後記事が増えてきた場合や多数の執筆者が参加された場合、出典記事が埋もれてしまう可能性が大きいです。こういったことを無くしていきたいのですが。--220.152.28.71 2007年11月4日 (日) 22:06 (UTC)
この点については、なかなか難しいというか。私はむしろ、もう一歩深く踏み込んで考えると、"general references"を数報挙げることの方が、「百科事典の記事としては」ある意味「正しい」参照方法なのではないか、と思うことすらあります。
つまり、「評判のいい二次情報源」としての総説記事や教科書を数冊吟味し、そのすべてに(あるいは大半に)共通して見られる内容を選んで、その内容を記載するという執筆および参照の形式です。恐らく、そういう書き方の方が「三次情報源」としての百科事典の記事としては望ましく、また単なる原著論文での見解と、その分野で広く合意を得られている見解とを選別できるという点では、NPOVを達成するという目的にも近づきやすいという利点があります。そのような記述で全体を固めた上で、特定のソースを必要とする部分についてのみ、出典を追記するというやり方を想定しています。例えば英語版の秀逸記事では、en:Action_potential活動電位)などが、このようなスタイルを採っています(多分、この手のいわゆる「基本項目」ほど、このような参考文献スタイルが合っていると考えます)。
ウィキペディアにおける「検証可能性」の意味合い(「信頼できる情報源」という条件、二次情報源の推奨)だけから言うと、これらの総説を示すことの方が原著論文を示すことよりも望ましく、これらの総説を示した時点で「検証可能性は満たされた」という主張は正当だろうと思います。具体的なやり取りとしては、ノート:腸炎ビブリオなどもご参照ください。
ただし、この「(信頼できる情報源に基づいた)検証可能性」を目的とした出典提示とは全く別の問題として、「実際に参照した文献を掲示する」「一次ソースへのポインタを示す」ということの重要性というのも存在します。これはこれで、「文章の書き方」の根幹に関わることでもあり、またその事象に関する歴史的な経緯や事実としても記載する価値がある内容です。いわゆる原著論文(一次情報源)や、総説(二次情報源)での文献の引用や参照の場合には、むしろこちらの意味でのリファレンスワークが重要になってきます。この形式のリファレンスワークについては(執筆者の多くがこれに慣れていることもあり)ウィキペディアでも多用されてはいますが、必ずしも「検証可能性」とマッチするとは言えない部分があります。
例えば、後に重大な発見につながった研究の第一報が、無名で査読のない学術雑誌に掲載されたものであったような場合、単純に「その情報源の信頼性」によって出典の採否を決定する、という考えだと、それを出典とした情報の記載は不可、ということになりかねないわけでして、それはそれで不都合があるわけです。このような場合、「情報の信頼性(検証可能性)を満たすための出典」は「適切な総説」が、「一次ソースへのポインタとしての出典」は「無名誌に掲載された第一報の原著論文」が、それぞれの役割を担うことになります。そして、このように解釈するのであれば、本来の「検証可能性のための出典」としては、むしろ前者を示すことの方が妥当になるのではないか、という考え方につながるわけです。
このような考え方に立脚すれば、「参考文献として、general referencesを示していく」というやり方には、将来的に大きなメリットが存在し、「general referencesがgeneral referencesであるということが判る」書かれ方をしている限りにおいて、検証可能性上の問題を生じさせない以上は許容すべきなのではないかな、と考えています。この辺りは「参考文献の記述スタイルを、全記事で統一することが可能かどうか」などといった、またややこしい話にもつながっていくのですけど、とりあえず「検証可能性が満たされること」の優先度の方に重きを置き、それを満たしているかどうかは個別に文献の性質を考慮しながら判断していくしかないのではないかと。
もちろんウィキペディアでは後から他の人が記述を追加したりすることがあり、それによって追加された記述の出典がはっきりしないというケースもあるでしょう。しかし、その問題は「その記述の出典が何か」ということであって、参考文献のスタイルがどうあるべきかとはあまり関係がない、と考えます。その記述の出典が、すでに参考文献として例示されている複数の総説に該当するのならば、記述単位で明示する必要はありません(「要出典」を貼られても、その旨を説明した上で除去することができるでしょう)。一方、既存の参考文献に記載のない内容の記述については、個別の参考文献の提示が要求されるでしょう。ただし、これはその記述が後から追加されたものかどうかには因らず、個々の記述について、その出典を明らかにする、という立場で行うべきことだろうと考えます。--Y tambe 2007年11月5日 (月) 03:15 (UTC)

かぎかっこの前後のスペースは全角?半角?[編集]

書誌情報の書き方(和書)— 項目間の区切りの記述なのですが、

かぎかっこの前後では読点を用いず、全角スペース( )を用いる。
— Wikipedia:出典を明記する2007年12月25日 (火) 06:42 (UTC)の版から一部を転記

と書かれています。よく見ると、( )の中のスペースは半角となっていて、激しく自己矛盾する記載となっています。

履歴にあたってみると、当該部分の記載は、 2005年6月12日 (月) 21:34 (UTC)の版で登場し、当時は『全角スペース( )を用いる。』と、矛盾のない記載でしたが、2007年6月6日 (水) 03:03 (UTC)の版Aotake氏によって現在の矛盾状態に変更されたようです。

和書の書誌情報の書き方としては、かぎかっこの前後のスペースは全角にするべきなのでしょうか?半角にするべきなのでしょうか?--鷹揚虚空 2007年12月26日 (水) 20:38 (UTC)

2005年6月12日 (月) 21:34 (UTC) の版の執筆者です。同部分の執筆のいきさつは以前にも書きましたが、さっき別件でWikipedia:表記ガイドを見ていたら、#使用可能な文字の節の3番目の項に
style="width:Wikipedia:表記ガイド 2007年12月23日 (日) 15:37 (UTC) の版;vertical-align:top;color:#B2B7F2;font-size:35px;font-family:'Times New Roman',serif;font-weight:bold;text-align:left;padding:10px 10px;" | 「 空白は欧文間隔(いわゆる半角空白)“ ”(SPACE U+0020) を用います。和字間隔(いわゆる全角空白)“ ”(IDEOGRAPHIC SPACE U+3000) はウィキペディアの記事本文、記事名、カテゴリのソートキーでは使用しないでください。 style="width:Wikipedia:表記ガイド 2007年12月23日 (日) 15:37 (UTC) の版;vertical-align:bottom;color:#B2B7F2;font-size:36px;font-family:'Times New Roman',serif;font-weight:bold;text-align:right;padding:10px 10px;" | 」
とあるではありませんか。表記ガイドの当時の版にも「空白はいわゆる半角を用いる」と理由付きで明記されていました。私が2年半もの間このことを見落としていたせいです。ごめんなさい。これによると半角にすべきです。 --Vantey 2007年12月26日 (水) 21:18 (UTC)
その旨、本文も直してきました。以前どこかのノートでNattilv1さんが、WP:CITEのこの部分の記述の存在を根拠に全角空白容認論を排除論者との間で戦わせていたことがありました。本当に申し訳ないです。でも第三者によるツッコミもこの2年半の間なかったわけで… --Vantey 2007年12月26日 (水) 22:00 (UTC)
勝手に半角空白に改変されているのには、しばらく前に気がついておりましたが、もう少し早く口を出しておけばよかったと思っています。改変の結果、参考文献と齟齬をきたしているのですが、これはよいことなのですか。「河野による」のは、全角空白をあけるというものなのですが、Aotakeさんお二人(訂正2008年1月27日 (日) 18:18 (UTC))の行為により、結果的に「河野は半角空白方式をとっている」と読者に誤解させることになってしまいました。
議論による改変ならば基本的に賛成ですが、出典を最も重要視するページで、出典からの断りのない改変が行われている現状はいかがかと思います。この議論に参加される方は、無理にとは言いませんが、現在出ている参考文献に目を通してからにしてほしいです。議論にあたって新たな参考文献を出すこと、現在の文献に異議を唱えることを止めるものではありません。--Nattilv1 2008年1月27日 (日) 08:16 (UTC)
全角に戻します(改竄されている状態を元に戻します)。なお全角空白を認めないとする方は、中村の著書に拠って議論をすればよく、出典にない半角空白に変更する理由はありません。--Nattilv1 2008年2月15日 (金) 10:51 (UTC)
出典の書き方には、当然、統一した書式があるべきですが、記事執筆に際しては、まず文献にのっとって書き、書誌情報をもらさず書く事が重要なのであって、書式に関してはおいおい直して行けばよいと思います。このガイドラインの主眼は出典を明記させることにありますので、書式に関してはスタイルに関する記事のノートで議論すべきだと思います。このガイドラインにおいては、半角全角、漢字かカタカナかなどはわりと優先度の低い問題であろうと思います。--Isorhiza 2008年2月17日 (日) 00:46 (UTC)
優先度が低いから、このページができてから何年もたった今頃になって提案されているとは考えられませんか。もっとも、新聞さえもどこまで書けば「書誌情報をもらさず書」いたことになるのか、Wikipedia日本語版のなかでは決まっておりませんし、放送、録音物、電子資料などについても、どういった情報を書くべきなのか分からない状況です(上の議論の他、書籍、ウェブサイト以外の資料を使用する場合を参照)。書式が決まっていない資料から先に決めていくべきではないかという意見をお持ちであれば、ご提案ください。
それに、書誌の表記についてはこちらでやるべきだとの提案がHatukanezumiさんから出ております(ダッシュについて)。--Nattilv1 2008年2月18日 (月) 10:17 (UTC)
私もこの件については疑問に思っていました。上述の表記ガイドに言う「これは、ブラウザによっては全角の場合に適切に割り付けが行われないためです。」というのがたいした問題でなければ、全角空白でかまわないと考えます。Anton21 2008年2月27日 (水) 12:38 (UTC)

GFDLと引用について[編集]

引用のガイドライン(草案)のノートにて、「GFDLだから引用は認められない」という見解は否定されました。いままでのところ、この見方に異論は付いていません。

ので、もしこの理解に異論がありませんでしたら、冒頭にあります下記の文の変更を提案します。

  • (現在)GFDLとの適合との問題などから、日本語版ウィキペディアでの引用は勧められません。
  • (新)日本語版を取り巻く状況により、あるいは様々な意見があって、現在のところ日本語版ウィキペディアでの引用は勧められません。
Uryah 2008年2月7日 (木) 11:52 (UTC)
異論はないので、書き換えます。Uryah 2008年2月14日 (木) 11:54 (UTC)

ノートに書くべき内容を解説に書くことについて[編集]

脚注の1は議論におけるある立場の表明であり、ここにつけるべきではないと思います。--Isorhiza 2008年2月17日 (日) 00:46 (UTC)

脚注は他のものも含めてすべて私がつけておりますが、原則的に「参考文献にどう書いてあったか」という事実関係を表明しているに過ぎません。少なくとも本人はそう認識して書いています。「河野、澤田、中村ともに、片仮名表記(「ページ」)を許容している」のも、「Wikipedia日本語版において、漢字にすべきだとの合意ができているというわけでもない」のも事実です(後者について、あるという方は出典をお願いします)。それ以上のこと、たとえば「片仮名表記を認めるべきだ」とかそういうことは言っていませんし、そのような立場に与していません。
ただ、参考文献からの(加筆者が認識しているかしないかに関わらず)「断りのない改変」や「二つ以上の表記例のうちの一方しか採用していないといった行為」が行われている現状に警鐘を鳴らしたいと思ったのは確かです。参考文献に「アクセス日」を書けとあるのに、作成日や最後更新年月日を書けと「改変」されているのはおかしくないですか。なお、こちらにおいても、私は「アクセス日にすべきだ」とは言っていませんし、思ってもいません。どちらでもいいのですが、出典を重要視するページにおいて、そこからの変更や取捨選択には慎重であるべきではないかと考えます(そのため、新聞編を書くにあたっては、どこの本に何が書いてあるかに触れながら、あくまで書式の「一例」――これが安易にモデルになるべきではない――を示したつもりです)。
以上答えてみましたが、「解説に一個人の立場が表明されている」とお思いになるのでしたら、脚注の1も他の番号も削除していただいてけっこうです。--Nattilv1 2008年2月17日 (日) 21:26 (UTC)

Template:参照方法[編集]

Template‐ノート:出典の明記#Template:Citation style で予告したとおり、en:Template:Citation styleTemplate:参照方法に移植しました。ご意見をお聞かせください。 - TAKASUGI Shinji (会話) 2008年3月11日 (火) 01:44 (UTC)

以下の節で具体的な出典の示し方が議論されています。Template:参照方法は出典の示し方の改善を求めるテンプレートなので、お使いください。 - TAKASUGI Shinji (会話) 2008年3月18日 (火) 02:46 (UTC)

具体的な出典の示し方[編集]

井戸端ほかあちこちで「出典のない情報」についての議論が行なわれています。中には、「ここまで出典を示さなくてもいいんじゃないか・・・」などという言葉が聞かれますが、ウィキペディアは周知の通り「検証可能性のあること」しか書いてはいけないところです。となると、「原則として1文1文に出典をつけることが望ましい」とするのが理想です。ですが、それをいちいち脚注出典として示してしまうと可読性が低下することも事実です。そこで、具体的な出典の示し方として次のようなものを提案し、項目中の出典の示し方に付け加えたいと思います。

  1. 原則として全ての記述に脚注出典をつけて出典を示します。
  2. 同じ情報源から「ページ数などが少し違うだけ」の出典が多い場合は、簡略化された出典方法として、その情報源を参考文献に示し本文中には「著者(発行年、ページ数)」といった形でどの参考文献のどこを参照したかが分かるように出典を示すことができます。
  3. それでも参照した箇所が多くなりすぎて可読性が低下する場合は、2のような簡略化された出典をコメントとして記載することができます。
  4. あるまとまった部分をまとめて参考にした場合など、1つ1つの記述に出典をつけると著しく可読性が低下する場合は、コメントで<!-- 特に記述されていないものについては(参考文献~)からの出典 -->などと記載して参考文献に示すだけでも構いません。ただし、これはあくまで最終手段であり、特にある事柄に対する賛成・反対意見や肯定的・批判的主張など強い情報の場合はこの限りではありません

賛否・コメントなどよろしくお願いします。--青子守歌会話/履歴 2008年3月17日 (月) 04:05 (UTC)、少し変更--青子守歌会話/履歴 2008年3月17日 (月) 06:57 (UTC)

  • ページ数を省略するのは反対ですね。出典から適切に引用されているか確認(検証)するための手間が圧倒的に違います。せっかく出典情報が付くのなら中途半端に可読性を維持して基本情報のほうが脱落してしまうのは本末転倒のような気がします。専門家が査読するのではなく、不特定多数の「素人」が利用するWikipediaですから検証の容易性は重要だと思うのです。--隠者 2008年3月17日 (月) 06:28 (UTC)
    それは「参考文献を示すだけでよい」という方法についてでしょうか?ページ数、あるいは雑誌なら記事のタイトルなどいわゆる「情報源のどこを参照したか」という情報については確かに記述すべきと考えます。そのため、3番目の方法はあくまで「多くなりすぎて何がなんだか分からなくなる場合」という特殊な場合を想定していますし、原則は「全ての記述にページ数も載せて出典」だと思います。ただ、例えばゲーデルの不完全性定理のようにある論文をまとめて参考にしている場合など、全てに「~である(ゲーデル1937、p.xx)。また~である。(ゲーデル1937、p.yy)。さらに~となる。(ゲーデル1937、p.zz)」と書いてしまうと「かなり見づらくなる」という主張も分からないでもないので、そのような方法も可能としました。ですが確かにちょっと曖昧な書き方していた気がするので少し変更しました。--青子守歌会話/履歴 2008年3月17日 (月) 06:57 (UTC)
ええと、これはですね、基本的には、各分野で採用されている書式(MLAとかシカゴとか)を、情報源を付けて(左の二つは和訳が出てます)書くというのが理想だと思いつつ、手を付けられていません。
検証可能性の方針によって、ウィキペディアの文章は、いくらか百科事典から論文に近いものとなることは避けられません。文中に織り込むことが望ましいようですけれど、ある程度、文章の可読性は脚注を使うことで確保して、脚注を参照する手間は気にしないということでいいんじゃないかなあ。
ページ数は原則として必須でよいと思います。同一の書籍からまとめて記述している場合は、「以下は主として『なんとか』(の何章とか何ページから何ページまで)を参照した」と脚注に書く、ということで対処可能だと思います。チンドン屋脚注8,9あたりを参照。
原則として、記述に直接関係ある情報源は、対応させて記し、参考文献は、直接関係ないけれど参照した文献を記すもの、とするのがよいと思います。ただ、参考文献は、論文などでは上記の意味、百科事典としてだと、より詳しく知るためにはこの辺を読んでね、という意味になりがちなので、どう区別するのがいいか、というのが悩みどころ。--Ks aka 98 2008年3月17日 (月) 07:11 (UTC)
(現時点では反対)んーと、主張したいことは理解できないことはないんだけど、率直に言わせてもらうと、上の提案を読む限りでは、この問題にまつわる背景についての理解が足りないんじゃないか、と感じてます(ひょっとしたら、実はもっと広く深く考えた上での提案かもしれないけど、少なくとも上からはそれは読み取れなかったので)。上のKs aka 98さんが指摘している点と重なるかもしれませんが、そもそも出典記載の方式について、英語版でどれだけいろいろな方式が認められているか、日本語版ではどういった方式を認めるか、という議論なしに、いきなりこういう提案をされても賛成する気にはなれないです。まずは英語版の「general references vs inline citations」と「How to cite sources」については目を通していただきたいし、この上の#出典の示し方に付いて(著者名+発表年の方法)にも類似の議論があります。日本語版では、まとまった議論なしに、なし崩し的に「脚注方式」だけがクローズアップされてますが、分野によってハーバード方式の方が馴染みがあるケースなどもあるでしょう。こういった「リファレンススタイル/出典をどう書くか」について、どれだけ俯瞰的に考えておいででしょうか?
またもう一点、Wikipedia‐ノート:検証可能性Wikipedia‐ノート:検証可能性/秀逸な記事への要出典タグと、Wikipedia‐ノート:検証可能性/「出典不明示は削除」は万能な規定ではないことの確認についても、是非一読していただきたいと思います。私は、「検証可能性」と「出典を明記する」、そして「実際に出典をどう書くか」は、それぞれが順に上位→下位という階層関係にあり、それぞれを切り分けて考えられるようにしておくことが重要だと考えています。その観点から言うと、上の提案は、要するに、そういう「検証可能性」という大方針とは切り分けて考えられるべき、いわば細則までも一緒に固めてしまいかねない、粗の目立つ提案だと感じます。何せ、この近辺は議論の量が多すぎて、全部の議論に目を通すことは無理だろうとは思いますが、とりあえず、上に挙げた部分については十分に目を通していただき、その上でもう一度、同じ提案をするのか、再考していただければなあ、と思います。
なおウィキペディアでの出典の書き方について、Ks aka 98さんのチンドン屋と対象的なものとして、腸炎ビブリオを挙げておきます。こちらはメインカルチャーに近く、(一次でなく)二次情報源がそれなりにある場合に、記事の信頼性を確保するにはどうすればいいかという点について、この「検証可能性」が公式方針となる以前に、試行錯誤していた記事です(ノート参照)。私が関わった秀逸記事では、この腸炎ビブリオヘリコバクター・ピロリ(あるいはKs aka 98さんのチンドン屋)の対比は、英語版の「general references vs inline citations」を理解する上で役に立つ実例かもしれません。--Y tambe 2008年3月17日 (月) 08:59 (UTC)
(お二方のコメントに対してまとめて)とりあえずY tambeさんの言われるWP:Vのノートでの議論2つは一度何かで話題になり読んだ事がありましたが、以前見た時から議論が進行してたようなので改めて読ませていただきました。で、「出典なき記述は削除されても反対できない」などは、あちこちの記事を編集してるともう既にある程度の慣習として成立していると思っていたのですが、どうもそうではないようですね。実のところ、最近「出典を明記しよう」と言っても「どうやって?」という答えが返って来る事例が多かったので、それに対するマニュアルのようなものとして提案したので、そこまで深いところまで熟考して時間をかけてミスひとつなく他の事例に反しないように・・・という風にしたものではありません。なので、「背景に対する理解が足りない」というご指摘は全くその通りであったと受け止めさせていただきます。また、Y tambeさんやKs aka 98さんのように長くこの問題に対して関わっていて事例研究も豊富にされているような高いレベルに私は達していないことは十分に理解しているつもりです。各分野の論文で、あるいは各言語版でのウィキペディアでどのような出典方法が採用されているか、などの知識も豊富でないことも承知しております。ですがその上であえて、この方式を再度提案させていただきます。理由は、先に述べたように「具体的な出典の示し方について分からないまま記述を行ない、議論になるケース」が多くなってきている(と少なくとも私には思える)こと、そしてウィキペディアはその性格上執筆者が専門家でないことが少なくなく「一般の人でも容易に理解できる手法」が必要だと思われることです。また、この方式は現在jawpに存在するいわゆる「よく出来た記事」(お二方が示された秀逸な記事2つを含む)で使われている手法と大きくかけ離れたものではないと思います。普遍的に唯一絶対この方式がベストな方法で全ての分野でこのような方式で出典を示すべきだとは言いません。しかし、「jawpで記事を書くためには」この方法でいいのではと思います(今のところは、ですが)。--青子守歌会話/履歴 2008年3月17日 (月) 16:03 (UTC)
とりあえずの方法を決めちゃうってことには、反対しないです。他の書式でもいいけれど、つまり、他の書式を直すことは望まれないけれど、わからなかったらこれを使いましょう、という位置づけ。ただ、同時に、そういう融通が、今のjawpで機能するかどうかというと、不安なところもありますが、個人的には融通利かせる方向で信じたいとは思っています。
各種論文などの書式は、結局のところ、情報量は大きな違いはなく、本文の可読性と、資料の整理をうまく捌くという点で、それぞれに発展してきたものですから、ウィキペディアなりの、独自のものがあってもよいとも思います。
それはそれで、もうちょっと考えてつめていったほうがいいとも感じています。対立する意見があるときや、十分信頼できる情報源ではない場合は本文中へ(脚注に持っていくべきではない事例です)、複数の信頼できる情報源を用いて確認した事実とみなされることに関する記述は脚注へ、というような。--Ks aka 98 2008年3月17日 (月) 16:18 (UTC)

「『検証可能性のあること』しか書いてはいけないところです」という文章から、どうして「『原則として1文1文に出典をつけることが望ましい』とするのが理想です」という結果を導き出すのかがわかりませんでした。賛否をつける前に、青子守歌さんが1~4の方針に従って新しい記事を作った場合にいかなる内容になるのかが見てみたいのです。どんな分野の記事でもかまいませんので、まずは「実例」をお作りください。可能ならば一つだけでなく、数個作成していただけると助かります。

なお、出典記載がどこまで必要かという問題については、私が上で挙げているウィンジェルの本(46-50頁)や、山内志朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』(平凡社新書、155-157頁)の中で取り扱われています。--Nattilv1 2008年3月18日 (火) 01:10 (UTC)

言いたいことを先に言われちゃいましたが、保証すべきことは「1文1文に、出典を『示せる』(=典拠に基づいて書かれている)」ことであって、「1文1文に出典を『明記する』」ということではありません。前者は、検証可能性で保証されるべき、記事の信頼性に関わる考えであり、この方針の例外となるものは極めて少なくあるべきですが、後者は言わば検証可能性の下位に当たるものであり、例外があっても構わない……というか、この点について例外のない記事を成立させることは、およそ現実的でない、と考えます。そういう現実的でないものを「原則」として提示することは、過去のさまざまな方針文書(とその解釈)を巡る論争から考えて、下策の部類だろう、と私は感じるんですね。青子守歌さんは「それでも敢えて示したい」といい、Ks aka 98さんは「融通利かせることを期待すれば」といい、私は「下策の部類だろう」といい、感じ方は人それぞれでしょうけど、この点について、私はあまり楽観視すべきではないということをかなり強く感じてます(特に、仮にも方針に書かれた文書となると、文面を修正するだけでもどれだけ面倒か……上に挙げたWP:Vのノートで痛感してますんで)。
尤も、「一つの実験」として、すべての文章に出典を明記するというのは、面白い試みかもしれないな、とは思います(ただ、百科事典の記事の良質さと両立するかは疑問……言い換えると「小学生にも理解できるのがいい記事だ」という主張と同じように、行き過ぎたfool proofではないかと)。実例を実際に私が作ってみることも考えましたが、あんまりまとまった時間がないし、上のNattilv1さんが指摘されるように、青子守歌さんが実際に作製してみる方がいいかもしれないですね。
ただ予め言っておきますと「実験」をする上でいちばん大事なのは、実験者自身が自分のアイデアに囚われるあまり客観的な評価ができない…言い換えると「ダメなものはダメ」と感じなくなることなので、その点には注意が必要です(この辺りは僕も気をつけないといけないのだけど…腸炎ビブリオの出典方針とか、インフルエンザウイルスの構造化/コンテナ化した章構成とか)。
なお、私が作ることを想定した場合、(1)比較的新しい概念についての項目であり、(2)記述内容があまり多くない、項目であれば、何とかやれるかもしれないな、とは思いましたので、参考になれば。ただ、秀逸レベルの長さの記事になると、ほぼお手上げ状態になりそうだ、と感じてます(そういう意味でも「原則」を名乗るべきではなかろう、と思ってます)
例えば上に挙げた項目の中では、腸炎ビブリオがやや短めであり、記事としてはほぼ中程度の長さの記事だろうと思いますが、この記事中には80個以上の句点があります。「すべての記述~」(そもそも『記述』という表現は曖昧なので、出典提示の単位として用いるべきとは思わないんですけど)や「1文1文」という語を何気なく用いられてますが、上の提案の(1)は、つまりこの項目には「原則として80個(以上)の脚注出典を示すべき」ということを意味するものになっているんです。脚注出典方式を採用しているチンドン屋にしても、私は現状で概ね必要な出典は提示されていると考えますが、それでも実際に「1文1文に」出典が明記されているわけではありませんので。
というか、そもそも日本語版ではこの「脚注 footnotes/notes」と「出典 references」を混同している人が散見されるのは前々から不満でして…。いやま、文系の方では一般的でも理系分野だとなーとか、シカゴスタイルはfootnotesじゃないぞとか、英語版のCref/Cnoteテンプレートを導入したいなとか、言ってみたりして。こういう背景も関わってくる提案なんですよ。
それから、えーと、井戸端の直近のケースについては、「要出典タグ」を外した人が出典情報を示しているようで、実は示してない(出典の特定可能なだけの情報量を示してない)のが問題なわけでして。正直言うと、記述の除去で対処するんじゃなくて、その点を明確にツッコんだ上で、「要出典タグ」の貼り直しで、対処すべき案件だったと思うんですけどね(初回に「要出典タグ」を貼った判断が正しかった = 出典は不明だが「デタラメ」とは言えない記述、なのならば、ですが)。このような「ツッコミ」をスムーズに進めるために必要なのは、上の提案にあるような「1文1文に出典を明記せよ」と言うことではなく、まずは「出典の特定を可能とするために必要な情報は何かを(ケースごとに分けて)まとめておく」&「1文1文に、そのような出典が『示せる』(≠明記する)よう呼びかける」ことじゃないか、と思ってます。私としては、ここに人が集まって現状改善に向けた行動ができるんなら、どうせなら、そっちの方向に人的リソースを費やせればなぁ、とか思ってみたり。--Y tambe 2008年3月18日 (火) 11:03 (UTC)
分かりました。それではNattilv1さんやY tambeさんのご助言どおり、一旦この提案は取り下げ、改めていくつか新規記事を書いて前例を作ってからまた再提案させていただきます。--青子守歌会話/履歴 2008年3月18日 (火) 18:36 (UTC)

やはり原則として脚注機能を使う事を明記すべきでは?[編集]

武蔵 (戦艦)で実際の証言を否定する独自研究的な記述があったので疑問に思い、削除とはいかないまでもせめて脚注で出典を示すように忠告したのですが、参考文献に記してあるとか、今更調べるのは大変だとか言われて会話ページやノートで散々長文を垂れ流されて迷惑しております。今後こういった不毛な議論があちこちで起こると思うとやりきれない感じがします。 既に英語版ではen:Wikipedia:Verifiability(検証可能性)で脚注を使用する事が義務づけられており、殆どの記事で脚注が使用されています。やはり原則として脚注機能を使う事を明記すべきではないでしょうか。--紅 美鈴 2008年4月8日 (火) 23:50 (UTC)

えーと上の繰り返しもなんなので。まずは、en:WP:Citing Sourcesをよく読んでください、と指摘しておきます。「出典を提示させる(してもらう)こと」と「その手段として原則として脚注機能を使わせようとすること」は別問題です。要するに、紅美鈴さんの提案ってのは、文献表示のフォーマットは一つじゃないし、正当ならばどのフォーマットでも問題ないはずなのに、その内の一つでしかない「脚注機能を使わせる」方向に議論をすりかえてる、という性質のものなんです。おそらく、議論すりかえの意図があるわけではなくて、無自覚なんだと思いますけど、そのあたりの、自分の提案が持ってる意味というか、及ぼす影響については自覚して下さい。
つーか、そもそもen:WP:Verifiabilityには「脚注 footnotes を使用することが義務づけられ」なんて文言は書かれてません。そもそも「脚注 Footnotes/Notes」と「出典/参考文献 References」は別物でして。いやま、訳語や用法が混乱してるのは事実ですが、この議論では、そこを明確に一意にしゃべらないと(少なくとも、そういう注意を払って、細かい意見調節が行えないと)解釈が食い違うのは当たり前ですし、主張に説得力がなくなりますので、ご留意ください(つーか、その辺りから議論を撹乱して潰されてもおかしくない、「脇が甘い」提案ですよ)
つまりこの提案は、ハーバード方式とか、他にもいくつかの正当な出典明記の方法はあるけど、そこらへんの議論は全部すっとばした上で、文献表記法のフォーマットを勝手に規定するような行為でもあります。「原則として脚注機能を使うこと」を明記するということは、脚注機能を用いたものだけを「認められる文献表示のフォーマット」として受け取られかねないように述べることでもあり、そういう根が深い問題につながることなのです。この提案に対しては、たとえ「とりあえずの暫定的なもの」という位置付けであったとしても、「筋を通す」ためとでもいうか、そういう方面との整合性を保つためにも、はっきりと反対の意を示しておきます。「ガイドラインへの明記」という、正統な方向に進めるのならば、「他の方法」についても合わせてまとめ、英語版と同様にいくつかの方法を列記する、という方向に最初から向かうべきです。--Y tambe 2008年4月9日 (水) 03:10 (UTC)
(追記)で、もう一度改めて、en:WP:Citing Sourcesを引き合いに出しますが、紅美鈴さんが必要だと考えているのは、そこに文献表記法のフォーマットの一つとして挙げられている「Footnotes」ですか? そうではなくて、本当に必要としてるのは「inline citations」の方ではないですか? ということです。尤も、これについても「General references」と「Inline citations」の両方が認められています(後者の利点が多く取り上げられ勧められているけど、「原則として前者でなく後者」なんてことはありません)けど。--Y tambe 2008年4月9日 (水) 03:59 (UTC)
自分が言いたいのはそういう事ではなく既に殆どの記事で脚注機能が使用されている事実です。脚注のない、少ない記事には必ず出典の明記のテンプレートが貼られています。(この辺は英語版を頻繁に利用する方ならお解かり頂けると思います)でまぁ英語版がそうだから日本版もそうしろと言っている訳ではなく単純に需要の問題ですので英語版がそうなっているという事だけ認知して下されば良いです。--紅 美鈴 2008年4月9日 (水) 10:14 (UTC)

参考までですが、脚注と参考文献リストの組み合わせ技で記事を書いてみました。フサオマキザルです。前提は、

  • Harvard referencingをベースにする。
  • 脚注では、情報ソースを明示する。
  • 参考文献では私が実際にアクセスし、本文で触れたもののみを提示する。

です。問題点は、

  • 参考文献に飛ぶのに二度手間である。
  • そのため、脚注に飛んだだけでは、一般向けの本なのか、一般向けの事典ないし百科事典なのか、専門書なのか、チャプターなのか、論文なのか、テレビ番組なのかといったことが明らかでない。
  • だからといって、参考文献リストを見ても、ちゃんと読まないとその区別は明らかでない。

です。ただ、3点目については、参考文献リスト内での順序を変えて整理すれば足りることだと思っています。反対に、便利な点は、

  • 同じ文献をページ数を変えて何回引いても、書誌情報は1回のみでよい。ibidなども使わなくてよいので、編集に易しい。
  • 出典と参考文献を区別できる。脚注で、「Fragaszy, D., Liu, Q., [...]. Cited by 岡部聡, 佐々木元 & 岩崎弘倫 2008.」 とあるところです (いまのところこちらでハイパーリンクされます)。脚注では出典を示すので、会議でのプレゼンテーションを示しました。しかし、それは岡部らで言及されているものを引いただけなので (孫引き)、参考文献リストには実際に参考にした岡部らを掲載しました。Shaz 2008年8月29日 (金) 11:25 (UTC)
参考、ということで自分が加筆した(加筆中?)修身#歴史の項目では、似たような形ですがもう少し簡素な形で出典を示してあります。まぁ、この方法だと参考文献が多くなった場合に混乱するので、Shazさんの方法が最終的な形になるかもしれませんが・・・。それと、冒頭で言われている武蔵 (戦艦)の件は、結局のところ「これって、どの文献の『どこに』書いてるのか」という情報が必要かどうかってことでは・・・。--青子守歌会話/履歴 2008年8月29日 (金) 12:16 (UTC)

データ的なものの出典[編集]

wikipedia初期から何も変わっていない問題なんですけど、データの扱いがかなり適当です。データだからこそ出典を明確に、特に数量等は念に念を入れてリサーチして間違いの無いように扱わなければならないはずで、これはかつてルポライターの竹中労(何故スタブ・・・)というハゲオヤジがライターの基礎中の基礎と口をすっぱくして言ってたことです。

翻ってwikipedia日本語版を見ると、子供の集まりやすい芸能・音楽分野(CD売上げ、チャート等)はもとより、スポーツ記事(成績)、文芸記事(系図)と事態が日々悪化しているような気さえします。

[Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 野球#野球選手の生涯記録/データに出典をつけませんか]でとりあえず提案してみたところ、「参考資料はある(オフィシャルじゃないサイト)」「データは著作物じゃないから大丈夫」という全然かみ合っていないレスが返ってきました。

なんというか、もう少しデータ的なものの出典の明記の基準を厳しくする事は出来ないでしょうか。上記に挙げた芸能・音楽分野(CD売上げ、チャート等)はもとより、スポーツ記事(成績)、文芸記事(系図)は資料が豊富で、決して出来ない事ではないはず。

現状のままだとWikipedia:削除依頼/利用者:さんさんさんさん及びソックパペットによって作成された記事群のような事態が絶対再発します。--220.150.134.138 2008年3月21日 (金) 11:30 (UTC)

データ的なものの引用元が明らかでない場合は「要出典」を張って、しばらく様子をみて元投稿者に開示の意思がないことを確認のうえ削除・リバートすれば宜しいのではないかとおもいます。ルールでいくら出典情報の開示を強要しても、不特定の投稿者が出典開示しないまま投稿・編集できるシステムになっているのでどうしようもないです。Wikipediaは読者を選ぶので、記事内容を安直に信用して現実世界で恥をかいてしまっても自己責任、というルールになっているのですよね(´・ω・`)--隠者 2008年3月30日 (日) 10:56 (UTC)編集のさいに出典情報を入力しないと投稿できないようなシステム設計に元からなっていればこういう問題は大幅に解消できたはずなんですけど(現在の編集ページでの「編集内容の要約」みたいな欄が出典情報に関して用意されていて、そこに何らかの文字を入力しなければ投稿できない等)。--隠者 2008年3月30日 (日) 11:00 (UTC)

大量の参考文献の列挙[編集]

大量の参考文献が列挙されている項目があります(世界の一体化#参考文献グローバル資本主義#参考文献など。なお前者は41冊、後者は100冊ほどでしょうか)。で、私としては、このような大量列挙をされますと、むしろ検証可能性が損なわれているのではないか、と。

ページ数が表示された脚注形式のものであればともかく、末尾の参考文献としての列挙はある程度制限した方がよいのではないでしょうか。特にこういった大量列挙のものの中には、本当に参考としたのか、その項目とどれほど関係があるのか疑わしいものが多く含まれている(だからこそ大量列挙になる)ように思います。

そこで、A.ページの末尾に参考文献として挙げる書籍などの出典は、その項目の中心的部分について十分に記述されたものに限る、などとする内容規制や、B.参考文献として(ページ数を示さずに、あるいは項目のどの節・部分などを書くにあたって参考としたかを示さずに)列挙する書籍は、10冊程度を限度とする、などとする数量規制を付け加えた方が良いのではないかと思ったのですが、如何でしょうか(これらは例としてあげたもので、特に何のこだわりもありません)。--Yamamomo 2008年3月30日 (日) 08:44 (UTC)

賛成です。引用脚注と参考文献リストは区別したほうが便利ですね。とくに出典情報については書籍内での具体的な参照箇所をページ数で明示する方向が宜しいかと(検証可能性の便宜のため)。もっとも大半のWikipedia記事にとっては出典情報不足が問題で、大量の文献が問題になるのは贅沢な悩みですけど。--隠者 2008年3月30日 (日) 10:30 (UTC)
反対です。Wikipediaは、一次情報にはなりませんから、ユーザーがWikipediaを参考に何かをしようとするならば、必ず参考文献をあたらねばなりません。その上で、個々の文献同士の関係を論じることは、有益性があっても害はありません。必要ならば記事を分割して個々の内容を薄くすればよいことです。

尚、引用脚注と参考文献リストは区別したほうが便利というのはその通りだと思います。特に、「あまり有名ではないが重要なこと」、「誤った俗説がまかりとおっていること」について記述する場合には、文献がたくさんいって、その文献を理解するための文献が必要でといったことが起こり、非常に困ります。しかし、これに対応したシステムは今のところなく、 今後の仕様改編が必要だと思います。 --夜仮面様 2008年5月10日 (土) 13:45 (UTC)

過剰だと思える出典の明記について[編集]

コードギアスのゲーム関係の項目でゲームをプレイすれば分かるようなことまで出典が明記されていたのでその記述を除去したところ

『出展は執筆者がなにを元に編集したかを指し示す大切なものです。』とIP利用者の方に差し戻されてしまいました。

発売前は載せてても問題ないと思いますが発売後なら過剰過ぎると思います、今回の事は作品を見れば分かるようなキャラクターの名前からその設定から何から何まで出典を明記されても消すなと言ってるようなもので記事が出典で埋め尽くされると思います。どんなに過剰だろうと一度明記された出典は除去する訳にはいかないのでしょうか?-- 2008年3月30日 (日) 10:51 (UTC)

その前に「ゲームをプレイすれば分かる」というのは出典情報になりませんよ。「1次情報は出典にならない」(独自研究)で押し返してください。--隠者 2008年3月30日 (日) 11:03 (UTC)あー当該記事を拝見してきましたが、IPユーザーさんの編集が正しいと思います。ゲームをプレイすれば分かるというのは出典情報になりません。ご理解ください。--隠者 2008年3月30日 (日) 11:18 (UTC)
ゲームまたその作品は出典にはならないと言うことですか?それでは全ての記事がなりたたなくなると思うのですが?
例えば全てのキャラクター名前に出典は何々の公式サイト、××の雑誌と記載されても作品をみれば分かる作品自体が出典だという理由でその出典を除去することはいけないと言うことなのでしょうか?
それでは本当にすべての記事が出典で埋め尽くされしまいますよ、たしかに出典を明記することは大事かもしれませんがここまで過剰なものまで認めてしまうのはどうかと思います。-- 2008年3月30日 (日) 11:28 (UTC)
同じ出典元からの引用や整理の場合は、1文1文ごとに出典を明示する必要はありませんよ。一方で出典を明記するのは推奨される方針で、「埋め尽くされる」状態でなんら問題ありません。可読性は末尾に集約することで維持できています。なお、恐らく貴君が話題にされている箇所については「恋愛」アドベンチャーという表現について慎重に表現するためあえて出典を明示していると考えます。--隠者 2008年3月30日 (日) 12:04 (UTC)Wikipedia:検証可能性の方針をご一読ください。--隠者 2008年3月30日 (日) 12:05 (UTC)
やればわかることは、やればわかることとして書いてもいいと思うところもあります(ただし、たとえば書籍であればページ数に相当するものとして、必ず再現できるような手順を書き加えてほしいなと思ったりもします)。もちろん、やらなければわからないことは書くべきではない意見もあります。もちろん、やればわかることならすべて書いていいわけでもありません)。将来的に、やれない可能性もあります。そういうときに、このゲームについて、いくらかでも情報がほしい、確認したいという場合に、書誌が示されていることは非常に有用です。出典情報については、「過剰」ということはないと思ってください。出典情報は除去しないようお願いします。--Ks aka 98 2008年3月30日 (日) 13:38 (UTC)


手に入りにくい書籍を出典とする場合の明記方法[編集]

Wikipedia:出典を明記するを読んでいたのですけど、絶版とか手に入りにくい書籍について何か表記の仕方はありますか。--Global H 2008年6月22日 (日) 13:22 (UTC)

絶版なのは出版社の都合なので、記述するときには考慮する必要はありません。 ねこぱんだ 2008年6月22日 (日) 13:34 (UTC)
絶版でも全く何も出典が提示されないよりはましかと思いますので、絶版であることが分かるようにしておけばよいと思います。現在も確認が可能で同じ内容を扱っている情報元が別に見つかるのなら差し替えるなり併記するなりした方がベストではありますが。--KM-0901 2008年6月22日 (日) 14:00 (UTC)
一応、Wikipedia:出典を明記するの趣旨はどこからその記述のアイデアを持ってきたかをしめすためにこれこれこうこう書きましょうというものです。ですので、絶版ないし入手の困難さについてはふれられていません。で、そういうことを記述すべきかと聞かれれば、すべきでないといえると思います。絶版ないし入手の困難さは上にあるとおり出版社の都合ですし、「今は」絶版ないし入手困難かも知れないけどもしかしたら再版されるかも知れません(このあたりはWP:DATED参照)。仮に再版される予定が全くなったとしても、ハンドアウトすれすれの超マイナーな書籍でない限り、必ずどこかの公共図書館で参照可能でしょう。それが外国の出版物だとしても(発禁の制度があって、それに引っかかっていない限り)その国のどこかの図書館に必ずあります。ですので、取り立てて表記する必要はないかと存じます。--あなん 2008年6月22日 (日) 14:10 (UTC)
それを真に受けて出典を記載すると”著作権侵害の怖れアリ”とイチャモンつけて消されるのがオチです。トックニPDになっている文献を記載するしかありません。ソノ場合でも”そんなもの実在するのか”とかイチャモンが付きます。ウィキペディアは腐っています。書き手として係ることはストレスの素になるだけであり人生の生命時間の無駄使いに過ぎません。211.133.19.196 2008年6月22日 (日) 20:34 (UTC)
出典の「書式」としては、絶版、版元在庫切れなどの流通の状態や、あるいは地方小出版など流通の形態などは、それほど気にしなくてよいでしょう。復刻版がでているような場合や、著作集として別の本にまとめられている場合は、あなたが見た本の書誌情報を書くようにしてください。なお、出版社や流通の規模は、情報源としての信頼性や適切かどうかという判断に関わるものですから、記述する上で十分検討していただければと思います。--Ks aka 98 2008年6月23日 (月) 05:46 (UTC)
IPさんへ。そういうイチャモンは、本を読んだりしているので、良くない温床の環境に浸ってデタラメをまかり通そうとする人より何倍もマシじゃないでしょうか。確かにイチャモンを付けることで欲求解消(不快を与える事が快、破壊カルト的な幸福感)している人数が、本当に編集する人数を遥かに上回っているかも知れませんけど、悪意に満ち溢れてても善意に取れる箇所は多いし、改善の見込みが全く無い訳ではないでしょう。それに、悪い人が参加したらいけないというルールはありませんし(←ですよね?)、自分に欠けているものに詳しい、つまり、知らない分野に特化していたら認めざるを得ないんじゃないですか?弱肉強食でいうと、ルールを守らない者(何でも有り)がフツウに強い。
今まで、参考文献が複数冊であっても、Wikipedia:検証可能性が守れたら1,2冊でもいいかなと思っていました。妙な希少価値が出た書籍は避けたいので、そういった場合、別の書籍(もちろん適切な書籍)が記事のWikipedia:検証可能性を守る形に置き換えてもいいでしょうか?--Global H 2008年6月23日 (月) 10:36 (UTC)
んー、ここで「置き換えてもいいでしょうか?」と質問して「置き換えていいですよ」と誰かの言質を得ないと安心できないくらいに自信がない案件なのでしたら、置き換えではなく並記にしといた方が無難ですよ。入手(アクセス)可能性が低いが定番で「筋のいい」文献を挙げる、ということ自体にも相応の意味があります。参考文献が複数冊のときにも、(例えば自然科学系だと)どの総説を選び、どの原著論文を選ぶか、というのにも意味がある。ここらへんも常にケースバイケースだから、とりあえずは並記の方がトラブルは起こしにくいです。
参考文献の選び方には、学術の各専門領域ごとに、それなりのお作法みたいなものがありますけど、それらの「文書としての適切な参考文献の選び方」と「ウィキペディアにおける適切な参考文献の選び方(検証可能性のための出典提示の用を満たす)」は、必ずしも一致するとは限らないんじゃないか、と最近考えていたりします。「ウィキペディアにおける〜」を重視して、文書としての質が台無しになるようなら、そもそもの「良質な百科事典」からすると本末転倒ですし(例えば、いくら誰かが実際の「出典」にしたものだとしても、まともな文書にこの程度のを載せるなよ、というのもないことはないわけで)。まぁ、このあたりは英語版でも、en:Wikipedia:Layouten:Wikipedia:Citing sourcesなどのノートで、何度となく議論が起こってたりするようなので、どのように整合性をとっていくかは、そのうち(今後数年くらい)に方向性が見えてくるかもしれません。一朝一夕の話し合いでどうにかなるものでもないですし、英語版の動向なども参考にしながら、しばらくの間、出典情報については「並記・追加」をメインに作業されるとよろしいかと。--Y tambe 2008年6月23日 (月) 11:16 (UTC)
ども、いろいろ参考になりました。んーと、分野や概念が多岐に及べば参考文献数を増やせば良いと考えてたけど、予定記事の概念的な問題がありまして...教科書的なのは希少に、他の書籍から良いトコ取りしても書籍自体の方向性がちょっと違う、しかし、文献にしか無い情報が多いかなと。真面目に考えていたら記事名は良くとも執筆そのものが難しいかもなので、関連記事が増えた頃に考え直します。それはそうと、今でも参考文献の中にオススメとか教科書はコレと追記したい時はありますね。--Global H 2008年6月25日 (水) 10:46 (UTC)

貢目数が不明の場合の明記方法[編集]

Wikipedia:出典を明記する見て思ったのですが、手元にはないが、以前読んだことがあり、著者名、著書(論文)名、雑誌名、巻数、発行所名、叢書名、刊行年は解ったり調べることができるが、参照ページが解らない場合は絶対に表記する必要はあるのでしょうか?できれば表記するようにはした方がいいとは思いますが、(論文等の学術的な文献ならともかく)雑誌等なら参照ページが解らなくてもそこまで神経質になる問題ではないと思いますし、実際、参照ページの記載がないだけの理由で削除されているページもみたこともあります。別の資料を提示して削除するならともかく、これだけの理由で勝手に消すのはいかがなものかと思いますが、皆さんの意見をお聞かせください。--61.119.148.15 2008年10月1日 (水) 14:06 (UTC)

「参照ページの記載がないだけの理由で削除されているページ」というのは、その資料が掲載されている版が管理者によって削除されたのではなく、その資料のことが編集で除去されているということでよいでしょうか。ページ数が書かれていないからといって編集除去するのは適当ではなく、除去する側としては、除去するのではなく当該資料を探して自ら加筆するのが最善ですし、労力などを勘案するならノートや会話ページで該当部分の投稿者とのやり取りを経て、入手が難しい状況であれば情報の確かさや記事における必要性から判断する、という流れがよいと思います。その資料による記述が信頼できず除去が適当であれば、資料を除去すると共に、その資料を情報源とする本文を除去しなければならないでしょう。また、記述と情報源の関係や書式の都合から、具体的なページを挙げる事が適切ではない場合もあると思います。
ただ、仮定されているような場合であれば、ページ数が書かれていないからではなく、手元にない本の内容について記憶に基づいて書いているから好ましくない、ということになるかなあと思います。それから、雑誌を情報源とされている場合のほうが学術論文よりも求める記述は探しにくいことが多いと感じますし、学術の定期刊行物と比較して容易に得られるところに所蔵されていない事が多いですから、国会図書館などで複写を依頼できるだけの情報があったほうが好ましいでしょう。書く立場の心がけとして、またさまざまな目的で百科事典を利用する読者への配慮として、書ける場合は書いていただきますようお願いします。--Ks aka 98 2008年10月1日 (水) 16:56 (UTC)

ウェブサイトの引用[編集]

外国語文献(海外の判例集)についてウェブサイトへのリンクを貼るだけでなく、 書籍の文献情報(判例番号等)も記載することを求めたところ、 「ウェブサイトに関する規定は和文献だけに適用される」として拒否されました。 判例集は大学図書館に行けば閲覧できるものであり、何も無理な要求をしているわけではありません。 相手側に確認したところ、「出典を明記する」のルールが変更されたらそれに従うといのこと。 かような反論はルールの抜け穴を利用した主張であり、 またwikipediaの精神を損ねており対処に困っております。 外国語文献の項目にもウェブサイトに関する規定を付け加えることを 提案しますが、いかがでしょうか。--oragamura 2008年10月25日 (土) 14:16 (UTC)

Oragamura氏とのやりとりは以下のとおりです。[2] 英語版wikipediaや和文献の引用ルールを拡大適用したあげく「引用がまともでないのに、内容の理解が正確であるとはとても思えません」とまで拡大解釈をすることが正常であるとは思えません。このあたりのご判断もよろしくお願いします。--Opp 2008年11月3日 (月) 08:47 (UTC)
  • こんにちは初めまして。該当記事(ラスク書簡)の該当引用箇所について、その内容については高度に専門的なことですので触れないことにして一般論として。Wikipedia:出典を明記するルールはあくまで引用のためのガイドラインであり、その目的は検証可能性を確保することです。OragamuraさんとOppさんのあいだで記事(ラスク書簡)の該当記載について、引用元が検証できるための「相応の」情報が提出されているかどうかをもう一度確認してみてはどうでしょうか。特に引用元が長大な文献であるばあい、具体的に何ページから引用したものであるか付記しておくことは、一般読者や他の編集者にとって非常に有意義でまた親切心に満ちたものだと考えます。もうひとつ、引用の体裁がガイドラインの基準を満たしていないから「当該投稿内容には検証可能性がないので削除すべき」との立論は立たないと考えます。あくまで実質として適切に引用されており、その引用が(少なくとも専門家の立場として)検証可能かどうかで判断すべきではないでしょうか。--ネコバット 2008年11月3日 (月) 09:04 (UTC)
了解致しました。引用は該当文とともに国際司法裁判所のサイトで公開されている判決文原文のpdfにリンクを張っており、アクロバットの検索機能で検索可能です。ページを書いたほうが親切というのはご指摘のとおりなので修正しようと思います。あと、削除基準云々とは別に「引用がまともでないのに、内容の理解が正確であるとはとても思えません」というような形で引用ルールを利用するのはどうなんでしょうか。--Opp 2008年11月3日 (月) 09:14 (UTC)
  • 極端な例として。ある独自研究Aを投稿するために、Amazonや国会図書館検索などを適当に利用し、適当な文献情報を確保して、その文献情報を羅列することで主張Aを補強するような粉飾が可能である点を考慮いただければ宜しいかと思います。専門家の目から見ればすぐに見抜ける粉飾であったとしても、百科事典をひもとく読者は基本的に「その内容を知らないから調べるために」訪問している素人ですのでこの種の粉飾の可能性は相当重要です。検証可能性のclaimがつくのは、大抵のばあい読者や他の編集者が初めて聞いたような内容に遭遇した場合や、記述の内容の信憑性に疑問を抱いている場合でしょうから、適切に引用していることを明示しておくことが読者の知識欲を満たす方向にはたらくものだと考えます。売り言葉に買い言葉の点は華麗にスルーの方向で宜しいのではないでしょうか。--ネコバット 2008年11月3日 (月) 09:32 (UTC)
検証可能性及び信頼性については当事者(国際司法裁判所)のサイトのpdf提示で十分と判断してます。あともう一つお教え下さい。当事者(国際司法裁判所)のサイトにおいてpdfにより原文が提示されている中で「ウェブサイトだけではなく書籍の文献情報も提示しろ」との要求はどうなんでしょうか。彼の要求する国際司法裁判所の「判例集」は私の手元にはないため、書籍情報を入手するためには国会図書館や大学の図書館に行かなければなりません。--Opp 2008年11月3日 (月) 09:50 (UTC)
  • 「ご存知ならば」という好意的解釈で宜しいのではないでしょうか。投稿者が自己の投稿内容を削除されないためには検証可能性のある出典から中立に引用していることを示せばよいというのがWikipediaの三大ルールですが、これは必要条件でしょうから、検証可能性を担保するための「十分な」情報を提出するまでの義務まで要求されるわけではないと考えます。十分性を補完するのは他の投稿者の貢献に期待しても宜しいのではないでしょうか。(なお前提としてお願いしたいのですが、あくまでわたくし(ネコバット)の投稿はわたくし(ネコバット)の解する「Wikipediaの投稿ルール」ですので、Wikipediaの合意されたルールの解釈の正確性についてはご自身の納得されました解釈に立脚して頂きたくお願い申し上げます。)--ネコバット 2008年11月3日 (月) 14:11 (UTC)
お答えありがとうございます。ネコバット様の理解というのは重々承知しているのですが、私が言っても聞く耳を持たない状況ですので第三者の意見は貴重です。--Opp 2008年11月4日 (火) 04:32 (UTC)


発売日と発行日の混用[編集]

発売日と発行日の違いがわからないのか、混用している記事をしばしば見かけます。「何年何月何日初版」や「何年刊行」と書かれているものの多々あるようです。シリーズものなど、各書籍の発売日(あるいは発行日)を列挙している記事において、発行日と発売日をごちゃ混ぜにしているところもあります。ひどいものだと、発売日であるのに堂々と「何年何月何日発行」と書かれています。基準となるものを探してみたところ、Wikipedia:出典を明記するでは「刊行年」などというあいまいな基準で、Template:Cite book では「日付」としか書いてありません。発売日と発行日は大きくずれることはないのですが、その日付の小さな誤りが大きな誤解を生まないとも限りません。どこかで基準を設けていただけないでしょうか。--三畔 2008年11月7日 (金) 07:12 (UTC)

出版物(書籍、ムック、雑誌等)において、発売日(店頭に並ぶ日、購入出来る日)と発行日(奥付等に記載される日付)が異なるという事を知らない人が多いですからね。出版業界のルールみたいなもので。発行所と発売所が違うとか(出版)、編集人と編集長が違うとか(雑誌)、発売と販売が違うとか(音楽)、製作と制作が違う(映画等)とか、制作局と放送局が違う(放送)みたいな…。映画は公開日に公開されるし、CDは発売日(水曜)の前日(火曜午後)に店頭に並びますが、概ね、クレジットされる日付をリリース日として良いのに対し、出版物は面倒ですね。特に書籍の発売日は把握出来ない場合も多い。更に雑誌なら正確には、例えば「2008年11月25日発売の2009年1月号(2008年1月1日発行号)」等と書かなければならない。ただ、毎日の動きを追う記事内容でない限り、雑誌で出典を示すだけなら、「2009年1月号」で良いと思います。書籍の場合、発行日と発売日が1ヶ月以上違う事はあまりないでしょう。ムックでも最大1ヶ月程度、雑誌なら2ヶ月近く違う事もありますか。書籍の発行日はどのように決まるのか、出版社によって基準があるのか、よく知りませんが、店頭に並ぶ日(発売日)でもなければ、雑誌のように発売日の何週後とか翌月何日と決まっている訳ではないので、何年何月までは必要ですが、何日までは不要と考えます。実際、図書館のデータベースでは「出版年:2008.11」のように月までしか書いてない事が多いです。「2008.1」と「2008.12」では1年近く違う事もあり、月までは、リスト等でも必要ならば記載しても良いでしょう。まあ、2008年12月発売だが発行「2009.1」となる事もありますが。
なお、「発行日は実際より先」なのが出版界では普通ですが、夕刊紙においては、「発行日のほうが実際」です。東京スポーツ、夕刊フジ、日刊ゲンダイなどにおいては、「11月7日(金)発行の11月8日(土)付新聞」となります。紙面の各面には「2008年11月8日」と表示され、一面には「7日発行」と注記されますが。つまり一般の刊行物でいう店頭に並ぶ「発売日」が夕刊紙では「発行日」、クレジットされる「発行日」が「付」に対応するような感じです。夕刊紙は日曜が休刊ですが、それは夕刊紙における発行日の事で、日曜夕方に店頭に並ぶはずの日曜発行の新聞、即ち月曜付の新聞が発行されない事になります。
無料なので発"売"・販"売"されないフリーペーパーは、発"売"日とはいえないので発行日しかない。配布所に並ぶ日を発行日としているようです。--Khhy 2008年11月7日 (金) 14:08 (UTC)

将来まで残る記述にするなら、実際に資料に書かれている日付で統一したほうがいいでしょう。2008年12月に発売されても『2009年1月号』とするべきでしょう。新聞は、夕刊紙でも『●月×日付』のほうが、後代から確認しやすいです。(戦前の日本では、夕刊は翌日付でした) --ねこぱんだ 2008年11月7日 (金) 23:26 (UTC)

雑誌・ムックについては日本雑誌協会の自主基準で週刊誌は発売日の15日先まで、月刊誌は発売日の45日先まで発行日表示ができることになっています。コミックは15日先までです。--UE-PON2600(旧↑PON) 2008年11月11日 (火) 05:24 (UTC)

「実際に資料に書かれている日付で統一したほうがいい」という意見に賛成します。どの記事に書くべきかわかりませんが

  • ウィキペディアでは資料に書かれている日付を基本にすること
  • 発行日についての説明(発行日について質問が出たときなどに示せるようにしておく)
  • 「2008年」で終わらせるのではなく「2008年11月発行」などと明確に記述すること
  • 既存の記事には発売日なのか発行日なのかあいまいな記述が多数あるが、発行日を記すという基準ができたからといって、盲目的に(資料を確認せずに)「発行」と修正してはならないこと。もしかしたらそれが発売日であるかもしれないため。
  • 記事の執筆にあたって必要であれば、断った上で発売日を記述すること(発売日を記述することを禁止するものではないというアピール)

Wikipedia:表記ガイドWikipedia:出典を明記するあたりにこれらのことを記述したいと思うのですが、どこにどのようなことを書くのが適切でしょうか。--三畔 2008年11月11日 (火) 08:08 (UTC)

厳密に、日付まで書く必要性があるのかは参考文献の性質によって違うと考えますが、整理するとこんな感じでしょうか。
  • 新聞は日付まであると後々調べるのが楽なので書くのが望ましい。というより休刊日を除いてほぼ毎日発行しているわけだから書かないといつの記事かわからない。
  • 雑誌(月刊誌・週刊誌など)の場合だと、ねこぱんだ氏が言われるように『2009年1月号』の形式で十分でしょう。
  • 書籍になると逆に日付はいらない。例えば、日本の経済を加筆する際に使用した財団法人矢野恒太記念会編『日本国勢図会2008/09』には、発行日付には2008年6月1日と書いてあるわけですが、財団法人矢野恒太記念会編が『日本国勢図会』に関して年に数回も発行するわけではないので、日本の経済の記事には、財団法人矢野恒太記念会編(2008)で通しているわけです。また、同一執筆者(ここでは仮にAとおきましょう)が同じ年に論文や書籍を複数発表し、それらが「B」という記事に記入されている場合は、脚注や参考文献では
  • A(2008a)『Bに関する****』 XX社 
  • A(2008b)「Bに関する*****の分析手法」『YY大学紀要』 
といった形で記載しておけばいいのであって日付はいらないでしょう。基本的な論文の書き方だと思いますがいかがでしょうか?--Wushi 2008年11月30日 (日) 00:36 (UTC)
当該資料に実際に記載されているのは発行日であって、その発売日が別の日付であったとしても発売日は容易に検証できないですよね。極論ですが、発売日を記載すること自体が検証可能性に対する別の疑念をもたらすようにも思えます。掲載するとしても発行日までではないでしょうか。理想を言うなら初版と資料として使った版の発行日。--きたじま/あかみ 2008年12月7日 (日) 15:21 (UTC)

煮詰まっているようなので、ここまでの議論を参考に「Wikipedia:出典を明記する」編集してみました。--三畔会話2012年10月15日 (月) 10:54 (UTC)

ここまでの議論を参考に」とおっしゃりながら、「書籍になると逆に日付はいらない」というWushiさんの問題提起を完全に無視した編集をなさっていることに驚きを禁じ得ません。書籍の場合に発行月が必要か否かという対立論点が存在して当該論点が議論もなされず放置されている以上、全然「煮詰まって」などいないと思いますが? ちなみに私は、新聞・週刊誌は発行月日まで必要、月刊誌は発行月まで必要、書籍の場合は通常は発行年までで十分という立場です(もちろん発行月や発行月日が典拠を参照(判別)する上で特段重要なキーになる場合には必要)。--SrcRqstr会話2012年10月15日 (月) 12:01 (UTC)
たしかに編集してしまうのは性急でした。それについてはお詫びします。出典を明記するにあたっては、SrcRqstr氏や他の方の考えのどれを取っても適切だ思います。
しかし私が危惧しているのは、現在多くの記事中に含まれている「出版物一覧」といったものの中で発売日と発行日が混用されており、こうしている間にも出版物一覧がどんどん作成され続けていることです。2008年11月7日 (金) 07:12 (UTC) に私が投稿した最初の文章そのままの内容になりますが、それをいますぐにでもストップさせたいのです。なんとかする方法はないのでしょうか。--三畔会話2012年10月15日 (月) 16:02 (UTC)
発売日と発行日(発売と発行)は違うので注意しろ、と書けばいいのではないかと思うのですがいかがでしょう?--Ks aka 98会話2012年10月15日 (月) 16:56 (UTC)
三畔さんの危惧は理解します。私もKs aka 98さんと同様の考え方になると思いますが、「Wikipedia:出典を明記する」には「発売日と発行日の違いについて」という趣旨の殊更目立つ注意を縷々書いて(そのような節を設ける、あるいは{{Anchor}}を置く)、発売日と発行日を混用する編集者にはノートあるいは会話ページで「[[Wikipedia:出典を明記する#○○]]を見よ」(○○はその注意書きの部分)という形で簡単に誘導できるようにする、という形でよいのではないかと考えます。--SrcRqstr会話) 2012年10月15日 (月) 21:37 (UTC)敬称補遺。大変失礼しました--SrcRqstr会話2012年10月16日 (火) 04:34 (UTC)

出典を参考文献と外部リンクで示す場合[編集]

1つの書籍しか情報源としていないのに出典節や<ref></ref>による埋め込み出典によって示さず、参考文献節に入れてしまうことをスタイルに反するものとして「出典の示し方」節に加えてもいいでしょうか?

また、同様に(あまり推奨はされていませんが)1つのWebサイトしか情報源としていないのに出典節や<ref></ref>による埋め込み出典によって示さず、外部リンク節に入れてしまうことをスタイルに反するものとして「出典の示し方」節に加えてもいいでしょうか?

出典は基本的に全て<ref></ref>による埋め込み出典で示すべきだと思いますが、多数の書籍を総合的に情報を得て記述した場合に限り、参考文献節での出典表記が許されとすべきではないでしょうか?上記の論議を読んでいると、諸氏が求める出典の表記ルールは私の考えているのと同様か、より厳格な視点で語られていますが、実際に出典が付けられる場合でも私が上で揚げたように参考文献と外部リンクに入れればそれで出典を示したという姿勢の方が<ref></ref>による埋め込み出典で示す方より多いくらいです。

具体的に加える文章です:

  • 出典が1つの場合(1冊の書籍、1つのWebサイト)は<ref>出典情報源名</ref>を使用して、記事の文末の句点(。)の前に埋め込んで出典となった情報源を示します。1つだけの出典を == 参考文献 == や == 外部リンク == に記述するのは誤りです。(注意:Webサイトは永続性が無く検証可能性に乏しいために、出典としてあまり歓迎されない傾向があります。)
  • 出典が複数で、多くの書籍から総合的に得た知識に基づいた記述のために、本文中の個々の文章に厳密な出典がつけられない場合に限って == 参考文献 == によって出典を示すことが出来ます。これ以外で == 参考文献 == は、自ら加筆編集を行なった記述とは直接の関連が薄いが読者に推薦する文献を示すのに用いられます。

私は既存の記事を読んでいて不可解な記述があると、出典があるのか当該部の過去の編集履歴を見ますが == 参考文献 == に書名だけが書かれていると、それが不可解な記述の出典なのか、単に参考にしただけでその本には不可解な記述の元情報は書かれていないのか判りません。私が最も「検証可能性」に求めるのはこういった変な記述を排除するための道具としての機能なのですが、出典かどうか判らない == 参考文献 == ですべてくくられると調べる意欲が大きく削がれて、実際には調べずにコメントアウトした疑問を加えるだけにしてしまいます。

こちらで同意戴ければ、Wikipedia:出典を明記するを変更後、改めてWikipedia:記事を執筆するを変更すべくノート:記事を執筆する/出典でも作って変更提案を出すつもりです。Wikipedia:記事を執筆する#検証可能な内容を書くの「記事の情報源となった出典(参考文献)を明記しましょう。」という説明文を変えないと、新規編集者がいつまでも == 参考文献 == に出典を示し続けると思います。皆様のご意見をお待ちいたします。--Tosaka 2008年11月29日 (土) 22:59 (UTC)

二点とも「ノー」だと考えます。平たく言うと、それは英語版でも認められている「4つのスタイル」のうちの一つ、"General references"を真っ向から否定してるのに他なりませんので。例えば、非常によく書かれた総説や教科書であれば、一つの文献のみを出典として、ウィキペディアの記事を書き上げることは可能です。もちろん、複数の文献をチェックした上で書かれた記事の方が「より望ましい」とは言えますが、例えば『細胞の分子生物学』などのように、その分野で定評がある、優れた専門書兼教科書の一章、一節のみを元に書かれた記事であったとしても、そのことが記事の品質上、あるいは検証可能性の上で瑕疵になるとは、決して言えないでしょう。
このような場合、もし一つ一つの記述に対して、脚注出典を設けるのであれば、そのすべてが同じ出典に帰結してしまうことが起こり得ます。このようなケースを考慮すれば、そもそも「<ref>による埋め込み出典で示すべき」ということは「原則としていつも正しい」ということは言えません。どのような出典スタイルを用いるかは、その記事の執筆スタイルによってケースバイケースで対処する必要がある、というのが正しいです。
それからgeneral referencesは、そもそも二点目に指摘されているようなケースで使うべきものとは言えません。そうではなくて、上述のように、その記事の記述全体(あるいは大部分)の出典として成立する場合に用いられるものです。二点目のようなケースであれば、必要に応じて、その記述部分に複数の出典を列記する必要が出てくるでしょう。--Y tambe 2008年12月1日 (月) 04:42 (UTC)

ビデオ媒体における関係者のインタビューについて[編集]

上の方で「ビデオ、DVD、音楽(レコード、CD)などの出典元 」という項目がありましたが、微妙に趣旨が異なっていると感じたので新しく項目を立てて質問させていただきます。

映画関連の記事を編集する際に、作品のDVDに収録された製作者や俳優などのインタビューを参考にすることがよくあります。これは日本語版のWikipediaではどのような書式で引用すればいいのでしょうか?また、北米など日本国外で出版されたDVDをソースにすることもあるのですが、この際発言者や映画のタイトル、製作会社などの固有名詞を日本語で表記するのと、外国語でそのまま表記するのとどちらがより望ましいのでしょうか?

英語版Wikipediaで採用されている書式をそのまま採用すれば編集する側としては楽なのですが、閲覧者の利便性を考えると悩んでしまいます。--Murmur1868 2008年12月6日 (土) 13:47 (UTC)

発言などを本文などに引用するのではなく、参照した資料として挙げる際の書式ということでよいでしょうか。日本映画学会はMLAのスタイルを使っていて、こんな感じらしいです[3]。細かいところはともかく、製作会社、作品名、監督名、メディアの種類(DVDかLDかVHSかなど)、発売元と品番あたりを書くのが好ましいと思います。インタビューあるいはディレクターズカットなど特典映像について触れる場合や、一部カットされて流通していたり、リプリント版が作られることなどもありますから、品番まで含めたほうがよいと思います。海外で販売されているものについては、そこに書いてあるとおり、訳さずに書くのが好ましいと思います(本文中でインタビューの発言などを引用する場合は翻訳してください)。「執筆者が観た物」が何かがわかるように書くことを優先させてください。--Ks aka 98 2008年12月6日 (土) 19:28 (UTC)
素早い回答、ありがとうございます、そしてお礼を言うのが遅れてごめんなさい。MLAスタイルなら普段から慣れ親しんでいるので何とかなりそうです。「執筆者が観たものが何かわかるように書く」、記事を調べ物の参考にする閲覧者の利便性を考えたら、確かにそれが最も大事なことですね。目から鱗が落ちた気分です。--Murmur1868 2008年12月7日 (日) 12:25 (UTC)