Camp Sendai

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Camp Sendai(キャンプ・センダイ)

  • キャンプ・センダイ第二次世界大戦後の占領期進駐軍が駐留した、宮城県仙台市内の兵営地の1つ(日本語通称仙台キャンプ、または、川内(かわうち)キャンプ)。大日本帝国陸軍第2師団衛戍地である旧仙台城二の丸およびその周辺地区を受け継ぐ形で設置された。現在は東北大学川内キャンパスなどになっている。
  • Camp Sendai(キャンプ仙台)とは、戦後、仙台市川内地区で占領政策に携わった、米軍の駐屯していた場所の地名である。キャンプの中で特に大きな土地面積を占有していたのは、米軍家族用の為の住宅地であつた。ここに第9軍団司令部(IX Corps)が置かれ、それを支援する為の各種小部隊の兵舎が、整然と基地の中に立ち並んでいた。主な関連部隊は、施設補修管理隊、第8047通信大隊仙台分遣隊(福島の霊山頂上に無線中継所を設地)、第547軍事郵便局、極東ネツトウーク仙台ラジオ局、MP、WAC(女性分遣隊の主な業務はタイプ、事務関係など小隊規模の兵力)、軍用車輛の配車と車のメンテナンスを司る第8012統合モータープールなどで構成されていた。モータープールからは、仙台市や郊外に点在する軍施設を巡回するためのシャトルバスが運行されていた。ルートは、Camp Sendai,The 172nd station Hospital, Camp Fowler,Camp Shimmelphenning 多賀城、松島飛行場(現航空自衛隊基地)まで運行し、そこから同じルートを折り返した。キャンプ施設の中には、家族の生活を本国と同じように維持させるためのPX,カミソリ(食料品販売)小学校、教会、グエストハウス、体育館、バンク オブ アメリカなどがあった。第9軍団米軍司令官は、旧日本陸軍第2師団長の邸宅を宿泊地として利用していた。このキャンプで勤務する日本人従業員は、警備員、 メイド、店員、ルームボーイ、運転手、車両修理工、大工、通訳、ボイラーマン、消防手などであつた。下士官クラブや市内に将校クラブもあり、軍施設内で支払いのために使用された通貨は、すべて軍票によってなされた。松島駅近くの海岸には、一見日本の三重塔を連想させる様な、米軍の素敵なリゾートホテルが建っていた。1950年になると、朝鮮戦争が始まり、多くの人員が隊から引き抜かれて戦場に向かつた。このキャンプ センダイで軍務に服していた米兵と日本人従業員との人間関係は、どのようであつたかを述べてみよう。軍用車を多数保有したモータープールに所属し、ここで車輛運転に従事していた日本人ドライバーは、配車された先との人間関係が非常に良好であつた。その良好な関係を証明する為の、2点ほどのエピソードを述べてみよう。夜の24時から放送された週一度のポピラーソング リクエスト アワーを迎えると、FENセンダイラジオ局の知り合いのGIを通して、当時一番人気のあつたパテイ へージの歌う、テネシイワルツをリクエストしたものだ。これに快く答えるように、第8012モータープール ボーイズからの依頼によるテネシイワルツを放送いたしますと、電波を通して流してくれた。又、体調が悪かつたり、風邪をひいたりした時、薬局に勤務のGIに頼んで薬を調合してもらったりと、いろいろとお世話になった。 キャンプ センダイは、小高い山の中腹に位置し、その先に亀岡地区の住民が住んでいる。ここに住んでいる人々にとりキャンプ センダイの中を通る道は、生活の道であり、ここを通行しないと広瀬川の対岸から大きく迂回をして、上流の橋から亀岡に入ることになり、大変不便をともなう。そのために、この地区に住む人の便宜を図り、キャンプを通行できる通行許可証が発行された。キャンプ内の小道で道草を食いながら歩いているランドセル姿の小学生を時々見ることができた。兵舎が立ち並ぶ中の不自然な光景でも、地域住民にとり有難い配慮であつた。キャンプ センダイとはどのような所であったかを知る為の一番推薦できる手掛かりは、Abraham LincolnがAPO547や副官の下で軍務についた頃に写した、伍長と軍曹時代の写真集である。 数年前に彼にメールで確認したところ、写真に出てくる彼の上官であったKnox大佐やZimmerman中尉は,すでにこの世を去っている。又、彼が写した写真集の展示を、仙台市役所でやってもらったことも聞いている。久しく彼の消息が不明なので、彼が最後に居住したと思われるオハイオ州 Brookvilleの死亡記事を調べてみると、Abraham Lincoln, 86歳、 Brookvilleの居住地で、2020年12月29日に死亡、と出ていた。彼が撮影した米軍占領時代の基地の様子や、任務状態など、当時の様子を深く知ることが出来る貴重な記録を、彼が後世に残してくれた。 2022年現在、90歳を迎えた同年代の私も、学生時代に、このキャンプでアルバイトをしながら学費を稼いだことがある。
  • 仙台市苦竹に位置するCamp Shimmelphenningは、キャンプ シモ又は苦竹キャンプとも呼ばれていた。フイリピンのレイテ島で日本軍との交戦に巻き込まれて戦死した、ドイツ系大佐の名前を取り、このキャンプは命名された。 終戦になると、レイテ島から第11空挺師団第187と第188パラシュート歩兵連隊(The 11th Airborne Division,187th and 188th Parachute Infantory Regiment)が苦竹キャンプに進駐してきた。東北地方の各都市や軍需施設には、大隊規模の兵力が進駐した。第187パラシュート歩兵連隊の一部であった第711弾薬大隊は、宮城県船岡町の旧第1海軍火薬製造所跡に駐屯した。お蔭で片田舎町に急行列車が停車するようになった。 苦竹キャンプの奥の裏門からバリケードフェンスに沿って簡単な飛行場のランウエイがあり、単発の連絡機が常に離着陸していた。矢野目飛行場(現仙台空港)上空からのパラシュート降下訓練も、キャンプから遠望することができた。世界のジャズ界を風靡した、ルイ アームストロングが、米兵と家族慰安の為に、このキャンプを訪れて、人気の歌や演奏を披露したこともあった。宮城県出身の歌手で、まだ無名時代のフランク永井が、ここで軍用トラツクの運転手をしていたことがある。 朝鮮戦争が始まると、第187パラシュート歩兵連隊は、関連大隊と共に戦場に移動していった。移動した連隊の代わりとして、カリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州で組織された州兵が苦竹キャンプに駐屯して来た。 これらの部隊は、第40歩兵師団と改名された。しかし、この師団はこの地域に、9ヶ月間の短い期間の滞在で、1950年1月に、朝鮮戦争に参戦の為、移動させられていった。 1951年、第9軍団、第1騎兵師団は、韓国から帰国し、北海道に駐屯した。1954年、第9軍団は師団司令部と共に 仙台に移動した。
  • 米軍の施設が仙台市内にも点在していた。通信隊の基地 Camp Fowlerが榴岡にあり、ここより程遠くない距離に、第172 病院があった。現在、かんぽ生命仙台サービスセンターとして使用されているビルが、第172ステーシヨン病院として米軍が使用していたのと同じ建物である。通常のべツト数は、250であつたが、朝鮮戦争が始まると、ベツト数は倍以上に増加された。GIの友人を見舞い にこの病院を訪れて驚かされたことがある。それは、大尉の肩章を付けた看護婦が、現場で働いているのを見た時である。なぜならば、将校の位の看護婦を、いまだ日本の軍隊で見たことが無かつたからである。この病院で火事が発生し、一部が焼失し、数人の犠牲者が出たこともある。アメリカ文化センターは公共の図書館で、館内には、英語の蔵書や雑誌が置かれていて、日本人も自由に利用できた。それ以外に軍政府、将校クラブ、消防署、RTO(Railway Transportation Office)などの施設が市内に整っていた。
  • Camp Sendai is the name of the place where the US military force was stationed in the Kawauchi district of Sendai City in September 1945. The IX Corps headquarters was located here. To support this headquarters, there were the Repair and Maintenance Units, the 8047th Signal Battalion, Sendai Detachment (a radio relay station was operated at the top of the Mountain Ryozen, Fukushima Prefecture),  APO547,Far East Netwok Sendai Radio Station, MP, WAC’S, Intelligence, Liaison and the 8012th Consolidated Motor Pool, which controls the dispatch of military vehicles and the maintenance of vehicles. From the motor pool, a shuttle bus was operated to the military facilities in Sendai City and the suburbs. The route operated to Camp Sendai, the 172nd Station Hospital, Camp Fowler, Camp Simmelphenning Tagajo, Matsushima Airfield (currently the Air Self-Defense Force Base), and then returned the same route. Among the Camp Sendai facilities including independent housing for the family, there were PX, Eelementary School, Church, Guest House, Gymnasium, Bank of America, etc. to maintain the life of the family as in the home country. The commander  of the IX Corps used the mansion of the 2nd Division Commander of the Imperial Japanese Army as a lodging place.  In 1950, the Korean War began, and many military personnel were withdrawn from the Camp Sendai and headed for the battlefield.
  • There was the 172nd Station Hospital in the Sendai City.The building currently used as the Japan Post Insurance Sendai Service Center is the same building that the US Military used as the 172nd Station Hospital.The usual number of bets was 250, but with the start of the Korea War, the number of the bets was more than doubled.
  • Camp Shimmelphenning located in Negatake, Sendai, was also known as Camp Shimo or Negatake Camp. The Camp Shimmelphenning was named after a colonel who died in a battle with Japanese troops on Leyte Island in the Philippines. At the end of the war, the 11th Airborne Division 187th and 188th Parachute Infantry Regiment were stationed at the Camp Shimmelphenning . Same time, the related battalion moved to the main cities and munitions factories in the northern parts of Japan to carry out occupation missions. The 711th Ordinance Battalion which was part of the187th Parachute Infantry Regiment was stationed at the site of The First Navy Gun Powder Manufacturing Depot at Funaoka Town, Miyagi Prefecture. In the Camp Shimmelphennig, there was a simple airfield runway along the barricade fence from the back gate and a single liaison plane was always taking off and landing.The parachute descent training from the sky above Yanome Airport (currently Sendai Airport) was also could see it from the Camp Shimmelphenning. Louis Armstrong who dominated the world of jazz, visited Camp Shimmelphenning for the entertainment of soldiers and their family. The 187th Parachute Infantry Regiment moved to the battlefield with the relevant battalions. National Guard organized in California, Nevada, and Utah were stationed as a replacement. These units were renamed the 40th Infantry Division. The 40th Infantry division also moved to Korea after short stay of nine months in the area. In 1951, the IX Corps and the 1st Cavalry Division returned from South Korea and were stationed in Hokkaido. In 1954, the IX Corps Headquarters with Division Command moved to Sendai.
  • 仙台駐屯地 … 宮城県仙台市宮城野区にある陸上自衛隊駐屯地で、東北方面総監部が置かれている。戦中の東京第一陸軍造兵廠仙台製造所の跡が占領期に進駐軍のキャンプ・シンメルフェニヒ(日本語通称:苦竹キャンプ)となり、1960年昭和35年)から陸上自衛隊の駐屯地となった。
  • 川内駐屯地鹿児島県薩摩川内市にある陸上自衛隊の駐屯地で、第8施設大隊などが駐屯する。