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このウィキでページ「ありし日のナポレオン」は見つかりませんでした。以下の検索結果も参照してください。
- ナポレオン・ボナパルト(フランス語: Napoléon Bonaparte、別名(1794年以前): ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ、Napoleone di Buonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)は、フランス革命期の軍人、革命家で、フランス第一帝政の皇帝に即位してナポレオン1世(フランス語:…120キロバイト (14,402 語) - 2024年5月24日 (金) 10:51
- Bonaparte)であり、皇帝に即位して「ナポレオン3世」を名乗る前は一般にルイ・ナポレオンと呼ばれていた。本項でもそのように記述する。 フランス皇帝ナポレオン1世の甥にあたり、1815年のナポレオン失脚後、国外亡命生活と武装蜂起失敗による獄中生活を送ったが、1848年の…274キロバイト (34,270 語) - 2024年3月30日 (土) 06:06
- ナポレオン戦争はフランス革命戦争後の混乱期に始まった。フランス軍を率いたナポレオンは一時期ヨーロッパの大半を征服したが、スペイン独立戦争とロシア遠征で敗退し、ワーテルローの戦いにおいて決定的敗北を喫した。1815年11月20日の第二次パリ条約の締結をもって戦争は終結し、ナポレオンは失脚した。…58キロバイト (6,902 語) - 2024年6月2日 (日) 15:56
- )のエージェント、ナポレオン・ソロとイリヤ・ニコヴィッチ・クリヤキンの活躍を描く。当初はさまざまな敵を相手に活動していたが、途中から国際犯罪組織スラッシュ(THRUSH)が登場し、もっぱらその組織と戦う回がメインとなっていった。また、初めはハードだった作風も、次第にコミカルなタッチへと変貌し…39キロバイト (2,742 語) - 2024年1月21日 (日) 10:45
- 1812年ロシア戦役 (ナポレオンのロシア遠征からのリダイレクト)のナポレオン1世がロシアに侵攻し、敗北、退却するまでの一連の歴史的事件のことである。ロシア語の呼称については下記参照。 1812年のナポレオン1世によるロシア帝国への侵攻はナポレオン戦争の転換点となった。この遠征はフランス帝国とその同盟軍からなる侵攻軍を当初の…31キロバイト (3,603 語) - 2024年2月8日 (木) 08:04
- の王国は共に「シチリア王国」を公称していたが、この時にナポリ王国が成立したと見ることができる。 トラスタマラ家のアラゴン王アルフォンソ5世はシチリア王を兼ねていたが、内紛続きのナポリ王国を征服して、1443年にナポリ入りし、2つの「シチリア王国」の…28キロバイト (2,771 語) - 2024年3月21日 (木) 03:27
- ナポレオン・フランソワ母子は、1814年3月29日、パリのテュイルリー宮殿を脱出し、ランブイエ城(英語版)、シャルトル、シャトーダンを経てブロワに逃れた。マリー・ルイーゼはナポレオン1世に合流するつもりであったが、当のナポレオンからは父フランツ1世帝を頼るよう指示があった。 ナポレオン…49キロバイト (5,999 語) - 2024年6月3日 (月) 12:28
- フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル (カテゴリ レジオンドヌール勲章受章者)1755年10月25日 - 1820年9月14日)は、ナポレオン戦争で活躍したフランスの軍人、帝国元帥。 オー=ラン県ルーファで生れる。父親は軽騎兵連隊に所属する平民の軍人。18歳の時にフランス近衛兵連隊に入隊する。フランス革命が勃発すると共和派であったので士官である貴族が亡命して居なくなった軍隊で昇進し…5キロバイト (497 語) - 2023年5月29日 (月) 15:22
- の終わりと同時に物語はナポレオンの誕生直前にまで遡り、以後はブリュメールのクーデターに至るまでのナポレオンの生涯に沿った物語を描いた。話の都合上、フランス革命の展開もじっくりと描き込まれている。 2011年連載分、単行本16冊目から、『ナポレオン -覇道進撃-』(ナポレオン…126キロバイト (19,560 語) - 2024年5月28日 (火) 11:33
- フランス第二帝政 (カテゴリ ナポレオン3世)1848年の二月革命の後、11月4日の大統領選挙で、ルイ=ナポレオンがナポレオン1世の甥という出自を生かし、労働者や農民の幅広い支持を得て当選した。1852年、国民投票でルイ=ナポレオンの皇帝即位が可決される。同年12月2日、皇帝ナポレオン3世が即位し、第二帝政の始まりとなった。 ナポレオン…11キロバイト (1,196 語) - 2024年1月4日 (木) 12:15
- 『栄光のナポレオン-エロイカ』(えいこうのナポレオン エロイカ)は、池田理代子作の長編漫画作品。ナポレオン・ボナパルトの台頭からその死までを描く。 作者によれば、『ベルサイユのばら』の連載終了後に『ナポレオン』を執筆する予定だったが、当時の作者にはナポレオンの生涯を描ききるだけの…49キロバイト (7,674 語) - 2023年3月22日 (水) 07:53
- ブリュメール18日のクーデター(ブリュメール18にちのクーデター、フランス語: 18 Brumaire)は、1799年11月9日(共和暦8年ブリュメール(霧月)18日)、ナポレオン・ボナパルトらが総裁政府を打倒した軍事クーデターのこと。総裁政府を打倒したクーデター派は統領政府を樹立、ナポレオンが第1コンスルとなった。…4キロバイト (345 語) - 2023年11月26日 (日) 13:50
- 大陸軍 (フランス) (ナポレオン軍からのリダイレクト)The Great Army)あるいは大陸連合は、1805年にナポレオン1世が命名したフランス軍を中核とする軍隊の名称である。最初に歴史的な記録に現れるのは、イギリス侵攻のためにイギリス海峡に面する海岸に軍隊を集結させた時であり、これを東方のオーストリアおよびロシアに対する作戦行動を始めるように配置転…126キロバイト (21,231 語) - 2024年4月13日 (土) 11:47
- ルパン三世 ナポレオンの辞書を奪え トムス・エンタテインメントの作品一覧 > ルパン三世 ナポレオンの辞書を奪え 金曜ロードショー > ルパン三世 ナポレオンの辞書を奪え 『ルパン三世 ナポレオンの辞書を奪え』(ルパンさんせい ナポレオンのじしょをうばえ)は、モンキー・パンチ原作のアニメ『ルパン三世』の…17キロバイト (2,423 語) - 2024年6月4日 (火) 07:31
- フランスはナポレオン時代以後に政体が幾度か変化し、そのつど章飾の意匠が変更されるなどしたものの、レジオンドヌール勲章は運用が続けられ、第五共和政下の現在でも同国の最高位勲章に位置付けられている。 ordre(オルドル)とは騎士団のことであり、これを基にしたヨーロッパ独特の栄典制度を指す。叙勲はオルドルへの…56キロバイト (6,386 語) - 2024年5月8日 (水) 06:07
- イタリア王国 (1805年-1814年) (ナポレオンのイタリア王国からのリダイレクト)の死など、4月20日のミラノの無秩序の後、ボアルネはやはり住民の支持がないことを知った。人々は実際、それをフランスへの憎しみと同一視していた。ボアルネは4月26日に副王位を辞し、翌日に妻の故郷バイエルン王国に亡命してイタリアを後にした。ナポレオンのイタリア王国はこのような終焉となった。 ナポレオン・ボナパルト…6キロバイト (459 語) - 2023年11月7日 (火) 02:31
- ナポレオン(napoleon)はトランプを用いて行うトリックテイキングゲームの一つ。名前と内容はイギリスのナポレオン(ナップ)に由来するが、日本で独自に発展したものである。 トリックテイキングゲームの一つであるポイントトリックゲームに属する。 日本のナポレオンには数多くのローカルルールがあり…34キロバイト (5,182 語) - 2024年4月9日 (火) 11:29
- ウィキメディア・コモンズには、ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルトに関連するカテゴリがあります。 ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(フランス語: Napoléon Eugène Louis Bonaparte, 1856年3月16日 - 1879年6月1日)は、フランス第二帝政時代の皇太子。1870年9月2日…7キロバイト (535 語) - 2024年6月1日 (土) 02:38
- 『ナポレオン』(なぽれおん) 作者:中島敦 底本:1994年7月18日岩波書店発行『山月記・李陵 他九篇 中島敦作』 「ナポレオンを召捕りに行くのですよ」と若い警官が私に言った。パラオ南方離島通いの小汽船、国光丸の甲板の上である。 「ナポレオン?」 「ええ、ナポレオンですよ」と若い警察官は私の
- ナポレオン戦争はフランス革命後のナポレオン台頭のころから始まり、1815年のワーテルローの戦いで終結した戦争。ヨーロッパの主要国がほとんど参戦し、フランス革命の理念を世界各国へ輸出した。 1796年の第一次イタリア戦役から始まったと考える研究者は少ないが、ここではそこから扱う。
- の避難所」などがある。ナポレオンが日常よく口にした言葉で、一般には「余の辞書に不可能の文字はない」として知られる。「不可能と言う文字は愚か者の辞書にのみ存在する」という言葉が変わって伝わったという説もある。 天才とは、彼らの世紀を照らして光輝くべく運命づけられた流星である。
- 1916年、穂積陳重「法窓夜話」 第十九世紀の初めにおいて、ドイツ諸国はナポレオンの馬蹄に蹂躙せられて、殆んどその独立を失おうとするに至ったが、この時局に慨して、当時ドイツの学者政治家の間には、ドイツの復興策として盛んに民族統一(Volkseinheit)の必要を唱導する者が多かったのである。 1923年、豊島与志雄「電車停留場」