1958年レバノン大統領選挙

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1958年レバノン大統領選挙
レバノン
1952年 ←
1958年7月31日
→ 1964年

 
候補者 フアード・シハーブ レイモンド・エッデRaymond Eddé
政党 無所属 ナショナル・ブロックLebanese National Bloc
獲得選挙人 48 7
得票率 87.27% 12.73%

選挙前大統領

カミール・シャムーン
Constitutional Bloc

選出大統領

フアード・シハーブ
無所属

本項では、1958年に一連のレバノン紛争1958 Lebanon crisis)を受け行われたレバノン国民議会での大統領選出の間接選挙について概説する。レバノン議会は1958年7月31日カミール・シャムーンの後任として、軍司令官フアード・シハーブを次期大統領に選出し、2回目の投票で48対7の賛成票を得て当選、レイモンド・エッデRaymond Eddé)を破った[1][2]

背景[編集]

レバノン第2代大統領カミール・シャムーンの任期は1958年9月24日に満了となることになっていた。シャムーンは、大統領選に再出馬することを表明したが、レバノン憲法でこれは認められていなかった。同じ頃、シャムーン政権に批判的だった『アル・テレグラフAl Telegraf)』編集長のナシブ・メトニNasib Al Matni)が殺害されると、マロン派キリスト教徒(Lebanese Maronite Christiansも参照)とアラブ系イスラム教徒Arab Muslims)の緊張が高まりを見せる[3][4]。1958年5月10日には、武力反乱が始まり[5]アラブ連合共和国(UAR)がすぐにこの地域に干渉、その指導者であるガマール・アブドゥル=ナーセルは公にアラブの団結を呼びかけた。レバノンを含む諸国は、宗派間の対立を激化させたナーセルの行動を非難し、レバノン政府は同年5月22日国連安全保障理事会にUARの内政干渉を公式に提訴した[3]。同年6月11日にはこれを受けて理事会で国際連合安全保障理事会決議第128号が採択されることとなった[6]

決議では「レバノン国境を越えた人員の不法侵入や武器その他の物資の供給がないことを確認するため」レバノンにグループ(国際連合レバノン監視団)を派遣することを勧告した。ラッソ・ガロ・プラザ(Lasso Galo Plaza)、ラジェシュワール・ダヤル(Rajeshwar Dayal)、オッド・ブル(Odd Bull)による「3人組(Group of Three)」とダグ・ハマーショルド事務総長休戦監視機構のメンバーがすぐにレバノンに派遣されたが、この監視団の派遣には効果がないと批判され、同年7月15日、米国第6艦隊の支援を受けたアメリカ海兵隊がレバノンに派遣された。その2日後、イギリス軍も当該地域に到着した[3]。31日に行われた選挙までに、レバノンには1万人のアメリカ軍が駐留していた[5]

選挙[編集]

大統領に当選したシハーブ、1961年に撮影のもの。

レバノン大統領は、レバノン議会によって選出される[5]。今回の選挙では、議会が西側諸国とシャムーン支持派、ナーセルとアラブ連合共和国支持派に分かれた。シハーブは折衷的な候補として見られていた。なんとなれば、「広く受け入れられる見込みのある候補は彼しかいないことが明らかになるまで、大統領職には興味を示さなかった」のである[7]。このためシハーブは選挙の僅か3日前にあたる7月28日になってようやく指名を承諾した[5]

選挙は7月31日に行われ、国民議会の議員たちは、軍司令官フアード・シハーブとナショナル・ブロック代表レイモンド・エッデの二人の候補者の間で投票を行った。投票は午前11時34分に始まり3分の2の44票を獲得すれば当選となるところ、エディが10票、シハーブが43票を獲得した。2回目の投票では、多数代表制で決められたが、48対7(棄権1)でシハーブ氏が当選した。国会議員には66人の議員がいたが、レバノンの首相で、レバノンが平和になるまで選挙を行うべきではないと考えていたサーミー・アッ=スルフSami Solh)をはじめ、10人は投票に参加しなかった[5]

エッデは選挙結果の発表を受け、敗北を認めた[5]8月4日、シハーブはレバノンの統一と安定のために努める旨を発表し、その目的の第一は「外国軍の撤退」であると述べた[8]。シハーブは任期6年で当選し、9月23日に就任した(在任: - 1964年9月22日)。首都のベイルートでは、午前10時58分のシハーブの宣誓を受け、多数の軍隊が巡回し、23日中はずっと封鎖状態になった[7][9]

その後[編集]

この後、国連安保理ではレバノン紛争に関する会合(第834回および第837回会合)が引き続きなされたものの、合意に至ることが出来ず、8月7日に史上3回目となる国際連合緊急特別総会の翌日からの開催を決定する安保理決議第129号が採択されている[10]

脚注[編集]

  1. ^ S., K. (September 1958). “The Lebanese Crisis in Perspective”. The World Today 14 (9): 369–380. ISSN 0043-9134. JSTOR 40393919. 
  2. ^ “Lebanese Want Chehab To Stay”. The New York Times: p. 12. (1964年7月12日). ISSN 0362-4331. オリジナルの2020年11月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201130234524/https://www.nytimes.com/1964/07/12/archives/lebanese-want-chehab-to-stay-ask-presidents-reelection-despite-a.html 2020年11月23日閲覧。 
  3. ^ a b c Kona Nayudu, Swapna (3 April 2018). “'In the very eye of the storm': India, the UN, and the Lebanon crisis of 1958”. Cold War History 18 (2): 221–237. doi:10.1080/14682745.2018.1445997. ISSN 1468-2745. 
  4. ^ Hasou, Tawfig Y. (2018) [1985]. “Lebanon: 1958”. The Struggle For The Arab World. Routledge. doi:10.4324/9781315829074. ISBN 978-0-7103-0080-5. LCCN 86-138622. https://books.google.com/books?id=4PODDwAAQBAJ&dq=lebanon+Al+Telegraf&pg=PT147 
  5. ^ a b c d e f Brewer, Sam Pope (1958年8月1日). “Lebanon Elects a New President”. The New York Times: p. 1. ISSN 0362-4331. https://www.nytimes.com/1958/08/01/archives/lebanon-elects-a-new-president-chehab-is-chosen-parliaments-2d-vote.html 2020年11月23日閲覧。 
  6. ^ S/RES/128(1958)”. undocs.org. 2022年6月27日閲覧。
  7. ^ a b Brewer, Sam Pope (1958年9月24日). “Cehab Assumes Office in Beirut”. The New York Times: p. 1. ISSN 0362-4331. https://www.nytimes.com/1958/09/24/archives/chehab-assumes-office-in-beirut-new-president-promises-to-work-for.html 2020年12月12日閲覧。 
  8. ^ Brewer, Sam Pope (1958年8月5日). “Lebanese Unity Urged By Chehab”. The New York Times: p. 1. ISSN 0362-4331. https://www.nytimes.com/1958/08/05/archives/lebanese-unity-urged-by-chehab-presidentelect-says-exit-of-foreign.html 2020年11月23日閲覧。 
  9. ^ Salibi, Kamal (April 1966). “Lebanon under Fuad Chehab 1958-1964”. Middle Eastern Studies 2 (3): 211–226. doi:10.1080/00263206608700045. ISSN 0026-3206. JSTOR 4282160. 
  10. ^ S/RES/129(1958)”. undocs.org. 2022年6月28日閲覧。

関連項目[編集]