辛棄疾

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辛棄疾(しんきしつ、1140年天眷3年・南宋紹興10年) — 1207年開禧4年))は政治家・人。は幼安、稼軒(かけん)、歴城(現在の山東省済南市)の人。

金での出生[編集]

金朝の亳州譙県(現在の安徽省亳州市)の県令を祖父に持つ家庭に生まれる。若くして金の科挙に参加するが及第せず、1161年、22歳の時に海陵王の南宋への侵攻が失敗し金の領内が混乱状態に陥ると2000余人の民衆を率いて金への叛乱を起こし、まもなく農民反乱軍の耿京の元に身を寄せ書記となった。1162年、南宋に使者として派遣されている間に耿京が部下の張安国に殺害される事件が発生すると、僅か50名の部下を率いて張安国の軍営に侵入し張安国を捕らえ、張軍数万を引き連れて南宋に投降した。

南宋時代[編集]

南宋では右承務郎・江陰軍簽判に任ぜられたのを皮切りに建康通判、知滁州、提点江西刑獄、湖北転運副使、湖南安撫使、江西安撫使などの要職を務め、地方官として在任中は富国強兵を推進し金征伐の準備をすすめた。しかしこの積極的な政策が朝廷内部の不満を引き起こし官を罷免され、20年にわたり信州上饒(現在の江西省上饒市)で隠棲生活を強いられた。晩年に韓侂胄に起用されるが、これも間もなく罷免され、1207年に死去した。

文人として[編集]

政治家としては大成しなかった辛棄疾であるが、文人としては名声を博し、金に対抗し宋による故地回復を願った文章を数多く残している。また様々な題材での・漢詩も残しており『稼軒集』などが現在に伝わっている。北宋蘇軾と並び「蘇辛」と称されることもある。検索エンジン「百度」の社名は、彼の作品『青玉案』に由来。