薛タラカイ

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薛 タラカイ(せつ タラカイ)は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。最初期にモンゴル帝国に投降した漢人武将の一人で、砲兵部隊の指揮官としてチンギス・カンの遠征に従ったことで知られる。

概要[編集]

薛タラカイは大興府出身の人物で、末期の金朝統治下で生まれ育った。金朝への侵攻を開始したチンギス・カンが1213年癸酉)に居庸関を突破すると[1]、薛タラカイは300人余りの部下を率いて投降し、「砲水手元帥」に任じられた。

モンゴル軍の中では希少な砲兵の指揮官となった薛タラカイは各地の戦場で軍功を挙げ、「金紫光禄大夫」とされ、「砲水手軍民諸色人匠都元帥」に昇格となった。チンギス・カンは金朝遠征が一段落すると今度は西方ホラズム・シャー朝への遠征を計画し、薛タラカイもこれに従軍することになった。薛タラカイはホラズム(回回)・タングート/西夏国(河西)・キプチャク(欽察)・ウイグル(畏吾児)・カンクリ(康里)・カラ・キタイ/西遼国(乃蛮)[2]諸国の攻略に功績を残した[3]

チンギス・カンの没後、オゴデイが第2代皇帝として跡を継ぐと、今度は第二次金朝遠征に従軍した。1231年、薛タラカイはチンギス・カンの末子のトルイ率いる右翼軍に属して洛陽から黄河を渡り、隴西地方に進出した。薛タラカイ属するトルイ軍は金州商州といった諸城を攻略し、三峰山の戦いでは金軍主力を打ち破る功績を挙げた。1232年には遂に金朝首都を陥落させ、その後も唐州鄧州鈞州許州を平定していたが、同年4月に陣没した[4]

薛タラカイには奪失剌という息子がおり、父の地位を継いで南宋攻略に功績を挙げている[5]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』の列伝で巻151薛塔剌海伝では1214年(甲戌)のこととするが、居庸関(北口)の陥落は『元史』巻1太祖本紀によると1213年のことであり、太祖本紀に従うのが正しいと考えられている(池内1981,14頁)。
  2. ^ 「乃蛮」は通常はナイマン国を指すが、ここではナイマンの王子クチュルクによって簒奪された西遼国を指す(池内1981,14頁)。
  3. ^ 『元史』巻151列伝38薛塔剌海伝,「薛塔剌海、燕人也、剛勇有志。歳甲戌、太祖引兵至北口、塔剌海帥所部三百餘人来帰、帝命佩金符、為砲水手元帥、屡有功、進金紫光禄大夫、佩虎符、為砲水手軍民諸色人匠都元帥、便宜行事。従征回回・河西・欽察・畏吾児・康里・乃蛮・阿魯虎・忽纏・帖里麻・賽蘭諸国、倶以砲立功」
  4. ^ 『元史』巻151列伝38薛塔剌海伝,「太宗三年、睿宗引兵自洛陽渡河、塔剌海由隴右假道金・商、遂会師于鈞州三峰山、敗金師。四年、破南京及唐・鄧・鈞・許諸州、取鄢陵・扶溝。四月卒」
  5. ^ 『元史』巻151列伝38薛塔剌海伝,「子奪失剌、襲為都元帥、南攻江淮、有功。歳庚戌、卒。弟軍勝襲、憲宗八年、従世祖攻釣魚山・苦竹崖・大良平・青居山、破重慶・馬湖・天水、賜以白金・鞍馬等物。中統三年、李璮叛済南、又以砲破其城。至元五年、従囲襄陽。三月卒。丞相阿朮欲以千戸劉添喜摂帥府事、子四家奴、年方十六、請従軍自效、帝壮而許之。八年、始襲父爵。十年冬十二月、襄・樊未下、四家奴立砲攻之、明年正月、襄陽守呂文煥降。継従丞相伯顔南伐、十月、至郢州、先登。師既渡江、四家奴自鄭州下沿海諸城堡、至建康。十二年、授武節将軍。六月、与宋将夏貴戦于峪渓口、奪其船二百餘艘。十一月、屠常州。十二月、取蘇州。十三年、攻鎮巣。七月、囲揚州、守臣李庭芝棄城走、追獲之。九月、進階懐遠将軍、将兵平浙東諸郡。従征福建灤江、与宋兵力戦、破之、獲戦艦千餘艘。十六年、進階鎮国将軍、鎮揚州。二十二年、改為万戸」

参考文献[編集]

  • 井ノ崎隆興「蒙古朝治下における漢人世侯 : 河朔地区と山東地区の二つの型」『史林』37号、1954年
  • 愛宕松男『東洋史学論集 4巻』三一書房、1988年
  • 池内功「モンゴルの金国経略と漢人世候の成立-2-」『四国学院大学論集』46、1980年
  • 『元史』巻151列伝38薛塔剌海伝