章宗 (金)
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| 章宗 完顔麻達葛 | |
|---|---|
| 金 | |
| 第6代皇帝 | |
| 王朝 | 金 |
| 在位期間 | 1189年1月20日 - 1208年12月29日 |
| 姓・諱 | 完顔麻達葛 王璟(漢名) |
| 諡号 | 憲天光運仁文義武神聖英孝皇帝 |
| 廟号 | 章宗 |
| 生年 | 大定8年7月27日 (1168年8月31日) |
| 没年 | 泰和9年(1208年)12月29日 |
| 父 | 完顔胡土瓦 |
| 母 | 孝懿皇后 |
| 皇后 | 欽懐皇后 |
| 陵墓 | 道陵 |
| 年号 | 明昌 : 1190年 - 1196年 承安 : 1196年 - 1200年 泰和 : 1200年 - 1208年 |
目次 |
[編集] 生涯
大定8年(1168年)、世宗の嫡男でその皇太子であった胡土瓦の子として生まれる。胡土瓦は本来なら皇帝となるはずだったが早世したため、孫に当たる麻達葛が祖父から指名されて皇太孫となった。大定29年(1189年)、祖父の死後に皇位を継いで明昌の治と称される政治を行なった。礼制や法典・格式をはじめとして科挙、官制などの体制整備や常平倉の設置など積極的な行政改革を行った。これによって金は中国王朝としての姿を完成させることになった。また、その治世において、金の文化は最高潮に達したといわれる。章宗自身も文人との親交を楽しみ、詩文、書画に凝った。北宋の徽宗の書「痩金体」を模倣した書を多く遺している。ただし、これらにより国内には華美な風潮が広まって財政を逼迫させた。
章宗の治世は金の衰退が兆した時代でもあった。周辺の属国の離反が起こるだけではなく、隣国の侵攻を受けることになった。殊にモンゴルが勃興したことは、金の将来に決定的な意味を持つ出来事であった。ただし、章宗時代における敵の侵攻は全て撃退している。
また、父親譲りの温厚な人柄として知られる一方で、伯父の并王永中とは仲が険悪だったために、明昌5年(1194年)に并王が謀反を起こしたという口実をもって永中とその子の神徒門・阿離哈懣(章宗の従兄)兄弟を逮捕して、投獄した。やがて信頼する叔父の衛王果縄の諫言にも耳を傾けず、并王一家を処刑して晒しものにしたという。
泰和9年(1208年)に崩御、享年41。6人の皇子が夭折していたために世子がなく、仲が良く同年代だった叔父の果縄が皇位を継いだ。
[編集] 宗室
[編集] 妻妾
- 欽懐皇后蒲察氏
- 李元妃
- 資明夫人林氏
- 其他姫妾
- 承御賈氏
- 承御范氏
[編集] 子
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