移剌買奴

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移剌 買奴(いらつ マイヌ、1196年 - 1235年)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。

概要[編集]

買奴は早くから父の移剌捏児に従ってモンゴルの征服戦争に参加しており、 初めてチンギス・カンに満見した際に「汝は年少であるが、父の爵位を継ぐことはできるか?」と問いかけられたところ、「臣はたしかに年少でありますが、国法は些少ではありません」と答えた。これを聞いたチンギス・カンは「この子はまさに移剌捏児の息子である」と述べ、高州等処ダルガチ兼征行万戸に任じたという[1][2]

1230年庚寅)には高麗の花涼城攻めに加わり、監軍の張翼・劉覇都が敵兵を撃滅しようとした際には怒ってこれをとどめた。その後、開州に侵攻して金朝の将の金沙密を捕虜とすると城中の民は奴婢や玉器を差し出したが、買奴はこれを受け取らなかったという。その後、更に龍州・宣州・雲州・泰州等の14城を平定した[3][2]

1233年癸巳)にはアルチダイに従って東夏国の平定に従事した。その後呼び戻されると興州の趙祚と楊買驢ら叛乱を起こした者の討伐に派遣された。命を受けた買奴はアルチダイ[4]の指揮下に入ってこれを討伐し、董蛮を斬る功績を挙げた。また、楊買驢を険樹寨で包囲したが、3カ月たっても陥落させることができなかった。そこで買奴は劉五児なる人物に城塞の北から密かに城壁の上に行かせ、劉五児が垂らした縄から100人が城壁に上り、遂に城を陥落させた。城が陥落すると楊買驢は崖に身を投げ、この功績によりオゴデイ・カアンより金鞍良馬を与えられた[5]

1235年乙未)には高麗侵攻に加わって開京まで進んだが、高麗が早々に降伏すると引き返して西京(現在の平壌)に駐留した。そこで買奴は鎮国上将軍・征東大元帥の地位を受けたが、再びモンゴルから寝返った高麗討伐のために出兵しようとした。しかし、病で40歳にして亡くなった。死後は、息子の移剌元臣が後を継いだ[6][2]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻149列伝36移剌捏児伝,「買奴、蚤従父習戦陣、初入見、太祖問曰『汝年小、能襲父爵乎』。対曰『臣年雖小、国法不小』。帝異其対、顧左右曰『此児甚肖乃父』。以為高州等処達魯花赤、兼征行万戸」
  2. ^ a b c 松田1992,106頁
  3. ^ 『元史』巻149列伝36移剌捏児伝,「庚寅、命攻高麗花涼城、監軍張翼・劉覇都殞於敵、買奴怒曰『両将陥賊、義不独生』。趨出戦、破之、誅首将、撫安其民。進攻開州、州将金沙密逆戦、擒之、城中人出童男女及金玉器以献、却不受。遂下龍・宣・雲・泰等十四城」
  4. ^ 『元史』の原文では「チャガタイ(察合台)」となっているが、恐らくアルチダイの誤り(松田1992,106頁)
  5. ^ 『元史』巻149列伝36移剌捏児伝,「癸巳、従諸王按赤台征女直万奴部、有功。未幾召還。興州趙祚反、土豪楊買驢等附之。帝命従親王察合台帥師討之、斬賊将董蛮等、囲買驢於険樹寨、三月不能下。買奴令健卒劉五児、即寨北小径上大樹、以縄潜引百人登寨、直前劫之、買驢投崖死、餘党悉平。太宗即位、録功、賜金鞍良馬」
  6. ^ 『元史』巻149列伝36移剌捏児伝,「乙未、従征高麗、入王京、取其西京而還、賜金鎖甲、加鎮国上将軍・征東大元帥、佩金符。復命出師高麗、将行、以疾卒、年四十。贈推誠効義功臣・栄禄大夫・平章政事、追封興国公、諡顕懿。子元臣」

参考文献[編集]

  • 松田孝一「モンゴル帝国東部国境の探馬赤軍団」『内陸アジア史研究』第7/8合併号、1992年
  • 元史』巻149列伝36移剌捏児伝
  • 新元史』巻135列伝32移剌捏児伝
  • 蒙兀児史記』巻49列伝31移剌捏児伝