石窟庵
| 石窟庵 | |
|---|---|
| 所在地 | 慶尚北道慶州市進峴洞999 |
| 位置 | 北緯35度47分42秒 東経129度20分57秒 |
| 本尊 | 釈迦如来 |
| 創建年 | 774年 新羅(恵恭王10年) |
| 開基 | 金大城 |
| 別称 | 石窟寺 |
| 石窟庵 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| ハングル: | 석굴암 |
| 漢字: | 石窟庵 |
| 片仮名: 現地語読み |
ソックラム |
| ローマ字: | Seokguram |
石窟庵(せっくつあん、ソックラム)は、大韓民国慶尚北道慶州市にある仏教遺跡。吐含山の麓にある。 1995年に石窟庵から約4キロメートルほど離れた仏国寺とともに、『石窟庵と仏国寺』として世界遺産(文化遺産)に登録された。また韓国の国宝(第24号)にも指定されている。
目次 |
[編集] 歴史
新羅の景徳王と恵恭王の時代に新羅の宰相だった金大城(700年 - 774年)が建立した。751年(景徳王10年)に建立が開始され、774年(恵恭王10年)に完成した。金大城が自分の父母のために建立したと『三国遺事』に記述されている。(『三国遺事』巻五・孝善・大城孝二世父母 神文代])当時は石窟寺と呼ばれていたらしい。
[編集] 発見
1909年に郵便配達員が偶然発見した。郵便配達員が配達のため、吐含山の峠を越えようとしたところ、突然豪雨に見舞われ、山中の洞窟に逃げ込んだ。郵便配達員は、その洞窟の中の仏像を発見した。
韓国(大韓帝国)は1910年に消滅し、日本に併合されたが、1913年から3回にわたり、日本による大規模な修復工事が行われた。1回目の修復の時点で石窟庵は崩壊寸前、倒壊の恐れがあった。天井が抜け落ち、仏像に直接雨が当たり、まわりの仏像の配置もすでに不明で、全体の半分以上が土に埋もれていた。
最初の補修後に雨漏りが発覚し、その後の補修でコンクリートが使用された。
日本の敗戦後、再び石窟庵は放置されたが、60年代になって韓国国民のナショナリズムが高まり、今度は韓国政府による補修が行われた。仏像の配置は日本がデタラメに並べたとして、仏教の経典に照らし合わせ、独自の並べ替えを行った。しかしその補修後、発見当時の石窟庵の写真および事前調査の詳細な配置図が見つかり、日本が行った補修・配置が正しかったことが発覚した。しかし配置は今なお復元されていない。[1] 石窟の周囲には、配置する場所がわからなくなってしまった石材が放置されたままになっている。 また、かつて日本が行ったコンクリートを用いた補修により、石窟内部の通気が悪くなり、蒸気がこもるようになった。2011年現在、入り口はガラス板で覆われ、室内の湿度は常にコントロールされている。そのため一般の見学者は石窟内部に入ることができない。
[編集] 構造
本尊は、高さ3.4mの如来坐像である。如来坐像の額には、ガラスが埋め込まれている。東から昇る太陽により石窟内に日差しが入ってくると、額のガラスが光る設計になっている。
石窟は、花崗岩を組み合わせて人工的に作られている。内部構造は、入り口から前室・扉道・主室の3つに分かれている。前室は本尊が東の方向を向くように設計されている。(冬至に日が昇る方向と一致)一番奥の主室に本尊である如来坐像(本尊の図像は、降魔成道の釈迦如来を起源とするが、統一新羅では阿弥陀如来として信仰される例が多い)が設置されている。主室はドーム型の形状、前室・扉道は直方体の形状をしている。花崗岩を積み上げた後、土が被せられたと考えられている。花崗岩の壁には、菩薩像や四天王像などの石仏が掘り込まれている。扉道の入り口両側に仁王像が彫られている。前室の八部衆および仁王像は増築の際に追加されたものである。
本尊の仏像は現在釈迦如来と認識されているが、阿弥陀如来か釈迦如来かは韓国でも議論がある。なお新羅時代の寺院の本尊は毘盧遮那仏か阿弥陀如来である場合が多い。
[編集] その他
1万ウォン札の肖像として、石窟庵の石仏が描かれたものが準備されていたが、特定宗教に利するということで中止になった。
[編集] 脚注
- ^ 朝鮮日報2007年9月23日「兪弘濬(ユ・ホンジュン)文化財庁長も「八部神衆の位置が間違っていたことが今回明らかになった。しかし、今即座に石窟庵に手を加えることはできず、そのうち補修時を見計らって手直ししなければならない」