玄徳潤

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玄徳潤
各種表記
ハングル 현덕윤
漢字 玄德潤
発音: ヒョン・ドギュン
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玄 徳潤(ヒョン・ドギュン、현덕윤、1676年 - 1737年)は、李氏朝鮮の文臣。号は錦谷。

人物[編集]

1705年科挙の訳科に及第し、倭学訳官として実績を積む。1711年の第8回朝鮮通信使(正徳信使)に随行した。筆談をもって交流し、静岡県清見寺には「東海名區」の扁額が残る。1718年には訳官使の一員として対馬に渡った。1727年に訳官訓導に就き、私財を投げ打って、朽ち果てていた外交施設を「誠信堂」として修築した。裁判として釜山倭館に滞在した雨森芳洲は1730年に「誠信堂日記」を著し、その功績を称えている。

参考文献[編集]

  • 「アジア人物史 第8巻」集英社 2022年

関連項目[編集]