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「上志津原」の版間の差分

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== 歴史 ==
== 歴史 ==
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'''上志津原のおいたち''' 【17】【18】【10- p151】。

'''入 植'''

 上志津原は、終戦の1945年(昭和20年)8月15日まで、現在の佐倉市の上志津原、下志津原、四街道市の大日、鹿放ヶ丘、千葉市花見川区の宇那谷町、大日町、三角町、千種町、稲毛区の山王町、長沼原町、天台町、などに展開する広大な旧陸軍下志津原演習場【48-P31】【48-巻末】【54】【55】の一画で、戦後、入植した方々によって開拓されて生まれた新しい「村」です。

 軍用地以前は志津村上志津の一部で、上志津と地続きです。【53】【57】【10-巻末】

 現在の上志津原の地域に人が来たのは1945年(昭和20年)11月でした。視察に来ました。【15】

 そして主として1946 年(昭和21年)1月、2月、3月に第1次入植者44名が入植しました。が、間もなく12名が脱落しました。【15】

 上志津原の地に、戦車や軍靴の響きや砲声に代って土を耕す開墾の鍬の音が聞え始めたのは1946 年(昭和21年)初頭からですが、その前1945 年(昭和20年)8月、終戦間もなく、この旧陸軍下志津原演習場では、周辺にあった飛行隊や野砲学校等の将校が先導した「下志津原開拓団」が結成されていました。【補足1】

 上志津原地区の入植者は、その分団として1946 年(昭和21年)1月、勝田分団を設立しました。【15】 勝田分団の担当区域は現上志津原の全域と八千代市勝田の一部でした。面積は約130ヘクタールです。分団名の「勝田」は縁起をかついで在地・勝田地区の名を採りました。分団員は主として各出身地の先駆者の手引きによるもので、そのほとんどが1946 年(昭和21年)3月末までに入植しました。【11】

 当時開拓団の事務所は千葉市若松町陸軍第5航空教育隊の跡の建物を利用していました。ここで雨露をしのぎ、開墾のため現地に通うわけですが遠いので効率的ではありません。そこで1946 年(昭和21年)4月までに役員を除く全員が現地・原に移り住みました。移ったといっても住むに家なく、第1陣は上志津の有力者・O氏にお願して、西福寺に起居させていただくことになりました。そして間もなく、千葉市若松町第5航空教育隊の建物を払い下げてもらい、現地に3棟の合宿

所的なものを作り、やっと本格的に開墾に打ち込めることになりました。【12】

 

'''食料難'''

  食料難の時代でした。終戦直後は国中が食料難でしたが、機械もなく、一鍬一鍬原野を切り開く重労働の開畑は、開拓者の腹にこたえました。この食糧事情を救ったのは第一に、至る所に生えていた「わらび」でした。10分間位で1キロ、2キロ採れるところがざらにありました。

 第二には「こんにゃく」でした。風船爆弾用ののりの原料だったと想像されますが、当時軍用物資は好い加減な経路で払下げられるケースが多かったようで、どのようなルートで払い下げられたのか、一版組合員には知るよしもなかったのですが、毎日をわらびとこんにゃく、そして少量のコメ麦を初年度の8月近くまで食べ続けて来て、8月から9月頃に漸く第1回の収穫さつま芋の探り堀りが始まり、澱粉質偏重でしたが、やっと腹の虫を抑えることが出来ました。【12】


'''作物栽培'''

 この食糧難に加え大変だったのが、肝心の、農業生産でした。

 戦車のキャタビラや軍靴で踏み固められた土地を文字通り鍬でひと鍬ひと鍬耕す開墾が大変だったことに加え、土地がやせていて作物が育たない、種を捲いても芽が出ない、芽が出ても苗が立ち上ってこない、苗が育っても実がならない、といった案配でした。【7】【8】【38】 いろいろな作物づくりを試行錯誤しながら、ようやくこの地でやっていけそうだとなるには3~4年かかったそうです。

 平成23年1月1日発行の『上志津原たより』新春インタビュー「上志津原の開拓を語る」です。【38】

 「-最初、作物は何を作られましたか。 Iさん 農業の指導者からこれがいい、育てやすいからとカボチャの壺堀り栽培を教えられてやりましたが、そんなのうそっぱちで大失敗でした。酸性土壌なので育ちませんでした。農業は成果が出るのは1年単位ですから大変です。種を蒔いても芽が出ない、芽が出ても苗が育たない、苗が育っても実がならない。

 こうして1年が過ぎました。2年目はサツマイモを植え、オカボ(陸稲)の種を蒔きました。

 供出農家には肥料の配分がありますが、開拓農家にはないので苦労しました。

 3年目には落花生の種を開拓組合で心配してくれました。

 2年、3年、4年とやってきて、なんとか農業をやっていける、生きるに必要な食糧が採れるという見通しがついたのは4年目くらいからでしょうか。」【38】

 「-さて、農業のその後ですが。 Iさん 30年頃、サトイモを採り入れました。ここは火山灰土で土が乾きます。そこで30年に畑地かんがい用水工事を始め32年に完成、33年頃からサトイモがでるようになりました。何の作物でも水が有るのと無いのでは育ち方が違ってきます。畑地かんがい用水導入の意味は大きかった…。」【38】

 畑地かんがい用水とは井戸を掘り、水をくみ上げ、スプリンクラーで畑に水を蒔く施設で、県による敷設事業が行われました。県内で2番目の事業でした。【56】【7-巻頭】【8-巻頭】 


'''住まい'''

 住まいは1946年(昭和21年)晩秋から各開拓者の払下げ予定地に単独家屋の建設が始まりました。最初の分団事務所のあった千葉県若松町の第5航空教育隊跡の建物を払い下げてもらい、これを解体製材して持ち帰り、全員の共同作業で順次家を建設しました。間取りは、6畳ひと間、押入れ2畳、土間3坪、2間×3間半で、合計7坪でした。

 壁は外羽目だけ、屋根はルーフイング、雨露をしのげるのみで、木の羽目板の節穴から凛然とした星が良く見えたものでした。【13】【7-166】【8-P149】

 風が吹けば砂が、冬になれば雪が舞い込む家でしたが、各自の家を持った喜びは大きいものでした。農作業の拠点として、定住する意思のよりどころとして、妻帯者は実家に預けた妻子を呼び寄せることができ、独身者はお嫁さんを迎えることができるなど、この地で生きる計り知れない力になりました。

 先のインタビューのつづきです。

 「Iさん 伴侶を得た箏は開拓生活で大きな力になりました。ひとりと二人では大ちがいです。明日はなんの作業をしようかと相談しながらやれるようになりましたからねえ。はかどるようになりました。」【38】

 こうして、全員の住宅が完成したのは昭和22年の春でした。【13】。


 1946年(昭和21年)1月、幹線道路沿いの防風林の植林が行なわれました。【15】

 1948年(昭和23年)2月、電灯が敷設されました。『15】

 この間、組織的には1946年(昭和21年)4月、下志津原開拓団は発展的に解散、勝田分団は勝田帰農組合と改称されました【15】が、1947年(昭和22年)12月15日、農業協同組合法が施行され、1948年(昭和23年)3月21日、上志津開拓農業協同組合を結成(37戸)しました。【15】

 『昭和24年作製「上志津開拓農業協同組合地区」」の地図に組合員37名の名が記載されています。【50-P49】【58】

 以後、上志津原の開拓は、この農業協同組合のもとで行われていきます。


'''道 路'''

 入植当時の道路は、千葉と四街道に通じる道路はありましたが、砂利も入っておらず、草の生えた馬車道でした。その他の道は軍がこの地を買い上げる前の道を使ったりしていましたが、補修等の余裕もなく、水溜りになると別の所が新しい道になることの繰り返しで、「原に入り込むと二度と出られない」と言われていました。草丈は自分の背丈以上のところが多かったので、道路は見通しのきかない迷路状態だったようです。【30】

 そんな状態だった道路も、現在の地図を見ると、千葉~志津館の幹線道路に沿って、宅地・農地共に碁盤の目のように走っています。しかも道路で区画された土地は皆同じ長方形で、面積も同じようです。こうなった経緯を尋ねてみました。

「幹線以外の道路は、入植者によって農道用として造りました。」「囲まれた土地が同じ形の長方形になっているのは、おっしやる様に全て100間×60間(180㍍×108㍍)に区画したからで、面積は2町歩(約2㌶)になります。当時入植者1戸当たりの割り当て面積は2町歩だったのです。」【30】

 

'''確定測量、地番付与、土地の登記・払下げ、上志津原の誕生'''

 確定測量が1950 年(昭和25年)に行われ、1951年(昭和26年)に初めて今まで国有無番地であった地区の土地が登記され、ここに上志津原は上志津から分離し、独立した一部落となりました。大部分の開拓者に対する土地の払下げもこの年に行なわれました。【14】

 ここで初めて「上志津原」という地名が登場します。【19】

 この時の確定測量で番地が付与されたことが推定されます。【22】【23】 

 細かい枝番もすべて書き込まれた「上志津原地番詳細図」が作成されています【59】。が、残念なことに作成年の記入がありません。1950・1951年(昭和25・26年)頃作成されたものと推定されます。

 『上志津原たより』第100号(1982年(昭57)年3月 上志津原町会)の年表「上志津原の37年史」には「26年7月 国有開拓地払下げ。1戸当り、2町歩(畑、宅地、361坪159円84銭。山林、原野、3百坪198円)。28年 上志津より分離独立し、上志津となる、」とあります。【15】

 『上志津原たより』 第300 号( 1990年(平12)10月 上志津原町会)「年表」は前記の記述を踏襲しています。

 『はらトピアフェスタ2007』 (2007年(平19)11月)上志津原自治会館開館10 周年記念事業実行委員会「上志津原の歴史年表」【52】によりますと、「25年 確定測量を行った。26年 土地が登記され、国有開拓地が払い下げられた。(1戸2町歩) 28年 地名が「上志津原」に決まり、上志津から分離した。(それまでは印旛郡志津村上志津無番地) 28年、「佐倉市上志津原確定図」【50- P49】が作成された。(47戸=開拓者37戸、増反5戸、鹿放から5戸))」とあります。【52- P14】

 1950 年(昭和25年)の「確定測量」から1953年(昭和28年)の「上志津原誕生」まで、ホームページ『ようこそ!わが町上志津原へ』「こんな町です『上志津原』」「上志津原のあゆみ(年表)」【53】でも同じ書き方をしています。

 上志津農業協同組合を結成した時は37名でのスタートでしたが、その後、1949年(昭和24年)4月、増反で5名、1950年(昭和26年)6月、鹿放から5名の計10名が入居し、合計47戸となりました。以後上志津原の開拓は1964年(昭和39年)まで、この体制で進められてきました。

 増反とは、1946年(昭和21年)9月、上志津地区内に下志津原農地奪還同盟が結成され軍用地として軍に買上げられた土地の返還を要求したもので、折衝の結果、幹線道路の北東、今の小字・南中野の部分に5戸が入ることになりました。【13】 

 鹿放からとは、鹿放ケ丘農苑開拓共同組合からの移住者で、鹿放ケ丘には元満蒙開拓青少年義勇軍訓練所内基幹学校の生徒が終戦後やってきて鹿放ケ丘地区の開墾に着手したのですが人数が多く上志津開拓農業協同組合に地域の分譲を要請してきたもので、幹線道路の南西、今の小字・幸野の南10町歩を割譲することなったものです。【13】


'''学 校'''

 学校は、3年生までは矢橋にあった志津小学校の分校でしたが、4年生からは上座の本校に通いました。片道5~6㎞あったと思います。【30】

 1961年(昭和36年)4月上志津小学校が、1967年(昭和42年)4月下志津小学校が、1974年(昭和49年)4月南志津小学校が開校しました。順次小学校が上志津原に近づいてきました。

 中学校は1947年(昭和22年)5月、志津中学校が開校されていましたが、1973年(昭和48年)4月、上志津原近くに上志津中学校が開校しました。【62】

 

'''上志津原の地名''(上志津原命名秘話)'''''<nowiki/>'' ''【19】【20】【21】【9- P22】【10- P137】

 上志津原は上志津の一部で、旧陸軍の演習場だったため、無番地でした。したがって入植当時の開拓者のみなさんの住所は「印旛郡志津村上志津無番地」でした。

 「開拓が進み、幹線道路や内部の道路、農地や防風林などの区画ができ、確定測量は25年に行われ、26年に初めて今まで国有無番地であった地区の土地が投機され、ここに上志津原は上志津より分離し、独立した一部落となり、大部分の開拓者に対する土地の払下げもこの年に行なわれました。【19】

 なるほど、ここで初めて「上志津原」という地名が登場するわけです。ではこの「上志津原」という地名はどうして付けられたのでしょうか。上志津の先にある原だから、と考えるとなんとなく自然で、ふんふんと納得してしまいますが、この命名にはちょっとした秘話がありました。1987年(昭和62年)3月、当時の町会が企画して青年館で開催した「写真で見る上志津原のあゆみ展」の資料収集活動でH様のお宅を訪問した時のことでした。開拓組合の議事録が残っていれば展示させてほしいと考え、当時の拓親会会長に相談したところ、それならH様が保管しているだろう、と教えてくださり、訪れたわけです。H様の居間のこたつの上で、文書綴のカーボン複写した薄い和罫紙を一枚一枚はぐようにめくっていた私は、アッと驚きました。【19】

 同行者は当時の町会長NA様、副会長のNI様、それに私の3人でした。アッと驚いたのはーまず、ある年ある月の総会で大字の名称が議題となり、「原」に決定した、と書いてありました。ところが議事録をめくっていると、何か月もたたない次の会合で再度地名の件が議題となり、「上志津原」に決定した、とあるではありませんか。地名を決めるという重要案件の決め直しという大変興味深い事実が記されていたのです。ただしこの時は展示会づくりで忙しく、みんなで興味深くのぞいたものの、このことに深入りしているわけにはいかず、単に記憶にとどめただけでした。

 今回この連載を書くにあたって私は、もう一度あの議事録を見たいと思いました。いつのことで、正確にはどういう記録だったのか。しかし保管文書は役員交代のたびに引き継いでいくそうで、今H様の手もとにはなく、他の複数の方を訪ねるなどして追跡調査を試みましたが、見つけることが出来ませんでした。しかし文書とは別に、その決め直しの事実と事情を鮮明に覚えていられる方の証言を得ることができました。【20】

 はじめ「原」と決めておきながらすぐに「上志津原」に決め直しをした、と言う記録を見たことがあるのですが…とお尋ねすると、Y様は「ああ、そういうことがあったね」と、即座に肯定なさいました。お話によると…。開拓が進み、いよいよ土地を登記する段階となり、この地に名前を付け、番地を付そうということになり、原だから「原」にしよう、簡単でいい、とみんなで決めたわけですが、入植以来集落としては上志津に属しており、上志津の人たち、具体的には上志津の長老たちの了解をえなければなりませんでした。しかし、「原」では承知してくれなかった、ということです。上志津側の言い分は、独立するのはいいが、昔からよく、新しく開いた土地に〇〇新田と名付けるように、上志津〇〇とでもいうならともかく上志津とまったく縁のないような名はけしからん、というわけです。これに対し上志津原側は、「上志津」という3文字を上に付けると長くなってしまうのでごめんだ、手紙を書くにも何を書くにも一生ついて回るのだから簡単な方がいい、とがんばったようですが、なにしろ入植以来なにかとお世話になった手前さからうわけにもいかず、考え直して「上志津原」にした、という次第でした。

 しかし今になってみると、「上志津原」でよかったですね、と水を向けるとY様はいく分複雑な表情をされながら、「そうですね」と、ニコニコと応じてくださいました。【21】


 なお、小字名については、開拓に入った人たちが自分たちの居住地に地区名を設定しました。

 吉野―上志津原開拓の始まりを新しい日本の始まりとし、日本文化の始まりである奈良の吉野の地名を採用したものと伝えられています。

 幸野―この地区に入った開拓者の多くが栃木県出身であったことから、日光中禅寺湖の別名「幸野湖」(明治天皇が行幸の折、命名されたもの)に因んでつけた地区名です。

 大和台―この地区への入植者の多くが東京都下大和村(現・東大和市)の出身者であったことから、この地を第二のふるさとにする意味で命名されたと伝えられています。

 南中野―上志津から増反で入居した方たちの地区です。上志津南中野の地続きであることから付けました。【9- P22・23】【10- P137・138】


'''整備が進む開拓の村'''   

 1954年(昭和29年)4月、上志津原町会が発足しました。【52】

 1954年(昭和29年)11月、第1回運動会を開催しました。【15】

 1955年(昭和30年)8月、第1回盆踊り大会を開催しました。【15】

 1959年(昭和34年)12月1日、バスが開通しました。(上志津線 志津液入口~上志津入口~志津三叉路~上志津~上志津新田~本村~上志津原~開拓地~富士見ヶ丘~大日今宿 → 四街道駅)【61】

 1964年(昭和39年)、防風林に桜の苗木を植樹しました。【52】

 ? 年、この頃、上志津原交差点の角に「瀬田商店」が開店しています。生活雑貨屋さんです。


 こうして1964年(昭和39年)まで、47戸の開拓者でこの「村」は作られてきましたが、1964年(昭和39年)頃から新しく宅地造成が始まり、1965年(昭和40年)3月頃から分譲が始まり(原団地、商店街、八紘苑など)、新住民が流入して来ることになりました。【15】【52】。

 1967年(昭和42年)4月、世帯数は100戸を超え、(昭和48年)4月には300戸を超え、1990年(平成2年)4月には500戸を超えました【52】。

 1964年(昭和39年)3月、企業進出第1号として「光莫大小」が当地に工場を建設、生産を開始しました。【15】

 1969年(昭和44年)、志津浄水場が建設され、給水を開始しました。

 1973年(昭和48年)3月、幹線道路の舗装が開始されました。

 1973年(昭和48年)5月、町会広報紙『上志津原たより』が創刊されました。

 1975年(昭和50年)4月、少年野球チーム「スターズ」」が発足しました。

 1975年(昭和50年)11月、老人クラブ「双葉会」が結成されました。

 1978年(昭和53年)6月、野球チーム「キングスターズ」が発足しました。

 1979年(昭和54年)4月、上志津原グランドが現在地に開設されました。【52】


'''写真で見る上志津原のあゆみ展''' 【7- P165】【41】【44】【49】

 上志津原町会は1987年(昭和62年)3月21日、町会の集会所・青年館で「写真で見る上志津原のあゆみ展」を開催しました。当地が戦後開拓された土地なので、こうした開拓農民の汗と涙のあゆみを振り返ることは、農家の方々はもとより、その後この地に住み着いた新住民にとっても意義あることであろう、と考えたからです。

 開拓を物語る写真パネル約20枚を中心に、とうみ、鍬などの農具や、上志津原確定図などの地図や開拓関係文書、開墾で掘り出した砲弾、畑で拾った砲弾の鉛玉、などを展示展開、会場の真ん中のテーブルには各家から持ち寄ったアルバムを並べ、手に取って見られるようにしました。

 説明役には開拓農家の親睦団体・拓親会にお願いし5人ほどスタンバイしていただき、子供たちの質問や参観者との語らいに応じていただきました。

 会場は終日参観者で賑わいました。子供たちもたくさん見に来てくださいました。

 アンケートでは、「町会が古い写真を集めているとは聞いていたが、こんなにりっぱな展示会になるとは」「初めて上志津原のことをよく知りました」「開拓の様子を話には聞いていたが、写真を見てよく想像ができました」「なつかしく、涙が出ました」等など、たくさんの感想が寄せられました。

 この「上志津原のあゆみ展」展示会づくりは、「身近な展示の「場」―町の人たちの展示会づくり」という表題で、後に日本展示学会の研究大会で発表され、学会誌に収録されました。【49】

 研究大会での発表は『千葉日報』で報道されました。【44】


'''上志津原ふれあいどおり''' 【16】初出【7-P168】【8-P151】

 佐倉市のホームページを見ると、「戦後の地域開拓の歴史的なシンボルである防風林を歩行者空間として残しています。」と、あります。

 上志津原交差点から南へ、西へ、幹線道路沿いに防風林を活用した遊歩道があります。

 上志津原は、戦前は四街道から広がる下志津原陸軍演習場の一画で、戦後入植した方々によって開拓されました。幹線道路沿いの松林は防風林として植林されました。【12】

 防風林は農地の保全と集落への砂埃を防ぐために植えられたものです。

 開拓にあたりまず防風林を作ることになり、1946年(昭和21年)4月には初めて植林作業が行われました。【12】防風林は国有地ですが、管理は開拓組合に委託され、下草刈りなどは開拓農家が分担して行なってきました。


 防風林は松林ですが、桜がたくさん植えられていて、桜の名所にもなっています。

 幹線道路沿いの防風林は春になると見事な桜並木に一変します。種類は大寒桜やS名吉野、数は約160本あります。【16】【7】【8】

 松林にどうして桜が植えられたのでしょうか。1964年(昭和39年)に市から市制10周年記念事業として桜植樹の話があり、苗木の給付を受けて、皆んなで植えたのが始まり、とのこと。この時は金子牧場(今は中央フーズ)から小森商店前(上志津原交差点)を南に曲がって一部区間まで。

 しかしこれが成長して春を賑わすようになると、これはいい、もっと植えようということになり、約10年後にかなり大がかりに2回目の植樹をしたそうです。

 そして、桜苗木の植樹は今も毎年続けられています(昭和62年8月現在)。【16】

 その後防風林はその役割を終え1990年(平成2年)、市が国から道路用地として譲り受けました。【42】

 市では1999年(平成11年)、遊歩道として整備しました。そして名称を公募、「上志津原ふれあいどおり」に決定しました。【43】

 全長1.3キロ。一部の区間はいちょう並木にもなっており、町会では春は桜、秋にはいちょうのライトアップをしています。そして各所に花壇を作って、敷の草花が楽しめるようにしています。なお、秋には一面にヒガンバナが咲き誇ります。上志津原まちづくり委員会のふれあいどおり部会では2008年(平成20年)から、彼岸花百万本計画を展開中です。【47】


'''上志津原の今''' 

 1990年(平成2年)10月27日、『千葉日報』が「町会広報紙が200号」という4段見出しの記事を掲載してくださいました。【21】

 1991年(平成3年)、「南志津クリニック」が開設されました。【51】

 1996年(平成8年)7月20日、バス路線が上志津経由から志津図書館経由に変更されました。【61】

 1997年(平成9年)11月、これまで町の集会所であった青年館が建て替えられ、上志津原自治会館が竣工しました。愛称を公募、「はらトピア」と名付けられました。【52】

 2002年(平成14年)12月、特別養護老人ホーム「ゆたか苑」が開設されました。【46】

 2005年(平成17年)から第2次宅地造成ラッシュが始まり住宅団地が各所に建設されました。【52】

 2006年(平成18年)4月、町会活動を支援するための「原まちづくり委員会」発足しました。(最初は宅地開発ラッシュ対応)【31】

 2008年4月 (平成20年)4月、佐倉市市民協働事業に参加しました。【32】【35】【39】

 2008年(平成20年)7月19日、まちづくり委員会のもとに「はら Co Co くらぶ」が発足しました。(イベント部会、ふれあいどおり部会、パソコン部会など)。【32】

 2008年(平成20年)9月、敬老会がはらトピアで初開催されました。(これまでは南志津小学校会場などに行っていました。)【33】

 2009年(平成21年)4月、志津南地区社会福祉協議会の活動を「上志津原ブロック」として行えるようになりました(「森の茶屋」など)。【34】

 2010年(平成22年)2月、コンビニ・セブンイレブン佐倉上志津原店開店しました。【36】

 2010年(平成22年)7月、上志津原防犯委員会結成されました。【37】

 2015年(平成27年)2月16日、バス路線のダイヤ改正があり、千葉内陸バス四勝線(四街道~上志津原~志津図書館前~勝田台駅)が運行開始されました。志津南口発着は大幅減便になりました。【61】

 2017年(平成29年)11月26日、はらトピア20周年記念「上志津原文化祭」を開催しました。【40】


 「歴史」の項の次にある「世帯数と人口」によりますと、2017年(平成29年)10月31日現在の上志津原の世帯数は1,012世帯です。【53】参考までに2017年(平成29年)4月1日現在の町会員数は総会予算書によりますと841世帯です。町会加入率は良い状態を維持していると言われています。

 町会では様々な活動が活発に行われています。盆踊りや運動会には大勢の人が集まります。

 町会が運動会を継続しているのは珍しいといわれています。

 町会とまちづくり委員会が連携し、関係団体が協力して行う諸行事も盛んです。

 開拓者が作った「村」(町)に新住民が溶け込み、住みよい町をつくっています。



'''補 足'''

'''1、旧陸軍下志津原演習場''' 【6】

 旧陸軍下志津演習場は、具体的には、戦前に、四街道市の大日、鹿放ヶ丘、千葉市花見川区の宇那谷町、大日町、三角町、千種町、稲毛区の山王町、長沼原町、天台町、佐倉市の上志津原、下志津原、など2,400余町歩に及ぶ広大な土地に展開していました。そしてここには、陸軍野戦砲兵学校、下志津飛行学校、戦車学校、高射砲兵学校、歩兵学校などがありました。【6】

 1945年(昭和20年)8月15日終戦。これらの復員軍人軍属は、国破れて諸物資欠乏、特に最悪の食糧事情下において、国家再興は食料増産にありと帰農することを決意、各部隊の有志は下志津原の開拓を計り、各々の身近な所から開墾を始めました。

 このような散発的な開墾に対して、下志津原陸軍演習場主管者であった陸軍野戦砲兵学校長・H氏は、敗戦國家再建のための食糧増産を決意、下志津原2400余町歩全体にわたる組織的な開拓を着手、各部隊ごとに開墾を始めていた帰農希望者を統一して、「下志津原開拓団」を結成しました.【6】  

 こうして開拓団は最初は軍隊からの復員軍人軍属が中心でしたが、やがて、海外からの帰国した復員軍人軍属、引揚者、戦災者などの受け入れ先となりました。

 下志津原開拓団の発足式は、1945年(昭和20年)9月14日に行われたそうです。【50-P32】


'''2、下志津原開拓団のその後'''

 戦後いち早く「開拓団」が結成されたこと、上志津原地域にも入植者が入り、下志津原開拓団の勝田分団として開拓を始めたこと、1948年(昭和23年)3月、上志津開拓農業協同組合を結成してから開拓が順調に進められたこと、はよく分かっていますが、「開拓団」の推移について、よく分からないことがあります。下志津原開拓団は、「発展的に」ではありますが、1946年(昭和21年)4月には解散しているのです。【6-P3】

 『下志津原大日開拓誌』を読んで「開拓団」が早々と1946年(昭和21年)4月に「解散」したと知った時は驚きました。「開拓団」が「解散」したのに、「開拓」はどうやって進められたのでしょうか。

 俗な書き方になりますが、当初の将校主導の開拓はいろんな意味で、うまくいかなかったようです。【50-P34】

 『下志津原大日開拓誌』第3頁の記事によりますと、1945年(昭和20年)9月、農地開発営団が農林省の委託により開拓本部内に事業所を開設します。そして1946年(昭和21年)4月、開拓団は「発展的に」解散し、「下志津原開拓者連盟と改められた組織に移行した、」とあります。

 1947年(昭和22年)7月、マッカーサー機関令により開発営団は閉鎖になります。

 開拓団内に開設されていた事業所は国の直轄となり農林省国営下志津開墾事業所と改め、「下志津緊急開拓農地開発事業計画」が設定された。」とあります。計画は1945(昭和20年)9月30日着手、1949年(昭和24年)3月31日終了、とあります。【6-P3-4】

 次の頁に「各分団の構成員と経営要領」という表があります。【6-P5】「分団名」は10あります。

 大日(448戸-鹿放158含む)、曙(60)、池之辺(30)、千高(15)、同愛(24)、千種(79)、山王(102)、天台(44)、勝田(40)、守田(21)です。(()は戸数です。)

 いつ現在の表なのか分かりませんが、勝田分団が結成されたのは1946年(昭和21年)1月ですから、勝田分団の1月の結成から「開拓団」解散の3月までの間に作られた表と考えられます。

 『上志津原たより』第6号の「上志津原の生いたち③」【13】によりますと「勝田分団は勝田帰農組合と改称し」とあります。【13】これで分団が帰農組合に衣替えしたことは分かるのですが、いつ、どのように、と言う記録はありません。しかし1946年(昭和21年)4月の開拓団解散後、1948年(昭和23年)3月の上志津開拓農業協同組合結成までが気になりますので、先ほどの『下志津原大日開拓誌』をさらに読み進めましたら参考になることが書いてありました。「大日分団」のことです。「1946年(昭和21年)4月、大日分団を解散し、大日帰農組合を設立した。」とあります。

 この記述で、1946年(昭和21年)4月1日、下志津原開拓団解散、帰農組合設立、そして1948年(昭和23年)の開拓農業協同組合設立、という流れを把握することができました。

 1948年(昭和23年)3月21日、上志津開拓農業協同組合が設立されました。

 その「開拓農業協同組合概要」という書類によりますと、「下志津原北端の約70町歩の旧軍用地に主として復員者及び満州からの引揚者30数名が集まり、開拓の鍬を入れて2年間というものは収穫殆ど皆無の状況で、」とありさらに「当組合の特色は開拓当初より人間の入替りがほとんどなく、最初から独立の型式をとり、組合の役員は連番性で交代し総べて合議制の建前で運営され、合わせて現佐倉農協に加入し、県連合会と相まってその助力により順調に発展して来た。」とあります。1972年(昭和47年)6月12日解散しています。【50-P43】

 1972年(昭和47年)8月、開拓組合解散により、親睦団体「拓親会」が設立されています。【15】


'''3、上志津原のあゆみ展づくり''' 【7-p165】【41】【44】【49】

 「写真で見る上志津原のあゆみ展」は当日盛況で、たくさんの町民が見に来てくださり、回顧談に花が咲きました。しかし、この「あゆみ展」で特筆されるのは、その「展示会づくり」でした。日本展示学会で「身近な展示の場 町の人たちの展示会づくり」という表題で発表され、話題となりました。

 町会の1年間の行事があらかた片付いた1月の会議で展示会をやることが決まり、役員はすぐ次の日曜日から行動を開始しました。手分けして開拓農家を訪問しました。ところどっこい、どこのお家でもまず異口同音に言われたことは、「古い写真なんてありませんよ。当時は食うや食わずの生活で、写真どころではなかったですからねえ」「カメラなんか、誰も持っていませんでしたから。」とのことでした。

 こうして古い写真はなかなか出てこなかったのですが、お訪ねしたお宅の居間でこたつにあたりながら雑談していると、「ちょっとお待ちください」と奥のお部屋からアルバムが出てきます。それをめくっているとぽつりぽつりといい写真が見つかります。2日間で5~6軒回ったところでいい写真何枚かに出くわしたところで私は、これはいける、いい展示会が出来ると確信しました。

 例えば、開拓入植者が原野で鍬をふるう写真【8-P149】【41】【45-P56】、戦闘帽をかぶった写真【41】【45-P56】【53】、最初に建てた共同住宅の写真【7-164】【45-P56】【53】、開拓住宅の写真【7-P166・167】【41】【49【53】】、団長さんの家で新年会をやった時の集合写真、ランドセルを串刺しにして防風林のヘリに並んで座りたたずむ子供たちの写真【29-P6】、草むらに放送設備を置いた運働会本部の写真、畑地かんがい用水工事の「水が出た」という写真【7-巻頭】【8-巻頭】【45-P56】、耕運機に乗った花嫁さんの写真【29-P6】【41】【45-P56】【53】、など。

 訪問活動を続けているうち、上志津原確定図などの地図、開墾中に掘り出した砲弾など、開拓をめぐる様々な資料にめぐり逢いました。そこで、展示会は写真を中心にするものの、開拓関係資料を集めた展覧会が出来ることになりました。とうみなどの農具のほか年表や開拓の苦労話や開拓住宅の間取り図のパネルを作る知恵も出てきました。

 パネル作成では、普段は鉄板を切断している男性が、初めて扱うハレパネがカッターナイフですぱっと切れなくて苦戦をしているなど、おもしろい光景も見られました。【49】

 日本展示学会の研究発表では、会場に来ている町会長が「展示会づくりを陣頭指揮した人」と紹介されると温かい拍手が場内から寄せられました。【44】

 もともと「町の人たちの展示会づくり」を学会で発表すること自体が異例です。なぜなら研究大会は、動物公園や幕張メッセに関する実践的な研究や、デイスプレイ環境の基礎的研究、浮世絵など展示の冒険的試み、などが発表される「場」だからです。

 発表者は、「普段は博物館や都市空間の中で仕事をする私たち自身が、市民であり地域の構成員であることを想う時、展示の場が以外にも身近にあったことを知り、これを伝えておく必要があるのではないかと思った」と結んで共感を呼びました。【44】

 「あゆみ展」で収集された開拓の主な写真パネルは保管され、後の町会のイベントで「ミニ展示」されるなど活用されています。【40】【52】 またその映像の何点かは、ホームページ「ようこそ上志津原へ!」の「上志津原のあゆみ(年表)」等にも活用されています【53】。


'''4、志津という地名''' 【8- P17】【24】【25】【26】【27】【28】

「志津」という地名の由来

 私たちの住む「志津」、「志津」とはとてもすてきな地名ですがこの地名はどうして命名されたのでしょうか。これにはいろいろな説があります。

 四つの津(入江、沼地)があったから、

 清水が湧いていたから、

 志津次郎胤氏が居城を構えていたから、

 織物の集団・倭文部(しどりべ)がいたから、

など、諸説があります。

 織物とは倭文織(しづおり)のことで、昭和51・52年の飯郷作遺跡(佐倉西高等学校)の発掘調査で紡錘車が出土していることも、この説を勇気づけています。

しかし平成6年の上志津・干場遺跡の発掘調査で、「清水」と書いた墨書土器が出てきたことから、「清水」説も有力です。

(参考文献)

1、八重尾比斗史「志津地名考」(『歴史研究』5月号、新人物往来社、昭和59)

  八重尾等『郷土史探訪(1)』(「志津の地名考」所収)(八重尾等、平成5)

2、上山ひろし「志津地方の歴史 地名について・志津」(『わが町中志津10周年記念誌』中志津自治会、平成5)

  上山ひろし「志津地域の歴史的考察 地名の由来・志津」(『わが町中志津20周年記念誌』中 志津自治会、平成10)

3、宮武孝吉「上志津原の地名を探る」(『上志津原たより』上志津自治会、平成2年6月号から連載。平成3年4月~8月号「志津という地名 1~5」)

4、田中征志「志津の地名について」(『佐倉の地名』佐倉地名研究会、平成28年1月・第12号から連載。30年1月・第18号「その七」で只今連載継続中)

             (『歩いてみよう志津』宮武孝吉著、2018年9月、大空社出版)P17


'''出 典'''

6、『下志津原大日開拓史』 1975年(昭50) 下志津原大日開拓史編纂委員会編

7、『志津の史跡と名所』 2000年(平12) 宮武孝吉著 志津文庫

8、『歩いてみよう志津』 2018年(平30) 宮武孝吉著 大空社出版

9、『多輪免喜』第5号 志津の地名 2010年(平22) 佐倉地名研究会

10、『多輪免喜(中)臼井・志津編「佐倉をもっと知ろう」』 2023年(令5) 佐倉地名研究会


11、『上志津原たより』第3号 1973年(昭48)7月 上志津原町会「上志津原の生いたち①」 

12、『上志津原たより』第4号 1973年(昭48)8月 上志津原町会「上志津原の生いたち②」 

13、『上志津原たより』第6号 1973年(昭48)10月 上志津原町会「上志津原の生いたち③」

14、『上志津原たより』第7号 1973年(昭48)11月 上志津原町会「上志津原の生いたち④」 

15、『上志津原たより』第100号 1982年(昭57)年3月 上志津原町会「上志津原の37年史(年表)」

16、『上志津原たより』第158号 1987年(昭62)年8月 上志津原町会「上志津原とその周辺の史跡と名所⑫」

17、『上志津原たより』第196号 1990年(平2)6月 上志津原町会「上志津原の地名を探る①、上志津原の大地」(宮武孝吉)

18、『上志津原たより』第197 号 1990(平2)7月 上志津原町会「上志津原の地名を探る②、上志津原の開拓」(宮武孝吉)

19、『上志津原たより』第198号 1990(平2)8月 上志津原町会「上志津原の地名を探る③、上志津原命名秘話(1)」(宮武孝吉)

20、『上志津原たより』第199号 1990年(平2)9月 上志津原町会「上志津原の地名を探る④、上志津原命名秘話(2)」(宮武孝吉)

21、『上志津原たより』第200号 1990年(平2)10月 上志津原町会「上志津原の地名を探る➄、上志津原命名秘話(3)」(宮武孝吉)

22、『上志津原たより』第201号 1990年(平2)11月 上志津原町会「上志津原の地名を探る⑥、上志津原の地番)」(宮武孝吉)

23、『上志津原たより』第202号 1990年(平2)12月 上志津原町会「上志津原の地名を探る⑦、上志津原の地番(2)」(宮武孝吉)

24、『上志津原たより』第206号 1991年(平3)4月 上志津原町会「上志津原の地名を探る⑪、志津という地名(1)」(宮武孝吉)

25、『上志津原たより』第207号 1991年(平3)5月 上志津原町会「上志津原の地名を探る⑫、志津という地名(2)」(宮武孝吉)

26、『上志津原たより』第208号 1991年(平3)6月 上志津原町会「上志津原の地名を探る⑬、志津という地名(3)」(宮武孝吉)

27、『上志津原たより』第209号 1991年(平3)7月 上志津原町会「上志津原の地名を探る⑭、志津という地名(4)」(宮武孝吉)

28、『上志津原たより』第210号 1991年(平3)8月 上志津原町会「上志津原の地名を探る⑮、志津という地名(5)」(宮武孝吉)

29、『上志津原たより』第300 号 1990年(平12)10月 上志津原町会「年表」

30、『上志津原たより』第326号 2006年(平17)8月 上志津原町会「還暦 上志津原 生い立ちを振り返る」

31, 『上志津原たより』第333号 2007年(平18)4月 上志津原町会 

32, 『上志津原たより』第348号 2009年(平20)8月 上志津原町会 

33, 『上志津原たより』第349号 2009年(平20)10月 上志津原町会 

34, 『上志津原たより』第351号 2010年(平21)3月 上志津原町会  

35、『上志津原たより』第352号 2010年(平21)4月 上志津原町会  

36, 『上志津原たより』第355号 2010年(平21)10月 上志津原町会

37, 『上志津原たより』第360号 2011年(平22)8月 上志津原町会 

38、『上志津原たより』第362号 2012年(平23年)1月 上志津原町会 新春インタビュー「上志津原の開拓を語る」

39, 『上志津原たより』第363号 2012年(平23)3月 上志津原町会

40、『上志津原たより』第400号 2017年(平29)12月 上志津原町会 


41、『広報さくら』NO.539  1987年(昭62)4月 佐倉市 (あゆみ展)

42、『広報さくら』841号 1999年(平11)11月 佐倉市 (ふれあいどおり愛称募集)

43、『広報さくら』847号 2000年(平12)11月 佐倉市 (ふれあいどおり愛称結定)

44、『千葉日報』 1988年(昭63)6月5日 千葉日報社「上志津原のあゆみ 都内で発表、共感呼ぶ」

45、『千葉日報』 1990年(平2)10月27日 千葉日報社「町会広報紙が200号」

46、『ふくし上志津』第37号 2003年(平15)3月 佐倉市社会福祉協議会上志津支会 (ゆたか苑)

47、『佐倉よみうり』No.336,2012年(平成24年)9月28日 (彼岸花)

48、『下志津原』 1986年(昭61)) 陸上自衛隊高射学校 (開拓地概念図、下志津射場図) 

49、『展示学』第7号 1988年(昭63)日本展示学会 「身近な展示の「場」-町の人たちの展示会づくり 宮武孝吉」

50、佐倉地名研究会会報第23号『平成 13 年度 佐倉地名研究会志津部会調査研究報告 佐倉市上志津原の形成―上志津原のあゆみを調べるー」 2002年(平14) 佐倉地名研究会 (農業協同組合、ほか)

51、『抜群の医療サービスを目指します1991年6月1日オープン』 1991年(平3)志津南クリニック

52、『はらトピアフェスタ2007』 2007年(平19)11月 上志津原自治会館開館10 周年記念事業実行委員会「上志津原の歴史年表」

53、ホームページ『ようこそ!わが町上志津原へ』「こんな町です『上志津原』」「上志津原のあゆみ(年表)」

54、下志津射場圖 下志津演習場制定年別 野戦砲兵學校 作成年記入なし。個人蔵

55、大日本帝国陸地測量部 大正6年測図(1929年(昭和4年)修正図) 個人蔵

56、縣営下志津地區畑地かんがい事業現形圖 作成年記入なし、1953~1955年(昭和28~30年)と推定される。個人蔵

57、佐倉市志津地区地名全図 作成年記入なし 上志津原地区が軍用地以前の地名になっている。個人蔵

58、上志津開拓農業協同組合地區 1949年(昭和24年)2月作製 37名の氏名一覧表あり。個人蔵

59、上志津原地番詳細図 作成年記入なし、1950・1951年(昭和25・26年)頃と推定される。個人蔵

60、佐倉市上志津原確定図 作成年記入なし 1951~1953年(昭和26~28年)頃と推定される。47名の氏名一覧表あり。個人蔵(所在不明)

61, ウイキペディア ちばグリーンバス 「大日線」

62, 佐倉市公式ウエブサイト


== 世帯数と人口 ==
== 世帯数と人口 ==

2024年2月17日 (土) 03:12時点における版

日本 > 千葉県 > 佐倉市 > 上志津原
上志津原
上志津原の位置(千葉県内)
上志津原
上志津原
上志津原の位置
北緯35度42分4.1秒 東経140度8分42.3秒 / 北緯35.701139度 東経140.145083度 / 35.701139; 140.145083
日本の旗 日本
都道府県 千葉県
市町村 佐倉市
地区 志津地区
標高
25 m
人口
2017年(平成29年)10月31日現在)[1]
 • 合計 2,431人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
285-0844[2]
市外局番 043[3]
ナンバープレート 千葉
※座標・標高は上志津原自治会館はらトピア付近

上志津原(かみしづはら)は、千葉県佐倉市大字郵便番号285-0844[2]

地理

北は上志津、北東は中志津上志津、東は下志津原四街道市大日、南東は下志津原、南は千葉市花見川区宇那谷町、南西は千葉市花見川区み春野、西は八千代市勝田、北西は西志津上志津に隣接している。

歴史


上志津原のおいたち 【17】【18】【10- p151】。

入 植

 上志津原は、終戦の1945年(昭和20年)8月15日まで、現在の佐倉市の上志津原、下志津原、四街道市の大日、鹿放ヶ丘、千葉市花見川区の宇那谷町、大日町、三角町、千種町、稲毛区の山王町、長沼原町、天台町、などに展開する広大な旧陸軍下志津原演習場【48-P31】【48-巻末】【54】【55】の一画で、戦後、入植した方々によって開拓されて生まれた新しい「村」です。

 軍用地以前は志津村上志津の一部で、上志津と地続きです。【53】【57】【10-巻末】

 現在の上志津原の地域に人が来たのは1945年(昭和20年)11月でした。視察に来ました。【15】

 そして主として1946 年(昭和21年)1月、2月、3月に第1次入植者44名が入植しました。が、間もなく12名が脱落しました。【15】

 上志津原の地に、戦車や軍靴の響きや砲声に代って土を耕す開墾の鍬の音が聞え始めたのは1946 年(昭和21年)初頭からですが、その前1945 年(昭和20年)8月、終戦間もなく、この旧陸軍下志津原演習場では、周辺にあった飛行隊や野砲学校等の将校が先導した「下志津原開拓団」が結成されていました。【補足1】

 上志津原地区の入植者は、その分団として1946 年(昭和21年)1月、勝田分団を設立しました。【15】 勝田分団の担当区域は現上志津原の全域と八千代市勝田の一部でした。面積は約130ヘクタールです。分団名の「勝田」は縁起をかついで在地・勝田地区の名を採りました。分団員は主として各出身地の先駆者の手引きによるもので、そのほとんどが1946 年(昭和21年)3月末までに入植しました。【11】

 当時開拓団の事務所は千葉市若松町陸軍第5航空教育隊の跡の建物を利用していました。ここで雨露をしのぎ、開墾のため現地に通うわけですが遠いので効率的ではありません。そこで1946 年(昭和21年)4月までに役員を除く全員が現地・原に移り住みました。移ったといっても住むに家なく、第1陣は上志津の有力者・O氏にお願して、西福寺に起居させていただくことになりました。そして間もなく、千葉市若松町第5航空教育隊の建物を払い下げてもらい、現地に3棟の合宿

所的なものを作り、やっと本格的に開墾に打ち込めることになりました。【12】

 

食料難

  食料難の時代でした。終戦直後は国中が食料難でしたが、機械もなく、一鍬一鍬原野を切り開く重労働の開畑は、開拓者の腹にこたえました。この食糧事情を救ったのは第一に、至る所に生えていた「わらび」でした。10分間位で1キロ、2キロ採れるところがざらにありました。

 第二には「こんにゃく」でした。風船爆弾用ののりの原料だったと想像されますが、当時軍用物資は好い加減な経路で払下げられるケースが多かったようで、どのようなルートで払い下げられたのか、一版組合員には知るよしもなかったのですが、毎日をわらびとこんにゃく、そして少量のコメ麦を初年度の8月近くまで食べ続けて来て、8月から9月頃に漸く第1回の収穫さつま芋の探り堀りが始まり、澱粉質偏重でしたが、やっと腹の虫を抑えることが出来ました。【12】


作物栽培

 この食糧難に加え大変だったのが、肝心の、農業生産でした。

 戦車のキャタビラや軍靴で踏み固められた土地を文字通り鍬でひと鍬ひと鍬耕す開墾が大変だったことに加え、土地がやせていて作物が育たない、種を捲いても芽が出ない、芽が出ても苗が立ち上ってこない、苗が育っても実がならない、といった案配でした。【7】【8】【38】 いろいろな作物づくりを試行錯誤しながら、ようやくこの地でやっていけそうだとなるには3~4年かかったそうです。

 平成23年1月1日発行の『上志津原たより』新春インタビュー「上志津原の開拓を語る」です。【38】

 「-最初、作物は何を作られましたか。 Iさん 農業の指導者からこれがいい、育てやすいからとカボチャの壺堀り栽培を教えられてやりましたが、そんなのうそっぱちで大失敗でした。酸性土壌なので育ちませんでした。農業は成果が出るのは1年単位ですから大変です。種を蒔いても芽が出ない、芽が出ても苗が育たない、苗が育っても実がならない。

 こうして1年が過ぎました。2年目はサツマイモを植え、オカボ(陸稲)の種を蒔きました。

 供出農家には肥料の配分がありますが、開拓農家にはないので苦労しました。

 3年目には落花生の種を開拓組合で心配してくれました。

 2年、3年、4年とやってきて、なんとか農業をやっていける、生きるに必要な食糧が採れるという見通しがついたのは4年目くらいからでしょうか。」【38】

 「-さて、農業のその後ですが。 Iさん 30年頃、サトイモを採り入れました。ここは火山灰土で土が乾きます。そこで30年に畑地かんがい用水工事を始め32年に完成、33年頃からサトイモがでるようになりました。何の作物でも水が有るのと無いのでは育ち方が違ってきます。畑地かんがい用水導入の意味は大きかった…。」【38】

 畑地かんがい用水とは井戸を掘り、水をくみ上げ、スプリンクラーで畑に水を蒔く施設で、県による敷設事業が行われました。県内で2番目の事業でした。【56】【7-巻頭】【8-巻頭】 


住まい

 住まいは1946年(昭和21年)晩秋から各開拓者の払下げ予定地に単独家屋の建設が始まりました。最初の分団事務所のあった千葉県若松町の第5航空教育隊跡の建物を払い下げてもらい、これを解体製材して持ち帰り、全員の共同作業で順次家を建設しました。間取りは、6畳ひと間、押入れ2畳、土間3坪、2間×3間半で、合計7坪でした。

 壁は外羽目だけ、屋根はルーフイング、雨露をしのげるのみで、木の羽目板の節穴から凛然とした星が良く見えたものでした。【13】【7-166】【8-P149】

 風が吹けば砂が、冬になれば雪が舞い込む家でしたが、各自の家を持った喜びは大きいものでした。農作業の拠点として、定住する意思のよりどころとして、妻帯者は実家に預けた妻子を呼び寄せることができ、独身者はお嫁さんを迎えることができるなど、この地で生きる計り知れない力になりました。

 先のインタビューのつづきです。

 「Iさん 伴侶を得た箏は開拓生活で大きな力になりました。ひとりと二人では大ちがいです。明日はなんの作業をしようかと相談しながらやれるようになりましたからねえ。はかどるようになりました。」【38】

 こうして、全員の住宅が完成したのは昭和22年の春でした。【13】。


 1946年(昭和21年)1月、幹線道路沿いの防風林の植林が行なわれました。【15】

 1948年(昭和23年)2月、電灯が敷設されました。『15】

 この間、組織的には1946年(昭和21年)4月、下志津原開拓団は発展的に解散、勝田分団は勝田帰農組合と改称されました【15】が、1947年(昭和22年)12月15日、農業協同組合法が施行され、1948年(昭和23年)3月21日、上志津開拓農業協同組合を結成(37戸)しました。【15】

 『昭和24年作製「上志津開拓農業協同組合地区」」の地図に組合員37名の名が記載されています。【50-P49】【58】

 以後、上志津原の開拓は、この農業協同組合のもとで行われていきます。


道 路

 入植当時の道路は、千葉と四街道に通じる道路はありましたが、砂利も入っておらず、草の生えた馬車道でした。その他の道は軍がこの地を買い上げる前の道を使ったりしていましたが、補修等の余裕もなく、水溜りになると別の所が新しい道になることの繰り返しで、「原に入り込むと二度と出られない」と言われていました。草丈は自分の背丈以上のところが多かったので、道路は見通しのきかない迷路状態だったようです。【30】

 そんな状態だった道路も、現在の地図を見ると、千葉~志津館の幹線道路に沿って、宅地・農地共に碁盤の目のように走っています。しかも道路で区画された土地は皆同じ長方形で、面積も同じようです。こうなった経緯を尋ねてみました。

「幹線以外の道路は、入植者によって農道用として造りました。」「囲まれた土地が同じ形の長方形になっているのは、おっしやる様に全て100間×60間(180㍍×108㍍)に区画したからで、面積は2町歩(約2㌶)になります。当時入植者1戸当たりの割り当て面積は2町歩だったのです。」【30】

 

確定測量、地番付与、土地の登記・払下げ、上志津原の誕生

 確定測量が1950 年(昭和25年)に行われ、1951年(昭和26年)に初めて今まで国有無番地であった地区の土地が登記され、ここに上志津原は上志津から分離し、独立した一部落となりました。大部分の開拓者に対する土地の払下げもこの年に行なわれました。【14】

 ここで初めて「上志津原」という地名が登場します。【19】

 この時の確定測量で番地が付与されたことが推定されます。【22】【23】 

 細かい枝番もすべて書き込まれた「上志津原地番詳細図」が作成されています【59】。が、残念なことに作成年の記入がありません。1950・1951年(昭和25・26年)頃作成されたものと推定されます。

 『上志津原たより』第100号(1982年(昭57)年3月 上志津原町会)の年表「上志津原の37年史」には「26年7月 国有開拓地払下げ。1戸当り、2町歩(畑、宅地、361坪159円84銭。山林、原野、3百坪198円)。28年 上志津より分離独立し、上志津となる、」とあります。【15】

 『上志津原たより』 第300 号( 1990年(平12)10月 上志津原町会)「年表」は前記の記述を踏襲しています。

 『はらトピアフェスタ2007』 (2007年(平19)11月)上志津原自治会館開館10 周年記念事業実行委員会「上志津原の歴史年表」【52】によりますと、「25年 確定測量を行った。26年 土地が登記され、国有開拓地が払い下げられた。(1戸2町歩) 28年 地名が「上志津原」に決まり、上志津から分離した。(それまでは印旛郡志津村上志津無番地) 28年、「佐倉市上志津原確定図」【50- P49】が作成された。(47戸=開拓者37戸、増反5戸、鹿放から5戸))」とあります。【52- P14】

 1950 年(昭和25年)の「確定測量」から1953年(昭和28年)の「上志津原誕生」まで、ホームページ『ようこそ!わが町上志津原へ』「こんな町です『上志津原』」「上志津原のあゆみ(年表)」【53】でも同じ書き方をしています。

 上志津農業協同組合を結成した時は37名でのスタートでしたが、その後、1949年(昭和24年)4月、増反で5名、1950年(昭和26年)6月、鹿放から5名の計10名が入居し、合計47戸となりました。以後上志津原の開拓は1964年(昭和39年)まで、この体制で進められてきました。

 増反とは、1946年(昭和21年)9月、上志津地区内に下志津原農地奪還同盟が結成され軍用地として軍に買上げられた土地の返還を要求したもので、折衝の結果、幹線道路の北東、今の小字・南中野の部分に5戸が入ることになりました。【13】 

 鹿放からとは、鹿放ケ丘農苑開拓共同組合からの移住者で、鹿放ケ丘には元満蒙開拓青少年義勇軍訓練所内基幹学校の生徒が終戦後やってきて鹿放ケ丘地区の開墾に着手したのですが人数が多く上志津開拓農業協同組合に地域の分譲を要請してきたもので、幹線道路の南西、今の小字・幸野の南10町歩を割譲することなったものです。【13】


学 校

 学校は、3年生までは矢橋にあった志津小学校の分校でしたが、4年生からは上座の本校に通いました。片道5~6㎞あったと思います。【30】

 1961年(昭和36年)4月上志津小学校が、1967年(昭和42年)4月下志津小学校が、1974年(昭和49年)4月南志津小学校が開校しました。順次小学校が上志津原に近づいてきました。

 中学校は1947年(昭和22年)5月、志津中学校が開校されていましたが、1973年(昭和48年)4月、上志津原近くに上志津中学校が開校しました。【62】

 

上志津原の地名(上志津原命名秘話) 【19】【20】【21】【9- P22】【10- P137】

 上志津原は上志津の一部で、旧陸軍の演習場だったため、無番地でした。したがって入植当時の開拓者のみなさんの住所は「印旛郡志津村上志津無番地」でした。

 「開拓が進み、幹線道路や内部の道路、農地や防風林などの区画ができ、確定測量は25年に行われ、26年に初めて今まで国有無番地であった地区の土地が投機され、ここに上志津原は上志津より分離し、独立した一部落となり、大部分の開拓者に対する土地の払下げもこの年に行なわれました。【19】

 なるほど、ここで初めて「上志津原」という地名が登場するわけです。ではこの「上志津原」という地名はどうして付けられたのでしょうか。上志津の先にある原だから、と考えるとなんとなく自然で、ふんふんと納得してしまいますが、この命名にはちょっとした秘話がありました。1987年(昭和62年)3月、当時の町会が企画して青年館で開催した「写真で見る上志津原のあゆみ展」の資料収集活動でH様のお宅を訪問した時のことでした。開拓組合の議事録が残っていれば展示させてほしいと考え、当時の拓親会会長に相談したところ、それならH様が保管しているだろう、と教えてくださり、訪れたわけです。H様の居間のこたつの上で、文書綴のカーボン複写した薄い和罫紙を一枚一枚はぐようにめくっていた私は、アッと驚きました。【19】

 同行者は当時の町会長NA様、副会長のNI様、それに私の3人でした。アッと驚いたのはーまず、ある年ある月の総会で大字の名称が議題となり、「原」に決定した、と書いてありました。ところが議事録をめくっていると、何か月もたたない次の会合で再度地名の件が議題となり、「上志津原」に決定した、とあるではありませんか。地名を決めるという重要案件の決め直しという大変興味深い事実が記されていたのです。ただしこの時は展示会づくりで忙しく、みんなで興味深くのぞいたものの、このことに深入りしているわけにはいかず、単に記憶にとどめただけでした。

 今回この連載を書くにあたって私は、もう一度あの議事録を見たいと思いました。いつのことで、正確にはどういう記録だったのか。しかし保管文書は役員交代のたびに引き継いでいくそうで、今H様の手もとにはなく、他の複数の方を訪ねるなどして追跡調査を試みましたが、見つけることが出来ませんでした。しかし文書とは別に、その決め直しの事実と事情を鮮明に覚えていられる方の証言を得ることができました。【20】

 はじめ「原」と決めておきながらすぐに「上志津原」に決め直しをした、と言う記録を見たことがあるのですが…とお尋ねすると、Y様は「ああ、そういうことがあったね」と、即座に肯定なさいました。お話によると…。開拓が進み、いよいよ土地を登記する段階となり、この地に名前を付け、番地を付そうということになり、原だから「原」にしよう、簡単でいい、とみんなで決めたわけですが、入植以来集落としては上志津に属しており、上志津の人たち、具体的には上志津の長老たちの了解をえなければなりませんでした。しかし、「原」では承知してくれなかった、ということです。上志津側の言い分は、独立するのはいいが、昔からよく、新しく開いた土地に〇〇新田と名付けるように、上志津〇〇とでもいうならともかく上志津とまったく縁のないような名はけしからん、というわけです。これに対し上志津原側は、「上志津」という3文字を上に付けると長くなってしまうのでごめんだ、手紙を書くにも何を書くにも一生ついて回るのだから簡単な方がいい、とがんばったようですが、なにしろ入植以来なにかとお世話になった手前さからうわけにもいかず、考え直して「上志津原」にした、という次第でした。

 しかし今になってみると、「上志津原」でよかったですね、と水を向けるとY様はいく分複雑な表情をされながら、「そうですね」と、ニコニコと応じてくださいました。【21】


 なお、小字名については、開拓に入った人たちが自分たちの居住地に地区名を設定しました。

 吉野―上志津原開拓の始まりを新しい日本の始まりとし、日本文化の始まりである奈良の吉野の地名を採用したものと伝えられています。

 幸野―この地区に入った開拓者の多くが栃木県出身であったことから、日光中禅寺湖の別名「幸野湖」(明治天皇が行幸の折、命名されたもの)に因んでつけた地区名です。

 大和台―この地区への入植者の多くが東京都下大和村(現・東大和市)の出身者であったことから、この地を第二のふるさとにする意味で命名されたと伝えられています。

 南中野―上志津から増反で入居した方たちの地区です。上志津南中野の地続きであることから付けました。【9- P22・23】【10- P137・138】


整備が進む開拓の村   

 1954年(昭和29年)4月、上志津原町会が発足しました。【52】

 1954年(昭和29年)11月、第1回運動会を開催しました。【15】

 1955年(昭和30年)8月、第1回盆踊り大会を開催しました。【15】

 1959年(昭和34年)12月1日、バスが開通しました。(上志津線 志津液入口~上志津入口~志津三叉路~上志津~上志津新田~本村~上志津原~開拓地~富士見ヶ丘~大日今宿 → 四街道駅)【61】

 1964年(昭和39年)、防風林に桜の苗木を植樹しました。【52】

 ? 年、この頃、上志津原交差点の角に「瀬田商店」が開店しています。生活雑貨屋さんです。


 こうして1964年(昭和39年)まで、47戸の開拓者でこの「村」は作られてきましたが、1964年(昭和39年)頃から新しく宅地造成が始まり、1965年(昭和40年)3月頃から分譲が始まり(原団地、商店街、八紘苑など)、新住民が流入して来ることになりました。【15】【52】。

 1967年(昭和42年)4月、世帯数は100戸を超え、(昭和48年)4月には300戸を超え、1990年(平成2年)4月には500戸を超えました【52】。

 1964年(昭和39年)3月、企業進出第1号として「光莫大小」が当地に工場を建設、生産を開始しました。【15】

 1969年(昭和44年)、志津浄水場が建設され、給水を開始しました。

 1973年(昭和48年)3月、幹線道路の舗装が開始されました。

 1973年(昭和48年)5月、町会広報紙『上志津原たより』が創刊されました。

 1975年(昭和50年)4月、少年野球チーム「スターズ」」が発足しました。

 1975年(昭和50年)11月、老人クラブ「双葉会」が結成されました。

 1978年(昭和53年)6月、野球チーム「キングスターズ」が発足しました。

 1979年(昭和54年)4月、上志津原グランドが現在地に開設されました。【52】


写真で見る上志津原のあゆみ展 【7- P165】【41】【44】【49】

 上志津原町会は1987年(昭和62年)3月21日、町会の集会所・青年館で「写真で見る上志津原のあゆみ展」を開催しました。当地が戦後開拓された土地なので、こうした開拓農民の汗と涙のあゆみを振り返ることは、農家の方々はもとより、その後この地に住み着いた新住民にとっても意義あることであろう、と考えたからです。

 開拓を物語る写真パネル約20枚を中心に、とうみ、鍬などの農具や、上志津原確定図などの地図や開拓関係文書、開墾で掘り出した砲弾、畑で拾った砲弾の鉛玉、などを展示展開、会場の真ん中のテーブルには各家から持ち寄ったアルバムを並べ、手に取って見られるようにしました。

 説明役には開拓農家の親睦団体・拓親会にお願いし5人ほどスタンバイしていただき、子供たちの質問や参観者との語らいに応じていただきました。

 会場は終日参観者で賑わいました。子供たちもたくさん見に来てくださいました。

 アンケートでは、「町会が古い写真を集めているとは聞いていたが、こんなにりっぱな展示会になるとは」「初めて上志津原のことをよく知りました」「開拓の様子を話には聞いていたが、写真を見てよく想像ができました」「なつかしく、涙が出ました」等など、たくさんの感想が寄せられました。

 この「上志津原のあゆみ展」展示会づくりは、「身近な展示の「場」―町の人たちの展示会づくり」という表題で、後に日本展示学会の研究大会で発表され、学会誌に収録されました。【49】

 研究大会での発表は『千葉日報』で報道されました。【44】


上志津原ふれあいどおり 【16】初出【7-P168】【8-P151】

 佐倉市のホームページを見ると、「戦後の地域開拓の歴史的なシンボルである防風林を歩行者空間として残しています。」と、あります。

 上志津原交差点から南へ、西へ、幹線道路沿いに防風林を活用した遊歩道があります。

 上志津原は、戦前は四街道から広がる下志津原陸軍演習場の一画で、戦後入植した方々によって開拓されました。幹線道路沿いの松林は防風林として植林されました。【12】

 防風林は農地の保全と集落への砂埃を防ぐために植えられたものです。

 開拓にあたりまず防風林を作ることになり、1946年(昭和21年)4月には初めて植林作業が行われました。【12】防風林は国有地ですが、管理は開拓組合に委託され、下草刈りなどは開拓農家が分担して行なってきました。


 防風林は松林ですが、桜がたくさん植えられていて、桜の名所にもなっています。

 幹線道路沿いの防風林は春になると見事な桜並木に一変します。種類は大寒桜やS名吉野、数は約160本あります。【16】【7】【8】

 松林にどうして桜が植えられたのでしょうか。1964年(昭和39年)に市から市制10周年記念事業として桜植樹の話があり、苗木の給付を受けて、皆んなで植えたのが始まり、とのこと。この時は金子牧場(今は中央フーズ)から小森商店前(上志津原交差点)を南に曲がって一部区間まで。

 しかしこれが成長して春を賑わすようになると、これはいい、もっと植えようということになり、約10年後にかなり大がかりに2回目の植樹をしたそうです。

 そして、桜苗木の植樹は今も毎年続けられています(昭和62年8月現在)。【16】

 その後防風林はその役割を終え1990年(平成2年)、市が国から道路用地として譲り受けました。【42】

 市では1999年(平成11年)、遊歩道として整備しました。そして名称を公募、「上志津原ふれあいどおり」に決定しました。【43】

 全長1.3キロ。一部の区間はいちょう並木にもなっており、町会では春は桜、秋にはいちょうのライトアップをしています。そして各所に花壇を作って、敷の草花が楽しめるようにしています。なお、秋には一面にヒガンバナが咲き誇ります。上志津原まちづくり委員会のふれあいどおり部会では2008年(平成20年)から、彼岸花百万本計画を展開中です。【47】


上志津原の今 

 1990年(平成2年)10月27日、『千葉日報』が「町会広報紙が200号」という4段見出しの記事を掲載してくださいました。【21】

 1991年(平成3年)、「南志津クリニック」が開設されました。【51】

 1996年(平成8年)7月20日、バス路線が上志津経由から志津図書館経由に変更されました。【61】

 1997年(平成9年)11月、これまで町の集会所であった青年館が建て替えられ、上志津原自治会館が竣工しました。愛称を公募、「はらトピア」と名付けられました。【52】

 2002年(平成14年)12月、特別養護老人ホーム「ゆたか苑」が開設されました。【46】

 2005年(平成17年)から第2次宅地造成ラッシュが始まり住宅団地が各所に建設されました。【52】

 2006年(平成18年)4月、町会活動を支援するための「原まちづくり委員会」発足しました。(最初は宅地開発ラッシュ対応)【31】

 2008年4月 (平成20年)4月、佐倉市市民協働事業に参加しました。【32】【35】【39】

 2008年(平成20年)7月19日、まちづくり委員会のもとに「はら Co Co くらぶ」が発足しました。(イベント部会、ふれあいどおり部会、パソコン部会など)。【32】

 2008年(平成20年)9月、敬老会がはらトピアで初開催されました。(これまでは南志津小学校会場などに行っていました。)【33】

 2009年(平成21年)4月、志津南地区社会福祉協議会の活動を「上志津原ブロック」として行えるようになりました(「森の茶屋」など)。【34】

 2010年(平成22年)2月、コンビニ・セブンイレブン佐倉上志津原店開店しました。【36】

 2010年(平成22年)7月、上志津原防犯委員会結成されました。【37】

 2015年(平成27年)2月16日、バス路線のダイヤ改正があり、千葉内陸バス四勝線(四街道~上志津原~志津図書館前~勝田台駅)が運行開始されました。志津南口発着は大幅減便になりました。【61】

 2017年(平成29年)11月26日、はらトピア20周年記念「上志津原文化祭」を開催しました。【40】


 「歴史」の項の次にある「世帯数と人口」によりますと、2017年(平成29年)10月31日現在の上志津原の世帯数は1,012世帯です。【53】参考までに2017年(平成29年)4月1日現在の町会員数は総会予算書によりますと841世帯です。町会加入率は良い状態を維持していると言われています。

 町会では様々な活動が活発に行われています。盆踊りや運動会には大勢の人が集まります。

 町会が運動会を継続しているのは珍しいといわれています。

 町会とまちづくり委員会が連携し、関係団体が協力して行う諸行事も盛んです。

 開拓者が作った「村」(町)に新住民が溶け込み、住みよい町をつくっています。


補 足

1、旧陸軍下志津原演習場 【6】

 旧陸軍下志津演習場は、具体的には、戦前に、四街道市の大日、鹿放ヶ丘、千葉市花見川区の宇那谷町、大日町、三角町、千種町、稲毛区の山王町、長沼原町、天台町、佐倉市の上志津原、下志津原、など2,400余町歩に及ぶ広大な土地に展開していました。そしてここには、陸軍野戦砲兵学校、下志津飛行学校、戦車学校、高射砲兵学校、歩兵学校などがありました。【6】

 1945年(昭和20年)8月15日終戦。これらの復員軍人軍属は、国破れて諸物資欠乏、特に最悪の食糧事情下において、国家再興は食料増産にありと帰農することを決意、各部隊の有志は下志津原の開拓を計り、各々の身近な所から開墾を始めました。

 このような散発的な開墾に対して、下志津原陸軍演習場主管者であった陸軍野戦砲兵学校長・H氏は、敗戦國家再建のための食糧増産を決意、下志津原2400余町歩全体にわたる組織的な開拓を着手、各部隊ごとに開墾を始めていた帰農希望者を統一して、「下志津原開拓団」を結成しました.【6】  

 こうして開拓団は最初は軍隊からの復員軍人軍属が中心でしたが、やがて、海外からの帰国した復員軍人軍属、引揚者、戦災者などの受け入れ先となりました。

 下志津原開拓団の発足式は、1945年(昭和20年)9月14日に行われたそうです。【50-P32】


2、下志津原開拓団のその後

 戦後いち早く「開拓団」が結成されたこと、上志津原地域にも入植者が入り、下志津原開拓団の勝田分団として開拓を始めたこと、1948年(昭和23年)3月、上志津開拓農業協同組合を結成してから開拓が順調に進められたこと、はよく分かっていますが、「開拓団」の推移について、よく分からないことがあります。下志津原開拓団は、「発展的に」ではありますが、1946年(昭和21年)4月には解散しているのです。【6-P3】

 『下志津原大日開拓誌』を読んで「開拓団」が早々と1946年(昭和21年)4月に「解散」したと知った時は驚きました。「開拓団」が「解散」したのに、「開拓」はどうやって進められたのでしょうか。

 俗な書き方になりますが、当初の将校主導の開拓はいろんな意味で、うまくいかなかったようです。【50-P34】

 『下志津原大日開拓誌』第3頁の記事によりますと、1945年(昭和20年)9月、農地開発営団が農林省の委託により開拓本部内に事業所を開設します。そして1946年(昭和21年)4月、開拓団は「発展的に」解散し、「下志津原開拓者連盟と改められた組織に移行した、」とあります。

 1947年(昭和22年)7月、マッカーサー機関令により開発営団は閉鎖になります。

 開拓団内に開設されていた事業所は国の直轄となり農林省国営下志津開墾事業所と改め、「下志津緊急開拓農地開発事業計画」が設定された。」とあります。計画は1945(昭和20年)9月30日着手、1949年(昭和24年)3月31日終了、とあります。【6-P3-4】

 次の頁に「各分団の構成員と経営要領」という表があります。【6-P5】「分団名」は10あります。

 大日(448戸-鹿放158含む)、曙(60)、池之辺(30)、千高(15)、同愛(24)、千種(79)、山王(102)、天台(44)、勝田(40)、守田(21)です。(()は戸数です。)

 いつ現在の表なのか分かりませんが、勝田分団が結成されたのは1946年(昭和21年)1月ですから、勝田分団の1月の結成から「開拓団」解散の3月までの間に作られた表と考えられます。

 『上志津原たより』第6号の「上志津原の生いたち③」【13】によりますと「勝田分団は勝田帰農組合と改称し」とあります。【13】これで分団が帰農組合に衣替えしたことは分かるのですが、いつ、どのように、と言う記録はありません。しかし1946年(昭和21年)4月の開拓団解散後、1948年(昭和23年)3月の上志津開拓農業協同組合結成までが気になりますので、先ほどの『下志津原大日開拓誌』をさらに読み進めましたら参考になることが書いてありました。「大日分団」のことです。「1946年(昭和21年)4月、大日分団を解散し、大日帰農組合を設立した。」とあります。

 この記述で、1946年(昭和21年)4月1日、下志津原開拓団解散、帰農組合設立、そして1948年(昭和23年)の開拓農業協同組合設立、という流れを把握することができました。

 1948年(昭和23年)3月21日、上志津開拓農業協同組合が設立されました。

 その「開拓農業協同組合概要」という書類によりますと、「下志津原北端の約70町歩の旧軍用地に主として復員者及び満州からの引揚者30数名が集まり、開拓の鍬を入れて2年間というものは収穫殆ど皆無の状況で、」とありさらに「当組合の特色は開拓当初より人間の入替りがほとんどなく、最初から独立の型式をとり、組合の役員は連番性で交代し総べて合議制の建前で運営され、合わせて現佐倉農協に加入し、県連合会と相まってその助力により順調に発展して来た。」とあります。1972年(昭和47年)6月12日解散しています。【50-P43】

 1972年(昭和47年)8月、開拓組合解散により、親睦団体「拓親会」が設立されています。【15】


3、上志津原のあゆみ展づくり 【7-p165】【41】【44】【49】

 「写真で見る上志津原のあゆみ展」は当日盛況で、たくさんの町民が見に来てくださり、回顧談に花が咲きました。しかし、この「あゆみ展」で特筆されるのは、その「展示会づくり」でした。日本展示学会で「身近な展示の場 町の人たちの展示会づくり」という表題で発表され、話題となりました。

 町会の1年間の行事があらかた片付いた1月の会議で展示会をやることが決まり、役員はすぐ次の日曜日から行動を開始しました。手分けして開拓農家を訪問しました。ところどっこい、どこのお家でもまず異口同音に言われたことは、「古い写真なんてありませんよ。当時は食うや食わずの生活で、写真どころではなかったですからねえ」「カメラなんか、誰も持っていませんでしたから。」とのことでした。

 こうして古い写真はなかなか出てこなかったのですが、お訪ねしたお宅の居間でこたつにあたりながら雑談していると、「ちょっとお待ちください」と奥のお部屋からアルバムが出てきます。それをめくっているとぽつりぽつりといい写真が見つかります。2日間で5~6軒回ったところでいい写真何枚かに出くわしたところで私は、これはいける、いい展示会が出来ると確信しました。

 例えば、開拓入植者が原野で鍬をふるう写真【8-P149】【41】【45-P56】、戦闘帽をかぶった写真【41】【45-P56】【53】、最初に建てた共同住宅の写真【7-164】【45-P56】【53】、開拓住宅の写真【7-P166・167】【41】【49【53】】、団長さんの家で新年会をやった時の集合写真、ランドセルを串刺しにして防風林のヘリに並んで座りたたずむ子供たちの写真【29-P6】、草むらに放送設備を置いた運働会本部の写真、畑地かんがい用水工事の「水が出た」という写真【7-巻頭】【8-巻頭】【45-P56】、耕運機に乗った花嫁さんの写真【29-P6】【41】【45-P56】【53】、など。

 訪問活動を続けているうち、上志津原確定図などの地図、開墾中に掘り出した砲弾など、開拓をめぐる様々な資料にめぐり逢いました。そこで、展示会は写真を中心にするものの、開拓関係資料を集めた展覧会が出来ることになりました。とうみなどの農具のほか年表や開拓の苦労話や開拓住宅の間取り図のパネルを作る知恵も出てきました。

 パネル作成では、普段は鉄板を切断している男性が、初めて扱うハレパネがカッターナイフですぱっと切れなくて苦戦をしているなど、おもしろい光景も見られました。【49】

 日本展示学会の研究発表では、会場に来ている町会長が「展示会づくりを陣頭指揮した人」と紹介されると温かい拍手が場内から寄せられました。【44】

 もともと「町の人たちの展示会づくり」を学会で発表すること自体が異例です。なぜなら研究大会は、動物公園や幕張メッセに関する実践的な研究や、デイスプレイ環境の基礎的研究、浮世絵など展示の冒険的試み、などが発表される「場」だからです。

 発表者は、「普段は博物館や都市空間の中で仕事をする私たち自身が、市民であり地域の構成員であることを想う時、展示の場が以外にも身近にあったことを知り、これを伝えておく必要があるのではないかと思った」と結んで共感を呼びました。【44】

 「あゆみ展」で収集された開拓の主な写真パネルは保管され、後の町会のイベントで「ミニ展示」されるなど活用されています。【40】【52】 またその映像の何点かは、ホームページ「ようこそ上志津原へ!」の「上志津原のあゆみ(年表)」等にも活用されています【53】。


4、志津という地名 【8- P17】【24】【25】【26】【27】【28】

「志津」という地名の由来

 私たちの住む「志津」、「志津」とはとてもすてきな地名ですがこの地名はどうして命名されたのでしょうか。これにはいろいろな説があります。

 四つの津(入江、沼地)があったから、

 清水が湧いていたから、

 志津次郎胤氏が居城を構えていたから、

 織物の集団・倭文部(しどりべ)がいたから、

など、諸説があります。

 織物とは倭文織(しづおり)のことで、昭和51・52年の飯郷作遺跡(佐倉西高等学校)の発掘調査で紡錘車が出土していることも、この説を勇気づけています。

しかし平成6年の上志津・干場遺跡の発掘調査で、「清水」と書いた墨書土器が出てきたことから、「清水」説も有力です。

(参考文献)

1、八重尾比斗史「志津地名考」(『歴史研究』5月号、新人物往来社、昭和59)

  八重尾等『郷土史探訪(1)』(「志津の地名考」所収)(八重尾等、平成5)

2、上山ひろし「志津地方の歴史 地名について・志津」(『わが町中志津10周年記念誌』中志津自治会、平成5)

  上山ひろし「志津地域の歴史的考察 地名の由来・志津」(『わが町中志津20周年記念誌』中 志津自治会、平成10)

3、宮武孝吉「上志津原の地名を探る」(『上志津原たより』上志津自治会、平成2年6月号から連載。平成3年4月~8月号「志津という地名 1~5」)

4、田中征志「志津の地名について」(『佐倉の地名』佐倉地名研究会、平成28年1月・第12号から連載。30年1月・第18号「その七」で只今連載継続中)

             (『歩いてみよう志津』宮武孝吉著、2018年9月、大空社出版)P17


出 典

6、『下志津原大日開拓史』 1975年(昭50) 下志津原大日開拓史編纂委員会編

7、『志津の史跡と名所』 2000年(平12) 宮武孝吉著 志津文庫

8、『歩いてみよう志津』 2018年(平30) 宮武孝吉著 大空社出版

9、『多輪免喜』第5号 志津の地名 2010年(平22) 佐倉地名研究会

10、『多輪免喜(中)臼井・志津編「佐倉をもっと知ろう」』 2023年(令5) 佐倉地名研究会


11、『上志津原たより』第3号 1973年(昭48)7月 上志津原町会「上志津原の生いたち①」 

12、『上志津原たより』第4号 1973年(昭48)8月 上志津原町会「上志津原の生いたち②」 

13、『上志津原たより』第6号 1973年(昭48)10月 上志津原町会「上志津原の生いたち③」

14、『上志津原たより』第7号 1973年(昭48)11月 上志津原町会「上志津原の生いたち④」 

15、『上志津原たより』第100号 1982年(昭57)年3月 上志津原町会「上志津原の37年史(年表)」

16、『上志津原たより』第158号 1987年(昭62)年8月 上志津原町会「上志津原とその周辺の史跡と名所⑫」

17、『上志津原たより』第196号 1990年(平2)6月 上志津原町会「上志津原の地名を探る①、上志津原の大地」(宮武孝吉)

18、『上志津原たより』第197 号 1990(平2)7月 上志津原町会「上志津原の地名を探る②、上志津原の開拓」(宮武孝吉)

19、『上志津原たより』第198号 1990(平2)8月 上志津原町会「上志津原の地名を探る③、上志津原命名秘話(1)」(宮武孝吉)

20、『上志津原たより』第199号 1990年(平2)9月 上志津原町会「上志津原の地名を探る④、上志津原命名秘話(2)」(宮武孝吉)

21、『上志津原たより』第200号 1990年(平2)10月 上志津原町会「上志津原の地名を探る➄、上志津原命名秘話(3)」(宮武孝吉)

22、『上志津原たより』第201号 1990年(平2)11月 上志津原町会「上志津原の地名を探る⑥、上志津原の地番)」(宮武孝吉)

23、『上志津原たより』第202号 1990年(平2)12月 上志津原町会「上志津原の地名を探る⑦、上志津原の地番(2)」(宮武孝吉)

24、『上志津原たより』第206号 1991年(平3)4月 上志津原町会「上志津原の地名を探る⑪、志津という地名(1)」(宮武孝吉)

25、『上志津原たより』第207号 1991年(平3)5月 上志津原町会「上志津原の地名を探る⑫、志津という地名(2)」(宮武孝吉)

26、『上志津原たより』第208号 1991年(平3)6月 上志津原町会「上志津原の地名を探る⑬、志津という地名(3)」(宮武孝吉)

27、『上志津原たより』第209号 1991年(平3)7月 上志津原町会「上志津原の地名を探る⑭、志津という地名(4)」(宮武孝吉)

28、『上志津原たより』第210号 1991年(平3)8月 上志津原町会「上志津原の地名を探る⑮、志津という地名(5)」(宮武孝吉)

29、『上志津原たより』第300 号 1990年(平12)10月 上志津原町会「年表」

30、『上志津原たより』第326号 2006年(平17)8月 上志津原町会「還暦 上志津原 生い立ちを振り返る」

31, 『上志津原たより』第333号 2007年(平18)4月 上志津原町会 

32, 『上志津原たより』第348号 2009年(平20)8月 上志津原町会 

33, 『上志津原たより』第349号 2009年(平20)10月 上志津原町会 

34, 『上志津原たより』第351号 2010年(平21)3月 上志津原町会  

35、『上志津原たより』第352号 2010年(平21)4月 上志津原町会  

36, 『上志津原たより』第355号 2010年(平21)10月 上志津原町会

37, 『上志津原たより』第360号 2011年(平22)8月 上志津原町会 

38、『上志津原たより』第362号 2012年(平23年)1月 上志津原町会 新春インタビュー「上志津原の開拓を語る」

39, 『上志津原たより』第363号 2012年(平23)3月 上志津原町会

40、『上志津原たより』第400号 2017年(平29)12月 上志津原町会 


41、『広報さくら』NO.539  1987年(昭62)4月 佐倉市 (あゆみ展)

42、『広報さくら』841号 1999年(平11)11月 佐倉市 (ふれあいどおり愛称募集)

43、『広報さくら』847号 2000年(平12)11月 佐倉市 (ふれあいどおり愛称結定)

44、『千葉日報』 1988年(昭63)6月5日 千葉日報社「上志津原のあゆみ 都内で発表、共感呼ぶ」

45、『千葉日報』 1990年(平2)10月27日 千葉日報社「町会広報紙が200号」

46、『ふくし上志津』第37号 2003年(平15)3月 佐倉市社会福祉協議会上志津支会 (ゆたか苑)

47、『佐倉よみうり』No.336,2012年(平成24年)9月28日 (彼岸花)

48、『下志津原』 1986年(昭61)) 陸上自衛隊高射学校 (開拓地概念図、下志津射場図) 

49、『展示学』第7号 1988年(昭63)日本展示学会 「身近な展示の「場」-町の人たちの展示会づくり 宮武孝吉」

50、佐倉地名研究会会報第23号『平成 13 年度 佐倉地名研究会志津部会調査研究報告 佐倉市上志津原の形成―上志津原のあゆみを調べるー」 2002年(平14) 佐倉地名研究会 (農業協同組合、ほか)

51、『抜群の医療サービスを目指します1991年6月1日オープン』 1991年(平3)志津南クリニック

52、『はらトピアフェスタ2007』 2007年(平19)11月 上志津原自治会館開館10 周年記念事業実行委員会「上志津原の歴史年表」

53、ホームページ『ようこそ!わが町上志津原へ』「こんな町です『上志津原』」「上志津原のあゆみ(年表)」

54、下志津射場圖 下志津演習場制定年別 野戦砲兵學校 作成年記入なし。個人蔵

55、大日本帝国陸地測量部 大正6年測図(1929年(昭和4年)修正図) 個人蔵

56、縣営下志津地區畑地かんがい事業現形圖 作成年記入なし、1953~1955年(昭和28~30年)と推定される。個人蔵

57、佐倉市志津地区地名全図 作成年記入なし 上志津原地区が軍用地以前の地名になっている。個人蔵

58、上志津開拓農業協同組合地區 1949年(昭和24年)2月作製 37名の氏名一覧表あり。個人蔵

59、上志津原地番詳細図 作成年記入なし、1950・1951年(昭和25・26年)頃と推定される。個人蔵

60、佐倉市上志津原確定図 作成年記入なし 1951~1953年(昭和26~28年)頃と推定される。47名の氏名一覧表あり。個人蔵(所在不明)

61, ウイキペディア ちばグリーンバス 「大日線」

62, 佐倉市公式ウエブサイト

世帯数と人口

2017年(平成29年)10月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

大字 世帯数 人口
上志津原 1,012世帯 2,431人

小・中学校の学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。

地域 小学校 中学校
1~6 佐倉市立南志津小学校[4] 佐倉市立上志津中学校[5]
8~1322

施設

  • 上志津原自治会館はらトピア
  • 佐倉市水道部志津浄水場
  • 上志津原街区公園
  • 南中野公園
  • 上志津原南公園
  • 幸野公園

交通

道路

脚注

  1. ^ a b 町丁別人口目次”. 佐倉市 (2017年11月1日). 2017年11月22日閲覧。
  2. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2017年11月22日閲覧。
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年11月22日閲覧。
  4. ^ 佐倉市内小学校通学区域 - 千葉県佐倉市公式ウェブサイト、2014-03-15閲覧。
  5. ^ 佐倉市内中学校通学区域 - 千葉県佐倉市公式ウェブサイト、2014-03-15閲覧。