「妻女山」の版間の差分

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上杉謙信の妻女山布陣は定説となっているが「史実にはない」と否定するむきもある。[[森長可]]が[[本能寺の変]]で[[織田信長]]の後ろ盾を失って撤退後、徳川、北条らとの草刈場と化した川中島に北条軍の北上に備えて[[上杉景勝]]が妻女山に布陣した史実との「混同」だとするのがそれである。
上杉謙信の妻女山布陣は定説となっているが「史実にはない」と否定するむきもある。[[森長可]]が[[本能寺の変]]で[[織田信長]]の後ろ盾を失って撤退後、徳川、北条らとの草刈場と化した川中島に北条軍の北上に備えて[[上杉景勝]]が妻女山に布陣した史実との「混同」だとするのがそれである。






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2008年4月9日 (水) 16:01時点における版

妻女山(さいじょさん)は長野県長野市松代町千曲市土口が境を接する山。

武田信玄が築いた海津城を見下ろすことができる位置にあり、第4次川中島の戦いにおいて上杉謙信の軍が陣を張ったとされることで知られる。明治になってから作られた唱歌「川中島」の歌いだしは「西条山は霧ふかし」であるが、この西条山は妻女山のことである。

「さいじょざん」の表記は「妻女山」「西条山」「斎場山」「祭場山」がある。どれも古来から川中島合戦を語る時に用いられて来た。

しかし「西条山」に関しては西条(にしじょう)氏の勢力下の山であって、海津城将が上杉軍来襲を甲斐に狼煙で急報した烽火台の山を言うのが正しいとされているので、全く別の山ということになる。

「妻女山」は上杉軍将兵が望郷の念を抱いて、遠く離れた国に残して来た「妻女を偲んで涙した」と江戸時代になってから芝居や浄瑠璃、講談等で語られて広まったことによるとされている。

「斎場山」と周辺には多くの古墳が存在し、古代から死者を弔い祭る山とされ「斎場」もしくは「祭場」と表記するのが正しいとされる。 斎場山は戸神山脈(もしくは鞍骨山脈)にある上部の鞍骨城と、その下部の天城城の二つの山城を北に下った尾根先で東西に伸びる山脈を形成している。その東端が赤坂で西端が笹崎、中央部の主峰が謙信布陣と伝えられる斎場山である。しかし斎場山や薬師山と表記されている地図もあれば、「赤坂」を「妻女山」と表記して、この最高地の「斎場山」を無名にしている地図もある。無名にしてある地図の方がむしろ多い。

この主峰を「妻女山」のままが良しとする説もある。それによれば「斎場山」山頂の古墳は、麓にある「会津姫神社」の祭神「会津姫命」の墓と伝説され、地元では「天上」もしくは「御天上」とも言うのだという。「会津姫命」は初代信濃の国造である「建五月建命」の妻であるので「妻女の山」が正しいとするものである。

なお現在「妻女山」とされて展望台や甲越合戦の解説版が設置されている所は、正しくは「赤坂」又は「赤坂山」であって、謙信配下の殿部隊 甘粕近江守が陣を敷いた場所とされる。この場所には忠霊殿、忠魂碑もあるが何れも戊辰戦争戦死者らを祀るもので、ここで幕末期に松代藩士らが銃撃訓練をした縁で建立された。従って明治期以来この場所に集うことを「妻女山に行く」事とされるようになったようである。

上杉謙信の妻女山布陣は定説となっているが「史実にはない」と否定するむきもある。森長可本能寺の変織田信長の後ろ盾を失って撤退後、徳川、北条らとの草刈場と化した川中島に北条軍の北上に備えて上杉景勝が妻女山に布陣した史実との「混同」だとするのがそれである。