片倉村休

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片倉 村休(かたくら むらやす、天和3年(1683年) - 享保5年7月15日1720年8月18日))は、江戸時代中期の伊達家重臣。白石片倉家第5代当主。

父は片倉村長。母は松前広国の娘。養子は片倉村信片倉村定(叔父(村長の弟))。初名は片倉景明(かげあき)。通称は三之助、小十郎。

略歴[編集]

天和3年(1683年)、白石片倉家第4代当主片倉村長の長男として生まれる。元禄4年(1691年)、村長の死去により、わずか8歳で家督相続し白石領主となる。幼年の当主ゆえに、藩より片倉家の家政監督のため、白石在所目付として3代片倉景長の実弟である松前為広が派遣された。元禄5年(1692年)、藩主伊達綱村白石城を訪れた際に、拝謁し短刀を賜る。元禄16年(1703年)、祖父景長二十三回忌の際に、藩主世子伊達吉村より和歌を一軸賜る。同年、吉村の藩主襲封の御礼言上の際に、江戸城将軍徳川綱吉に拝謁する。正徳4年(1714年)、藩主吉村の偏諱を受け、村休と改名する。享保3年(1718年)、領内に刈田嶺神社(白鳥大明神)の社殿を造営する。享保5年(1720年)7月15日死去。享年37。墓所は宮城県白石市の片倉家廟所。

継嗣を残さず没したため、藩主吉村の命で一門伊達村興の子の村信が家督を相続したが、享保16年(1731年)に実家へ戻り実父村興の嗣子となったため、叔父(父・村長の弟)である村定が養子先の遠藤家から帰家して家督を相続した。

参考文献[編集]