浅野四郎

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あさの しろう
浅野 四郎
本名 同じ(後に大塚と改姓)
生年月日 1877年10月
没年月日 1955年
出生地 日本の旗 日本東京市麹町区九段[1](現在の東京都千代田区
職業 撮影技師
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浅野 四郎(あさの しろう、1877年10月 - 1955年[2])は、日本撮影技師日本人で初めて活動写真映画)を撮影した人物である。

来歴・人物[編集]

小西写真店1897年明治30年)10月に、イギリスのバクスター・アンド・レイ社より撮影機を輸入した。本機械は輸入販売する為に仕入れたものだったが、使用方法を知らなかったため、うっかり発表することも出来なかった[3]。そこで小西に命じられて機械の試験撮影を頼まれたのが、小西の店員で当時20歳の浅野だった。試行錯誤の末、撮影・現像に成功し、12月31日日本橋の光景を写した『日本橋の鉄道馬車』を完成させ、日本人が撮った最初の映画となった[4][5]

その後、浅草観音境内で老婆が鳩に豆を撒く姿を写した『浅草観音』[6]、『上野の汽車』『品川の海岸』[5]など風景を写したものを撮り、1898年(明治31年)には劇的シチュエーションを持つ『化け地蔵』『死人の蘇生』といった小編を撮影している[7]

また、広目屋の店員だった駒田好洋の依頼で、柴田常吉白井勘造と芸者の踊りなどを撮影・現像し、それらは1899年(明治32年)6月20日に「日本率先活動大写真」と称して歌舞伎座で公開された。これが一般に最初の映画興行といわれている。この時上映された作品は以下の通り(当時の広告より)[8]

  • 写真:『銀座街』、『日本橋街』、『浅草仲見世』
  • 舞踊:『松づくし五枚扇』(踊りは柳橋芸妓小勝、地方はおなつ、やほ)、『元禄踊』(同喜代次、よし子、おなつ)、『活惚れ』(よし町芸妓太郎、小千代、錦糸)、『鶴亀』(新橋芸妓おみつ、地方すま子、小蝶)、『紅葉の橋』(同あたり、六助)、『潮来出島』(祇園芸妓一力楼まさ子、かよ子)、『道成寺』(同小きみ、久鶴、勝龍)

同年7月14日からは明治座でも上映が行われており、この時のプログラムは以下の通りである[5][3]

  • 『銀座街』、『日本橋首街』、『浅草仲見世』、芸妓手踊「新橋の部」『長唄花月の四季』(蔦小松家おえん、沼田家おえつ、地方福松家すま子、新川村家小蝶)、『紅葉の橋』(武蔵家あたり、福中村家六助)、『長唄鶴亀』(蔦小松家おえん、翁家小いな、松の家おえつ)、『新鹿子』(日の家ぼたん、沼田家兼子)、『端唄背戸のだん畑』(鈴木家小竹)、「柳橋の部」『端唄松づくし』(立花家小静、地方若松家なつ、上総家やを)、『元禄花見踊』(小若松家喜代治、新中の家よし、地方若松家なつ、上総家やを、鳴物内田家柳子)、「芳町の部」『かつぽれ』(浜田家五郎、萬屋小千代、三輪屋錦糸)、「京都祇園の部」『潮来出しま』(祇園町一力楼まさ子、かよ)『道成寺』(同小きみ、久鶴、勝龍)

同年、浅野は小西を退社[2]土浦の農家大塚家の養子となり、その後は石炭商を営んでいた[9]

脚注[編集]

  1. ^ 佐藤忠男著『日本の映画人 日本映画の創造者たち』p.7
  2. ^ a b 『頗る非常! 怪人活弁士・駒田好洋の巡業奇聞』p.144
  3. ^ a b 田中純一郎著『日本映画発達史Ⅰ 活動写真時代』p.70-75
  4. ^ 江藤茂博著『20世紀メディア年表』p.4
  5. ^ a b c 最古の日本映画について-小西本店製作の活動写真
  6. ^ 『キネマ旬報 第203-207号』p.66
  7. ^ 『映画検定 公式テストブック』p.105
  8. ^ 筈見恒夫著『映画五十年史』p.8-9
  9. ^ 田中純一郎著『日本映画史発掘』p.65

外部リンク[編集]