泉川寛英

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尚穆王御後絵向元瑚筆、泉川寛英助手。

泉川 寛英(いずみかわ かんえい、1767年11月21日乾隆32年10月1日) - 1844年7月20日道光24年6月6日))は、琉球王国画家唐名慎 思九童名は真蒲戸、本名は乗信。

概要[編集]

首里に生まれる。父は泉川筑登之親雲上寛邦。1785年(乾隆50年)、19歳で絵師となり、筑登之座敷となる[1]向元瑚の助手として御後絵(国王の肖像画)を多く製作した。また、山水図水墨画花鳥図に秀でた。沖縄県立博物館・美術館に山水図が所蔵されている[2][3]

『沖縄文化の遺宝』所載の作品[編集]

鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝 写真編』(岩波書店)に、鎌倉が撮影した次の作品の写真が、慎思九名義で掲載されている。

  • 『首里那覇泊全景図』(p. 284 - 285) - 垣花方向から展望した首里・那覇・泊一帯を鳥瞰的構図法で描く。沖縄戦で焼失。
  • 『那覇綱引図』(p. 286 - 291) - 63歳の時の作で、元は薩摩藩のために描かれたもの。鎌倉芳太郎撮影の同作品の写真が、沖縄海洋博にて縦7メートル・横14メートルの巨大パネルで展示され、高く評価された[1]
  • 『闘鶏尾花之図』(p. 292)
  • 『闘鶏尾花祖父之図』(p. 293) - 66歳の時の作。闘鶏が盛んであった首里にあって、王宮にて飼われていた名鶏・尾花を描いたもの[1]
  • 『闘鶏はなたれ之図』(p. 294、部分p. 295) - 現存・沖縄美ら島財団所蔵[4]
  • 『野国名馬図』(p. 295) - 晩年の作と推定される。王宮で流行していた琉球競馬の馬を描いたもの[5]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝 本文編』岩波書店、p. 210
  2. ^ 泉川寛英 - 『最新版 沖縄コンパクト事典』琉球新報社、2003年(琉球新報ウェブサイト)
  3. ^ 新城俊昭『教養講座 琉球・沖縄史』東洋企画 p. 176
  4. ^ きょうから新収蔵展 首里城公園 - 『琉球新報』、2016年4月22日配信、2017年11月13日閲覧。
  5. ^ 鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』(正編)p. 211

外部リンク[編集]