松井興長

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松井 興長
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正10年(1582年
死没 寛文元年6月28日1661年7月24日
改名 吉松、新太郎、長岡興長
官位 式部大輔、佐渡守
主君 細川忠興忠利光尚綱利
熊本藩家老
氏族 清和源氏松井氏
父母 松井康之沼田光長
兄弟 興之興長、女子(吉田浄珍室)
女子(長岡重政室)、光之
正室:細川忠興娘古保
寄之(養子)、
娘(坂崎成方室)娘(有吉重時室)

松井 興長(まつい おきなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将細川幽斎以来の細川家家臣。熊本八代の初代城主(正式には八代城代。それまでは忠興が隠居場として八代城を使用)。父は松井康之。正室は細川忠興娘の古保(こほ)。式部大輔・佐渡守。

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出自 [編集]

松井氏室町幕府足利将軍家に仕える家で京都に住んでいた。将軍足利義輝永禄の変永禄8年・1565年)で殺害されると、松井康之は同じく足利将軍家に仕えていた細川藤孝(後の幽斎)と行動を共にするようになり、その後家臣となった。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、細川家は、関ヶ原、丹後田辺城、豊後杵築城と三方面で戦闘したが、興長は忠興に従って会津征伐、関ヶ原の戦いへ赴いた。なお、興長は岐阜城攻めで負傷したため、関ヶ原での合戦には参戦していない。戦後、細川忠興は豊前豊後国(現在の福岡県大分県の一部)39万石余りの大名となったが、戦後、松井康之は豊後国木付(杵築)城を任せられて2万5千石という大名格の領地が与えられた。

松井佐渡守こと松井興長 [編集]

松井佐渡こと松井興長は天正10年(1582年)に丹後国久美浜で康之の二男として生まれたが、兄興之が朝鮮出兵で戦死したため松井家の世子となり、慶長16年(1611年)、父・康之が隠居したのに伴い松井家の家督を相続した。 1600年関ヶ原当時に細川家世子であった細川忠隆からの松井興長(旧名は新太郎)あての自筆書状5通が松井文庫に現存している(下記の外部リンク参照)。

寛永9年(1632年)、細川家が豊前・豊後から肥後熊本藩に国替になると、興長には玉名合志郡の内に3万石が細川家から与えられた。

寛永14年(1637年)に島原の乱が起こると、藩主細川忠利の命により派兵の手配、幕府や他藩との交渉に奔走し、翌年の原城の戦いでは、自ら3,700余りの兵を率いて出陣した。

正保2年(1645年)に八代城主だった細川忠興(三斎)が亡くなると、正保3年(1646年)から興長が八代城を預かることになった。八代城は一国一城令の例外とされて存続し、代々松井家が八代城主を務めた。

興長は、忠興の六男(細川寄之)を養嗣子に迎え、細川別姓である長岡姓を賜り、長岡佐渡守と称した。 興長は慶長5年(1600)の19歳での初陣以来80歳で亡くなるまで細川忠興、忠利、光尚綱利の4代の主君に仕え、細川家を支えた。晩年には、浪費癖のあった若年藩主綱利を諫める書状を、松井家存続をかけて提出している。

松井家は細川血族として代々筆頭家老を勤め、明治まで続く。 松井家は細川家臣でありながら徳川直参でもあり、実質上の肥後八代支藩3万石の大名格藩主であったといえる。

熊本県八代市八代市立博物館松井文庫、松井家御茶屋だった松濱軒には、第二次世界大戦の空襲を免れた多くの松井家歴代の史料や美術品が残されており、研究が進められている。

関連事項 [編集]

外部リンク [編集]