成田正右衛門

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成田 正右衛門(なりた しょうえもん、 享和3年(1803年) - 元治元年12月8日1865年1月5日))は、薩摩藩藩士砲術家。名は正之。改名前の姓名は鳥居 平七[1][2][3]。兄の平八とともに荻野流と坂元流の砲術を学び、後に高島流砲術を修めて、薩摩藩の砲術師範となる[1][2]

略歴[編集]

天保8年(1837年)7月、モリソン号が山川港に寄港した際(モリソン号事件)、国家老・島津久風の命により警備の任に就く[1]

天保9年(1838年)、兄の鳥居平八とともに長崎高島秋帆に弟子入りし、洋式砲術を極める[1][2]

天保12年(1841年)、再び長崎へ派遣され高島から教えを受けるが、ともに学んだ兄の平八が同地で客死[4]。平八の没後、家督を継ぎ、藩の砲術師範となる[1][2][5]

秋帆の疑獄事件が起きた時は、連座することが無いよう、姓名を成田正右衛門に改め、高島流砲術を「御流儀(ごりゅうぎ)」と改称する[1][6]

弘化年間以来、欧米の軍艦が日本の周辺に頻繁に現れるようになった時勢に、多くの子弟を育成した。性質は温厚で恬淡、弟子を指導し大器をなさしめ、累進して後に物奉行になった[1]

元治元年12月8日、病没。享年62。大正13年(1924年)2月、正五位を贈位された[1][2][7]

薩摩藩の砲術師範[編集]

天保8年7月12日早朝、鹿児島湾の山川港に入ったモリソン号に、兄の鳥居平八や門人とともに、異国船打払令に従って砲撃した。しかし、モリソン号は浅瀬に投錨し無風で動けなかったにもかかわらず、数100発砲撃しても船には1発しか命中せず、しかも何ら損傷を与えなかった。モリソン号は、そのまま脱出し、マカオへと戻っていった[8]

従来の日本の砲術では通じないことを知った薩摩藩は、用人の新納主税を長崎に派遣した。高島秋帆と面会し、帰藩した新納は、島津久風と藩主の島津斉興に西洋砲術の必要性を報告し、それ以来、薩摩藩は高島流砲術を取り入れることとなった[9]

それを受けて、事件の翌年(天保9年)2月、平七(正右衛門)は兄の平八とともに長崎へ派遣されて、高島秋帆の門下になった。翌10年(1839年)5月に、鳥居兄弟は免状を受けて、帰藩[10]

同12年(1841年)、再度平八とともに長崎で高島秋帆から教えを乞い、高島流砲術奥伝を受けて、オランダの小銃100挺を購入して帰藩した。平七は薩摩藩の西洋流砲術の師範となって、銃砲隊に大砲操練を行なった[11]

翌13年(1842年)、薩摩藩が高島秋帆の仲介で燧発銃を購入し、弁天築地でモルチール砲と野戦砲を鋳造した。藩主の斉興も大砲射撃演習を検閲し、野戦教練もおこなわせた[12]

こうして、薩摩藩の軍備はすべて高島秋帆から学んだ西洋砲術へと変遷し、鳥居平七がその開祖となった[13]

弘化3年(1846年)、上町向築地(現・石橋記念公園一帯)に鋳製方が設置された際には掛の1人に任じられ、青銅砲ゲベール銃の製造に携わった[14]

同年8月28日に谷山郷塩屋村(のちの鹿児島市谷山塩屋町)で行われた発火演習では、当時世子であった島津斉彬がこれに臨検し、演習終了後に成田正右衛門に対し21ヵ条の質問をした[5]。その質問は実に正鵠を射ており、正右衛門は恐縮するばかりであったという[15]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 『日本人名大事典』第4巻 平凡社、666頁。
  2. ^ a b c d e 『日本人名大辞典』 講談社、1417頁。
  3. ^ 『日本人物レファレンス事典 江戸時代の武士篇』日外アソシエーツ、756頁。
  4. ^ 広瀬隆 『文明開化は長崎から』下巻 集英社、175頁。宮川雅一『高島秋帆』長崎文献社、20頁。
  5. ^ a b 有馬成甫『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、121頁。
  6. ^ 広瀬隆 『文明開化は長崎から』下巻 集英社、175頁。有馬成甫『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、121頁。宮川雅一『高島秋帆』長崎文献社、20頁。『鹿児島県の歴史』 山川出版社、232頁。
  7. ^ 田尻佐『贈位諸賢伝 二』、2020年8月30日閲覧。
  8. ^ 広瀬隆 『文明開化は長崎から』下巻 集英社、98頁、174-175頁。有馬成甫『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、116-117頁。石山滋夫 『評伝 高島秋帆』 葦書房、107頁。宮川雅一『高島秋帆』長崎文献社、131頁。
  9. ^ 広瀬隆 『文明開化は長崎から』下巻 集英社、98頁、175頁。有馬成甫『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、117-118頁。石山滋夫 『評伝 高島秋帆』 葦書房、107頁。宮川雅一『高島秋帆』長崎文献社、19頁。
  10. ^ 広瀬隆 『文明開化は長崎から』下巻 集英社、175頁。有馬成甫『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、119頁。有馬成甫『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、217頁。石山滋夫 『評伝 高島秋帆』 葦書房、107頁。宮川雅一『高島秋帆』長崎文献社、19頁、131頁。『鹿児島県の歴史』 山川出版社、232頁。
  11. ^ 広瀬隆 『文明開化は長崎から』下巻 集英社、175頁。有馬成甫『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、119頁。有馬成甫『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、217頁。石山滋夫 『評伝 高島秋帆』 葦書房、107頁。宮川雅一『高島秋帆』長崎文献社、20、131、133頁。『鹿児島県の歴史』 山川出版社、232頁。
  12. ^ 広瀬隆 『文明開化は長崎から』下巻 集英社、175頁。宮川雅一『高島秋帆』長崎文献社、131-132頁。
  13. ^ 有馬成甫『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、119頁。
  14. ^ 『鹿児島県の歴史』 山川出版社、232頁。
  15. ^ 有馬成甫『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、119頁。宮川雅一『高島秋帆』長崎文献社、133頁。

参考文献[編集]

  • 有馬成甫『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館ISBN 4-642-05155-4
  • 石山滋夫『評伝 高島秋帆』 葦書房ISBN 4-7512-0057-7
  • 北島正元『日本の歴史 18 幕藩制の苦悶』 中公文庫ISBN 4-12-204638-6
  • 鈴木範久『日本キリスト教史 年表で読む』 教文館ISBN 978-4-7642-7419-8
  • 広瀬隆『文明開化は長崎から』下巻 集英社ISBN 978-4-08-789003-7
  • 宮川雅一『高島秋帆』 長崎文献社 、ISBN 978-4-88851-282-4
  • 『鹿児島県の歴史』 山川出版社ISBN 4-634-32460-1
  • 『日本人名大辞典』 講談社ISBN 4-06-210800-3
  • 『日本人名大事典』第4巻 平凡社ISBN 4-582-12200-0
  • 『日本人物レファレンス事典 江戸時代の武士篇』日外アソシエーツISBN 978-4-8169-2632-7