志岐守治

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志岐 守治(しぎ もりはる、1871年5月19日(明治4年4月1日[1][2]) - 1946年昭和21年)12月16日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴[編集]

鹿児島県出身[1][2][3]。志岐守行・陸軍大尉の長男として生まれる[1]陸軍幼年学校を経て、1890年(明治23年)7月、陸軍士官学校(1期)を卒業[1][2][3]。翌年3月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第3連隊付となる[1][3]歩兵第43連隊中隊長などを経て、1899年(明治32年)12月、陸軍大学校(13期)を卒業した[1][2][3]

1900年(明治33年)11月、陸士教官となり、台湾守備混成第1旅団参謀歩兵第44連隊付などを歴任し、1903年(明治36年)12月、歩兵第12連隊大隊長に発令され日露戦争に出征[1][4]旅順攻囲戦に参戦[4]。1904年(明治37年)12月、後備歩兵第59連隊大隊長に転じ奉天会戦に参戦した[1][2]

1905年(明治38年)10月、歩兵中佐に進級[1]教育総監部付を経て、1907年(明治40年)3月、フランスに留学し、同年10月、フランス駐在となる[1]。1909年(明治42年)11月、歩兵大佐に昇進し歩兵第21連隊長に就任[1][3]第4師団参謀長、教育総監部第2課長を経て、1915年(大正4年)2月、陸軍少将に昇進し歩兵第27旅団長に就任[1][2][3]

1918年(大正7年)9月、関東軍兵站監に転じ、1919年(大正8年)1月、陸軍中将に進級[1][2][3]。同年4月、浦塩派遣軍兵站部長に発令されシベリア出兵に出征[1][2][3]。同年11月、第16師団長に親補され、1923年(大正12年)8月、待命となり、同年10月、予備役に編入された[1][2][3]

その後、1932年(昭和7年)9月から1936年(昭和11年)12月まで國民新聞社長を務めた[1]

栄典[編集]

位階
勲章等

親族[編集]

  • 妻 志岐久子(山本盛英陸軍中佐の娘)[1]
  • 娘婿 多田俊夫(陸軍少佐)[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『日本陸海軍総合事典』第2版、77頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』362頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』91-93頁。
  4. ^ a b 『市ヶ谷台に学んだ人々』32頁。
  5. ^ 『官報』第4341号「叙任及辞令」1897年12月18日。
  6. ^ 『官報』第3749号「叙任及辞令」1895年12月25日。
  7. ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 桑原嶽『市ヶ谷台に学んだ人々』文京出版、2000年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。