峰岸米造

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峰岸 米造(みねぎし よねぞう、明治3年1月26日1870年2月26日) - 1947年昭和22年)1月10日)は、日本の教育者

人物[編集]

上野国(現群馬県勢多郡下川淵村大字力丸の農家、倉右衛門とナカの子として生まれる。始め姓は小島だったが、後に母の姓峰岸に改める。明治7年(1874年)村に小学校が出来、姉が通い始めたので自身も通い始めた。明治14年(1881年)から元伊勢崎藩儒学者新井雀里に教えを受ける。明治17年(1884年)年齢を偽って小学校教員の検定試験を受験し合格し、桐生小学校校長井上圭太郎の招きで1年間教鞭を執った後、16歳で桐生西小学校の訓導兼校長となる。群馬師範学校を卒業後、東群馬・南勢多郡立高等小学校の訓導として勤務。明治27年(1894年)東京高等師範学校卒業後、東京府尋常師範学校で地理と歴史を教えた。前橋中学校沢柳政太郎の招きで高崎中学校の創設にあたった。明治31年(1898年)東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)教諭となり、明治42年(1909年)高等師範学校の生徒監となり、剣道部の設置、剣道の正課採用に尽力した。昭和12年(1937年)退官し従三位勲二等に叙せられ、名誉教授の称号を授与された[1]。高等師範学校退職後は海軍経理学校嘱託教授となるが、昭和16年(1941年)辞職。昭和22年(1947年)1月10日死去。墓所は多摩墓地、郷里の善昌寺にも分骨された。

栄典[編集]

編著書[編集]

  • 『本邦制度史』碓氷郡第二区乙種学事会筆記 栄林堂 1898
  • 『西洋史綱』箕作元八共著 六盟館 1899
  • 『西洋史参照図画 附・系図年表』箕作元八共著 六盟館 1899
  • 『内国史綱』編 六盟館 1899
  • 『本邦史綱』編 六盟館 1900
  • 『国史教科書』編 六盟館 1901
  • 『西洋略史』箕作元八共著 六盟館 1902
  • 『日本略史』編 六盟館 1904
  • 『西洋史講義要領』編 1905
  • 『日本上古史講義』1906
  • 『日本史教科書参照図 女子用』編 光風館 1909
  • 『女子用外国史教科書 東洋篇』編 光風館書店 1913
  • 『日本歴史 師範学校歴史教科書』六盟館 1916
  • 『国史講座 古代史』受験講座刊行会 1930
  • 『国史講話』日本製紙 1936
  • 『女性国史読本』六盟館 1940
  • 『日本近世百年史』東華書房 1942
  • 『輝く皇国史』三省堂 1944

脚注[編集]

  1. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023年9月22日閲覧。
  2. ^ 『官報』第7499号「叙任及辞令」1908年6月26日。

参考文献[編集]