室賀久太夫

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室賀久太夫
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 不詳
死没 寛永18年7月29日1641年9月4日[1]
別名 永寿
主君 武田勝頼上杉景勝松平忠吉徳川義直
父母 父:室賀正武 
屋代秀正長女
正次三浦友之丞
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室賀 久太夫(むろが きゅうだゆう)は安土桃山時代江戸時代の武将、尾張藩士。室賀正武の子。妻は屋代秀正の長女[2]

人物[編集]

天正12年(1584年)7月に父正武が真田昌幸に暗殺された後は、出家し永寿と号して善光寺に入っていたが、直江兼続の招聘により還俗して上杉景勝に仕えた[2]

その後上杉家を致仕し、尾張へ移り松平忠吉に仕えたが、ここもまた致仕し、父正武が暗殺された際、真田昌幸に通じていた室賀源助を討つために信濃へ戻る[1]

室賀源助を討ち果たした後は再び尾張へ戻り、徳川義直に500石で仕える[1]

名古屋城が築城された際には、名古屋城二の丸の初代親衛隊長となって、藩主3代に仕えている。

寛永10年(1633年)300石加増の上、黒門足軽頭に任ぜられ、以降も代々尾張徳川家に仕えた[1]

このほか、徳川家康によって尾張の地に派遣され、名古屋市天白区植田の地に、1580年に植田八幡宮を修造した[3]などの逸話も残る。

登場する作品[編集]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 志村平治『信濃屋代一族』歴研、2013年。ISBN 978-4903991825