和泉守兼定

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和泉守兼定(いずみのかみ かねさだ、生没年不詳)は、室町時代の美濃国刀工である。初代兼定の子で2代兼定。大業物。兼元と並び末関の双璧をなす。

関七流中の奈良太郎系に属し、著名な2代兼定の作刀期間は明応2年(1493年)から大永6年(1526年)頃までと推定されている。

目次

[編集] 概要

室町後期に活躍し、「兼定」銘は会津にて幕末まで11代続く。本項で掲げる兼定は主に初代~3代を対象とする。2代兼定は永正8年(1511年)和泉守を受領。受領の背景には伊勢の神宮における派閥争いにおいて刀剣を鍛え供したことの恩賞と考えられている。現地(山田)にて鍛えた旨刻銘された遺作が現存する。伊勢で駐槌したことから村正との交流もあり、合作の刀が遺されている。2代兼定は「定」の字をウ冠の下に「之」を書く独特の書体で切ることが多いことから、「之定」(のさだ)と通称される。これに対して3代兼定は銘の「定」字を「疋」と切ることから「疋定」(ひきさだ)と通称している。

[編集] 作風(2代兼定を対象とする)

  • 造り込み - 2尺1寸前後の大刀と脇差を兼ねたものが多い。短刀、槍、薙刀の遺作も見る。片手打ちに適した先反りのつく姿となる。切先が伸びごころの姿のものが多い。身幅広く平肉つかず、鎬筋高く棟低い、実用に適した姿の作りこみを特徴とする。
  • 地鉄 - 棟地柾となり、地鉄小板目で所々柾に流れる。白け映りがたつ。総じて地に小沸よくついた明るい地鉄となる。他の関諸工と比較し精良な鍛えとなるところから、特に別質の鋼を用いたと伝わる。
  • 刃文 - 互の目乱れを基調とする。志津風の砂流しかかり沸出来となった刃文で匂い口沈み心となる美濃伝のものから、丁子乱れで一文字を彷彿させる匂い出来の備前伝風の刃文も焼く。総じて焼き幅に高低がつく。また、短刀の中には山城伝で来派を思わせる直派を焼き、作風は多彩と言える。然しながら、備前伝においては美濃伝の尖り刃や矢筈刃を何処かしらに交え、山城伝においては節状の尖り刃を交える。また帽子が寄る美濃伝の特徴が現われる。帽子の返りは深い。
  • 茎 - 栗尻となる。鑢目桧垣で勝手下がり、筋違も見受けられる。

[編集] 千両兼定

江戸時代の刀工虎徹が生きていた時、彼に刀を打って貰うのに代金が五十両であった時代、2代目兼定は千両もしていたことから千両兼定と呼ばれたとの説もあるが、かかる事実を裏付ける直接的な史料はない。江戸時代に演技が上手く人気のある役者を「千両役者」と呼び、ひいては役者以外の世界でも一芸に秀でた人物や何をやっても上手な人を「千両役者」と呼称するようになったことから、どのような作風でも上手にこなし、全てが一定の水準以上の作を残している人気刀鍛冶兼定を「千両兼定」と呼んで珍重したものであろう。「千両役者」と同様、「千両兼定」も修辞的呼称だったと言えよう。しかし室町末期の刀剣としては例外的に珍重され、決して安くはなかったと考えられる。 実際、幕末に源清麿の刀を改竄し、2代兼定の偽銘を施したものもあり(現在は無銘に直され「源清麿」作と鑑定されている)、人気が高かったことが伺える。

[編集] 会津兼定

4代にあたる兼定が芦名家に招かれ、会津の地で鍛刀を始める。その後、蒲生家上杉家と領主が変えるも一貫して会津に残る。保科正之のお抱え鍛治となり幕末へ至り11代兼定で代を終える。会津は武芸の盛んな地であり、蒲生家が連れてきた三善政長の子である三善長道は「会津虎徹」と呼ばれる程の最上大業物を鍛えている。会津の刀剣の特徴は、反り浅く、切っ先詰まり、小丸上がりの帽子となる江戸の寛文新刀の姿を幕末まで伝えたところにある。そしていずれも武芸者に好まれた質実剛健の業物揃いであったことを特に記す。

[編集] 愛用者

実用本位の刀剣として多くの戦国武将に愛用された。徳川家康を始め、歌仙拵え(中身は2代兼定)の考案者である細川幽斎忠興父子、黒田長政等。織田信長豊臣秀吉の家臣で「鬼武蔵」と呼ばれた森長可は、「人間無骨」と彫りを入れた十文字の大身槍を愛用した。

司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』にて新撰組副長土方歳三の愛刀として広く人口に膾炙されたが、実際に土方の遺品として遺されている「兼定」は11代兼定の作(二尺三寸一分六厘)であり(二尺八寸の11代兼定は京都で使用)、「2代兼定」ではない。

[編集] 作刀、余録

現在、数ある2代兼定の作刀の中で国宝・重要文化財の指定を受けているものはないが、昭和25年(1950年)の文化財保護法施行以前に、「武田左京大夫信虎所持」と切った作が旧「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」により重要美術品に認定されている(文化財保護法施行に伴い重要美術品等ノ保存ニ関スル法律は廃止されているが、重要美術品認定の効力は当分の間持続することとされている)。

往時、孫六兼元と2代目兼定は、全国の武将から注文が殺到しており、莫大な資産を築いたという。孫六兼元が山門を寄進したのに対して、2代目兼定は永正元年(1504)に法華経普門品第二十五を出版。現在、観音経・法華経普門品第二十五版は大英博物館の図書部門が預かっており、元はアーネスト・サトウの所蔵であった。