匡王

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匡王
王朝
在位期間 前613年 - 前607年
都城 王城(洛邑)
姓・諱 姫班
生年 不詳
没年 前607年
頃王

匡王(きょうおう、? - 紀元前607年)は、中国春秋時代の王。姓は姫、名は班。

生涯[編集]

周の頃王の子として生まれた[1]紀元前613年春、頃王が死去する[2]と、匡王は後を嗣いで周王として即位した[1]

周公閲王孫蘇中国語版が周の政権を争った。周公閲がの裁定を求めると、匡王は王孫蘇との約束に背き、尹氏と聃啓に命じて晋に対して周公の立場を弁護させた。晋の趙盾が両者の争いを調停した。

この年、子叔姫中国語版の帰国を求める東門襄仲中国語版(公子遂)の依頼を受けて、匡王は単伯をに派遣したが、単伯は斉に抑留された[2]紀元前612年、斉は単伯を釈放し、匡王の命に従って子叔姫を魯に帰した[3]

紀元前607年10月乙亥、匡王は死去し[4]、弟の姫瑜(定王)が後を嗣いだ[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 史記』周本紀
  2. ^ a b 春秋左氏伝』文公14年
  3. ^ 『春秋左氏伝』文公15年
  4. ^ 春秋』宣公2年