伏原宣足

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伏原宣足
伏原宣足
時代 江戸時代後期 - 昭和時代
生誕 1845年7月1日弘化2年5月27日[1]
死没 1930年昭和5年)2月19日[1]
官位 正二位明経博士
主君 明治天皇大正天皇昭和天皇
氏族 伏原家
父母 父:伏原宣諭
母:富小路政直長女・愷子
兄弟 宣足、綾子、俊、田沼望
持明院基政長女・留子
常麿、民子、終、仲子
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伏原 宣足(ふしはら のぶたる)は、幕末公家明治時代から昭和時代にかけての神職政治家華族貴族院子爵議員伏原家10代当主。

経歴[編集]

山城国京都少納言伏原宣諭の長男として誕生[1][2]安政3年12月15日1857年1月10日)に元服し昇殿を許された[3]。安政6年6月20日1859年7月19日)左兵衛権佐に任じられ、その後、少納言、侍従を歴任[3]。父・宣諭の死去に伴い、1876年(明治9年)10月16日、家督を継承した[1]

明治3年(1870年)以降、次侍従、侍従、式部寮出仕、掌典補、式部属、太政官属などを歴任[4]

明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵[5]

明治23年(1890年)7月22日、賀茂別雷神社宮司賀茂御祖神社宮司に補任された[6]。翌年(1891年4月16日、賀茂別雷神社宮司を免ぜられた[7][注釈 1]。明治25年(1892年6月21日、賀茂御祖神社宮司も免ぜられた[8]

明治26年(1893年)3月29日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[9]1925年大正14年)7月まで在任した[4]

栄典[編集]

系譜[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『官報』第2336号, p. 3, 「叙任及辞令」では、後任の賀茂別雷神社宮司は三室戸和光

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 『平成新修旧華族家系大成』下巻, pp. 454–455.
  2. ^ 『人事興信録』第8版, p. フ40.
  3. ^ a b 『伏原家譜』
  4. ^ a b 『貴族院・参議院議員名鑑』, p. 53.
  5. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  6. ^ 『官報』第2119号, p. 4, 「叙任及辞令」.
  7. ^ 『官報』第2336号, p. 3, 「叙任及辞令」.
  8. ^ 『官報』第2694号, p. 1, 「叙任及辞令」.
  9. ^ 『貴族院要覧(丙), p. 5』.
  10. ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
  11. ^ 『現代華族譜要』日本史籍協会、1929年、539頁。

参考文献[編集]

官報[編集]

  • 『官報』第2119号、1890年7月23日。 
  • 『官報』第2336号、1891年4月17日。 
  • 『官報』第2694号、1892年6月22日。 
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
伏原家初代
1884年 - 1930年
次代
伏原宣義