人見周助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

人見 周助(ひとみ しゅうすけ、安永7年(1778年)9月 - 天保15年2月5日1844年3月23日))は、江戸町奉行所同心川柳点者でもあり、柄井川柳の4世を継いた。眠亭、柳恩庵、風梳庵、賤丸(せんがん、しずまる)などの別号がある[1][2]

略歴[編集]

木母寺(東京都墨田区向島)にある川柳翁之碑

安永7年9月に江戸に生まれる。家禄は30俵2人扶持で、江戸南町奉行筒井政憲の2番組与力配下で、物書同心を文政4年(1821年)1月から天保12年(1841年)4月まで務めた[1]

当初は大塚に住んで、文日堂礫川の折句連にいたが、文日堂が前句に復帰したのに伴い川柳二世の門に入り、賤丸(志津丸)と称した[1]

文化3年(1806年)の『誹風柳多留』35篇、2世川柳評に勝句8章を初見。文日堂推薦で評者となり、同8年(1811年)の58篇は賤丸独選で、十返舎一九が序を書いているが、この時の出題中に初めて「狂句」の語が見られる[1]

文政4年の『柳多留』74篇の序を書き、同6年(1823年)ごろから八丁堀中之橋にある自宅で月例会を催した。同7年(1824年)、3世川柳が短期で引退したため空位になった川柳号の4世を継いだ。この時、前号を譲り二世賤丸となった者は、翌8年(1825年)に死去している[1]

文政9年(1826年)8月28日、向島木母寺境内に「東都俳風狂句元祖 川柳翁之碑」を建立し、末広会を催している[1]

天保3年(1832年)、55歳の時に香蝶楼国貞が描いた肖像に「東都俳風狂句元祖 五十五叟 四世川柳」と自署し、自らを「俳風狂句」の元祖と称した[1]

天保8年(1837年)、60歳の時に、7代目市川団十郎と横綱阿武松緑之助を左右に、自身を行司に見立てた三人立ちの絵姿を歌川国貞に描かせ、蒔絵の盃を作らせようとしたが、北町奉行の大草高好に論戒され、狂句評者を退いた。川柳号を鯹斎佃に譲り、柳翁と称したが、これは実質的な廃業で、点者を務めた期間は14年間となった[1]

天保15年(1844年)2月5日、死去。享年67。法名は崇徳院仁興普山居士[1]

赤坂の法安寺に葬られたが、明治23年(1890年)4月、三田にある薬王寺に改葬された[1]

辞世の句は

香のあるを 思ひ出にして 翻れ梅

昭和3年には高木角恋坊が地蔵形式の墓碑を建立した。この墓碑は、白金にある最上寺の無縁墓地の一角に遺されている[1]

最上寺(東京都品川区)にある川柳四世之墓

業績[編集]

4代目川柳としての業績として、これまでは前句附という文芸様式の名はあっても、その形式から生まれる句体には定まった名が無く、恣意的に呼ばれていたものに「俳風狂句」の呼称を与えたことが挙げられる。

また、 松浦静山をはじめとした大名旗本狂歌堂六樹園柳亭種彦葛飾北斎[注釈 1]、市川三升、市村羽左衛門船遊亭扇橋都々一坊扇歌といった、当時世間に知られた人々を後援者や傘下にして黄金期を現出し、川柳を一句立て文芸にする基をひらいた。

その一方で、文芸精神の喪失と内容的な空疎化をもたらしたとして、功罪相半ばすると評されている[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 号は「卍」。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 尾藤三柳監修、尾藤一泉・堺利彦編『川柳総合大事典』第1巻 人物編 雄山閣、147-148頁。
  2. ^ 滝口正哉「幕臣屋敷と江戸社会」(吉田伸之編『シリーズ三都 江戸巻』東京大学出版会)、80頁。鈴木勝忠『無作の指導者 柄井川柳』新典社、10頁。『人物レファレンス事典 古代・中世・近世編3』日外アソシエーツ、1223頁。

参考文献[編集]