ハワード・アレグザンダー・スミス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ハワード・アレグザンダー・スミス
Howard Alexander Smith
Howardalexandersmith.jpg
生年月日 1880年1月30日
出生地 US flag 38 stars.svg アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市
没年月日 1966年10月27日(86歳)
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニュージャージー州プリンストン
出身校 プリンストン大学
コロンビア大学
所属政党 共和党
配偶者 ヘレン・ドミニク

アメリカ合衆国上院議員
選挙区 ニュージャージー州
任期 1944年12月7日 - 1959年1月3日
テンプレートを表示

ハワード・アレグザンダー・スミス英語: Howard Alexander Smith1880年1月30日 - 1966年10月27日)は、アメリカ合衆国弁護士政治家共和党所属。ニュージャージー州選出のアメリカ合衆国上院議員1944年 - 1959年)。コロラド州選出のアメリカ合衆国上院議員1963年 - 1975年)を務めたピーター・H・ドミニクのおじにあたる。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

ニューヨーク市にて、医師、教師[1]のエイブラム・アレグサンダー (Abram Alexander) とスー・レーン・スミス(Sue Lehn Smith、旧姓ベンダーBender)との間に出生[2]ニューヨーク州カトラー学校英語版に通い、ニュージャージー州プリンストン大学に進学[3]。プリンストンでは法学と政治学を学び、またウッドロウ・ウィルソンの下で英国慣習法を学んだ[2]1901年に卒業して文学士を授与され、1904年コロンビア大学法科大学院から法学士を授与された[3]

コロンビア大在学中に知り合ったヘレン・ドミニク (Helen Dominick) と1902年に結婚し、1男2女を儲けた[1]

初期の職歴[編集]

1904年にニューヨーク州弁護士会への入会を許可されてニューヨーク市で開業し、法律扶助協会 ({{lang|en|Legal Aid Society) に勤務[1]。健康を害してコロラド州コロラド・スプリングスに移住し、同地で弁護士業を1917年まで続けた[2]第一次世界大戦中、コロラド州で、のちワシントンD.C.で、食品局に勤務[3]。1919年にニュージャージー州へ移り、1920年から1927年までプリンストン大学の事務局長(学長補佐)[2]。のちプリンストン大学政治学部の講師(1927年 - 1930年)を務め、国際関係と対外政策を教えた[1]

彼はニュージャージー州に居住する一方、ニューヨーク市で弁護士業を再開した[3]。州の政治に積極的に関わり、1933年にニュージャージー共和党政策評議会の設立い尽力し、1934年にはニュージャージー共和党州委員会の会計係に任命された[1]。のち共和党州委員会委員長に選ばれ、共和党全国委員会委員(1942年 - 1943年)を務めた[3]

連邦上院[編集]

連邦上院議員W・ウォーレン・バーバーの死去に伴い実施された、1947年1月3日までの会期の欠員を埋める補欠選挙に共和党から立候補し、1944年11月7日に当選した。

その後1946年1952年に再選され、在職期間は1944年12月7日から1959年1月3日までとなった。上院労働福祉委員会委員長を務め(1953年 - 1955年)、合衆国政府が広報外交を行う際の条件を規定した「スミス=ムント法」を共同で起草した。1958年の総選挙には再指名されなかったが、外交問題担当の国務長官特別顧問を1959年から1960年まで務めた。

1966年、プリンストンにて86歳で死去。プリンストン墓地に葬られた。

脚注[編集]

議会
先代:
アーサー・ウォルシュ
ニュージャージー州選出上院議員(第1部)
1944年 - 1959年
同職:アルバート・W・ホークスロバート・C・ヘンドリクソンクリフォード・P・ケイス
次代:
ハリスン・A・ウィリアムズ
党職
先代:
クレイトン・E・フリーマン
ニュージャージー共和党州委員会委員長
1941年 - 1943年
次代:
ロイド・B・マーシュ
先代:
W. ウォーレン・バーバー
アメリカ合衆国上院議員選挙ニュージャージー州(第1部)共和党候補
1944年1946年1952年
次代:
ロバート・キーン