ノート:竹取物語

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竹取物語[編集]

作者は、誰なのですか。この、竹取物語はどこでみつかったのですか。中国にも、にたような話があるときいたのですが、それは、何と言う、物語なのですか。教えてください。

作者は不明--腹黒権兵衛 2006年10月31日 (火) 15:22 (UTC)[返信]
中国ないし東南アジアに似た話があるという逸話は、戦後時間が経ってから安易に紹介されて広まってしまった説ですが、実は中国や東南アジアに古くからその話があったという典拠がありません。つまり竹取自体が、戦争等で日本人が渡航した際に近年になって伝わり、現地の文化にあわせて変化してしまった可能性が高いのです。元々古い物語の話形などは、各国で似たようなものが生まれ易いのですが、竹取自体は現在の所、他の国で古く似たような話があったという証拠は無いと思います。新しい資料が出てくれば別ですが、現状では純粋に日本で生まれた作品と考えて良いと思われます。

富士の由来について[編集]

「竹取物語」の示す富士の由来は「不死」とすると解釈するのが一般的なんでしょうか?あれは、読者に「不死」に由来すると思わせておいて、実は「兵士(つわもの)に富む山」と言葉遊びをしているとも聞き及ぶのですが。--でここ 2007年6月24日 (日) 05:18 (UTC)[返信]

いちおう典拠は、「山梨県史通史編1原始古代」で、該当部「富士と文学」執筆者は山梨大学教授池田尚隆氏です。「不死」と「士に富む山」どちらの解釈が一般的なのか、わたしのほうでも宿題にしておきますが、ご存知の方がおられましたらご教授ください。--でここ 2007年6月24日 (日) 05:28 (UTC)[返信]
一般的には不死とかけていると考えて良いと思われます。池田氏の論考は読んだ事がありませんが。
私はでここさんの見解を支持します。写本によって原文の記述が異なり、「外部リンク」の原文掲載サイトでも、当該箇所について「御文不死の藥の壺竝べて、火をつけてもやすべきよし仰せ給ふ。そのよし承りて、兵士ども數多具して山へ登りけるよりなむ、その山をばふじの山とは名づけける。」となっているものと、「文、不死の薬の壺をならべて、火をつけて燃やすべきよしを、おほせ給ふ。そのよしを、うけ給はりて、つはものども、あまた具してなむ、かの山へはのぼりける。その不死の薬を、焼きてけるより後は、かの山の名をは、ふじの山とは名づけける。」となっているものとが見られます。どちらの写本がより原典に近いのか、文学史的な分析は研究者によっていろいろあるかも知れませんが、一般に中高生の古文の教科書などに引用されて広く知られている文章は、でここさんのような解釈になる前者の方だと私は認識しています。少なくとも、「士に富む」を由来としているバージョンも存在する以上、「ふじの山」は仮名書きし、「不死」説と「富士」説の併記くらいはすべきだと思います。--Psyche-moth 2008年10月19日 (日) 20:29 (UTC)[返信]

斑竹姑娘と竹取物語[編集]

本文に以下の注記がある。

奥津春雄は『竹取物語の研究-達成と変容』(翰林書房 2000年 ISBN 9784877370978) 第六章 斑竹姑娘と竹取物語 で論争収録と斑竹姑娘の成立経緯の推定(チベットに日本人から伝播)を行なっている。

図書館に行って当該書を眺めてみましたが、「チベットに日本人から伝播」ではなく「説話集編纂の時に混入したと推定される」ということではないでしょうか。--Kestrel 2008年3月16日 (日) 12:50 (UTC)[返信]

蓬莱の玉の枝を所望された人物について[編集]

蓬莱の玉の枝を所望された人物について、「車持皇子」「庫持皇子」と表記が一定ではありませんが、どちらが正しいのでしょうか。調べた感じでは車持皇子が正しいか?とは思うのですが、確信が持てません。少なくともどちらかに統一した方が良いとは思われますので、詳しい方がいらっしゃいましたらご意見よろしくお願いいたします。--Hatenaboshi 2008年7月20日 (日) 10:23 (UTC)[返信]

赫夜姫と「とよひめ」[編集]

「かぐや姫とモデル」の項に、『赫夜姫という漢字が「とよひめ」と読めることから豊受大神との関係について論じられることもある。』とありますが、赫夜姫を「とよひめ」とはどうやっても読めないように思えます。もしそれを論じている文献があれば、示していただけると幸いです。--Nachtqwerty会話2012年10月16日 (火) 12:15 (UTC)[返信]

作者・空海、舞台・京田辺市とする説について[編集]

2013年5月、利用者:竹取翁会話 / 投稿記録 / 記録さんの編集において、本作の作者を空海、舞台を京田辺市とする説が記事随所に盛り込まれました。その説が「有力」だと記されておりますが、その説は学会等で広く支持されているものなのでしょうか? 成立年代は9世紀後半頃が有力と記されているのに、9世紀半ば前(835年)に亡くなった空海が作者、というのもなんだか齟齬が生じていますし。

なお、利用者:竹取翁会話 / 投稿記録 / 記録さんが「竹取翁博物館」の館長の記事を作って2回宣伝・広告的な内容で削除されている([1])点や、かぐや姫の記事にも「竹取翁博物館」の記述を追記していることから、博物館の関係者の方による宣伝とみえなくもないですが…。--松茸会話2013年8月16日 (金) 06:00 (UTC)[返信]

私の会話ページより引用) 「内容の書き方が判らないのでここに記します。 竹取物語につきましては、20数年前から地元の郷土史家の方達と一緒に研究してまいりました。 投稿している内容も、色々な名誉教授や学長の先生方らと調べ発表した物が掲載され信憑性があります。 たとえば、先日亡くなられた考古学の権威 森浩一名誉教授や10年ほど前に亡くなられた文献学の権威 門脇禎二名誉教授、それに語源学・地名学・万葉集の権威である 吉田金彦名誉教授らにより指示され信憑性があります。--以上の署名のないコメントは、竹取翁会話投稿記録)さんが 2013年8月16日 (金) 09:23 (UTC) に投稿したものです。[返信]

議論の参考のために引用させていただきました。それならば、それらの権威の方々が支持したとされる典拠となる書籍・論文の類を提示するのが良いと思います。--松茸会話) 2013年8月16日 (金) 09:45 (UTC) 下線部追記--松茸会話2013年8月16日 (金) 12:01 (UTC)[返信]

京都と言えば竹と竹藪なんですが、実は京都周辺のはほぼ孟宗竹で、室町時代以降中国から移入され爆発的に広がったものです。竹取物語のはマダケなんですね。だから竹取物語とは縁がない。ちなみに奈良県広陵町もかぐや姫伝説地を争っていて、こういう所は各地にあります。でも学問的には『日本説話小事典』の「竹取物語」に三浦佑之がまとめられたもの以上はないと思います。私も30年ほど前『万葉集』巻十六の第三七九一歌の「竹取の翁」が天女と契りを結んだ長歌との関連が発表された以降は聞いたことがない。これは関係者のただの宣伝だと思うのですが。書籍・論文があるというのなら提示してください。--奈良たかし会話2013年8月16日 (金) 09:55 (UTC)[返信]
私の会話ページより引用 本来ノートに書くべきものなので転載)
御返事
竹取物語 投稿について
学問的には『日本説話小事典』の「竹取物語」に三浦佑之がまとめられたもの以上はないと思います。私も30年ほど前『万葉集』巻十六の第三七九一歌の「竹取の翁」が天女と契りを結んだ長歌との関連が発表された以降は聞いたことがない。これは関係者のただの宣伝だと思うのですが。書籍・論文があるというのなら提示してください。--奈良たかし(会話) 2013年8月16日 (金) 09:55 (UTC)
 大変失礼ですが、上記しかご存じない方が権限を持ってウィキペディア左右していることに大変疑問を持ちます。
ウィキペディアのレベルが、この様な所にあらわれている証拠ですね。
「注」をもっと入れることは可能です。努力しましょう。しかし、日本の学会が閉鎖的な一部の人達による一過性の分野「東大・京大…」だけでは、ウィキペディアの発展が望めないでしょうね。考古学、文献学、地名学、語源学の権威と言われている学長や名誉教授を2つもお持ちの先生方が京田辺へ赴き講演会やシンポジウムで「間違いないなく京田辺を舞台として竹取物語が出来た」と述べておられるわけです。現在教科書に掲載されている日本の歴史は、一部の出版社やマスコミ、学会の人達により偏向した歴史認識しか扱われないのが実情です。
 竹取物語についての書き方、投稿の仕方に対して言われるのであれよいが、内容について貴方のような低レベル内容の議論では話にならないですね。図書館や本屋さんに言って調べてから意見を述べて下さい。2013.8.19 07.42記入 (‎竹取翁 が、奈良たかし会話ページに記入)
コメント依頼中だしノートにはそこで応じる推奨Wikipedia:合意形成があるので転記させてもらいます。Wikipedia:礼儀を忘れないまともな会話ができず、人に対する最低限の礼儀すら知らないのでしょうか。それで人にこういう態度でものを言えるレベルとやらなんですか。あきれたものだと思います。--奈良たかし会話2013年8月19日 (月) 05:02 (UTC)[返信]

■竹取物語に出てくる竹は、真竹・破竹で九州から来た隼人が山代に来て植えた物ですので奈良時代から有ります。京都市内周辺の竹は、孟宗竹でタケノコで食べるもので江戸時代からの物です。  奈良県広陵町もかぐや姫伝説地としていますが、讃岐神社が有るところから述べておられます。讃岐は四国ですし、翁のいたところが「山本」近くと記されています。しかし広陵町には近くに山が有りません。日本各地にある7市町村のかぐや姫伝説地は、文化などの交流をするための物で有って「竹取物語が作られた所だ」とは言っておられません。  成立年代は830頃の平安時代初めとされ、空海が遣唐使で長安へ行ったときに中国の月信仰や景教の復活を学び誕生シーンにイエスキリスト復活をはめ込んだのです。空海の母は、弓月君であり原始キリスト教信者でありました。物語の原文は漢文であり宣命体で書かれています。現存する崩し字のものは、その後に紀貫之らによって女性にも読めるように書き換えられた物です。 --竹取翁会話2013年8月20日 (火) 02:45 (UTC)[返信]

ノート:邪馬台国でも議論中ですが竹取翁さんは自分の考えを出典もなくいくら長々と書いても無意味です。向こうのノートでも書きましたがwikipediaの各種方針を守ってください。--Aquamarin456会話2013年8月20日 (火) 03:01 (UTC)[返信]
コメント 竹取翁さんは善意で加筆しているのでしょうが、Wikipediaというものは誰でも編集できますので、質を保つためにいろいろなルールが定められています。前にも別のところで指摘しましたが、WP:NORWP:NPOV等をお読みください。貴方の編集がルールに反しているので皆が指摘していると言うことをご理解ください。なお、隼人と竹、竹取物語との関係などについては保立道久『かぐや姫と王権神話』など信頼できる情報源の出典がある場合には記載できます。そうでないならばそれは独自研究とみなされます。--ろう(Law soma) 2013年8月20日 (火) 06:11 (UTC)[返信]

その後、Wikipedia:信頼できる情報源の提示が無かったため、「舞台:京田辺市、作者:空海」との説の度合いを弱めさせていただきました。竹取翁さんが出典として用いた本に刊行元大筒木出版は、自費出版の本の出版社のようであり、また会社の代表=著者であるという点からWikipedia:信頼できる情報源とするには不適切ではないかと思われたためです。また、「舞台:京田辺市、作者:空海、成立:嵯峨天皇期」以外の作者・舞台・成立年代に関する諸説を否定するだけの記述も無い(単に一つの説を推して、若干の賛同者があるだけで、この説が日本古代史・国文学の学会やそれらの学者・専門家の間でどの程度の支持を受けているのか、本当に他の説を差し置くほど「有力」といえる状態なのか分からない)という点も問題でしょう。竹取翁さんが件の「竹取翁博物館」の関係者かどうかは分かりませんが、もしそうであるならば、関係者による自説の宣伝はお控えください。--松茸会話2013年9月20日 (金) 02:58 (UTC)[返信]

「不死の薬」「羽衣」について[編集]

「不死の薬」「羽衣」について、詳しくまとめてほしいです。--2400:4172:6833:CA00:18B3:68A:C38F:7DB7 2020年7月30日 (木) 12:14 (UTC)[返信]