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中国語の神[編集]

節題--U3002 2006年10月3日 (火) 07:04 (UTC)[返信]

『中国語における漢字「神」は、God の意味はもっていない。』の部分ですが、中国語の意味は何? また、Godの意味では どんな漢字を使ってるんでしょうか? --Setu 02:09 2003年3月16日 (UTC)

別の中国人に尋いてみたところ God が神でいいということでしたので削除しました。Euske 19:40 2003年3月17日 (UTC)

神の性質についての様々な考え方[編集]

節題--U3002 2006年10月3日 (火) 07:04 (UTC)[返信]

最近目立った改稿がないようですが、「神の性質についての様々な考え方」の部分には改善の余地があるんじゃないかと思っていたのでやってみました。とりあげるべき考え方や用語、説明、順番、などいずれをとっても僕よりもうまくできる方がいると思いますので、是非よろしくお願いします。

世界が意識や自由意志をもっているかどうかを複雑性の科学やガイア理論との関係で論じた部分は神の話とは間接的にしか関係がないように思ったので削除しました。話題としては面白いとは思うのですが。文章としても記事中で言い争いをしているような感じでいまいちなのですが、一応以下に引用します。

自覚されるべき仏性の話は迷ったのですが、仏が神であるかどうかがよくわからないのと、仏性の話は単に全てがあるがままで仏であるというアインシュタイン系の話と同じように思ったので一応その部分で吸収できているのではないかとも思いますが、希望的観測かも知れません。

ちなみにアインシュタインの宗教観についての記述を最近どこかで読みましたが、スピノザの考え方に近いこと、宗教の中では仏教が好きなことを公言していたそうです。

Tomos 02:28 2003年5月9日 (UTC)

(以下、削除部分などの引用)

科学者は基本的に、「存在を統一された法則性の強いもの」と捉えているようにみえる。実際にアインシュタインはそのような神について述べたことがある。

しかし科学が、存在全体が知的であったり、なんらかの意図的な意志をもつとは一般的に捉えていない。しかし近年複雑性の科学に見られるカオスのエッジのように、存在の法則自身に存在の進化(変化)が組み込まれているように捉える場合もある。このとき、存在には必然的に知的な生命体を生み出すような法則が埋め込まれているようにも見える。

カオスのエッジとは、全くの無秩序:カオス(混沌)でもなく、死んだ世界:秩序でもなく、系が生命として振舞うような領域である。この生命の領域が自動的に進化して行きながら複雑性をまし、別のレベルの存在の階層を生み出して行く。このような実験を行う人工生命の分野が起きた。

また、太陽信仰などは、太陽を統一されかつ意識的な、ある意図を持つことが出来る存在として捉えている。人間が「意識」と「意図」と「知ること」を持つことが出来るので、太陽が同じものを持つことが出来ないとは言い切れないであろう。

なお、ガイア仮説 (後に発展してガイア理論)では、地球をある程度の意図を持ったものとして捉えている。これは、地球の空気の成分が地球ができた早い時期から非常に安定していることにより、その裏になんらかの知的な存在かネットワークがないことをむしろ不自然と捉えたことに始まっている。

これまでの例とは逆に、われわれ各個人の中心にある存在を神と同様の存在(例:ブッダ)とみなす場合もある。

また、各個人の中心と、存在全体は同一のものであるとみなしている宗教もある。

なお、宗教的な目的の一つにこの神を知ることがあり、外部にある神との間に何らかの接触を目指す場合や、内部にある神が目覚めること、内部にある神に目覚めることを目指す場合がある。また、この両方を同じ物として含んだ宗教もある。

(引用おわり)

大乗仏教の仏や天使、聖人も神に入るのではないかと思います。 「天使が、人間以上だが神以下の存在である」というのは、その宗教内の論理、都合であって、一般論ではなく適切でないと思います。 宗教一般に見た場合、人間以上の能力を持っていたり、人々にご利益をもたらしたり、その他崇拝されてたりしているものは広く神と呼べると思います。2004/01/01--以上の署名のないコメントは、219.115.123.64会話/Whois)さんが 2004年1月1日 (木) 09:33 (UTC) に投稿したものです。[返信]

仏陀と神[編集]

「一方、土着信仰の民衆レベルでは、……仏教伝来後の日本では、神道と仏教の繋がりは強く長かった。」の二段落はどうも乱暴な器がしますが、識者の方、いかがでしょうか。--以上の署名のないコメントは、Aphaia会話投稿記録)さんが 2004年12月12日 (日) 05:17 (UTC) に投稿したものです。[返信]

日本における「神」(生身の人間が死ぬと神とされるケース)[編集]

靖国神社を例にとるまでもなく、菅原道真徳川家康など、人間が死んでから「神号」が与えられたりなどして「神」となるケースについての解説をお願いします。--210.196.189.19 2005年10月5日 (水) 02:22 (UTC)[返信]

すでに十分な量の記載があります。日本における詳細例は神道での記述が相応しいでしょう。LR 2005年10月5日 (水) 03:05 (UTC)[返信]

ブッダの逸話についての質問[編集]

「ブッダ(仏)と神」の項目で、ゴータマ・ブッダの対話ということで掲載されている文章についてお聞きしたいのですが、あのお話はどの原始仏典に記載されているお話なのでしょうか?できれば原典で読みたいので、教えてもらえませんか?  投稿者 匿名希望

じかに原典を読んだのでもありませんが、相応部経典、6,2「恭敬」などにあるそうです(増谷文雄・梅原猛『知恵と慈悲〈ブッダ〉』仏教の思想1、角川書店〈文庫ソフィア〉、1996、pp.98-106)。 Kzhr 2005年12月26日 (月) 10:44 (UTC)[返信]
『ブッダのことば スッタニパータ』(中村元訳、岩波書店〈文庫〉、1984)の第3章の「2、つとめはげむこと」なんかもそうかもしれません。悪魔説話のみですが。 Kzhr 2005年12月26日 (月) 11:45 (UTC)[返信]

神 (曖昧さ回避)への分割提案[編集]

山手線部分が少々長く冗長なので、神 (曖昧さ回避)に分割してはいかがでしょう。--U3002 2006年10月3日 (火) 07:04 (UTC)[返信]

分割しました。なお、原文では「5について述べる」とありましたが内容のほとんどは3~4と思われたので、それに沿うよう修正しました。--U3002 2006年10月9日 (月) 16:46 (UTC)[返信]

神の語源や言語学的な定義について[編集]

「神」という語が、明治時代にGodやデウスの訳語として用いられ、それが定着したという経緯が無いと、「神」という語の説明が混乱してしまう部分があると思います。 例えば、日本古来の崇拝対象や仏教などの漢字圏のそれだけが、たとえ英語ではGodと呼ばれる存在でも、日本ではもともと「神」という文字があてられていないという理由で除外されたり、また、日本人にとっては神と区別があいまいな北欧神話のそれが巨人とされる例などです。単に訳語の問題として混乱が生じている事象には、それぞれの項目で解説する前に、この項で一定の区別を設けるべきだと思います。 また、宗教、神話、民間伝承、哲学、神秘科学などでそれぞれの節に分けてみてはどうかと提案します。--Bermithruxe 2009年1月18日 (日) 14:11 (UTC)[返信]

この問題、普段から「Godの訳語としての『神』の的確性の問題」として議論される事が多いのですが、なぜ英語がこの際にいつも持ち出されるのか疑問なのですよね。キリスト教において大変に重要な言語であるギリシャ語における「セオス(テオス)」は、多神教にも用いられる表現をキリスト教でも用いるようになったのであり、多神教での表現が一神教でも唯一神に用いられている最大のケースの筈ですが、そういう先例に対する無知のままに「Godの訳語として神は不適切」と論じられる傾向がある現状に対し…、「日本人は海外と言えば英語しかないのか?」と思ってしまう。日本におけるの西欧中心、特に英米圏中心の発想の流布には暗澹たる想いがあるのですが…そんな余談はさておき。
Bermithruxeさんが仰りたいのは、節「キリスト教における訳語としての「神」」だけでは不十分ということですか?--Kinno Angel 2010年4月19日 (月) 03:29 (UTC)[返信]

仰る通り、上記の記述後に「キリスト教における訳語としての「神」」について書いて頂けたので、ほぼ十分かと思っております。でも確かに、そもそもの日本に「神」の概念が入ってきた時の語はGODでなくセオス(テオス、デウス)などだったのでないかといった点は気になります。  加えて、「仏教における神」の項目にも蛇足的な説明を加えてみました。というのも、民間における地蔵菩薩などは本記事で述べる所の「神」ですが、一般的な日本語としては神様仏様と区別するのが当たり前となっているからです。  また、節を分けては思ってみたのは、教典宗教の神のように定義が明確でない曖昧な神が多いことや、随所の無神論や神の死などに関する記述が黙示的に唯一神教的な「絶対的存在としての神」を指しているのが気になったためです。--Bermithruxe 2010年4月21日 (水) 18:08 (UTC)[返信]

節「神を扱った文筆作品」について[編集]

この編集についてですが、差し戻させて頂きました。理由は以下の通りです。
このような節を設ければキリがなくなる - 大量になったら分割すればいい、という解決法もあるかもしれませんが、そもそも「神を扱った文筆作品」など膨大な分量があります。星氏の一作品のみ挙げられた現状は偏向と言われても止むを得ないでしょう。また、今後挙げていくべき掲載基準も不明です。--Kinno Angel 2010年1月7日 (木) 13:02 (UTC)[返信]

編集した本人です。

掲載基準は

・メインキャラクターとして扱われており

・個別ではない一般的な神

です。

偏りなきようにとの基準です。

もし膨大な分量があるのでしたら、具体的に列記してもらえれば有益と思われます。

挙がり具合によって本節の傾向、そして要不要さえも浮き立って来るでしょう。--らむちゃん 2010年1月8日 (金) 12:24 (UTC)[返信]

コメント ご説明をありがとうございます。以下、指摘をさせて頂きます。

  1. 「神を扱った文筆作品」という節名からは、挙げられた「メインキャラクター」「個別ではない一般的な神」を想定する事は困難です。
  2. 「個別ではない一般的な神」とは何の事でしょうか。
  3. どの程度のレベルを以て「メインキャラクター」とするかという問題も発生してきます。
  4. 節の中に列挙基準として「メインキャラクター」「個別ではない一般的な神」を示すとしても、そのような基準が適切であるかについては議論が分かれます。--Kinno Angel 2010年1月8日 (金) 14:07 (UTC)[返信]
  1. 冗長性などの限界から節名に趣旨総てを盛り込むことは難しいので、当初は節の内容自体からも想定しうると判断しています。
  2. 文字通りなのですが、ほかに言えば○○神などではない一般的な人格神のことです。
  3. その存在がストーリーの主軸というレベルです。
  4. 議論は分かれるかも知れませんが、それだけに性急な編集に走らず、一つ一つ具体例を溜めて、じっくりと節の傾向自体から熟成させていくところでしょう。

よければ、節充実のため(膨大な分量の)具体例のご提供をお願いします。--らむちゃん 2010年1月8日 (金) 14:56 (UTC)[返信]

よければ、節充実のため(膨大な分量の)具体例のご提供をお願いします。」についてですが、「神を扱った文筆作品」と言い挙げていけば、中世西欧・東欧の著作は過半数が該当してしまうでしょう。さしあたり、en:Category:Christian fiction and allegory, en:Category:Religious themed fiction, en:Category:Christian fiction, を御覧下さい。星新一氏の作品が真っ先に挙げられなければならない重要性は無いと考えます。なお、各種宗教関連のウィキプロジェクトに、議論への参加を呼びかけました。--Kinno Angel 2010年1月8日 (金) 15:03 (UTC)[返信]

既にリンク先にクリスチャンの文字が複数見受けられますが、一般的な人格神で具体例をお願いします。--以上の署名のないコメントは、らむちゃん会話投稿記録)さんが 2010年1月8日 (金) 15:42 (UTC) に投稿したものです(Kinno Angelによる付記)。[返信]


一般の意味を改めてご説明しますと、特殊相対性理論に対する一般相対性理論の一般や、数学的な一般のNの一般です。--らむちゃん 2010年1月8日 (金) 15:47 (UTC)[返信]

コメント 別にクリスチャンのものであってもそうでなくとも、「神を扱った作品」などと言えばキリがなくなる事はこれで明らかだと思うのですが…「一般的な人格神」というのは意味不明です。「特殊相対性理論に対する一般相対性理論の一般や、数学的な一般のNの一般です。」も意味不明です。キリスト教の神は「一般」ではないのですか?よく分りません。基準を決めるのはらむちゃんさんの独自研究ではありません。それと、署名は毎回お願いします。署名の点で注意されているのは、これが初めてではいらっしゃらないようですね。--Kinno Angel 2010年1月8日 (金) 15:52 (UTC)[返信]

キリスト教の神は文字通りキリスト教の神であり、言わばキリスト教に偏っているので一般の人格神ではありません。

特にキリスト教にあってはイエスキリストその人も神と同視される傾向にありますし、一般的な意味では混乱を招くと思われます。

宗派の想定する神や、特定の名称(概念)が付与された神ではなく、神そのものをメインキャストに扱った作品の具体例をお願いします。--らむちゃん 2010年1月9日 (土) 08:29 (UTC)[返信]

「神」という概念自体が大いに伝統に根ざしたものであり、どのような従来の宗教・宗派からも独立した「神」の概念などはありえないのではないでしょうか? 仮にそのような「神」の概念がありえるとしても、この項目「」もまた従来の宗教・宗派から独立したような「神」の概念を扱ったものではなく、むしろ従来の宗教・宗派における様々な「神」の概念を包括的に記述したものであって、この項目においてそのような従来の宗教・宗派から独立したような「神」の概念を扱った作品だけ特別扱いする理由はないものと思います。--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2010年1月9日 (土) 08:57 (UTC)[返信]

特に宗派を奉じなくとも、神を奉ずる人は普通に存在するでしょう。

また、(ここで扱ったのは)独立神ではなく一般神です。

例えば「風邪の神さま」となると確かに独立神ではありましょうが、それ自体が個別神であり、一般的な神ではありません。

個別の、特別な神々を扱うというよりも、一般的な具体例を扱うことで、包括的な記述に根ざしたい次第です。

引き続き(膨大な分量の)具体例をご提供お願いいたします。--らむちゃん 2010年1月9日 (土) 12:50 (UTC)[返信]

まず、「引き続き(膨大な分量の)具体例」ですが、おっしゃるところの「一般神」が何を意味しているのかよく分かりませんし、繰り替えしになりますが、どのような従来の宗教・宗派からも独立した「神」の概念などはありえないと私は考えているので、ご希望の具体例を提示することはできないだろうと思います。
さて、おっしゃるところの「一般神」を項目「」で特別に扱う理由は何でしょうか?--mizusumashi月間感謝賞を応援します) 2010年1月9日 (土) 13:53 (UTC)[返信]
PJ:SLMから来ました。私にも「一般神」がよくわかりません。もしかして汎神論みたいなことを言われているのでしょうか。--Kotoito 2010年1月9日 (土) 20:53 (UTC)[返信]
コメント ウィキプロジェクト神道から参上しました。上記ご意見に迎合するようで恐縮ですが、私も「一般的な人格神」がよく分かりません。らむちゃん様におかれましては、一般神以外の膨大な具体例の提示を求める以前に、出来ましたらまづ一般神とその人格神の定義を、相対性理論や数学的なN以外の具体例を交えつつお示しいただければ議論も進捗するかと思います。ついでに「文筆作品」がどこまでを範囲とするか(例えば神学論などの論考も対象となるのか)もお示しいただければと。--胡亂堂 2010年1月9日 (土) 22:10 (UTC)[返信]

一般のNは義務教育の範疇なので、正直申しまして改めて説明するのが憚られるのですが、例えば数字の3に対する一般の(自然数)Nのことです。

3は個別の、特殊な数字ですが、Nは一般的な数字です。

Nは3から独立しているものではありませんし、従いまして一般神も各宗派や宗派外からも独立しているものではありません。

文筆作品は、明らかに各種文献と分けている以上、創「作品」のことです。

漫画作品の存在も否定できないので、より一般的な表現をとりました。

一般的な人格神の具体例は、例えば「神さまを信仰している」という方がいらっしゃればそれが(その対象が)具体例です。

なかなか作品例が集まらないようですが・・・。--らむちゃん 2010年1月10日 (日) 02:36 (UTC)[返信]

「一般のNは義務教育の範疇なので、~3は個別の、特殊な数字ですが、Nは一般的な数字です」というお話は、数と数字の区別について、混乱なさっているように思えます。記号「3」は数字ですが、記号「n」は数字ではなく変数の記号です。また、「N」は、たいていは自然数全体の集合を表す記号ですが、これもまた数字ではありません。対して、数3は自然数ですが、nなる自然数は存在しません。つまり、記号「n」は特定のものではない自然数を表す記号であり、それが直接表している自然数が存在するわけではありません。
これを、あえて「神」なる用語に敷衍すれば、語彙「神」はたしかに、キリスト教の神、神道の神、ヒンズーの神など、さまざまな神概念を表すことのできる語彙・記号ではあります。しかし、だからと言って、キリスト教の神、神道の神、ヒンズーの神などとは別に(「独立神ではなく」?)、語彙「神」が表している何かがあることにはならないのです。しいて言えば、さまざまな神概念を集めた集合を表しているということになるでしょうか。
しかし、まぁ、それはともかく、おっしゃるところの「一般神」を項目「」で特別に扱う理由は何でしょうか?--mizusumashi(みずすまし) 2010年1月10日 (日) 03:42 (UTC)[返信]
済みませんが、相変わらず「一般神」が分かりません。上記みずすまし様は疑問を呈されていますが、定義をより明確化すれば特別に扱うか否かは別として記す価値はあるかもしれませんので、明確化をよろしくお願いしたいです。また、具体例として挙げていただきました『「神さまを信仰している」という方』における「神さま」なのですが、具体的個別的でない神さま(これが一般神?)を信仰している方っているのですか?最後に「文筆作品は(略)創『作品』」とのことですが、それならば「(一般)神を扱った創作」とすべきでは?(その結果は本項目の理解には無意味な記述の羅列に帰してしまいそうですが)--胡亂堂 2010年1月10日 (日) 08:54 (UTC)[返信]

Nは記号とのことですが、それはNの表記上の面と意味内容に混乱が介在している結果の認識です。

自然数Nは、それが3でも5でも、7でもいいのですから存在します。

その中の3がNだ、としてしまうとそれは個別の、特殊な数字(例)であり、Nではないとなります。

一般神を特別に扱うのではなく、一般であり特別でないだけに扱う次第です。

個別的ではない神さまを信仰している方は、まま存在しているでしょう。

別段信仰でなくとも、知識の無い方や小さな子供が神さまという時、神さまは神さまであり、その対象は一般の神さまです。

作品は文字通り「作」品なので、そのように表現をとりました。--らむちゃん 2010年1月10日 (日) 10:07 (UTC)[返信]

コメント ウィキプロジェクト神道から来ました。なんとなく言わんとするところは見えては来ましたが記載する意味が分からないでおります。「特定の宗教とは関わりのない『神』そのものを主題としたフィクション」であれば、それをここで取り上げる意味は何なのでしょうか?逆に言えば、これがフィクションでなく論文であれば、「神」とは何かを考察したものとして記載することに吝かではありませんが。--ろう(Law soma) D C 2010年1月12日 (火) 00:08 (UTC)[返信]

論文は参考文献や出典の項目に組み込めばいいと思います。

ちなみに余り厳密に一般的でなくとも構いません。

取り上げた事例は中でも端的にスタンダードだったからであり、例えばフィネガンズウェイクのHCEなどは(結果的に)かなり一般的な事例なので、同レベルの一般度でしたら取り上げてもいいでしょう。--らむちゃん 2010年1月12日 (火) 06:17 (UTC)[返信]

節「神を扱った文筆作品」の削除提案[編集]

節「神を扱った文筆作品」を削除する事を提案します。これを維持する事を支持する人は、どうやらお一人だけでした。1週間、異論がなければ削除いたします。--Kinno Angel 2010年3月17日 (水) 01:14 (UTC)[返信]

「天帝」関連記述の冒頭からの取消につき意図説明[編集]

この取消につき説明します。まず中文訳聖書における訳語選定の問題については、既に節3.2.2.に書いてあります。冒頭で言及しなければならない問題とは思えません。一つ前の編集で「西方」さんが加えられた「天帝」については、柳父章による著作『ゴッドと上帝』を確認しましたところ、これには記載されていません。尤も、当方は清朝・中華民国時代を問わず、シナにおける聖書翻訳の事情について暗いため、「天帝」の訳語成立の是非については、現時点で全く書けない状況です。もし訳語「天帝」についてかかれるのであれば、3.2.2 キリスト教における訳語としての「神」に出典付きで加筆されるよう希望するものであります。--Kinno Angel 2010年7月12日 (月) 16:10 (UTC)[返信]

Kinno Angelさん、説明およびコメントありがとうございます。たしかにわたしも出典を出して記述したわけではないので、その点は了解しました。わたしが加筆した動機は、本項目の中国語リンクがないことに気づいたからでした。中国では「神」は、日本語での「神」のような意味ではないようです。それから、わたしはキリスト教ではないからよけいようそう思うのでしょうが、「神」が一神教的な意味で、特に日本で使用されすぎていることに疑問を持つものです。中国でのイエズス会の活動については、他に文献を持っているので、いずれ加筆したいかと思いますが、東アジア文明圏では、キリスト教伝播以前は、とくに中国では「天」概念が、西欧一神教でいうところの「God」に対応します。ウィキペディア中国語版「天」を見ると、その定義が「神」と同義であるといえるかと思います。この「天」についても、文献はあるので、いずれ加筆したいと思います。

冒頭にこの件について記述が必要と思われるのは、上記の「世界史」的な観点によるものです。むろんここでの「世界史」とは、「西欧(一神教)中心主義」ではない、という意味です。かといって、「東洋主義」でもない。より正確にいえば、比較文明論的観点、または文化人類学的観点です。この点は、西欧文明を「グローバルスタンダード」にしてきた近代日本の盲点ともいえますし。ですので、いますでにある節3.2.2.の記述も、私はその要約については、冒頭にあるべきだと思います。この点については、あらためてお考えをおきかせください。--西方 2010年7月12日 (月) 20:49 (UTC)[返信]

コメント、ありがとうございます。
独自研究の虞の回避と、許容範囲の冒頭文体裁
まず、編集者の立場から申しますと(そしてこれが事典執筆活動であるWPJPではメインとなります)、「神」が「GOD」の訳語として相応しいかについては、日本でもかなり議論されている事ではありますが(あまり一般には知られていないようですが、キリスト教内からも議論される事は少なくありません)、現状、圧倒的多数が「GOD」の訳語として「神」を使っている以上、冒頭であまり詳細に述べる事は、バランス面における独自研究の色彩が出て来るものと思われます。ただ、私個人としても問題意識が無い訳ではありませんし、その上そういう議論がある事自体は確かなのですから、冒頭に「「神」がキリスト教等の神の訳語として適訳であるかどうかには、キリスト教内からも外部からも異論がある(後述)」といった形の、最低限の予告文程度を入れる事には反対しません。訳語についての議論を紹介する節を新たに設けるのも良いでしょう(その形式・内容についてはまた議論になるかと思いますが)。
英語中心主義への疑問(と、西洋VS東洋の二元論への疑問というおまけ)
いつも思うのですが、この手の議論でなぜ"GOD"が例示されるのか疑問です。英語の普及率が関係しているのかもしれませんが、それにしても新約聖書はギリシャ語で書かれているのであり、本当ならば"Θεός"(古典ギリシャ語再建音:テオス、現代ギリシャ語転写:セオス)を挙げなければならないところではないでしょうか。冒頭文を構成するにしても、記事本文を加筆するにしても、英語は出来るだけ避けたいところです。カトリック教会のメイン言語はラテン語であり、正教会のメイン言語はギリシャ語なのであり、英語が全世界のキリスト教世界で基幹言語になっている訳では決してありません。
ここから先は余談じみていますが。
英語の"god"もギリシャ語の"Θεός"も、多神教の神にも適用される語彙であるということが、議論の最中にすっぽり抜け落ちている事が多いのには、私は首を傾げています。田中美知太郎の古典ギリシャ語のテキストには頻繁に"Θεός"が出て来るのですが(田中は代表的な日本の保守思想家という面もあり、決してキリスト教中心主義ではありません)、これは新約聖書の"Θεός"ではなく、アポローン、ポセイドーンといった神々を示す普通名詞です。
「西欧中心主義」に疑問を提示する方からこのテの議論が提示される事が多いのですが(その動機には反対しません)、その方々御自身が結局英語中心主義に飲み込まれているのでは話しにならない、といつも思ってしまいます。英語がキリスト教でも基幹言語になってきたのは20世紀後半の話です(それまではラテン語・ドイツ語が重要でした)。また英語・ギリシャ語に多神教的文化基盤が無いと考えるのも、本人たちの意図に反して一神教中心主義に毒されている傾向の現れでしょう(別に私はそれで構わないのですが…)。
英語・ギリシャ語の語彙が実際に先方でどのような語源・語彙使用法を経て現在に至るのかの視点が抜け落ちてしまっている辺りに、考察の粗雑さを感じずにはいられない昨今です。
その辺も考慮の上、執筆内容を考慮して頂きたいものです。
信頼出来るとされる文献には基本的に従うのがウィキペディアのルールかもしれませんが、あまりに明白な浅薄さまで文献に従うべきとは私には思えませんし、独自研究の排除とともに、正確性の追求も我々には課せられています。
これは確実に余談ですが、私の「神」についての関心事は、「spirit」の訳語としての「神゜」です。その辺の事情については、至聖三者を御覧下さい。日本人はなぜ「精神」「神経」に「神」が使われているのか、忘れがちというか、漢和辞典を調べないから知らない、そういう問題意識の方が私には大きいです。--Kinno Angel 2010年7月13日 (火) 03:00 (UTC)[返信]
Kinno Angelさん、もろもろありがとうございます。
冒頭文体裁の件、了解しました。
「英語中心主義」の件については、まったく同意します!ぜひ、その観点で加筆してくださることを切に願います!
プラトンやソクラテスの議論にも、Θεόςは出てきますしね!あと、ダイモーンは「精霊」でしたっけね。でもギリシア神話、というより古代ギリシア宗教における神、また古代エジプト宗教における神など、そういう比較宗教史的な観点から本項目は加筆された方がより好ましいと思います。お好きかどうかはわかりませんが、エリアーデの世界宗教史などを踏まえて、いつかわたしも加筆したいと思っています。それでは、またの機会にでも。--西方 2010年7月15日 (木) 19:35 (UTC)[返信]

冒頭文編集につき意図説明[編集]

この編集につき御説明申し上げます。

「神」という言を「気に入ったものや人物に対して賞賛をこめるときに」使うのは、近年の日本に限りません。元々漢字の意味において「神」「聖」というのは、ずば抜けて優れた様に対して与えられる形容詞としても使われて来ました。例えば王右軍の快雪時晴帖に乾隆帝が「神」の文字を記した例、王世貞が、杜甫の五言律詩と七言歌行を神とし李白絶句を神とした事例などがあります(余談ですが王は杜甫の七言律詩は聖、李白の七言歌行は聖であるとしています)。漢籍まで引かずとも、天皇を「神」として歌った和歌が古くにあります。

この部分を「近年の日本に限定」する体裁をとらない事も含め、辞典を参照した冒頭文に大幅に改めました。--Kinno Angel 2010年8月29日 (日) 16:04 (UTC) 微修正--Kinno Angel 2010年8月29日 (日) 16:07 (UTC)[返信]

聖書を直接出典とする事は不適当です[編集]

すみません、聖書を出典にした記述が色々行われているようですが…聖書というものは各宗教それぞれにおいて解釈が千差万別でして、「聖書のここにこう書いてある」は出典たり得ません。その辺の事情を考慮された編集なのでしょうか。特に「ユダヤ教=旧約聖書」というのは間違いで、旧約聖書を引っ張ればユダヤ教になるわけではありません。旧約聖書についての予型論的解釈をするキリスト教とは解釈も全く違いますし、キリスト教内ですら寓喩的解釈を多用する派とそうでない派で解釈が割れるのです。これは新約聖書についても同様です。解釈が割れる事が無ければ、諸教派の分岐が生起した筈がありません。「聖書にこう書いてある」ことを箇条書きにして行く編集方針を立てておいでなのだとすれば、不適切であることを御指摘申し上げます。--Kinno Angel会話2013年3月26日 (火) 15:13 (UTC)[返信]

「多神教と唯一神教の性格」節の削除を提案します。[編集]

独自研究と、主題に無関係な解説が書かれているだけです。反論がなければ一週間後に削除します。 --Tonbi_ko会話2014年8月22日 (金) 17:20 (UTC)[返信]

賛成 異議ありません。--Kinno Angel会話2014年8月25日 (月) 12:54 (UTC)[返信]
チェック  削除しました。 --Tonbi_ko会話2014年8月29日 (金) 17:24 (UTC)[返信]
コメント Tonbi_koさん、お疲れ様です。--Kinno Angel会話2014年8月31日 (日) 12:10 (UTC)[返信]

Wikidata記事の妥当性[編集]

この記事と対応するwikidata:Q190は、「神」ではなく「一神教における神」です。zh.wikipediaの対応する記事は、zh:神 (一神教)で、en.wikipediaも一緒です。

記事を改名し分割する必要があると見なされます。または、新しいWikidata記事を作ることです。 Shii会話2014年9月30日 (火) 05:43 (UTC)[返信]

反対  wikidata:Q190の履歴をみてみましたが、English labelが god から god of monotheismに変えられたのはつい最近(2014年1月)であって、その際にたいした議論もなかったようです。そのような状況で、Wikidataが主であり、Wikipedia記事はWikidataに従うべきというのは理屈に合わないでしょう。Wikidataにて議論のうえ、そちらのEnglish labelを戻すほうがいいのではないでしょうか?
また、言語はそれを育てた文化圏の宗教に依存するため、特に宗教的存在についての概念は言語によって大いに異なり100%重なることは絶対にありえません。世のすべてが多神教と一神教に明確に分離できるものでもありません。個人的には、中国人がアブラハムの神を「天主」としたように、ベトナム人があえて「Gius」のままにしたように、日本語もgodに別の訳語を作っていればよかったのに、と思いますが、日本語においてはpolytheism monotheism関係なく、また創造神なのか just a one of supernatural thingsなのかにかかわらず、「神」という語が日用に使われてしまっていますから、ここが日本語Wikipediaである以上は、現状のままで記事内での解説を詳細にする程度に留めるべきだと思います。また他の言語をみてみますと、vi.wikipediaで対応する記事であるvi:Tiên Chúavi:Thiên Chúaでは、一神教の神だけではなく「創造神」の記事であり、ヒンドゥ教のブラフマーについても解説していますね。 --Tonbi_ko会話) 2014年9月30日 (火) 08:34 (UTC) スペルミス修正--Tonbi_ko会話2014年9月30日 (火) 10:06 (UTC)[返信]

春秋左氏伝 荘公三十二年の神に関する記述について[編集]

神#初出 に以下の記述があります。

[[春秋左氏伝]]‐荘公三十二年の記載が、漢字の「神」の初出とされる。 「神」は、天文をコントロールし、耕地を与える技術を持っていた聡明で正直な呪術師であったことが記されている<ref>[http://ctext.org/chun-qiu-zuo-zhuan/zhuang-gong/zh [[春秋左氏伝]]‐荘公三十二年 中国哲学書電子化計画]</ref>。すなわち、ここでの神は、農業指導者として農事暦に天文や気象の周期と作物の関係を記録して種まきの時期を選び、また食物を計画的に収穫・備蓄して人を動員し、興亡を左右した人間のことを説明している。 — 神#初出 oldid=68378406

この記述はSpecial:Diff/46232994/prevの、ブロックされたユーザによる編集を元にしており、唯一出典としてあげられている春秋左氏伝 荘公三十二年(s:zh:春秋左氏傳/莊公#莊公三十二年オープンアクセス島田鈞一「一九 有神降于莘 莊公三十二年」『春秋左氏伝新講』有精堂出版部、1937年、60-61頁。NDLJP:1120963/38 オープンアクセス博文館 著、博文館編輯局 編『春秋左氏伝』 第1巻、博文館、東京〈博文館文庫 第2部〉、1941年、114頁。NDLJP:1111785/65 )には、明確に神を呪術師もしくは人間であると説明するような記述はありません。以上の理由により、この記述を除去します。--MawaruNeko会話) 2018年5月3日 (木) 15:23 (UTC)--MawaruNeko会話2018年5月3日 (木) 15:39 (UTC)微修正[返信]

漢字「神」の出典

漢字「神」の初出が「春秋左氏伝」であるとされていますが、中国最古の書物とされる「書経」の記述の方が古いようです。「乃聖、及神、及武、及文」(書経、角川ソフィア文庫。電子書籍の14%)にあります。--115.37.9.87 2019年4月6日 (土) 06:39 (UTC)[返信]

定義文[編集]

「想像上の概念」なのか「もの」なのかで編集合戦が起きていますが、少なくともコトバンクで諸辞書の定義をざっと読む限り、「概念」「もの」あるいは「対象」と定義するのが適切かと思います。「想像上の概念」と踏み込んで定義づけているものは見当たりませんし、このような表現では無神論科学主義的な立場に肩入れしてるように感じられます。 --2402:6B00:7469:5600:8113:A9E5:BEC3:DA5A 2020年11月22日 (日) 08:52 (UTC)[返信]

全く仰る通りです。--Gruppetto会話2020年11月22日 (日) 10:50 (UTC)[返信]
コメント 無神論的な観点だけの立場で何度も何度も「想像上の概念」と、冒頭で定義づけることに固執しているIP:126.116.74.234さんは、「いつまでも納得しない」(WP:IDIDNTHEARTHAT)に相当するのではないかなと思います。--みしまるもも会話2020年11月23日 (月) 01:06 (UTC)[返信]