ノート:曲水の宴

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2007年6月30日 (土) 03:39 に124.25.254.39氏が次のように書き込まれました。

①「雛飾り起源説」が独自研究であるとの主張について、「曲水の宴」&「雛祭」で検索すると沢山ヒットします。 goole

大宰府では天徳2年(958年)3月3日に大宰大弐小野好古がはじめたとされるが、中世以降は断絶した。[要出典] ・・・?何が要出典なのでしょうか?常識です。 太宰府天満宮:曲水の宴 九州国立博物館:西都 太宰府・・・その他多数

③「本来曲水の宴は宮廷行事であり主催者は中国の天子又はこれに準ずる大王だった。」 曲水の宴は、平安時代中期までは宮中の年中行事として正式に行われ、後に宮中で途絶えがちになると、貴族が、詩歌を読むだけの行事を主催して行ったことが記録に見えています。「詩歌を読むだけの行事」は既に曲水の宴ではありません。曲水の宴は宮廷行事のみです。宮廷行事の主催者は、天皇です。


124.25.254.39氏の①②③の書き込みについて、掘っ立て氏が以下の回答を示されました。

①について

「雛飾り起源説」が独自研究であるとは主張しておりません。「本来曲水の宴は宮廷行事であり主催者は中国の天子又はこれに準ずる大王だった。」「安倍氏や藤原氏はその資格があると自負していたと考えられる。」 が独自研究であると主張しているのです。ただし、「雛飾り起源説」が「曲水の宴」と「雛祭」を直接結びつけるものなら、誤りでしょう。

「上巳は旧暦3月上旬の巳(み)の日で,この日の行事が3月3日に固定し,雛(ひな)の節供をさすようになった。水辺に出て禊(みそぎ)をした中国古代の風が伝えられて巳の日の祓(はらえ)となり,人形(ひとがた)を水に流して穢(けが)れを祓ったが,この人形が雛人形になり,雛祭になったという。」(上巳 マイペディア ライブラリ・サーチ)

「3月3日の (三月節供) の行事。この日の行事は雛人形を飾り祭るものと, 山遊び・磯遊びとに大別できる。雛人形を飾り祭るのは,中国伝来の 3 月上巳 (じようし)の行事と日本に古くからある人形 (ひとがた)によって身をはらおうとする考え,および貴族の幼女の人形遊びとが結合して,室町時代ごろに一応の形を整えたといわれる。」(雛祭 世界大百科事典第2版)

「中国では,陰暦3 月上巳の日に禊 (みそぎ) をし,汚れをはらい水に流す習俗があった。のちには流れに臨んで宴を開き,杯を浮かべ,その杯が自分の前を流れすぎないうちに詩を作り,詩ができなければ罰杯を飲まされるという遊びに発展した。」(曲水の宴 世界大百科事典第2版)

「上巳の節供は、日本古来の行事と言ふよりも、寧、支那の信仰上で意味のある日であつた。古く、三月初めの巳の日に、水辺に出て祓除をなし、宴飲をした。其が形式化して、曲水の宴ともなつた。通常伝へる処では、魏の後、上巳を止めて、三日を用ゐる様になつたが、名前は依然、上巳で通つたのだと言ふ。」(折口信夫 「偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道」)


②について

[要出典]が貼られているのは、センテンスではなく以下のパラグラフ全体です。

東北でも多賀城平泉毛越寺奥州安倍氏奥州藤原氏が催した曲水の宴の跡がある。また、福岡県久留米市でも、8世紀以前の曲水の宴の跡が発掘されている。大宰府では天徳2年(958年)3月3日に大宰大弐小野好古がはじめたとされるが、中世以降は断絶した。[要出典]

☆「大宰府では天徳2年(958年)3月3日に大宰大弐小野好古がはじめたとされるが、中世以降は断絶した」には資料「天満宮安楽寺草創日記」があります。


③について

「曲水の宴は、平安時代中期までは宮中の年中行事として正式に行われ、後に宮中で途絶えがちになると、貴族が、詩歌を読むだけの行事を主催して行ったことが記録に見えています。」は「曲水の宴は、奈良時代から平安時代中期までは宮中の年中行事として正式に行われ、後に宮中で途絶えがちになると、藤原道長や藤原師通などの貴族が主催して行ったことが記録に見えています。」 方除の大社 城南宮からのパクリですね・・・。

「「詩歌を読むだけの行事」は既に曲水の宴ではありません。曲水の宴は宮廷行事のみです。宮廷行事の主催者は、天皇です。」は独自研究ではないでしょうか。

「中国から入った 3 月上巳の水辺の祓および曲水の宴は,日本でも奈良・平安時代に盛んにおこなわれ, 曲水の宴のために宮廷や貴族の邸宅の庭には池の畔に曲溝が造られた。 3 月 3 日が常例となり,曲水流觴 (りゆうしよう) が終わって,さらに宴が開かれ,文人各人の詩 (和歌) を披講した。平安時代には天皇が清涼殿に出席した。 《日本書紀》では顕宗 1 年を起源としているが,確実な史料の初見は 8 世紀の聖武天皇のころであり,平城天皇のとき,一時,中止になったが,嵯峨天皇により復活した。摂関時代には内裏の公式行事として,さかんにおこなわれたが,藤原道長の邸においてもおこなわれており, 1007 年 (寛弘 4) には雨のときに,殿上の廊に水辺の座を移しておこなっていることが知られる。 」(曲水の宴 世界大百科事典第2版)

参考「曲水の宴」の実態について。

「こうした宴会については、日本の饗宴、つまりパーティーの歴史を通観した倉林正次『饗宴の研究』という分厚―い研究書があります。これによると、曲水宴とは、「中国から渡来した春の宴会儀礼で、曲水の盃を流して漢詩を競うもので、奈良時代後半に盛んに行われたが、平安時代初期、平城天皇の時代に、父の桓武天皇と母の藤原乙牟漏の命日が三月だという理由で停止され、その後はほとんど行われなかった」ですって!  つまり今行われている「王朝ロマン・曲水の宴」とはずいぶん感じの違うものだったのです。   さて、平安時代に行われ、詳しい儀式の次第が残っている曲水の宴は、天皇主催のものが一例、公卿主催が『御堂関白記』に見られる寛弘四年(1007=藤原道長主催)と『中右記』に記された寛治五年(1091=藤原師通主催)の二例に過ぎません。」斎宮歴史博物館 再現・曲水の宴のテンマツ


(川の流れを蛇に見たて、水神とし、蛇の好きなお酒を供えて禊祓する儀式・・)はhttp://www.rakuten.ne.jp/gold/fusuidoragon/kiji/momosekku.html

からのコピー?--黄金もち 2007年7月3日 (火) 11:42 (UTC)[返信]


①本来曲水の宴は宮廷行事であり主催者は天皇であった。

本来曲水の宴は中国より伝来しました行事でございまして、かの国では宮廷行事とは申せぬ世俗的な行事であります。ただ、我が国におきましては、宮廷の催しごとでありましたのも事実でございます。ただ、『万葉集』巻十九に中納言家持が曲水宴を詠める「漢人毛 筏浮而 遊云 今日曽我勢故 花縵世余(からびとの舟を浮かべて遊ぶてふ今日ぞわがせこ花かづらせよ)」がございますように、天平勝宝2年(750年)には私的な遊びとして催されていたのでございます。


②東北でも多賀城や平泉の毛越寺に曲水の宴の跡があり奥州の独立性を示すものであるとも考えられる。

平安時代の『作庭記』は、池・中島・滝・泉・前栽などに加えて遣水についても詳しく述べておりまして、庭園に曲水の宴を催すことのできる遣水があるのは至極当然のことであります。曲水の宴を催すことのできる遺跡が確認されたからと申しましても、曲水の宴が催されたとは限りませんし、多賀城や毛越寺に曲水の宴の文献的な裏づけは無いのであります。ましてや、 奥州の独立性を示すものと考えることは極めて飛躍した推論としか申しようがないのであります。


③また、福岡県久留米市でも、8世紀以前の曲水の宴の跡が発掘されており、筑紫の君磐井が天皇の命に従わず礼無なことが多かったと非難された一つであるとする見解もある。更には九州王朝が存在した証拠であるとす主張もある。

先にも申し上げましたように、遺跡は必ずしも曲水の宴が催された証拠とは申せないのでございます。筑紫の君磐井云々は一つの推論を超えるものではなく、ましてや九州王朝に纏わる主張をアカデミズムの世界は歯牙にもかけておらず、畢竟俗説と申さざるをえないのでございます。--掘っ立て 2007年7月3日 (火) 15:54 (UTC)[返信]

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