ノート:徳川慶喜

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名前に〔家〕を継いでいないことについて誰か知りませんか?

具体的な理由を示す史料の所在は判りませんが、慶喜は征夷大将軍に就任してから辞職するまで、江戸にいたことがなく、と言うより京都を離れることが許されないほどの政治状況だったので、先代(第14代)のように「家茂」へと改名する余裕がまったくなかった、ということだと思われます。なお、慶喜自身の「慶」は、家慶の一字をとったものです。


徳川歴代将軍の中で〔家〕の字が付かないのは、秀忠、綱吉、吉宗、慶喜の4人です。 このうち秀忠は家康が天下人になる前の元服ですから、家康の〔家〕ではなく秀吉の〔秀〕をもらっています。この頃はまだ長子相続が制度化されておらず、秀忠が家康の後継者に最終確定したのは家康が天下を取って後のことでした。 この4人の共通点は「成人してから将軍(あるいは次将軍)になることが決まった。」ということ。尤も6代将軍家宣の場合は、壮年期過ぎてからの将軍家相続であったにもかかわらず改名していますので、最終的には本人の意志でしょう。 結局のところは「将軍職就任以前に、ある程度の実績と知名度をすでに持っていたのであえて改名しなかった」ということではないでしょうか。


家康→秀忠、は、徳川家の系図を上にたどると、親忠→長親→信忠→清康→広忠→家康→秀忠となりますから、ある時期以降徳川家では「康」と「忠」を交代で通字にしていたのだと思われます。「家」が通字になったのはひとえに家康がえらかったから(?)でしょう。秀忠の代までは「家康個人の偉さ<歴代の慣習」だったのではないでしょうか。吉宗と慶喜に共通するのは(1)前代の将軍の片諱を名乗りにしていること、(2)将軍を継嗣したのが成人以降であること、(3)養父(前の代の将軍)が本人より年下であること、(4)吉宗は一時期(3)を理由にして将軍はつぐが養子になるのはいやだといったことがある、一方で慶喜は宗家はつぐが将軍になるのはいやだと主張していた……、というところだと思います。


上の説への批判なのですが、私自身は「家」が通字になったのは、家康に傾倒していた家光が始めた慣習であると認識しています。そのため、秀忠は家忠と改名することは無かったのでしょう。 (1)については、六代家宣・十四代家茂もそうであったが、改名していますので理由としては適当ではありません。 (3)(4)については二代秀忠・五代綱吉には当てはまりません。 よって、(1)(3)(4)は名前に〔家〕を継いでいないことについての理由としては、不適当であると思います。


慶喜の幼少写真[編集]

写真を見たところ相当幼いのですが、本当に慶喜公の写真ですか?1837年生の慶喜が何年ごろ撮影した写真なのでしょう。海外で日本人の写真が初めて撮影されたのが1852年、日本国内で外人の手により日本人が撮影されたのが1854年、日本人自身の手で写真撮影に成功したのが1857年だったと思うのですが。--平成no牛若丸 2007年2月9日 (金) 04:54 (UTC)[返信]

ウィキコモンズによりますと http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Yoshinobu_Tokugawa_5.jpg 「幕末・明治・大正 回顧八十年史」(昭和9年)からの写真のようです。自分には確認のしようがありませんが、参考までに。--Kamesan101 2007年6月14日 (木) 13:09 (UTC)[返信]

徳川慶喜[編集]

こんにちは。私は徳川慶喜について調べています。 そこで、大政奉還についてもっと知りたいのですが、どなたか詳しく知っている人は教えてください。 --124.255.7.72 2008年2月6日 (水) 07:42 (UTC) まきこ[返信]

一条美賀か一条美賀子か[編集]

一条美賀と一条美賀子との書き換えが見られます。一条美賀にするのは現段階では反対です。どちらが適切かは別として、ウィキペディア日本語版では一条美賀子を記事名としている以上、一条美賀子へのリンクが切れてはなりません。一条美賀子にするなら、それなりの手続きを踏んでください。青リンクから赤リンクにするときはもっと慎重であるべきと思量します。--ShikiH 2008年3月30日 (日) 11:09 (UTC)[返信]


幼名について[編集]

利用者:きままさんにより、“ドラマなどでは「七郎麿」となっているが、正しくは七郎「麻呂」なので”としながら、ドラマの解説本を参照にした“七郎「麻呂」”との編集がなされました。より正確なWikipedia:信頼できる情報源によりどちらが正しいかの判断が必要だと考えられますので、いったん差し戻し、両論併記の形にしました。--彩華1226 2009年2月20日 (金) 14:57 (UTC)[返信]

根拠は松平七郎麻呂・直筆の書「楽山」(徳川美術館)などです。本人が書いているのですから七郎「麻呂」のみ正解です。--きまま 2009年2月21日 (土) 15:18 (UTC)[返信]

『徳川諸家系譜』(続群書類従研究会)によると、第1巻の「徳川幕府家譜」と第2巻の「水戸様系譜」では「七郎麿」、第3巻の「一橋徳川系図」では「七郎麻呂」となっています(第1巻に関してはGoogleブックでも参照可能)。本人が書いたのは良いですが、だからといってそれのみを正しいとするのではなく、史料によって表記には揺れがあるとして両方を併記しておけば良いのではないでしょうか。--松茸 2009年2月22日 (日) 04:50 (UTC)[返信]

 繰り返しになって恐縮ですが 根拠は松平七郎麻呂・直筆の書「楽山」(徳川美術館)などです。本人が「七郎麻呂」と書いているのですから七郎「麻呂」のみ正解です。

史料によって表記には揺れがあるとして両方を併記しておけば良いのではないでしょうか。

それに関しましては ドラマなどでは「七郎麿」となっているが、正しくは七郎「麻呂」である と記述して「七郎麿」という表記が存在することは示しています。 そういうことで御了承願いたいと存じます。--きまま 2009年2月22日 (日) 16:09 (UTC)[返信]

「ドラマなどでは」ですと、時代劇物の製作で作られた創作ととられかねないので、史料名を挙げて「一部史料では」としておきました。--松茸 2009年2月23日 (月) 03:33 (UTC)[返信]

 お返事、有難うございます。   創作ととられかねない

んー、「創作」と言いますか(かなり広範囲に渡って広まった)「誤字」と言えると思います。

繰り返しになって恐縮ですが 根拠は松平七郎麻呂・直筆の書「楽山」(徳川美術館)などです。本人が「七郎麻呂」と書いているのですから七郎「麻呂」のみ正解です。 根拠を追加させて頂きますと、内藤業昌(ないとう・なりまさ)筆の「松平七郎麻呂・七歳肖像画」にも 「七郎麻呂殿七歳肖像」と内藤業昌が書いています。

「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)などの一部史料では「七郎麿」との表記になっているが、本人の署名は「七郎麻呂」である。

「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)などの一部史料で「七郎麿」との表記になっている ので 「七郎麿」表記は存在しますが、正しい表記ではありません。

受諾なさるのは難しいかもしれませんが、何とかそういう事でお願い出来ないかと考える次第でございます。--きまま 2009年2月24日 (火) 15:40 (UTC)[返信]

事実は“直筆の書「楽山」(徳川美術館)などで本人が「七郎麻呂」と書いている”までで、“七郎「麻呂」のみ正解”はあなたの独自研究(主観というべきか)にすぎない。“「七郎麿」表記は存在します”って認めておいて、両論併記の松茸さんの編集を差し戻すってどういうことなの? 1ヶ月ブロックされてるあいだ、ちゃんとWikipediaのルールを読みましたか。まあ、読んでないし、理解もしてないからそんなこと言ってるんでしょうけど。--彩華1226 2009年2月25日 (水) 11:42 (UTC)[返信]

“「七郎麿」表記は存在します”=“「七郎麿」表記は「この世に」存在します(が正しい表記ではない) ということです。--きまま 2009年2月28日 (土) 15:09 (UTC)[返信]

ですから、「が正しい表記ではない」はあなたの独自研究(むしろ主観)です。「七郎麻呂(のみ)が正しい」と書きたければ、そう書いている研究・文献を用意してください。--彩華1226 2009年2月28日 (土) 17:01 (UTC)[返信]
私もその点が気になっていたのですが…果たして「七郎麻呂のみが正解で七郎麿は間違い」とする根拠は何でしょうか。「七郎麿」と本人が書いていないから、では根拠としては弱いです。「水戸様系譜」は慶喜の実家の史料(日記等を元にしたであろう系図)で、ある程度信用のおけるものであります。慶喜の他の兄弟の幼名は、長兄(徳川慶篤、幼名:鶴千代)を除いて20人の兄弟全てに「まろ」が入っているのですが、そこではみな「麿」表記です。もし「麻呂」だけが正しいというのであれば、他の20人の兄弟も「麻呂」が正しいとしなければ整合性がとれませんよね(慶喜一人、あるいは数人だけ「麻呂」というのは、字の区別に特別の意味が無い限り考えにくい)。
それに当時は漢字の区別が今ほど明確に行なわれていたわけではなく、例えば新選組は「新選組」「新撰組」の二表記がありますし、沖田総司は自筆で「沖田総二」と記したものがありますし、坂本龍馬も「阪本」や「良馬」と書かれたものもあります。「麿」と「麻呂」の字も、明確に使い分けられていたわけではなく、藤原仲麻呂阿倍仲麻呂坂上田村麻呂石塚龍麿などの人は史料によって「麿」だったり「麻呂」だったりバラバラな訳です。この辺りを踏まえて、表記の正誤について説明をお願いします。--松茸 2009年2月28日 (土) 17:34 (UTC)[返信]
「水戸様系譜」は慶喜の実家の史料(日記等を元にしたであろう系図)で、ある程度信用のおけるものであります。慶喜の他の兄弟の幼名は、長兄(徳川慶篤、幼名:鶴千代)を除いて20人の兄弟全てに「まろ」が入っているのですが、そこではみな「麿」表記です。もし「麻呂」だけが正しいというのであれば、他の20人の兄弟も「麻呂」が正しいとしなければ整合性がとれませんよね?(慶喜一人、あるいは数人だけ「麻呂」というのは、字の区別に特別の意味が無い限り考えにくい)。
根拠は以下の文です。

 水戸で養育されていた斉昭の4人の子供たち、五郎麻呂、七郎麻呂、八郎麻呂、九郎麻呂は天保14年4月、江戸に呼び寄せられた。 離れて暮らす母・吉子は内藤業昌に命じ、それぞれの子供を4幅の肖像画に描かせたと伝わる。ドラマでは幼名を七郎麻呂としたが、正しくは七郎麻呂である。    (NHK大河ドラマストーリー「徳川慶喜」後編(NHK出版)63ページ)

私が言うのも何ですが、そんなに拘泥なさらなくとも良いのではないでしょうか?  麻呂=麿 ではないですが 麻呂≒麿 なのですから--きまま 2009年2月28日 (土) 17:57 (UTC)きまま[返信]

“ドラマの解説本は出典にならない”はこのノートページで私が最初に注意申し上げたことなんですけど。何で話が最初にループしてるんですか? “ドラマの解説本は出典にならない”から、「自筆の署名」を根拠にされたのではなかったのですか。結局、今回も「出典は記述する側が提示する」の原則を満たすことなく、自説に拘泥した記述をごり押ししてコミュニティを疲弊させるのですね。--彩華1226 2009年2月28日 (土) 18:15 (UTC)[返信]

根拠は  七郎麻呂本人の署名および内藤業昌の署名    および  水戸で養育されていた斉昭の4人の子供たち、五郎麻呂、七郎麻呂、八郎麻呂、九郎麻呂は天保14年4月、江戸に呼び寄せられた。 離れて暮らす母・吉子は内藤業昌に命じ、それぞれの子供を4幅の肖像画に描かせたと伝わる。ドラマでは幼名を七郎麿としたが、正しくは七郎麻呂である。    (NHK大河ドラマストーリー「徳川慶喜」後編(NHK出版)63ページ) です。--きまま 2009年2月28日 (土) 18:23 (UTC)[返信]

その大河ドラマストーリーの本には、「七郎麿」は間違いだという理由は書いていないのでしょうか?(その「署名」が「麻呂」だから、というだけですか?) また、その本は研究者・専門家の検閲なり監修なりを受けた、信用に足る出典なのでしょうか? 「七郎麿」と書かれている史料が存在する以上、それを否定できる根拠が明確に示されていなければ、その本の内容を鵜呑みにするのは如何なものかと思いますが…。--松茸 2009年3月1日 (日) 04:31 (UTC)[返信]
拘泥しないなら「こういう表記もあればこういう表記もある」で良いでしょう。そもそもこの手のことに正しい間違いなんて求めること自体が間違いです。らりた 2009年3月1日 (日) 11:56 (UTC)[返信]

 「七郎麻呂」が正解。「七郎麿」は(正解ではないが)正解に準ずる(準正解)という感じで良いのでは?と(現時点では)考えています。 それ故、松茸さんの 「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)などの一部史料では「七郎麿」との表記になっている の部分は(削除せず)そのまま残している次第です。--きまま 2009年3月2日 (月) 14:53 (UTC)[返信]

ですから、その「正解」「準正解」と規定するのには、論拠があるのでしょうか。ただ単に署名がそうだからというだけでは、きままさんの独自研究に過ぎません(大河ドラマストーリーに「七郎麿」が誤りだという明確な理由が記されていないのであれば)。どっちが正しく、どっちが正しくない、というようなことは、史料・研究論文・専門書などで明確な根拠の元に書かれていなければ、検証不可・独自研究の事項になってしまいます。ですから、そういった出典が無いのであれば、「正しくは」や「正解」のような真偽を決定付けるような表現は避け、「本人の署名では「七郎麻呂」で、一部史料では「七郎麿」という表記もある」といった内容にしておけば良いと思うのですが。--松茸 2009年3月3日 (火) 07:48 (UTC)[返信]

 一部史料では「七郎麿」という表記もあるが、慶喜本人は「七郎麻呂」と署名している という表現で如何でしょうか?--きまま 2009年3月3日 (火) 15:42 (UTC)[返信]

その方向でいいのではないでしょうか。慶喜本人は「七郎麻呂」と署名している慶喜本人が「七郎麻呂」と署名している書が残されているにすればより正確性が増すと思います。--彩華1226 2009年3月3日 (火) 15:58 (UTC)  [返信]

慶喜本人は「七郎麻呂」と署名している慶喜本人が「七郎麻呂」と署名している書が残されているにすればより正確性が増すと思います。

  一部史料では「七郎麿」という表記もあるが、慶喜本人は「七郎麻呂」と署名している は「本文」として記述し

  慶喜本人が「七郎麻呂」と署名している書が残されているの箇所を記述する場合は「脚注」として付記すれば良いと考える次第です。--きまま 2009年3月4日 (水) 05:52 (UTC)[返信]

全体の構成について[編集]

ShikiHでございます。全体の構成が緩いように思います。晩年、静岡でけいき様と呼ばれたことは、3回も記述されています。他のことも含め、全体を整理すべきだと思います。私がやってもかまいませんが、それよりもこの記事をたびたび編集しているかたの方がよいので、改訂をお願いいたします。--ShikiH 2009年3月27日 (金) 23:07 (UTC)[返信]

本文を読んだところ、ShikiHさんと、だいたい同じ意見を持ちました。だいぶ構成上難があると思いましたので、提案をしたいと思います。
名前の節とエピソードの節は人物の節に組み込み、さらに人物節から「慶喜に対する評価節」を分離すべきだと思いました。そのうえで、「慶喜に対する評価節」は徳川家康のページの評価節を参考に「同時代の人々からの評価」と「近現代における評価」の節をさらにつけたほうがよいと思いました。さらに、「いつ、どこで、誰が、」評価したのか良くわからない評価は出典を明示するようにすべきだと思いました。--Blue-comet 2009年4月3日 (金) 14:17 (UTC)[返信]

「Y」の字になるよう三人で同衾???[編集]

一方成人後の睡眠時には、暗殺対策として、妻妾二人と「Y」の字になるよう三人で同衾していたという逸話も伝えられる。」
何ですか、これ、どういう寝方かイメージできませんが。 頭か、足を寄せて寝ていたとしても、どうしてこれが暗殺対策になるのですか?大体妻と妾と一緒の部屋で寝るなんて不謹慎、ただのスケベおじさんにしかおもえませんよ。以上の署名の無いコメントは、ピノキオ(会話履歴)さんによるものです。--Shinwa 090330 2009年4月12日 (日) 05:59 (UTC)[返信]

すいません、該当部分を(2年近く前に)書いた者です。加筆当時の要約欄に書いたとおり、慶喜の直話を収めた『昔夢会筆記』からこのエピソードは拾ったはずなのですが、当時は(恥ずかしながら今もですが)いい加減できっちり出典を確認しておらず、慙愧の至りです。件の本が手元にないので、体が空き次第図書館に行って調べるつもりです。ご指摘ありがとうございました。ただ、スケベおじさんと言われても、まあしょうがないかなとは思ったり思わなかったり。--サトウミツロウ(sat666) 2009年4月2日 (木) 15:49 (UTC)[返信]

要出典につきまして[編集]

私の書いた部分に要出典とありますが、これは2000年発行の「徳川十五代将軍グラフティー」にも書いてある説です。--高幡不働 2011年7月27日 (水) 04:09 (UTC)[返信]

  • コメント 要出典タグの貼付者です。出典があるのであれば、その書名、著者、出版社、発行年月、ページ数およびISBNコードを脚注表記ください。なお、上記コメントで『書いてある説』と仰っていますが、定説ではなく諸説あるうちのひとつであれば断定的な表現を避けるほか、他の説を併記するなど可能な限り中立的な記述となりますようご配慮くださいませ。--Si-take. 2011年7月27日 (水) 04:22 (UTC)[返信]
    • 別に断定して書いたつもりはありません。確立した定説があり、それに反している場合は、明瞭に「一説である」と書いたほうが推奨されますでしょう。でも今回はそこまでのケースでしょうか?--高幡不働 2011年8月20日 (土) 08:22 (UTC)[返信]
      • コメント 出典付記の対応をいただきありがとうございました。なお上記、中立的な記述に関するご指摘は(記事内容に対しての指摘というよりは)あくまでも上記コメントに対するものですので、かかる解釈で加筆なさったのであれば当方としてこれ以上疑義を申し上げるものではありません。ありがとうございました。--Si-take. 2011年8月20日 (土) 09:18 (UTC)[返信]

関連作品について[編集]

関連作品の節で、除去と再掲載が繰り返されています([1][2][3][4])が、このようなことに関してはPortal‐ノート:歴史#フィクション作品の情報を原則として人物記事に載せない旨の合意について提案プロジェクト‐ノート:人物伝#歴史上実在人物の記事の、登場作品一覧についてなどで議論が行われましたが、結論は出ておりませんので、個々の記事ごとに検討するしかありません。本記事において異論が出た以上は、合意が得られるまで拙速な除去は行わないようにお願いいたします。また、除去された記述を復帰される際も、編集合戦(3RR)にならないようにご注意願います。--立花左近会話2012年7月21日 (土) 23:25 (UTC)[返信]

「個々の記事ごとに検討」ですか。現状、編集内容の要約では除去の理由を提示していますが復帰の理由は一切提示されていません。今後、復帰すべき理由すなわち、単なる配役リストが当該人物の記事に記載されなければいけないほど「記事の主題への寄与が大き」く(WP:NOTDIRECTORY)あらゆる細部に至るまですべて包括する詳細な解説(WP:IINFO)ではないことが示されなければ結論は除去ということになります。--彩華1226会話2012年7月22日 (日) 03:49 (UTC)[返信]

Uaaさんの2度目の編集では、「全部消していい理由にはならない。選ぶの面倒なので全部戻し。そもそも、「単に出てるだけ」まで関係に含めてはならないなどとはWikipediaの方針はそう示していない」と理由が書かれています。Uaaさんと、あるいは今後他にも議論参加者が出てきたらその参加者も含めた上で、何を除去し何を残すか合意してから編集するようにお願いいたします。ご存知かとは思いますが、WP:CONにもご留意下さい。--立花左近会話2012年7月22日 (日) 05:44 (UTC)[返信]
「編集内容の要約では除去の理由を提示していますが」とのことですが、提示された理由が理由になってませんね。今後、除去すべき理由すなわち、当該部分が単なる配役リストであり、当該記事から除去されなければいけないほどWP:IINFOな内容であることが示されなければ結論は存続ということになりますと言わせてもらいます。そもそも、今回の彩華1226氏の行為は、特定ユーザーへのつきまとい行為(このユーザーにも問題はあると思いますが)の果てに勢い余ってのことのように見えますが、一律除去を主張するなら、広く合意を得るべきでしょう。--uaa会話2012年7月22日 (日) 12:18 (UTC)[返信]
上記Uaaさんのコメントから1週間が経過していますが、その間に彩華1226さんは他でご活動しているにもかかわらず、こちらへのコメントがございませんので、これ以上議論のご意思はないということでしょうか。ご返答がないようでしたら、本件は現状維持で終了させていただきたいと思いますが。--立花左近会話2012年7月29日 (日) 13:09 (UTC)[返信]
さらに1週間経ちましたが、コメントがございませんでしたので、本件は現状維持で終了とさせていただきます。今後、関連作品節より作品を除去しようと思われる方は、本ノートで合意を取ってから行うようお願いいたします。--立花左近会話2012年8月5日 (日) 14:16 (UTC)[返信]

阿部正弘・島津斉彬が相次いで死去すると一橋派は勢いを失い[編集]

本文中「阿部正弘・島津斉彬が相次いで死去すると一橋派は勢いを失い、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。 同年、直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を調印。慶喜は斉昭、福井藩主・松平慶永らと共に登城し直弼を詰問し翌・安政6年(1859年)に隠居謹慎処分が下る(安政の大獄)。この日は三卿の登城日であり斉昭や慶永と違って不時登城ではなく、罪状は不明のままの処分であった。」とあります。

「阿部正弘・島津斉彬が相次いで死去すると一橋派は勢いを失い、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。」は島津斉彬の死後に井伊直弼が大老になり将軍継嗣は慶福と決したと解釈されてしまいますが、井伊直弼の大老就任は安政5年4月、島津斉彬が亡くなったのは年は安政5年7月16日、徳川家定が亡くなったのは安政5年7月6日であり事実に反しますので「阿部正弘・島津斉彬が相次いで死去すると一橋派は勢いを失い」を削除して「慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立したが、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。」とするのが適切ではないでしょうか?--240D:1:7902:6A00:CE2:FE6E:30D8:297 2017年11月9日 (木) 07:33 (UTC)[返信]

--163.49.215.213 2021年7月7日 (水) 08:03 (UTC)== 誤記では ==[返信]

下記部分は、訂正が必要かと思われます。

明治31年(1898年)3月2日には皇居に参内して明治天皇の拝謁を受けた。 → 訂正例)明治31年(1898年)3月2日には皇居に参内して明治天皇に拝謁した。 --163.49.215.213 2021年7月7日 (水) 08:01 (UTC)[返信]

写真撮影について[編集]

徳川慶喜の写真の評価について、トリビアの泉のコメントが引用されていましたが、信ぴょう性が薄いと思い削除しました。その回を私も視聴したのですが、番組では「慶喜の写真技術は低かった」ということで笑いをとるような作為的な演出がされており、また、コメントをした加納典明も元々は人物写真が専門であり、慶喜の写真の評価をできるとは思えず、番組内でも慶喜の写真をポイ捨てするなど演出的なそぶりをしていました。それに加納典明自身も過激なヌードをとって話題を振りまくようなタレントであること、加えて笑いをとるために演出されたバラエティのコメント等を引用するのは明らかに不適切です。--執筆者003会話2024年2月5日 (月) 15:04 (UTC)[返信]