ノート:川島芳子

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

 本名の表示方法について[編集]

(3ead)というのは一般コードにない漢字を表示するのに一般的なやり方なのでしょうか?それとも私のPCが文字化けしているだけでしょうか?私には・(3ead)にしか見えません。一般の方によくわからない表記方法or文字化けしてしまう人がいるような表示方法は不適切に思えますが。いかがでしょう?--118.157.12.151 2010年3月30日 (火) 09:53 (UTC)[返信]

私が先に書いたノートの内容は全く読んでいただけていないようで、その点は残念に思います。そもそも、あなたのおっしゃる「一般コード」の定義は何でしょうか?ちょっとずるい言い方ですが、拡張A面の制定はもう10年も前なので、今、店頭に並んでいるパソコンなら100%表示できるはずです。中黒(「・」)になるのは、Windows XP以前の環境でかつInternet Explorerを使用しているか、携帯電話のように、スマートな表示をあきらめた環境しかありません。XPにしても、Help:メディアウィキに適応するブラウザで書かれているように、これはブラウザ側のバグですから、SafariFirefoxなら何もせずに表示されますし、[1]をインストールすればInternet Explorerでもきちんと表示されます。OSが古くてフォントが足りないなら、AとCが全て入っている花園フォントを入れておけば十分でしょう。一般の人に配慮しなければならない、という主張はご尤もですが、「文字化けして見られない」あなたですら、不具合は「◆」が「・」に変わっているだけなのでしょう?新たに{{特殊文字}}のテンプレートを張る、という対応ではダメですかね?これが、日本語であれば、Wikipedia:表記ガイドの「JIS X 0208に入っていない文字はなるべく避ける」を鑑みて、「玗」や「玕」で置き換えるべきなのかもしれませんが、外国語の固有名詞であることは明らかですから、「Unicodeで規定されている文字に必要なものがあれば、すべて使うことができる」という方針に従って、正式な「㺭」を使うのが適切であると考えます。ちなみに「(3ead)」の部分は文字参照派を慮って入れたわけですが、目障りなので消した方がいいとは思います。納得いきませんかね?--Askr 2010年3月31日 (水) 10:32 (UTC)[返信]

失礼いたしました。見落としておりました。正しく表示できるコードがすでに存在するならば、それに越したことはありません。ただ(3ead)は一般人にはわからないのではないかと感じました。

(3ead)の部分を消して、特殊文字のテンプレートを付けました。今となっては「王偏に子と書く。玗や玕とは別の字であるので注意」のくだりも冗長な気がしますけれど。--Askr 2010年3月31日 (水) 16:25 (UTC)[返信]

編集参加各氏の略称[編集]

  • Arpeggio氏
  • 59.147.48.126(59氏)
  • 116.2.7.245氏(116氏)
  • 118.19.79.48(118氏)
  • 119.112.168.140氏(119氏)
  • 121.111.212.8氏(121氏)
  • 218.107.132.124氏(218氏)

現在討議中の内容[編集]

以下の部分については、参加各氏の間で意見の一致が見られていません。

  1. 川島芳子生存説
    討議内容を参照
  2. 死刑の状況
    討議内容を参照
  3. 東興楼時代の芳子の風貌
    121氏は老婆のようだと追記、これに対して119氏が反論。
    双方異なる写真を見て発言しているため、双方が論拠となすべき写真を提示すべき、と121氏は主張。
    現在121氏側の写真のみ提示中。
    現在、121氏が芳子の顔写真につき提案中。119氏の返答待ち。
  4. 北白川宮成久王?の写真
    討議内容を参照
  5. 芳子の名前表記
    119氏の『顯シ』表記を、他国語版にあわせて『顯玗』表記に変更すべきと121氏が主張。
    現在、121氏が表記内容を提案中。119氏の返答待ち。
  6. 芳子の家族
    討議内容を参照
  7. 芳子の断髪決意書
    討議内容を参照
  8. 伊東ハンニとの同棲
    討議内容を参照
  9. 粛親王の復辟運動と日本政府
    討議内容を参照
  10. 芳子の芸能活動と関東軍
    討議内容を参照
  11. 婉容のアヘン中毒と芳子
    討議内容を参照
  12. 田中・徳王・影佐・笹川・里見・杉工作
    討議内容を参照
  13. 李香蘭との比較
    討議内容を参照

川島芳子生存説[編集]

テレビ朝日の番組による検証は結局DNA鑑定も指紋鑑定も失敗に終わっています。今の段階では「方おばあさん」=川島芳子と科学的に結論付ける証拠を欠いており、1970年代まで生きたことが有力視されている、あるいは、川島芳子の生存が科学的に検証されたと書くことはできません。編集される方はその点を考慮して冷静な編集をお願いします。--218.107.132.124 2009年4月13日 (月) 16:48 (UTC)[返信]

いくつか気になる点があったので記しておきます。
「2008年11月に新たに報じられた説」について
1. 空砲を撃ったとされる拳銃について
拳銃には回転式と自動式がありますが、この新説ではどちらが使用された事になっているのでしょうか?
当時の中国では軍民あわせて様々な種類の拳銃が使用されていましたので、自動式(=発射後に空薬莢が排出される)ではなく回転式であれば、拳銃には何の細工も無しに空砲で射殺したように見せかける事ができます。
2. 自動拳銃を使った場合のトリック
空砲を使って空薬莢が排出されるように改造した自動拳銃を使えば、特に怪しまれることはありません。
これの作り方は簡単で、弾丸を一発用意して、その中心に穴を開けて、銃口から木の棒などを使って銃身の中に叩き込むだけです。
または、もっと手間のかからない方法として、空砲を撃った直後に隠し持った空薬莢を落とす古典的な手品トリックでも、ほとんど気づかれません。
空薬莢が排出される瞬間は、近づいて良く見ていないと肉眼では良くわからないほど早いものですから、買収された執行者以外が少し離れた位置で見学している状態なら、空薬莢が落ちた時の独特の甲高い音で確実に騙されてしまいます。
3. 素朴な疑問
中国の銃殺には拳銃を使う方法(犯罪者や中共党員などが対象で、罪名を書いた細い木の板を襟口から差し込まれて、跪いて後ろ手に縛られた状態で後頭部を撃たれる一般的な方法)と、小銃を使う方法(主に軍人などが対象で、目隠しを渡されて椅子に座った状態で、4~5人の兵士に前から撃たれる)があったと思いますが、川島芳子はどちらの方法で処刑されたのでしょうか?
川島芳子は銃殺される前に、執行者の士官に対して顔は撃たないでほしいとわざわざ頼んだのに、素行・評判が悪かったために嫌われていた彼女は、射撃した兵士達にわざと顔や下腹部を撃たれて、メチャクチャな状態で悶死したと聞いています。
4. 小銃を使った場合のトリック
小銃を使った銃殺の場合、執行者の士官が銃への装填を行い、兵士達は装填済みの銃を渡され、そのなかの1発は空砲(兵士の心理的圧迫を弱めるため)となっています。
このため、執行者の士官が全部空砲にしてしまうという手段もトリックとしては考えられます。
通常はボルトアクション式の小銃を銃殺に用いますので、空砲だったかどうかは撃った本人にしか分かりません。

--121.111.219.181 2009年8月18日 (火) 04:22 (UTC)[返信]

死刑の状況[編集]

『肝心な死刑の状況(北京監獄時代の写真を含めて)を記しておかないと、続く“生存説”が唐突すぎて理解できません。』(121氏)
川島芳子の処刑時の状況について
川島芳子が死んだ時の状況が気になったので、中国で伝えられている情景を調べてみました。
そのうちのひとつでは、『两位法警把川岛芳子扶住,又按了下她的肩膀,令她面墙跪下。法警闪开,一个刑警托起馬槍,一枪射去,她应声倒地。子弹从后脑穿出右额,头部浸在一摊浓浆的血泊里。』とあり、処刑に使用されたのは、中国で馬槍と呼ばれるカービン銃(騎兵銃)と記されています。
最新证据:川岛芳子或诈死 隐居长春30年
この記事は処刑された月を間違えていますが、跪いて俯いた状態で後頭部から撃たれ、弾は右の額に抜けたと記しています。
また、別の記事では、『她站着写完了信。行刑官核对了姓名,宣布她的上诉被驳回,并宣读了死刑执行书。行刑官令其跪下。第一声枪响,出乎意料的是,扳机居然没有扣响。行刑官再次扳枪,子弹便从两眉之间穿入。她左眼圆睁,右眼紧闭,满脸的血污已不能辨认。』とあり、銃の種類は書かれていませんが、初弾が不発だったためボルトを再操作して2発目で射殺されたと記されています。
日本绝色女间谍川岛芳子生死之谜(组图)
この記事では先の記事と異なり、跪いた状態で正面から眉間を撃たれ、右目が飛び出したと記されています。
川島芳子の死体とされる写真を見ると、顔の前面が大きく破損していますので、通常の軍用銃を使用した場合、正面から撃たれたとは考え難く、後頭部から撃たれたと見るのが自然です。よって最初の記事の方が正確と思われ、処刑の形態から犯罪者として銃殺された事がわかります。
ここで実際に使用された馬槍(カービン銃・騎兵銃)の種類を考察しますと、当時の国民党軍が使用していた銃器の中では、モーゼル小銃型のチェコ製Vz33か、日本製の三八式騎兵銃あるいは四四式騎銃、米軍が供与したM1/M2カービン、のいずれかになります。
この中で、M1/M2カービンは中国で卡賓槍(カービン銃の音訳)と特記されるケースが多いので、おそらく候補からは外れるものと思われます。
M1/M2カービンは自動式ですので発射時に勝手に空薬莢が排出されますが、他の銃はいずれも手でボルトを動かして空薬莢を排出するボルトアクション式ですので、上記の“4. 小銃を使った場合のトリック”を使って空砲で処刑したように偽装できます。
ただし、これらに使用される弾薬は、空砲であっても強力ですので、あまり近づけて撃つと、衝撃で目玉が飛び出す位の圧力と、巨大な発射炎で大火傷を負う可能性があるので、注意が必要ですが...
中国の記事はたとえ新聞に掲載されたものでも、間違いが多く、根拠もなく適当に書いているものが多いのであまり参考にならないと思います。それこそ正確な検証は無理かと。--119.112.167.77 2009年8月23日 (日) 12:03 (UTC)[返信]
議論の本筋とは関係ありませんが、
>川島芳子は銃殺される前に、執行者の士官に対して顔は撃たないでほしいとわざわざ頼んだのに、素行・評判が悪かったために嫌われていた彼女は、射撃した兵士達にわざと顔や下腹部を撃たれて、メチャクチャな状態で悶死したと聞いています。
こんな話は聞いたことがありません。根拠があるならば出典をお願いします。当時の新聞では芳子は抵抗せずに悠然と刑に臨んだと書かれています。また、当時の銃殺執行は一般的に後頭部から弾丸を撃ち込むため、顔面は崩れてしまうと聞いたことがあります。芳子だけが特別にひどい遺体状況だったということはないでしょう。--116.2.7.245 2009年8月19日 (水) 12:44 (UTC)[返信]

東興楼時代の芳子の風貌[編集]

『薬物依存の影響から、30代になったばかりの芳子は老婆のような容貌へと変わり、~』(121氏)
あまりにも主観的かつ中傷的で読むに耐えられません。裁判中の写真を見たことがありますが、老婆になんて見えません。普通に年齢相応の女性です。あまり中傷的なことを書かないでください。(119氏)
中傷的と捉えられたとは、誠に心外です。
芳子には様々な側面があり、単なるファンが書いた一方通行のラブレターのような記述では、百科事典に載せる必要などありません。
東興楼関係者と一緒に写っている30代の芳子は老婆の顔です。(121氏)
老婆の顔だなどというのは121.111.212.8氏の主観によるものであり、ここに書き込むべきものではありません。自分にはまったく老婆などには見えませんし、芳子が自己顕示欲が強いだの、30代で老婆のようになっただの、すべて121.111.212.8氏の主観的判断ですが、芳子の人格や容貌に対する中傷であり、ここに書き込むべき内容ではありません。(119氏)
勿論、見る者の年齢によって基準が上下するのは否めません。
また、お互いに違う時期の違う写真を見ているのですから、ますます話がかみ合わなくなると思います。
貴方は北京監獄時代の写真(獄中で阿片は抜けていますね?)を見て老婆ではない、と感じ、私は東興楼時代の写真(阿片漬けの時期です)を見て、老婆と言っている訳ですから。
該当の編集部分は、東興楼時代に現地されますので、その後の阿片抜きの写真を根拠に、老婆のようではない、と言ってもはじまらないでしょう。
ちなみに、私が見ている写真は、こちらです。(121氏)
“老婆?のような芳子の写真”
http://zt.xwhb.com/my2009/cdfz/images/c2.gif
リンクを貼られた写真は見たことがありますが、老婆にはとても見えません。笑顔で顔に皺がよっているだけで、老婆とはひどい中傷です。(119氏)
やはり、見る人の年齢によって基準が上下しているものと思われます。
この写真を見て30代=年齢相応と思えるのは、相当年齢が行った人だけでしょう。
私には老婆&“おっかない感じ”(by 笹川氏)に見えます。(121氏)
そこで気になるのが、貴方が言われているところの、北京監獄時代の写真(阿片が抜けた後)との比較です。
私も出廷時に撮影された写真を見た記憶がありますが、とても元気溌剌という顔つきではなく、どちらかといえば病み上がりの目玉がギョロギョロした中年おばさんの顔でした。
また、獄中でインタビューした米人記者に対しては、歯が抜けて貧相な状態になっている旨、自ら答えていたと記憶しています。(121氏)
現在の記事に掲載されている写真には、北京監獄時代のものがありませんので、ぜひuploadして下さい。
その上で、東興楼時代の芳子が老婆に見えるかどうかは、読者の判断に任せましょう。(121氏)

おっかない感じ(by笹川良一)は雰囲気のことで外見のことを言っているのではないでしょう。老婆のようでおっかない外見の女だったら、それこそなんで笹川は芳子と付き合っていたのかということになります。もう芳子の外見うんぬんについて議論するのはやめませんか。あなたの文章は個人中傷的であり女性蔑視的で読む人を不快にさせます。もし後年頭が薄くなった人物がいたとして、その人物のwikipedia項目に、「彼は30代から急速に頭が禿げ始めた」なんて書きますか?書かないでしょう。非常識ですよ。なんで芳子に限ってこんな中傷が書きこまれるのか理解に苦しみます。あなたが芳子についてそうゆう感想をお持ちなのはよくわかりましたが、何度も言うようにここはあなたの感想を書く場所ではないので、ご自分のホームページ上にでも書いてください。(119)

提案(顔写真)[編集]

“老婆”とか“年相応”とかいった主観的な表現を用いずに、双方ともに写真(東興楼時代および北京監獄時代)を記事中に掲載する。(121氏)

写真をアップしました。祖父母が本人から天津でプレゼントされたものです。(yhmgc)

もしそれが事実であれば貴重な史料ですから、お近くの博物館にでも寄贈して下さい。少なくとも、現状ではウィキペディアにおいて独自研究に該当しています。--指定山崎会話2018年12月17日 (月) 14:45 (UTC)[返信]

先日の命日の法要の際に、東洋文庫の研究者の先生を通じて、信濃毎日新聞ほか各紙に新しく発見された写真として掲載していただきました。私の自宅のアルバム本体には東興楼での宴席の写真やセーラー服の芳子おばさまの写真がまだ多数ございます。芳子おばさまは平和を愛し日本を愛し松本の自然を愛した素敵な頭のよい方です。巷間芸能人のように扱った戦前のマスコミや小説に翻弄されてしまっただけだと思います。写真の再掲載をお願いします。

もしそれが事実であれば、いついつの信濃毎日新聞の何面かを具体的にお示し下さい(今年の3月25日のもので宜しいでしょうか)。現状ではアップロードされたファイルの説明欄に上記の事実は一切書かれておらず、「私の祖母」と言われましても他者が見て理解出来ません。Wikipedia:検証可能性に沿い、出典としてご説明頂きたく思います。また、話の本筋から外れますが、そもそも現在アップロードされているファイルは既存の写真を直撮りしたものとなっており、机が写り込んでいる所が散見されるなど、かなり見苦しい(この表現は適切ではないかもしれませんが、他に良い言い方が思いつきませんでした。気分を害されたら謝罪致します)ものとなっております。もし宜しければスキャンなどの方法で綺麗な形にして頂けると上手くアップロード出来るかと思います。以上2点、ご面倒かとは存じ上げますが、どうぞご理解下さい。--指定山崎会話2018年12月18日 (火) 08:52 (UTC)[返信]

北白川宮成久王?の写真[編集]

「女性を捨てた覚悟を示すために断髪・軍服姿で記念撮影に臨んだ川島芳子: 1925年頃」の写真は、別人かと思われます。 この私の手元にある歴史写真誌では「北白川宮成久王」として掲載されています。他の書籍でも同写真を「北白川宮」として載せていたのを見た記憶もあります。この写真を投稿された方、今一度の再調査を希望します。(59氏)

私も1枚目の写真には疑問を感じます、ついでに2枚目の写真も本当に芳子でしょうか。どこから拾ってこられた画像でしょうか。ネット上で適当に拾ってこられたのでは?ちゃんとした書籍なりなんなりに掲載いされていたものですか?(119氏)

121さん、いいかげんにあの写真をどこからとってきたのか教えてくださいよ。これだけみんなから疑問が出てるのに、あの写真をどこからとってきたのかすら示していない。別人の写真をいつまで張り続けるつもり?無責任にもほどがある。121が貼った写真は削除すべき。


121は何か勘違いしているみたいだが、変な説や写真を張り付けているのは121なんだから当然立証責任は121が負うはずなのに、張るだけ張ってまともな根拠もしめせずに逃亡したのだろうか。読者が一番最初に目にする1枚目の写真に別人を張り付けるなんてもってのほか。早く反論なり弁解なりしてください。それとも意図的に別人を張り付けて芳子像を混乱させようとしている荒らしですか。

121氏から何の回答もないので、121氏の張った写真を削除します。このまま別人の写真を張り続けるとそれがよそに転載されてしまう危険性がありますし、海外ともリンクしているので海外にも広まってしまうかもしれません。あるいはそれを狙った愉快犯かもしれませんが。反論があるのでしたら、あの写真の出典を明確にし、芳子だと証明してください。

芳子の名前表記[編集]

この記事には「愛新覚羅 顕シ(王偏に子)」とありますが、英語版と中国語版では紓(纾)つまり糸偏に予という字が使われています。どちらが正しいのでしょうか。--Arpeggio 2007年1月19日 (金) 06:56 (UTC)[返信]

>>王偏に子が正しいです。この字は中国語でもほとんど使われることのない字で、フォントもないため中国語では王偏に予と書く字を代用することがありますが、糸偏を使うのは完全に誤りです。川島芳子の姉妹たちは顕珊、顕琦のように、一字目を顕、二字目を王偏の字を使う名前になっています。
たびたび「玗」(う)の字に書き換えられていますが、王ヘンに子の「し」が正しく、王ヘンに于の「う」とは別の字です。日本語フォントにはない字です。
『顯シ』という表記について(119氏)
“顯シ”という妙な表記に拘っていらっしゃる点ですが、これには何か理由があるのでしょうか?
英・西・韓・土・中の各国語版にも“顯玗”と記されています。
漢字について説明したいのであれば“1 粛親王善耆第十四王女として”の部分で説明すれば済む話ではないでしょうか?(121氏)
>英・西・韓・土・中の各国語版にも“顯玗”と記されています。
それらが間違っています。逆にわざわざ間違っている字に書き換える理由は何ですか?
芳子本人の署名でも王へんに子と書いています。フォントにない字なので顕シ(王へんに子)としか書きようがありません。(119氏)
“王に子”でしたら、“顯玗”は間違っていないと思いますよ?
私ももう一度資料中の“顯玗”と書かれた部分を見返してみましたが、たしかに長野県知事の梅谷光貞氏の肉筆でも“顯玗”と書いてありますので。
尚、気になったのでもう一度各国語版からコピペしてみたのが下記です。一度、同様に試してみられてはいかがですか?
顯玗(英)、顯玗(韓)、顯玗(西)、
顯玗/显玗(土・繁/簡)、顯玗/显玗(中・繁/簡) (121氏)
王へんに于「う」の「玗」や、王へんに干「かん」の「玕」とは根本的に別の字です。
芳子自身の署名ではっきり王へんに子と書いています。(119氏)
http://www.tv-asahi.co.jp/d-sengen/sp/sp8.html
私も“王子”だと思っていますので、安心してください(笑)
問題なのは“王子”が粛親王の造字で、現在のwiki上では「玗」が共通して使用されている、という点です。
造字であるため発音も不明ですが、北京語なら”子”の字の発音から“zi”でしょうかね?(121氏)
日本語にも最初から無い文字なのですから、“顕シ”と推測で音を当てはめて書くのも不正確です。
日本人でも人名漢字以外の文字が戸籍に記されていて、当て字を使っている(法的にはこちらが正名です)人もいる訳ですから。(121氏)


提案(当て字)[編集]

『顯(“”は当て字。本来は粛親王の造字で“王+子”を合わせた文字)』と追記するのが良いでしょう。(121氏)
また、日本語版wikiの編集を多言語版に変更する必要も出てきますが、英語と中国語は私の方で記しておき、他の言語は申し訳ないですが分かりませんので、日・英・中の該当部分にリンクを設定するようにしておきます。(121氏)
日本語のフォントや現代中国語で使う漢字ではないからと言って、粛親王の造字と決めつけるのはいかがなものでしょうか。すべての漢字辞典をあたったわけではないので何とも言えませんが、造字とするのは早急では?(119氏)
粛親王の造字という話はこちらに出ていますね。
“名顯玗(玗是粛親王自造的字,取“14”階音)”
http://baike.baidu.com/view/13683.htm
http://zt.xwhb.com/my2009/cdfz/
“王+子”と記す、という要素に比べれば造字か否かは軽い要素ですから、『顯(“”は当て字。本来は“王+子”を合わせた文字)』と記し、造字については注釈欄に記してもかまわないと思いますが?(121氏)
ソースとして挙げられているのが百度では…。あれはwikiと同じで誰でも書き込めるものですよ。もう1つのソースも方おばさんは芳子と主張している新文化報のサイトですし、出典を明示していないし、信用度が低すぎます。「玗」で代用するという提案は、「けんう」と読まれてしまいそうで抵抗を感じますね。メディアなどではない字を表現す場合◆と書いておいて後ろに字の説明を入れます。顕◆(◆は王へんに子)と表現してはいかがでしょうか。(119)
wikiの場合、ソースが百度であっても何の問題も無いですよ。なにしろもっと信頼度の低い“同人誌”でもソースになってしまう場所ですから(笑)
それに比べれば、百度や新文化報など立派過ぎて困ってしまう位のソースです。
それとも、この“玗是粛親王自造的字,取“14”階音”という記述を否定できるソースを119氏は提示できるのでしょうか? 代々伝わる口伝だとか??
また、この記事で問題なのは“顕シ”という妙な表記を、119氏個人の我侭で続けている点にもあります。
他国語版との整合が取れない表記を続けている時点で異常な事に早く気付いてほしいものですが...
ところで、119氏は“けんし”という呼び名が絶対的に正しいという前提で考えられているようですが、もともと清朝で満州族が使っていた発音でもなく、単なる日本での「当て発音」でしかない事は理解されていますか?
中国語自体が発音の幅が大きい言語なのですから、不正確な発音に依拠した表記はすべきではないでしょう。
これが許されるのなら“ヘォンチャイ”とか“ふんぁ”とかいった発音でも構わなくなってしまい、読者が理解できなくなってしまいます。(121氏)
ですからカタカナ読みも当て字も使わずに代用記号を使用することを提案しているのです。これはメディアなどでも使われる手法です。他言語版との整合は何のために必要なんでしょうか?川島芳子という項目はすでに他の言語ともリンクされているので困ることがあるとは思えませんが?
◆なんて変な記号をまた持ち出さなくても、という立派な記号があるではないですか?
他言語版との整合の必要性が理解できないのではどうにもなりません...のレベルと言わざるをえませんが、日本語版だけで変な発音&記号を使い続ける必要性は、結局119氏個人の利益のためという事でしょうか?(笑)(121氏)
私の個人利益とは何なんでしょうか?私がどんな利益を得るというのか教えていただけますか?ただ間違った字が広まることを懸念しているだけです。
なるほど、なるほど(笑)
私も不正確な発音と、変な記号や“顕シ”などという変な表記で、読者が混乱するのを懸念しているだけです。
これ以上、駄々をこねるのでしたら、王+子という文字をシと発音しているソースを持ってきて下さいね?(121氏)

仕切り直し[編集]

ユニコードは日々進歩しているので、現在では既に「王偏に子」の文字が割り当てられています。ですから、「◆」は「㺭」(諸橋大漢和:20843、ユニコード:3EAD[2])で置換しておきました。ただ、フォントの問題がありますから、説明はあった方が親切でしょう。読み方については、引き続き議論が必要かと。--Askr 2010年3月28日 (日) 12:40 (UTC)[返信]

芳子の家族[編集]

愛新覚羅恒懿の『世紀風雪-上.幻のラストエンペラー 下.清朝皇族の末裔達』ですが、彼女は同じ愛新覚羅氏でも端郡王の子孫で、粛親王家とは血縁的に遠く、著書にも川島芳子は登場しないので移動させました。ここでは粛親王家の近親者に限定するほうが適切かと思います。(彼女を書くと溥儀、溥傑をはじめ愛新覚羅氏の血縁者を全て書かないと整合性がとれなくなるため)--118.19.79.48 2009年2月17日 (火) 13:53 (UTC)[返信]

芳子の断髪決意書[編集]

『芳子は子供の頃から周囲の注目を浴びて育ったため、自己顕示欲の強い性格であり~』(121氏)
順序をはきちがえています。最初に芳子が髪を切ったことをかぎつけた新聞記者が川島邸に集まってきてしまい、収拾がつかなくなったために芳子が仕方なく決意書を書いたものであって、芳子が自分から投書したものではない。121.111.212.8氏の記述では芳子が目立とうとして自分から新聞社に投書したようで不適切。この頃の芳子は初めてマスコミ攻勢を受けて辟易し、むしろマスコミから逃げている。(119氏)
新聞社が先にかぎつけたというのも、芳子が常に注目される存在だった事を示すだけで、本人の置かれた環境についての記述が不当なものとなる根拠にはならないと思いますが?
環境については一致している訳で、問題なのは自己顕示欲という部分ですね。(121氏)
逃げていたとの事ですが、こちらは何か客観的なソースがあるのでしょうか? 当時の同級生の証言とか??
少なくとも、記念写真を残したり、取材にも気軽に答えていますので、逃げているというのはかなり主観的、もしくは作話(後年の本人によるもの?)と思われます。(121氏)
西沢教夫『上海へ渡った女たち』(新人物往来社1996年)を参照。同書が転載した新聞記事によると、芳子が人目を避けるように大連に渡ろうとしているのを新聞記者がかぎつけ記事にしているが、芳子は涙を流していたといいます。(119氏)
もう一度整理してみましょう。
有名人の芳子 → (原因不明) → 芳子が断髪 → マスコミが察知+取材開始 → 芳子も取材に応える → うんざりして大連に逃げようとする
という流れになるようですが、決意書を新聞社に送ったのはどの時点なんでしょうか?(121氏)
こうして並べてみると、どの段階で送ったにせよ、当時も今も読者には売名行為にしか見えないようにも思いますが...
断髪ではないにせよ、現在でも崖淵アイドルなんかが、良く同じような事をやってますし、薄いサングラスをかけて人前に出てみる微妙な芸能人の心理(騒がれるのは嫌だが、全く気付かれないのはもっと嫌)と同根のようですね...
昔、山田邦子が芳子役をやったのも、同じ断髪つながり(ひょうきん族時代)だったのかもしれません。(121氏)
芳子はもともと有名人です。粛親王の王女として小学生の頃から新聞に載っています。1917年に兄たちが日本に留学すると小学生の芳子が出迎えた事も当時の新聞に載っていますし、小学生からすでに特集記事もあります。芳子が売名の為に決意書を書いたなどと、121氏こそ芳子に対して悪意があるようですが。(119氏)
芳子がもともと有名人という話は最初から出ていますので、共通認識ですから安心してください。
そうした有名人の自己顕示欲を示す分かり易い例として“薄いサングラス”を入れた訳ですが...
119氏も決意書を新聞社に送ったのがどの時点なのか、明示できていないようですが?
『“もともと有名人の芳子”が自己顕示欲からではなく、事態収拾のために決意書を送った』という119氏の主張を証明するには、時期の特定が不可欠ですので、もう少し努力して探して見て下さい。(121氏)
売名行為、売名行為とずいぶん芳子に悪意をお持ちのようですね。では自殺未遂をして左胸に銃弾を撃ち込んだもの、断髪して頭を丸刈りにしたのも芳子の自己顕示欲から来る売名行為だというのですか?十代の女の子が全部計算してやっていたというのですか?断髪時の時系列は今手元に資料がないので挙げられませんが、記者に追いかけられたのが先で、記者が川島に集まってしまい、、理由をいろいろ詮索するので芳子が仕方なく決意書を書いて記者たちを納得させたという順序です。(119氏)
生憎と芳子にはなんの悪意も、貴方のような過剰な思い入れも持ち合わせていません。
売名行為といっても、何を売りたいのかは人によって様々でしょうし、過去に売名行為とみなされた人々の多くも計算してやっていた訳でもないでしょう。
大体において売名行為は子供じみた行為or恥ずかしい行為とみなされるだけですし、芳子も取材記者に対して『むしゃくしゃしてやった』と器物損壊で捕まった酔っ払い並みの低レベルな回答をしていますので、本人も充分恥ずかしかったのでしょう...
芳子の行動は周囲からの注意を喚起したいタイプの少女が起こす典型的な類の行為で、現代で比較するなら、
  • 自殺未遂=リスカ少女(手首を頻繁に切って自殺未遂を繰り返す)
  • 断髪・男装=マンバ少女orレディース(山姥のような姿や特攻服に厚化粧といった威圧的な姿で、周囲に壁を作った上で、関心を惹こうとする)
といったところでしょうか?
分かり易い比較対象としては、子供時代に脚光を浴びながら成長とともに忘れられて、身を持ち崩した“○○ケンちゃん”が、こうした子供じみた行為で売名に走ったが、周囲からのバカ扱いや意地の悪い視線の前にいたたまれなくなって逃げ出した、といったところでしょうか?
こうした評価は、悪意の存在からではなく、単にそういう類の行為にしか見えない、という正直な感想の反映でしかありませんし、『そんな見方は悪意に基づいてる!』とお怒りにならなくても、読者の大部分は“男装の麗人”の少女時代をリスカやマンバと同類としか見てませんから、安心して下さい。
いずれにせよ『“もともと有名人の芳子”が自己顕示欲からではなく、事態収拾のために決意書を送った』という119氏の主張を証明するには、時期の特定が不可欠ですので、もう少し努力して探して見て下さい。(121氏)
ピストルで左胸を撃つ行為とリストカットで手首に傷をつける程度の行為を一緒にする神経が理解できません。本当に悪意的ですね。
そんなリスカ少女に失礼な事を言われても困ります(笑)
個人的にリスカの子も何人か知っていますが、彼女達・彼達はそれなりに苦しんで切ってますよ。
たしか芳子は松本高女時代に射撃をたしなんでいたと記憶していますが、ピストルがある家でわざわざ包丁を使わなかったというだけで、逆にピストルによる自殺の試みを神聖視する119氏に偏見があるのではないでしょうか?
なにしろ大陸浪人だった浪速の家なら、ピストルの5~6挺どころか機関銃が転がっていたところで何の不思議もありませんし。(121氏)
芳子が決意書を書いたのは周囲に騒がれ始めてからであることは間違いありません。芳子が決意書を書いたから男装で有名になったというのとは違います。
119氏の御意見は度々伺ってますので充分尊重しますが、“芳子が決意書を書いたのは周囲に騒がれ始めてからであることは間違いありません。”と言い切られるのなら、それを補強するソースを提示して下さいな。
これも何度も言っている事ですが...(121氏)

リスカと拳銃自殺未遂を一緒にするほうが暴論ではありませんか?もちろんリスカも精神的に追い詰められての行動とは思います。しかしカッターナイフと拳銃とではそもそも殺傷能力に歴然とした違いがあって、一緒にするほうがどうかしています。リスカの場合はためらい傷がつく程度で、実際に死に至ることはありません。しかし注目を集めたいという動機で拳銃で胸を打てますか?なんでリスカと一緒にして矮小化しようとするのでしょうか。それよりわからないのは、121氏はリスカ少女には同情できるのに、どうして芳子にはこんなに悪意的なんでしょうね。

資料は今実家外にいるので、申し訳ありませんがすぐにはお見せできません。実家に戻ればすぐにお見せできるのですが。断髪までの時系列でしたら西沢本に詳しく書いてありましたし、新聞の転載もありますよ。気になっていたのですが、121氏は芳子についてずいぶんえらそうなことを言っているくせに、芳子に関する本は大して読んでいませんね。せめて参考書籍としてあげられている本くらいはすべて読みましたか?121氏はネットだけで適当に風説を集めて、それをすべて事実のように書いていますね。だからソースとして提示するのが他のwikiページだったり百度だったり怪しいものばかり。芳子自身父の葬儀を語っているにも関わらず、芳子は親の葬儀に行っていないなどというトンチンカンな説を唱えてみたり、どの書籍にも載っていない怪しい写真を芳子として貼り付けているのでしょう。信用度に大いに問題がありますよ。ネットだけに頼らずにちゃんと本を読んでください。

伊東ハンニとの同棲[編集]

『伊東ハンニとの同棲はあくまで噂レベルであり、上坂本でその噂を披露した人物は実際には伊東の姿を見ていない。九段の家は川島浪速邸であり、浪速が伊東を住まわせるかどうかは多いに疑問。』(119氏)
こちらは貴方の推測でしかありません。
この主張を記すのであれば、何らかのソースが必須です。(121氏)
溥儀来日の時に特使が九段の川島浪速のところへ派遣され、芳子も出迎えている。九段では浪速と一緒に暮らしていたと考えられるが、常識的に考えて伊東も一緒に住むなどということがあるだろうか。浪速の性格から考えるとそんなことを許すとは思えないが。 (119氏)
主張は分かりますが、九段の家は川島浪速邸で、芳子は浪速と一緒に暮らしていて躾に五月蝿かった(or 芳子への独占欲?にとらわれていた)浪速は、芳子とハンニの同棲なんか認めなかった+当時の浪速は東京に定住していた、というソースがないとどうにもなりません。(121氏)
浪速の性格は一言で言うならば人に厳しく自分に甘いといったところでしょうか。彼は自分の行状は棚に上げて人に道徳とか人の道とかを説くのが好きです。ことに芳子に対しては異性に関して異常とも言える厳しさを見せています。浪速が芳子を自分の物にしようとしたかどうかは置いておいても、芳子に対して殴る、物を投げつけるなど、暴力的なこともしていたそうです。芳子が断髪前に森山英次という右翼の男に一方的に思いを寄せられて付きまとわれるということがありましたが、浪速は芳子に非がないにも関わらず芳子を殴りつけていたといいます。そんな浪速と一緒にいる時に芳子が男を連れ込むのを許すとは思えません。彼はそんなに寛容な人間ではないです。(119)
更に付け加えるなら、お金の管理にだらしなく、お金を得る手段に関する善悪判断の基準も低かった、ですよね?
お金にならない貧乏右翼青年が芳子に手を出すのは許さなくても、浪速の大義に出資する人間なら、もともと玩具の芳子を、ほいほい提供してた可能性もありますね?
DV親父なんてのは概してそんなもんですが、旧民法下では合法でしたし...
いずれにせよ、傍証の傍証では駄目な事は良くお分かりでしょう。それでは小学校の夏休み自由研究でも通らないかもしれません(笑)
浪速は芳子とハンニの同棲なんか認めなかった、というソースがないとどうにもなりませんです。(121氏)
そちらも芳子とハンニが九段で同棲しているのを見たという確かな証言を提示していただけますか。(119氏)
誤解されているのかもしれませんが、私達は貴方の主張をソースで補強するチャンスを与えているだけで、ソースが提示できないのなら、その主張を撤回していただくしかありません。
簡単な話ですが、どうしてもソースを提供いただけないのなら、単なる荒らし編集とみなされてしまいますよ?(121氏)
芳子に対する中傷(老婆など)や不確かな風説を事実のように書き込んで荒らしてらっしゃるのはどちらでしょうか。事実と認定できるレベルにない風説の書き込みに反対しているのです。また、芳子と直接関係ない事例や事件などを買い込んで、芳子も関与しているかのように誘導することも反対します。(119氏)
はい、簡単な話です。
119氏の独自研究にはソースがないようですね。
他の箇所でもソース提示要求に応えないでグズグズやってるようですが、さっさと提示できるものは提示して、できないものは押○学みたいに、ごめんなさいして下さい。
という事で、本件はクローズ&規定方針に変更なしという事になります。
ハンニについての記事が無いので、簡単な経歴は前の記事から引っ張ってきましょうかね。(121氏)

そのお言葉そっくりそのままお返しします。あなたの方こそ独自研究で不確かな風説や芳子のものかもわからない写真をネット上からいろいろ拾ってこられたみたいですが、事実認定できるだけの根拠を何一つ提示されていませんよね?風説を書き込まれる前に、それが事実認定できるレベルにあるのか、もう一度よく検証されてみてはいかがでしょうか。根拠の無い風説を事実のように書きこむのは卑怯ですよ。

粛親王の復辟運動と日本政府[編集]

『満州国が清朝の復辟ではなく、日本の植民地にすぎないことに気づいた芳子は』

川島芳子の清国に対する思いや、満州への見方に関する確かな史料をあげることはできますか? 李香蘭の部分は歴史の証言として重要ですので復活させました。 --222.8.41.101 2005年7月19日 (火) 15:45 (UTC)[返信]

『粛親王が復辟運動のために日本政府との交渉人として川島を指定』(119氏)
日本政府が粛親王の復辟運動へ支持を与えたことも、関与したことも、川島浪速を代理人と認識していた事実も、残念ながら記録されていません。
川島浪速が粛親王の遺児4名を養育している人物であり、娘(芳子)とともに要観察人物と頻繁に接触している怪しい人物である事は記録されていますが...(121氏)
芳子が養女に出された時の経緯は上坂本で兄の憲立が語っています。(119氏)
この場合、粛親王一家の見方が問題なのではありません。実際、復辟運動のための交渉人という認識だったのでしょう。
問題なのは、日本政府が復辟運動と交渉を持っていたのか?という点です。
交渉が存在したのなら川島は交渉人ですし、交渉がなかったのならただの支援者です。(121氏)
>日本政府は復辟運動に関与していた?
満蒙独立運動中国語版に日本政府が関与していたことは周知の事実です。満蒙独立運動関係の研究書は多いのでご覧ください。表向きは大倉喜八郎が粛親王に金を貸したことになっていますが、政府の後ろ盾もなく大倉が金を出すなどということがあるでしょうか。これらの交渉にあたったのが川島浪速だと考えられます。
はい、私が知りたいのは、全く根拠不明な出典ではなく、風説レベルや証言者の発言内容が信頼にたるのか疑問視されるレベルのソースでもなく、公文書クラスの固いソースです。
なにしろ日本政府が関与しているのですから、関係した公文書が一点もないなんてありえないでしょう?
一概に日本政府の関与といっても、様々なレベルがありますが、私の方でざっと調べたところでは、日本政府の関与など確認できませんでしたよ?
そのレベルで話しているのなら、芳子に関する119氏の記述も、かなり信頼性が落ちてしまいますよ?(121氏)

芳子の芸能活動と関東軍[編集]

『日本での芳子の人気が高まった事で、満州国の広告塔としての役目を期待された芳子は日本へ送り出された。』(121氏)
芳子は自分の意思で芸能活動のために日本へ来たのですか?
芳子を日本へ送ったのは関東軍の多田駿と山家亨だったはずですが?
そうであれば新しい発見になりますが、何か客観的なソースはあるのですか?(121氏)
それこそ日本側が芳子に期待して送り込んだというソースはあるんですか。芸能活動は芳子に注目したマスコミによって自然発生的におきたものだと思います。(119氏)
パブリシティーとは大体において演出されるものであって、自然発生的なブームなどというものは存在しない存在です。
それとも、驚くべき『自然発生的な川島芳子現象』の出現を記述したソースでもあるのでしょうか?
芳子はもともと有名人でしたし、断髪事件のように売名行為も好きでしたから、もともと一般大衆からの関心があった訳ですが、実際に送り出したのは関東軍の多田駿と山家亨ですよね?(121氏)
実際に多田と山家が送ったそいうソースはあるのでしょうか?(119氏)
私にとってはどうでも良い部分なので、ちゃんと調べてませんが、たくさんあるみたいですね?
http://www.ne.jp/asahi/china/dajiahao/contrbution21.htm
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/china/karyu/kawasima.htm
こうした内容は貴方のような芳子ファンならたくさんご存知でしょうに(笑)

ソースとして提示されているのが、他のページからの転載で、しかもそちらにも出典が明記されていないのなら信頼できる資料とは言えませんよ。私が見たいのはそうゆう物ではなく、資料として信頼できる出典です。大学レポートでも、こんなよくわからないページをソースとして掲載したらまず不合格でしょうね。

婉容のアヘン中毒と芳子[編集]

『婉容がアヘン中毒で苦しみながら死亡したことと芳子は何の関係があるのか?!(怒)』(119氏)
張学良・林彪の例とともに、あくまで参考情報です。なにしろ“婉容”は芳子の関係者ですし...(121氏)
婉容とは関係者といっても、天津から満洲への護送任務を行った程度の関係です。芳子がその後も頻繁に婉容に会っていたという記録はないし、婉容は溥儀の寵愛を失ってからは外部の人間との接触もほとんど制限され、宮廷関係者でもほとんど顔を見ることがなかったと言います。その程度の関係だった婉容のアヘン中毒をとりあげられても困ります。(119氏)
当時の阿片がどの程度中国人にとって身近な存在だったか、という情報が記事中に記されていても、読者理解の一助にこそなれ誰も困らないと思いますが?
“困る”という発想自体が、読者に一定の芳子像を押し付けたいという願望の反映に見えますが、いかがでしょう?(121氏)
芳子については、1930年代のフカスミン常習と1940年代のヘロイン中毒について、それぞれソース付き記述+否定ソースなし、という状況です。
これを隠そうと努力しておられた点と、婉容の阿片中毒と禁断症状下での死について記される事を以上に嫌がっておいでなのが、奇妙に見えてしまいます。(121氏)
困るというより、あきれるという表現が正しかったですね。芳子と接点の薄い婉容のアヘンのことをわざわざ取り上げて、どうしようというのでしょう。私が婉容のアヘンのことを書くべきではないというのは、これを書くと読者は容易に映画「ラストエンペラー」の芳子と婉容が一緒にアヘンをやっているシーンを連想してしまうからです。(そうゆう方向に印象付けたいのでしょうか?)すでに書いていますが、芳子と婉容の接点は護送時くらいで、ほかには見当たりませんし、芳子がアヘンをやっていないことは李香蘭も証言している(芳子は兄にアヘン中毒になった人がいてアヘンを嫌っていたため)だから関係ない情報を書き込んで誘導するのは公平ではないと言っているのです。(119氏)
何度も言っているように、婉容の阿片中毒は張学良・林彪のモルヒネ中毒の例とともに、あくまで参考情報です。
それと、↑を読んで、なんとなく話がかみ合っていない感じがしていた理由のひとつが分かったような気がします。
李香蘭が芳子は阿片をやっていなかった、と証言しているのなら、是非そのソースを提示しましょうよ。
李香蘭はあの時代の中国社会で生きていましし、養父が阿片を嗜んでいる様子も見ていますので、李香蘭が芳子は阿片をやっていなかったと証言しているのなら、これはかなり信憑性は高いと言って良いでしょう。
その理由は簡単で、阿片常習者は体から独特の臭いがするためなんですね。
この臭いは阿片自体の臭いでして、常習者がこれを喫煙すると風呂や香水程度では消せない臭いが染み付いてしまうんですよ。
しかし、芳子はフカスミン常習とヘロイン中毒に陥った事が知られている訳ですが、それと阿片中毒でない(体から阿片の臭いがしない)事には何の矛盾もないんですよね。
この理由も簡単で、フカスミンやヘロインは注射器で静脈に入れるためでして、ヒロポン(覚せい剤)などと同じです。
阿片の喫煙は発覚し易いかわりに、体の表面にはあまりダメージがありません。しかし、モルヒネやヘロインを静脈注射で常習するようになると、頻繁に静脈注射をしていた部分の皮膚にタコができて針が通らなくなり、しまいに足の静脈などに注射をするようになって行きます。
こうした症状は現代の覚せい剤中毒者にも良く見られますが、そんな情景を新聞記者に目撃されてしまった誰かさんがいたようですが...
阿片の喫煙は適度に抑える事ができます(道光帝も“禁煙”に成功しています)が、静脈から速やかに吸収されるモルヒネやヘロインは早期に中毒状態に陥り、自己の意思で止めるのはきわめて困難です。
世界最初のモルヒネ中毒患者は、注射器の発明者の奥さんだった、なんて逸話も聞いた覚えがありますが、モルヒネ中毒だった時代の張学良などは毎日100本のモルヒネアンプルを消費したと言われています。
モルヒネヘロイン阿片から作られますので、最終的に末期中毒者となれば、婉容や1940年代の芳子のように人格に障害をきたしてしまう訳ですが...
もっとも、人格の崩壊の仕方はもともとの性格にも依るようで、日本人の場合は被害妄想がひどくなって引きこもってしまう婉容のようなる内向性の人が大部分で、芳子のように他者に暴力を振るう人というのは、元々粗暴性が強い一部の人達に限られるところからして、“おっかない”芳子の横で寝ていた笹川氏の懸念も杞憂とばかり言えなかったようですね。

>:李香蘭が芳子は阿片をやっていなかった、と証言しているのなら、是非そのソースを提示しましょうよ。

李香蘭の本を読んでください。わざわざ関係ない婉容の話を持ち出して芳子と婉容が一緒にアヘンをやっているシーンを連想させるように読者を誘導したいのでしょうか?


田中・徳王・影佐・笹川・里見・杉工作[編集]

『田中が綏遠事変を起こしたことについても、田中でさえ芳子が関わったなどと言っていないのに憶測で関連づけて読者に誤解を与えるような記述をすべきではない。影佐とのアヘン密売についても出典ソースの信憑性が低い。笹川でさえ認めていないのに、それこそ風説の域を出ない。』(119氏)
こちらも時系列での参考情報です。芳子と内蒙古・満州国・関東軍との関係は結婚式以来ですし、なにより徳王・田中隆吉、影佐、里見、笹川、といった人々は、いずれも芳子の関係者ですし、里見甫の宏済善堂も、児玉機関も、内地の女学生が手垢をこすりつけて造った杉工作用の偽札も、全て現存していた存在です。
これらが虚構だと主張したいのであれば、「まぼろしの●●」のような書籍なりのソースが必要です。(121氏)
芳子と田中は関係者かもしれませんが、芳子と徳王が知り合いだという記録は見たことがありません。田中と徳王が知り合いだとしても、芳子に結びつけるのは暴論です。知り合いの知り合いはみんな関係者ということですか?芳子とは別人の中毒歴や起こした事件を例として挙げられても、それが芳子とどう関係があるのかとしか言いようがありません。(119氏)
田中と徳王の関係も、あくまで時系列での参考情報です。
芳子と徳王は、満州族と蒙古族でそれぞれ漢奸とされた存在ですし。
判断するのは読者ですし、田中と徳王の関係が“なかった”と主張されたいのであれば、徳王や田中の記事に書けば良い事でしょう。(121氏)
芳子とは直接関係のない内容は記述するべきではありません。他人がそうだったから芳子もそうだったに違いないとか、芳子も関わっていたに違いないと読者を誘導させるもので公平ではありません。(119氏)
貴方の主張をあてはめると、闇市の記事に戦中の食糧難や統制経済について書く事もできなくなってしまいますよ?
現代とはまるで価値観も状況も違うなかで進行した件について記す場合、こうした情報は必須です。(121氏)
別人が中毒だったり、別人が事件を起こしたからと言ってそれを芳子と関連付けるのは暴論です。知り合いが薬をやっていたからお前もやっているだろうとか、知り合いが事件を起こしたからお前も起こしただろうと言っているのと同じです。綏遠事変については、芳子が事件に関わった、または芳子と徳王の直接交流を示す資料がないのならば無関係なので書くべきではありません。(119)
何度も言っていますが“田中・徳王・影佐・笹川・里見・杉工作”に関する記述は時系列での参考情報です。
知り合いが薬をやっていたからお前もやっているだろう』なんて、どこぞの警察のような事は言いませんので安心してください。
芳子のフスカミン常用(1930年代)とヘロイン中毒(1940年代)は別項で説明済みで、こちらの記述とは無関係に成立していますので、119氏の理解は多分に被害妄想的ではないでしょうか?
そこまで拘るのは、やはり読者を特定の芳子像に誘導したいからなのでしょうか??(121氏)

李香蘭との比較[編集]

『李香蘭が芳子と同じ立場だったら(血統的に中国人でかつ日本国籍なし)だったら釈放されていたかどうかわからない。見方によっては行動実態がほとんど解明されておらず裁判でも立証できなかったら芳子よりも、公式作品に多数出演している李香蘭の方が罪が重いということだって言えるのに、芳子の罪が重くて処刑された、李香蘭の罪が軽微だったから釈放されたというのはまったく根拠がない。』(119氏)
両者の置かれた状況は異なり、無理を承知であえて比較するなら、
芳子の場合は、スパイ罪(情報収集活動)+誘拐罪(甘言をもって婉容を敵性地域へ拉致)+内乱罪(安国軍司令として熱河省に侵攻)+各種の利敵行為+これ以外にも安国軍組織を用いての恐喝や集団暴力行為なども加わりますので、戦前の日本で起訴されても確実に死刑です。
そのうえ芳子はこれらの告発を否定していません。(121氏)
これに対して李香蘭は、利敵行為(反抗日映画への出演)だけ、
裁判以前に中国人の新聞記者に反抗日映画(支那の夜)への出演について、記者会見場で詰問(記者は李香蘭が中国人だと信じていた)されて、その場で謝罪しているなど、反省の意思も示していました。
李香蘭はどんなに重くても詐欺罪(中国人のふりをして映画に出演&歌声を披露し、国民党から共産党まで多くの中国人男性の心を惑わした)程度の罪状であり、芳子とは罪の重さが違いすぎます。(121氏)
いままでは、無罪となった最大要因は、敵国である日本国籍を有している(=利敵行為ではない)事が認められたためと考えられてきたが、近年になって芳子の死刑判決を読んだ李香蘭は、国籍は判決の大きな要因ではなかった事を知り、罪状によっては自分も罪を逃れられなかった事を知り、改めてショックを受けたようです。(121氏)
どうしても殺したければ戦犯として処刑(実際、日本軍の軍人も戦犯として処刑されてます)すれば良い訳で、最初から芳子は戦犯として殺すつもりで裁判を開き、満州の帰属を中国とする立場から中国人として扱われただけ、という事でしょう。(121氏)
尚、蒋介石が終戦後に報復を禁じたのは日本人に対してであって、中国人の対日協力者に対しては、国府軍による汪精衛稜爆破をはじめ、一般市民レベルにまでリンチが横行していますが、李香蘭を見た一般市民がこれをリンチするような事はありませんでした。(121氏)
『>罪状も芳子に比べれば軽微であり、国民的人気を有していたため無事釈放されている。』(121氏)
何をもって芳子の罪が重くて李香蘭の罪が軽いと言っているのか、まったく根拠がない。(119氏)
李香蘭は軍人ですか? 自分の軍を率いて中華民国領に侵攻しましたか? 住民を逮捕して保釈金を取り立てましたか?(121氏)
『芳子と李香蘭では立場が違うので比較すること自体的外れ。』(119氏)
その通り、比較するのに適当な対象ではありません。
なにしろやってる事が、歌手と“安国軍司令”ではまるで違いますから...(121氏)
芳子の裁判記録が残されていますが、検察側は事実証明に完全に失敗しています。そもそも芳子の行動ではっきり判明しているのは婉容護送くらいで(これは外務省記録にもある)あとのスパイ容疑についてはほとんどでたらめで、安国軍も実態はなかったと言われています。
スパイについて記述しているのは田中と村松くらいで、村松の小説が証拠として採用されたが、村松自身あれはフィクションだと明言しています。
あの裁判は当時の政府への大衆の不満をそらす目的で初めから仕組まれていたもので、あの程度の証拠調べで死刑にするのでは誰でもスパイになってしまいます。芳子は冤罪裁判の犠牲になったと言っていいでしょう。(119氏)
戦犯や漢奸の裁判なんてそんなものでしょう。
報復のために最初から殺すと決めて裁判をしている(戦犯の場合は日本側もその方向性を黙認せざるを得なかった)のですから。(121氏)
連合国側が殺そうと決めたら、当時の日本人は逃走(例:辻正信)するか自決(例:東條英機 ただし失敗、他多数)するしか抵抗手段はなく、大人しく逮捕されて吊るされるか、かつての同僚を売る(例:田中隆吉)か、米国に利用価値を認めさせて(例:岸信介、笹川良一、児玉誉士夫、他多数)生き延びるしか手段はありませんでした。
芳子の場合は小説でしたが、新聞記者と創作した記事で処刑された軍人(うちひとりは、逮捕に来た日本の警官に逃走を勧められたのに出頭した)もいますし、ほとんどの人達は逃れられませんでした。(121氏)
芳子は最初から死刑と決まっていたようなものですが、李香蘭は上述の通り罪が軽かったので、死刑にはならず日本へ帰還できた、というだけです。(121氏)
あの裁判が如何におかしかったか、を記したいのであれば、そのように編集すべきでしょうね。
その上で私の方からも追記すべき点があれば記しますし。(121氏)
これは田中発言の信憑性にも関わることです。芳子が幼い時から有名人であったことは共通認識であると思います。そんな芳子がたとえダンサーに変装したとしても、中国側だって馬鹿じゃないのだからすぐにあれがあの有名な川島芳子で裏に日本軍がいることくらいわかるでしょう。スパイは目立たなくてなんぼの商売です。あんなに目立ちすぎる芳子がどうやってスパイなんてできるんですか?芳子とわかってて機密をとられたとしたら孫科はどれだけあほかということになってしまいます。スパイは田中と村松によって作られたおとぎ話でしょう。(119氏)
“スパイは田中と村松によって作られたおとぎ話”という貴方の主張は尊重しますが、何度も言っているように、それについて記したいのであればソースの提示が必要です。
もっとも、日本で有名だったのは断髪時の芳子であって、離婚後のバツ1な芳子ではありませんので、目立つという前提は貴方の思い込みでしょう。
“魔都”と呼ばれていた当時の上海では、妓女・ダンサー・歌手といった女性の多くは、中~高級売春婦と紙一重の存在だった事はご存知でしょう。
そんな場所で“日本で有名だった少女A”がうらぶれてダンサーをやっていたところで、誰も気付かない訳ですが...
最近の風俗店なんかにも、元グラドルや元AV嬢なんて人達が名前を変えてたくさん働いてますが、ほとんどが名乗らなければ分からない存在でして、それと同じようなものです。(121氏)

中国側が芳子の変装に気付かないなんて、中国の特務機関もずいぶん舐められたものですね(笑)中国の、特に上海の諜報網のすごさをご存じないのでしょうか。


田中発言への疑問はまだあります。あなたが言うように芳子はまんまとダンサーに変装できたとします。(実際には芳子は上海の社交界でも有名人だったので、まず無理でしょうが)しかし、田中の言うように、芳子が男装して中国兵に変装して敵陣に潜入して砲台の数を調べたというのはどうでしょうか?女性が男性に化けても女性の男装でしかありません。芳子の男装写真は多いですが、いずれも女性の男装であって男として通す無理です。そんなんで敵陣に潜入して見つからないわけはないし、無事に帰ってくることはできません。

田中と芳子の同棲は上海では有名だったということですが、田中隆吉回想録以外に2人が同棲しているのを目撃した人物はいるのでしょうか?同棲したと断言するからには、うわさではなく、信用できる証言などを提示していただけますか。田中自身が流した噂ではないでしょうか。村松によると、田中は芳子との関係をあることないこと言いふらし、芳子は怒っていたそうです。ある時、芳子は怒って田中の武官室に乗り込み、「でたらめをいいふらした」と田中をどなりつけ、土下座で謝るように要求しました。田中は村松のいる前にもかかわらず芳子に土下座して謝ったそうです。村松は芳子と田中の双方を知っていますが、村松が芳子に出会う前を含めて、2人が同棲したなどということは村松の文章から伺うことはできません。私が同棲に疑問を提示するのはそうゆうわけです。

村松は戦後偶然芳子の知人に出会い、面と向って「お前のせいで芳子は死んだ」と罵られたそうです。自分の小説のせいで芳子を死に追いやったことへ良心の呵責を感じたのか、村松は芳子の知人になじられたこと、あの小説はフィクションだったことを告白していますが、田中はといえば芳子との関係や芳子にスパイをやらせたことを自分の武勇伝のように戦後も吹聴し続けたわけで、まったく見下げた男です。以上のように田中発言には疑問点が多いので、田中発言の詳細を記すのであれば、それが田中発言によっていることと、信憑性に疑問点がある旨を記すべきです。なお私は田中と芳子に男女関係があったかもしれないということを否定するわけではありません。同棲と断定的に書くことへの疑問を提示しているのです。交際は男女関係を含む表現ですので、問題はないと思いますが。


各氏了解の内容[編集]

以下の内容については、参加各氏の間で合意が形成されました。

a. ボク女=同性愛者ではない
121氏および119氏、ともに疑念なし→脚注欄にて対応済み
b. パプチャップは“英雄”とは言い難い
121氏および119氏、ともに疑念なし→現状のまま
(注 パブチャップの決起・戦死の経緯は満蒙独立運動の記事に記す)
c. 粛親王の葬儀に関して
121氏および119氏、ともに疑念なし→現状のまま
d. 田中隆吉と芳子の関係について
121氏および119氏、芳子と田中がつきあっていたことへは疑念なし

(同棲については現時点では田中の自己申告しかないため、表現を別に考えること。)

e. 第一次上海事変への田中隆吉の関わり
田中発言には重大な疑念があるため、田中発言は信憑性に大いに問題がある旨を明記すること。
f. 芳子のフスカミン常習について(双方疑念なし)
121氏および119氏、ともに疑念なし→現状のまま
g. 顕琦によるヘロイン中毒証言(疑念なし&反論なし)
121氏疑念なし、119氏反論なし→『川島芳子#転機』の部分に追記予定
(注 当時の中国における阿片概要情報の扱い、及び芳子本人と関係のない事例、事件を参考情報として載せるかどうかは『婉容のアヘン中毒と芳子』『田中・徳王・影佐・笹川・里見・杉工作』において継続討議中。119氏は婉容のアヘン事例を芳子の項目に記述することは読者に映画「ラストエンペラー」で芳子と婉容が一緒にアヘンをやっているシーンを連想させ、読者を誘導するものであると、芳子と無関係事例の記述に反対)
h. 1938年以降、芳子は福岡などで一時静養している
121氏および119氏、ともに疑念なし→現状のまま

みなし了解の内容[編集]

↓とりあえず、191氏の主張を裏付ける反証ソースや資料が提示されなかった以下の分は、上記に加えても良い時期かもしれません。

変更後に191氏から改めて提示があれば、再度検討すれば良い事ですし。(121氏)


121氏が提示するソースは資料として信頼できるものとは言えないので、ちゃんとした資料の提示を求めます。芳子に関する風説は多いですが、それを何でもかんでも芳子のしたこととして書くととんでもないことになりますよ。(たとえば中国では張作霖爆殺も上海事変で日本を勝利に導いたのも芳子だとされている。全く根拠不明)出典の検証や、風説レベルではないのか、証言者の証言内容は信頼にたるのかなど、吟味したうえで書くことを要求します。


<<変更内容>>
記事中の『顯シ』表記を『顯玗』へ変更した上で、下記の注釈を添付する。
<注釈 name_moji>
“玗”の字は当て字であり、本来は“王+子”を合わせた文字であり、粛親王の造字(参照:“玗是粛親王自造的字,取“14”階音”)とされる。
同字は芳子の自筆(参照画像:芳子の自筆名と人差指の指紋)において確認されているほか、注釈中にある『支那皇室関係雑件』(大正14年12月4日 梅谷光貞長野県知事発)の文中における芳子の名前表記にも用いられている。
</注釈>
<<変更内容>>
相場師の伊東ハンニと東京・九段で同棲したと言われている。
<注釈>伊東ハンニについて簡単に記述</注釈>
<<変更内容>>
顯シは粛親王の復辟運動を支援する川島浪速の養女とされ、芳子という日本名が付けられた。

以上の討議に対する追加の質問・異議・提案などは各項目の下に記して下さい、また他ユーザの方の新規参加や新規項目の追加も歓迎です!!

玗→㺭[編集]

2014年の途中から段階的に㺭→玗という流れになっていたので、玗→㺭にしました。ただ、問題なのは「㺭」の出典です。以前、テレビ朝日報道発 ドキュメンタリ宣言の番組宣伝ウェブサイトで本人の指紋を紹介する項目に、「署名つきの拇印」の画像があって、そこではちゃんと「顯㺭(指印)」となっていました。この件に関しては、このノートページ上の議論(芳子の名前表記)でも触れられています。だから、「㺭」が正しいのは確かです。しかし、2015年の現在に至り、テレビ朝日はそのウェブページを撤去してしまったらしく、さらに、ウェブアーカイブでは画像が残っていないので、確認できません。

--Askr会話2015年3月10日 (火) 15:56 (UTC)[返信]

件の連署状は2011年に行われた「川島芳子を偲ぶ会」主催の講演会で阿部由美子氏が紹介したものが、今のところネットで確認できるソースの源流になっているようです。参加者のブログ[3]、画像[4]、画像のアーカイブ[5]--Askr会話2018年6月7日 (木) 12:26 (UTC)[返信]