ノート:山下良道/過去ログ7

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ページの全体に関する提案や議論

※各議論の末尾に「解決済み」などと書かれていても、異論があるときは適宜記入してください。--Leonidjp会話2015年9月24日 (木) 05:07 (UTC)


議論1

(お知らせ):この部分の議論は、ページ「山下良道」の具体的な内容とは関係の薄い、「利用者個人間のやりとり」が長期間にわたって連続していますので、下記のサブページに移動しました。関心のないかたは、お読みにならなくても構いません。

--Leonidjp会話2015年7月3日 (金) 06:07 (UTC)


議論2

提案 こうした思想・信条が絡む記事編集の衝突に関しては、以前、日本テーラワーダ仏教協会アルボムッレ・スマナサーラ氏の記事で衝突を起こして投稿ブロックされた「Nozawa onsen potta」(コメント依頼投稿ブロック依頼)というユーザーの件が参考になると思います。独自ルールを持ち込まず、第三者を絡めつつ、冷静かつ慎重に議論し続けていくことが重要になるでしょう。--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 11:20 (UTC)
(視認性のために以下の文を字下げさせてもらいます。)--Themtheman会話2015年5月23日 (土) 14:14 (UTC)
(お知らせ):この議論の続きの部分は、ページ「山下良道」の具体的な内容とは関係の薄い、「利用者個人間のやりとり」が長期間にわたって連続していますので、下記のサブページに移動しました。関心のないかたは、お読みにならなくても構いません。
--Leonidjp会話2015年7月3日 (金) 06:16 (UTC)

議論3

(お知らせ):この部分の議論は、ページ「山下良道」の具体的な内容とは関係の薄い、「利用者個人間のやりとり」が長期間にわたって連続していますので、下記のサブページに移動しました。関心のないかたは、お読みにならなくても構いません。

--Leonidjp会話2015年7月3日 (金) 06:23 (UTC)

コメント上記「サブページ3」は赤リンクになっていますが、ページ自体は存在しています。(赤リンクの理由不明)。--Leonidjp会話2015年7月3日 (金) 06:31 (UTC)
コメント上記赤リンクの件、解決済み。--Leonidjp会話2015年7月3日 (金) 06:48 (UTC)



ページの内容を検証するコーナー

ご注意:ページに執筆するには適切な出典が必要です

Wikipediaのページに執筆する記述は、次のような仕方で一次資料や二次資料を出典としなければなりません
  • 一次資料と二次資料」のページにて、Wikipediaの「方針」が明らかにされています:「方針:ウィキペディアの記事は通常、信頼できる二次資料に基づかなければなりません。分析や評価についての記述は、信頼できる二次資料で公表されているのでない限り、禁止されます
  • (同上):「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。」。--Leonidjp会話2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)

ウィキペディアは独自研究を発表する場ではありません。

「独自研究(original research)」とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがないものを指すウィキペディア用語です。ここに含まれるのは、未発表の事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。
ウィキペディアは独自研究を発表する場ではありません情報源を明記することと独自研究を避けることは、密接に関わり合っています。独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです。
(「Wikipedia:独自研究は載せない」から引用)
--Leonidjp会話2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)

「導入部」に関する議論

※「導入部」というのは、目次よりも上にある節のことです。

議論4

※議論内容が長大なので隠してあります(携帯・スマホでは表示されます)。内容を読むときは、右端の[表示]というリンクをクリックしてください。


議論5

(対策の提案):本「元曹洞宗の僧侶」および「元テーラワーダ仏教僧侶」の「元」という資格表示の出典が無いという件に対しては、「元○○」という資格表示そのものを掲載しないというかたちで過去の版において対処済みであった。この過去の版の記述に戻すことで速やかな是正が可能である。カテゴリー設定についても同様。--Leonidjp会話2015年5月19日 (火) 01:01 (UTC)
コメント文中のリンク間違いを修正。--Leonidjp会話2015年5月20日 (水) 04:24 (UTC)
コメント文中↑、取り消し線と下線部で文脈を補足。--Leonidjp会話2015年7月7日 (火) 00:25 (UTC)
反対 元々どの宗派に所属していたかを書いておくことは、山下の人物像や思想を理解・把握するうえで重要ですし、本人も隠すどころか積極的に言及している事実でもあるので、この記述をわざわざ削除する必要はないと思います。--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 11:34 (UTC)
>この記述をわざわざ削除する必要はないと思います
コメント分かりました。賛同します。--Leonidjp会話
(お知らせ)↑この部分の議論は、この後も別所で続いています。--Leonidjp会話2015年7月30日 (木) 02:16 (UTC)
(視認性のために以下の文を字下げさせてもらいます。)--Themtheman会話2015年5月23日 (土) 14:14 (UTC)
ページ本文にはこのように「元A」、「元B」という記述がある一方、ページに対するカテゴリ設定は「現A」、「現B」を示している点が、矛盾をきたしている。この矛盾は解消すべき。--Leonidjp会話2015年5月20日 (水) 04:24 (UTC)
コメントCategory:曹洞宗の僧」も、「Category:上座部仏教の僧」も、「現役の所属僧侶のみ」を集めるような限定的なカテゴリではないので、別に矛盾してませんし、問題ないと思います。--Themtheman会話2015年5月23日 (土) 14:14 (UTC)
コメント「現」に限定していなかったんですか。それは知りませんでした。--Leonidjp会話2015年5月25日 (月) 04:43 (UTC)
チェック じゃあこの部分に関しては解決済ということでいいですね。--Themtheman会話2015年5月27日 (水) 10:27 (UTC)
コメント解決済みということでいいです。--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:22 (UTC)
コメント解決済みでないかもしれない。
>「Category:曹洞宗の僧」も、「Category:上座部仏教の僧」も、「現役の所属僧侶のみ」を集めるような限定的なカテゴリではない
コメントあらためて見直してみると、この【「現役の所属僧侶のみ」を集めるような限定的なカテゴリではない】という判断は、これを言っているThemthemanの独断でしかないのではないか。
Wikipedia:カテゴリの方針」という編集方針を書いたページには、「カテゴリ」の定義として3つのことが書かれてある(下記参照。ただし3番目はこの論件に関係しないので省略)。
(カテゴリの定義)
ウィキペディアのカテゴリ機能は何のためにあるものでしょうか。「分類」と「キーワード」を示すという意味があります。
1. カテゴリは第一義として、「分類」を示すものです。
「xxはYYのひとつである」と言うことができれば、「分類」を示すと言えます。項目xxはカテゴリYYに属するべきです。反例として、北朝鮮と韓国は関連がありますが、どちらかがどちらかを包含する関係ではありません。
2. 上記に加えて、ウィキペディアのカテゴリとしては「関連が深いキーワード」を示すことができます。
「分類」より「キーワード」を指向しているカテゴリも存在します。記事xxが「YY関連用語」であるという意味合いでカテゴリYYに属することが期待される場合があります。例として、学術用語Category:学問の関係など。この場合も、カテゴリはより上位の概念であることが求められるため、逆の関係ではあり得ません。
コメント山下氏の場合、山下氏が「上座部仏教の僧」や「曹洞宗の僧」ではないという一次資料が2015/9/6に得られている。従って、今や、「山下良道は上座部仏教の僧のひとつである」とは言えないし、「山下良道は曹洞宗の僧のひとつである」とも言えない。従って、【項目「山下良道」はカテゴリ「上座部仏教の僧」または「曹洞宗の僧」に属するべき】だとは言えない。項目「山下良道」は「上座部仏教の僧」または「曹洞宗の僧」という「分類」を受ける(被る)項目ではないことが資料から示されているわけだから、「上座部仏教の僧」または「曹洞宗の僧」という「分類」からは外したほうがよい。(これは上記「カテゴリの第一義」に関する検討結果)。
(次に、上記「カテゴリの第二義」に関する検討):【この場合も、カテゴリはより上位の概念であることが求められる】との要請が明記されているが、【「山下良道」の「上位の概念」が「上座部仏教の僧」や「曹洞宗の僧」である】という命題が真である(正しい)、という判断は今や出来ない。上述のように、山下氏が「上座部仏教の僧」や「曹洞宗の僧」であることを否定する旨の一次資料が見つかったからである。AがBに分類されないときに、BがAの「上位概念である」などということはない。
ページ「山下良道」に現在付せられているカテゴリ設定たる「上座部仏教の僧」・「曹洞宗の僧」は、上記2点の検討に基づいて、除去されるのが適切。--Leonidjp会話2015年9月12日 (土) 01:58 (UTC)
>ちなみに私は「元曹洞宗」「元テーラワーダ」といった記述は削除せず記事中に明示しておいたほうがいいと思います。曖昧にしておくと山下氏を現役の曹洞宗やテーラワーダの僧侶だと勘違いする人が出てこないとも限らないので。
コメントこういうふうに、「曹洞宗」や「テーラワーダ」に関する山下氏の「現役性」を曖昧にせずクリアに否定しておきたい旨の発言をしている執筆者(Themtheman)も存在している。「曹洞宗」や「テーラワーダ」に関する山下氏の「現役性」をクリアに否定したい人にとって、まさにこの「山下良道」というページが「Category:曹洞宗の僧」や「Category:上座部仏教の僧」に「所属」しているという状態は、「現役性」に関する「曖昧」な外貌を呈しているものとして修正が必要である、と言えるであろう。このカテゴリ設定が除去されない状態では、「Category:曹洞宗の僧」や「Category:上座部仏教の僧」というページには「山下良道」という名前が載り続けているわけでもあり、それは「曹洞宗」や「テーラワーダ」に関する山下氏の「現役性」の有無を曖昧にする表記として喜べないものであろう。「曹洞宗」や「テーラワーダ」に関する山下氏の「現役性」をクリアに否定しておきたい人にとっては。--Leonidjp会話2015年9月12日 (土) 04:14 (UTC)
>ページ「山下良道」に現在付せられているカテゴリ設定たる「上座部仏教の僧」・「曹洞宗の僧」は、上記2点の検討に基づいて、除去されるのが適切。
この除去提案から7日以上経ち、その間、コメントが付かなかったので、除去を実行した。--Leonidjp会話2015年9月20日 (日) 00:22 (UTC)
チェック この件は解決済み。--Leonidjp会話2015年9月24日 (木) 02:08 (UTC)

議論6

  • 日本の伝統仏教(中国大乗仏教)を「仏教1.0」、90年代後半から顕著に日本に入って来た南方テーラワーダ仏教(上座部仏教)を「仏教2.0」とし、

コメント出典とされる『青空』pp.14-18および『別冊1』 p.373-376には、「中国大乗仏教」なるものは載っておらず、「中国大乗仏教」なるものに関する言及もやはり無い。出典が無いなら、丸括弧の内側=「中国大乗仏教」は削除するべき。--Leonidjp会話2015年6月28日 (日) 00:31 (UTC)

コメントおしらせ:不要な重複を避けるため、内容をこちら議論9へ移動しました。それに伴い、取り消し線を付加↑。--Leonidjp会話2015年6月30日 (火) 01:05 (UTC)
リンク先を修正(取り消し線と下線部)。--Leonidjp会話2015年9月24日 (木) 02:12 (UTC)

議論7

※議論内容が長大なので隠してあります(携帯・スマホでは表示されます)。内容を読むときは、右端の[表示]というリンクをクリックしてください。


議論8

  • 現・鎌倉一法庵(One Dharma Forum, ワンダルマの会)住職。

「住職」は庵に対する肩書であり、「Forum」や「会」に対する肩書ではないのではないか。出典とされる「一法庵 公式サイト=トップページ」には肩書に関する記述が無い。同サイトのプロフィールページ(参照)には、肩書に関しては「ワンダルマ仏教僧」および「鎌倉一法庵主」という記述しかない。『青空としてのわたし』p.230(著者紹介)にも、「Forum」や「会」に対する肩書は存在しない。また、「鎌倉一法庵(One Dharma Forum, ワンダルマの会)」という現状の記述では「庵」と「Forum」と「会」の相互関係が不明瞭なので、相互関係を明らかにできる資料を出典として記述を改めるなどすべきだと考える。--Leonidjp会話2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)

コメント 『アップデートする仏教』『青空としてのわたし』等のプロフィール欄には「鎌倉一法庵住職」と書かれています。これが出典に使えるでしょう。後で付け加えておきます。「Forum」「会」等の名称は公式サイトで併記されている名称であり、その旨の出典が既に提示されているので、特に問題ないでしょう。--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 11:59 (UTC)
(対策の提案):本件に対しては、「Forum」と「会」に関する言及を削除し、肩書に関しては「鎌倉一法庵住職」および「ワンダルマ仏教僧」という記述のみを記すというかたちで過去の版において対処済みであった。この過去の版の記述に戻すことで速やかな是正が可能である。--Leonidjp会話2015年5月19日 (火) 01:01 (UTC)
文中のリンク間違いを修正。--Leonidjp会話2015年5月20日 (水) 04:24 (UTC)
反対 上記した理由から、特に問題ないので削除に反対します。--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 11:59 (UTC)
(視認性のために以下の文を字下げさせてもらいます。)--Themtheman会話2015年5月23日 (土) 14:14 (UTC)
コメント『青空としてのわたし』p.230(著者紹介)および公式サイトのプロフィールページ(参照)に明白に記されている「ワンダルマ仏教僧」という記述が、Wikipediaのページに存在しないのは不適切ではないか。肩書を列挙したこのページ冒頭の位置に存在しないということが特に。--Leonidjp会話2015年5月20日 (水) 04:24 (UTC)
コメント その情報も加えていいんじゃないですか。その点に関して誰も反対してませんよ。後で加えておきます。--Themtheman会話2015年5月23日 (土) 14:14 (UTC)
>後で加えておきます。
コメント承知しました。--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:18 (UTC)
チェック この部分に関しても解決済ということでいいですね。--Themtheman会話2015年5月27日 (水) 10:27 (UTC)
コメント解決済みということでいいです。--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:18 (UTC)



議論9

  • 自身や日本の仏教の遍歴に沿う形で、日本の伝統仏教(中国大乗仏教)を「仏教1.0」、90年代後半から顕著に日本に入って来た南方テーラワーダ仏教(上座部仏教)を「仏教2.0」とし、それら両者の資産を活かしつつも両者の問題点を克服した現代人に役立つ現代的な仏教のあり方としての「仏教3.0」を提唱し、仏教界の改革に向けて活動している。

この種の「概要的まとめ」をページの冒頭に置くことがWikipediaで推奨されているのかもしれないが、独自研究と見なしうる記述を用いてまで「概要的まとめ」を置く必要はないだろう。「まとめ」る作業そのものは読者各人の取り組みにまかせても構わない。

コメント あなたがその文のどこが独自研究だと考えるのか示されていないので、意味不明な文になっています。--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 11:59 (UTC)
コメント出典とされる『青空』pp.14-18および『別冊1』 p.373-376には、「中国大乗仏教」なるものは載っておらず、「中国大乗仏教」なるものに関する言及もやはり無い。出典が無いなら、丸括弧の内側=「中国大乗仏教」は削除するべき。--Leonidjp会話2015年6月28日 (日) 00:31 (UTC)
ページ本文)>南方テーラワーダ仏教(上座部仏教)を「仏教2.0」とし
コメント「南方」という表現は、出典たる資料の当該ページに存在しない。従って、この「南方」という2字は無出典だから、除去すべき。(出典には、「方角」だとか「発祥地名」、「伝播元の場所名」などを示す記述も無い。単に「テーラワーダ仏教」と書いてあるだけである)。--Leonidjp会話2015年6月30日 (火) 01:07 (UTC)
コメント 「南方」とかは『アップデート』のp.171とか、出典出そうと思えばだせますが、そんなにこだわってる表現でもないので、「日本の伝統仏教(大乗仏教)~テーラワーダ仏教(上座部仏教)~」で全然いいですよ。--Themtheman会話2015年7月3日 (金) 20:40 (UTC)
コメント了解。上記「中国大乗仏教」および「南方」という記述は、上述のとおり無出典なので、ページ本文から削除。--Leonidjp会話2015年7月5日 (日) 01:00 (UTC)
コメントまた、「日本の伝統仏教」という表現は、この箇所の出典とされる『青空』pp.14-18および『別冊 1』pp.373-376には存在しない。この2つの出典において「仏教1.0」という語句の意味を指示している箇所を、下記のとおり挙げる。※下線の付加は引用者による。
  • (『青空』p.16):「藤田一照さんとの対談をまとめた『アップデートする仏教』(幻冬舎新書)のなかで、私たちは日本の仏教の現状を、仏教1.0、仏教2.0、仏教3.0と分けて説明しました。日本に根づいている教団仏教を仏教1.0。(中略)テーラワーダ仏教(上座部仏教)を2.0。つまりこの2つが現在の姿です。」
  • (『別冊1』p.376):「日本に伝統的に伝わる今の仏教の現状を、本当は誰も良いと思っていないでしょう。言ってみれば、般若心経を意味もわからず信仰しているのが今の仏教です。それを私は「仏教1.0」と呼んでいます。」
上述の下線部を読めばわかるとおり、「仏教1.0」という呼称は、日本の仏教の「現状」に対する呼称である。このことをページ本文の記述に含めるべきだから、この箇所のページ本文は下記のように書き換えた。
  • (変更前):日本の伝統仏教を「仏教1.0」、90年代後半から顕著に日本に入って来たテーラワーダ仏教(上座部仏教)を「仏教2.0」とし、
  • (変更後):日本に伝統的に伝わる仏教の現状を「仏教1.0」、90年代後半から顕著に日本に入って来たテーラワーダ仏教(上座部仏教)を「仏教2.0」とし、
--Leonidjp会話2015年7月5日 (日) 01:00 (UTC)
チェック ここに関しては特に異論は無いので済でいいでしょう。--Themtheman会話2015年7月10日 (金) 23:45 (UTC)
コメント ごめんなさい。一旦「済」にしてしまいましたが、ちょっとどうしてもこのボンヤリした表現がしっくりこないので、「済」を一旦留保して、ちょこっと文言追加させてほしいです。以下の太字部分の追加を提案します。
  • (追加提案):日本に伝統的に伝わる大乗仏教の現状を「仏教1.0」、90年代後半から顕著に日本に入って来たテーラワーダ仏教(上座部仏教、南方仏教)を「仏教2.0」とし、
出典は「大乗」部分は『青空』p.17に「大乗仏教」が出てきます。既出の出典(『青空』 pp.14-18)内です。「南伝仏教」は『アップデート』p.5の欄外注に記述がありますね。--Themtheman会話2015年7月11日 (土) 00:57 (UTC)
コメント(追記)それではとりあえずこの表記に編集させてもらいます。--Themtheman会話2015年7月25日 (土) 04:33 (UTC)
コメント賛同します。--Leonidjp会話2015年7月30日 (木) 00:11 (UTC)
チェック じゃあ、ここは解決済みということでいいですね。--Themtheman会話2015年7月31日 (金) 21:42 (UTC)
新たな問題点の指摘。
>(ページ本文)それら両者の資産を活かしつつも両者の問題点を克服した現代人に役立つ現代的な仏教のあり方としての「仏教3.0」を提唱し、仏教界の改革に向けて活動している。
コメント【「仏教3.0」が「現代人に役立つ現代的な仏教のあり方」である】という記述は、この部分の出典たる『青空』p14-18および『別冊1』p.373-376に存在しない。出典に存在しない記述を、「仏教3.0」という用語の意味規定として用いるのは不適切。従って、この「現代人に役立つ現代的な」という11文字の修飾はページ本文から除去することを提案する。--Leonidjp会話2015年9月24日 (木) 01:12 (UTC)
コメント上記2015年9月24日 (木) 01:12 (UTC)の提案から7日経ち、その間、コメントが付きませんでしたので、除去を実行しました。--Leonidjp会話2015年10月1日 (木) 03:32 (UTC)



「経歴」の節に関する議論

「存命人物の伝記」の執筆時には、次のような特段の注意を払わなければなりません。Wikipedia:存命人物の伝記」のページを読み、そこで示されている注意事項をふまえてください。

「存命人物の伝記」の執筆時には特段の注意を払わなければなりません。「存命人物の伝記」には一定の配慮が必要であり、また下記の基本方針を厳守しなければなりません。
記事は「正確な」ものでなければいけません。特に、その人物の生涯の細部については、信頼性の高い参考資料だけを用いるべきです。存命中の人物に関する否定的な情報で参考文献や出典の無い、あるいは貧弱な情報源しかないものは、項目本文およびノートから即刻除去するべきです。これらの基本方針は伝記以外の項目における、存命人物の記述にも適用されます。
(「Wikipedia:存命人物の伝記」のページより引用)

--Leonidjp会話2015年5月19日 (火) 01:01 (UTC)

コメント ここに関しては私もあなたも基本的に『青空としてのわたし』を元に記述してるわけですから、「独自研究」と呼ぶような大きな違いは生まれないと思います。基本的に『青空』の記述をつきあわせてその表現を細かく検討していけばいいだけの話だと思いますけどね。(他の出典に依拠してる場合はそれを。)--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 12:16 (UTC)

議論10

2015年5月現在、山下氏の経歴に関する「信頼できる二次資料・三次資料」は、ほぼ存在しないと思われます。従って、同氏の経歴をWikipediaに記述しようとするときに出典として使うことのできる資料は、一次資料たる山下氏自身の著作しか存在しないと思われます(この事情は、同氏の「思想」や「実践」に関しても同様です)。
Wikipedia執筆者が、一次資料(山下氏自身の著作)に対して「分析・合成・解釈・評価」などを加えることは「独自研究」に該当します。そのような記述はWikipediaに掲載してはならないという公式な「方針」が明らかにされていますし、一次資料の不適切な扱い方として明白に制止されています。
したがいまして、Wikipediaのページ上で山下氏の経歴を記述する際に書けることは、「山下氏自身の著作の中に明白に書かれている事実を率直に呈示し、分析・合成・解釈・評価などを加えない記述」のみに制限されると考えます。
2015年5月19日現在の版(参照)は、このような制限を超えた記述(独自研究と見なしうる記述)を多数含んでいます。是正する必要があると考えます。この版の掲載者(事実上の執筆者)はThemthemanさんですので(参照)、Themthemanさんには掲載者(執筆者)としての対応を要望します。
なお、上述のような「制限」にヨリ適合的であるという点で現在の版よりも適切と思われる過去の版が既に存在しています。
なお、Themthemanさんが事実上の執筆者である現在の版(2015年5月19日現在)に含まれている、独自研究と見なしうる表現を列挙しておきます↓。

  • 【自分の生き方に疑問を感じる 違う世界 再び人生に悩み 著作に触れたことをきっかけに 4月8日(釈迦降誕会)に得度 赴任 日本仏教の現状に不満を募らせていくようになる きっかけに吹っ切れ 目の当たり 仏教関係者として責任を痛感する 佇まいに感銘を受ける バックボーンの1つとなっている 軋轢 師と慕っていた ビルマ行きを考えつつ 我が道を行くことを決意 畳んで そのまま師事 比丘として出家 自他の経験から(中略)の重要性に気付く 磨く 開設 考えはいまだ整理し切れず 曹渓宗の華厳経文化に触れる チベット仏教の師である 話し合い 考えがまとまる 「一法庵」(One Dharma Forum, ワンダルマの会) 毎年 復興活動にも関与】
直上↑の投稿に署名が欠けていたので補足。投稿者はLeonidjpです(2015/05/19投稿)。--Leonidjp会話2015年5月20日 (水) 04:24 (UTC)
コメント 1つ1つ原文とつきあわせて検討していきましょう。--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 12:16 (UTC)
コメント「経歴」節が現状の本文になってから、そろそろ1ヶ月経ちますか。「存命人物の伝記」には特段の注意が必要ですよと上述のように言われているわけでもあるので、記述の正確性を検討する作業は、まず真っ先にこの節から始めてもよかったかもしれない。
私は、現状よりもこの過去の版のほうがマシですよと「6月4日 (木) 05:08」に申し上げてあります。現状のままでよいか否か、よくないとすればどのように修正することを希望なさっているか等、どなたか応答いただけますか?Themthemanさん以外のかたでも。--Leonidjp会話2015年6月14日 (日) 01:36 (UTC)
コメント 繰り返し述べますが、ここに関しては個別具体的に原文をつきあわせてより妥当な記述を模索していく以外にないので、あなたが具体的に自分の方が優れていると考える記述をピックアップしていかないと話は始まらないと思います。--Themtheman会話2015年6月27日 (土) 00:03 (UTC)
コメント私は、「経歴」節に関しては、問題のある記述は直ぐに編集するという方針をとることに今日から決めたので、その方針の下にページ本文を編集しておきました。--Leonidjp会話2015年6月28日 (日) 00:25 (UTC)
コメント 何度も書いているように、私は「加筆」には寛容ですが、「削除行為」には敏感です。あなたは経歴部分の記述のいくつかを理由を明示せぬまま削除してますね。その削除理由を求めます。えーと、「ティクナットハンが臨済宗(p.97)」「日本テーラワーダ協会機関誌の編集に携わる(p.102)」「安泰寺・曹洞宗との緊張関係、~による反発(p.103)」「韓国滞在が一ヶ月、触れたのが華厳経文化(p.171)」などがそうですね。特に明確な理由がないならそれらの記述を戻しますよ。--Themtheman会話2015年7月3日 (金) 20:25 (UTC)
>特に明確な理由がないならそれらの記述を戻しますよ
コメント 「戻し」たあとで更に問題点を指摘されないようにご注意くださいね。
>あなたは経歴部分の記述のいくつかを理由を明示せぬまま削除してますね
コメントそれは貴方も「同罪」なんですよねえ。2015/5/13にね。2015/5/13の貴方の「差し戻し」操作によって、それ以前の「経歴」節の本文は「削除」されたわけだけど、その「理由」をあなたは、あれから50日以上経ってもヒトコトも「開示」なんかしてないわけでね。
あなたも「理由開示」されるまで50日ぐらい待ってみたら?--Leonidjp会話2015年7月5日 (日) 01:44 (UTC)
コメント文中↑、取り消し線と下線部で修正。--Leonidjp会話2015年7月6日 (月) 00:40 (UTC)
コメント 削除部分は特に削除理由がないようなので後で加筆しておきます。
ちなみに、私があなたの記述を「差し戻し」「削除」した理由を述べてないかのようなことをあなたは書いてますが、2重の意味で端的にあなたの勘違いですね。第1に、私が差し戻しをした理由(削除部分のソース点検)を私は当初から繰り返し書いていますね。第2に、私にはあなたの記述を削除する意図は無いこと、あなたの付加情報は保全したつもりだし、もし誤って削除したのであれば復元する旨もかなり前に書いてますね。「当初から理由を書いている」し、そもそも「削除してない(誤って削除していたなら復元する)」わけです。お分かりでしょうか?--Themtheman会話2015年7月11日 (土) 00:08 (UTC)

>私が差し戻しをした理由(削除部分のソース点検)を私は当初から繰り返し書いていますね
コメント「経歴」節の具体的な文言に関して「書いています」?何処に。--Leonidjp会話2015年7月30日 (木) 00:38 (UTC)
>私が差し戻しをした理由(削除部分のソース点検)を私は当初から繰り返し書いていますね
コメント「削除部分のソース点検」が理由?そんなの理由にならないでしょ。(何度も申し上げましたよね?)「過去の版」を閲覧すればよいだけだから「差し戻し」操作は必要無い、と。もうお忘れになったの?あちゃ〜。大丈夫かな。--Leonidjp会話2015年7月30日 (木) 01:00 (UTC)
>誤って削除していたなら復元する
コメント有言不実行は信用を失う。--Leonidjp会話2015年7月30日 (木) 00:38 (UTC)
コメント なんか全然噛み合ってないというか、何が言いたいのかよくわからないですね。というか、このやり取りいります?既にあなたも私も経歴部分に必要だと思う記述は加え終えたわけですよね?これ以上のやり取りは、この記事に関する公共性が無いし、またこのノートを汚すことにしかならないので、あなたのノートページにでも場を移したらいいと思うのですが。--Themtheman会話2015年7月31日 (金) 22:04 (UTC)
>このやり取りいります?
コメント理由にもならない理由づけはきっちり批判されるよ、という前例を作っておくことがコミュニティの良心。どこぞのZ氏みたいな出典皆無の演説家のちゃらんぽらん執筆を黙認しないよ、とはっきり言ってやることには公共的な意味がある。皆の読む場所で。粗悪品溜め込んでもしょうがないんで。--Leonidjp会話2015年8月1日 (土) 04:04 (UTC)
コメントこの場所でハッキリ見えるように批判しておかないと、まるでココでは黙認・黙許されてるかのように見えてしまうでしょ。それはNG。
>このノートを汚すことにしかならないので、あなたのノートページにでも場を移したらいいと思うのですが
コメントははは。Wikipediaの公式の編集方針に反して「一次資料に対する解釈」を語ったりする記述は、「Wikipediaの記事を汚すことにしかならないので、個人のブログにでも場を移したらいいと思うのですが」とか言いたいところですね。
二次資料が無いと執筆できないはずの案件をむりやりに執筆しようとする人がいなければ、この山下氏のページは今もスタブ以上のコンテンツにはなっていないだろうし、それが本来の姿だと思いますよ、原則的なことを言えば。「経歴」節は例外だけど。で、過去においてそういう「むりやり」な執筆を施した2人(Zenji30、Trwdsprd)は2人とも投稿ブロックを受けちゃっているという奇妙。(なんで2人そろってなの?)--Leonidjp会話2015年8月6日 (木) 06:50 (UTC)
コメントそれはさておき、編集箇所と理由の連絡。
  • 旧:「渓声禅堂」における自由な活動
  • 新:「渓声禅堂」における活動
活動が自由だ、とは出典に書いてない。自由なのは「立場」(p.102)。
  • 旧:師である内山が1998年に亡くなっていたことで、安泰寺・曹洞宗に留まることをやめる
  • 新:師である内山が1998年に亡くなっていたことで、安泰寺・曹洞宗に自分を引き留めるものが何もないという判断に至る
「自分を引き留める」という含意を入れる(p.104)。
  • 旧:当地の華厳経文化に触れて少し頭の整理がつき始める
  • 新:当地の寺で華厳経の言葉を読み、少し頭の整理がつき始めた
「文化に触れた」とは出典に書いてない。せいぜいのところ、「(華厳経の)言葉を読んだ」としかいえない(P.171)。
--Leonidjp会話2015年8月1日 (土) 05:19 (UTC)
コメント さて、経歴部分に関して、書きたいことはもう書き終えましたかね?--Themtheman会話2015年8月8日 (土) 00:21 (UTC)
>さて、経歴部分に関して、書きたいことはもう書き終えましたかね?
コメント自分はどうなのか先に仰ってみたら?--Leonidjp会話2015年8月8日 (土) 04:17 (UTC)
コメント 私はもちろん終えてますよ。ですからそちらも特に無いようならここも「済」にしてしまっていいかと聞いてるんです。--Themtheman会話2015年8月14日 (金) 22:25 (UTC)
>ここも「済」にしてしまっていいか
コメント好きにせよ。--Leonidjp会話2015年9月5日 (土) 02:29 (UTC)
コメント「経歴」節の本文中、「頭の整理がつきはじめ」という箇所に関して。「整理」を要する「未整理」状態が何であるのか分からない記述であったため、何に関する「整理」であるか分かるように加筆しておいた。--Leonidjp会話2015年9月5日 (土) 08:31 (UTC)
コメントちなみに、「整理とは何に対する整理か」を明示しない、という仕方で文脈の不明瞭が生まれていた責任は私にはない。ページ本文に「整理がつきはじめた」旨を加筆したのはThemthemanだからである。そもそも本文で「整理」に言及しなければ、「整理」の対象を追記するなどという弥縫策は必要がない。文脈上の整合性の担保を加筆者が責任もって行わない場合、このように他人が手間暇を費やす羽目になる。自己の記述分が他人に削除されることを拒むなら、せめて自己の記述分内部で文脈上の整合性をつける作業くらいは貫徹してほしいものではある。文脈上の綻びを生む加筆を常習されるとWikipediaのコミュニティが困る。--Leonidjp会話2015年9月5日 (土) 11:13 (UTC)
>好きにせよ
コメントいや、ここで「好きにさせる」というのは無責任だな。「好きにせよ」は撤回。「済」アイコンは自分で付けることとする。--Leonidjp会話2015年9月5日 (土) 09:10 (UTC)
チェック  ページの「経歴」節の記述そのものに関する議論は「解決済み」。
コメントちなみに、上述の質問に対するThemthemanの回答は「削除部分のソース点検」というコトのみであろうか。それが、「経歴」節に関する5月13日の「差し戻し」の正当な理由として通用するとThemthemanは主張しているのであろうか。それで「書き終えた」と言うつもりなのであろうか。その件に関してはThemthemanからの応答が無いので全く「解決済み」ではないのだが、しかしそれは現状の「経歴」節本文にダイレクトに関係している論件ではないので、此処では追求しないこととする。--Leonidjp会話2015年9月5日 (土) 09:10 (UTC)
コメントこの件↑、重ねて追求するならThemthemanの会話ページに書くべきだろう。会話ページで無応答を貫くことはできないであろうし。--Leonidjp会話2015年9月5日 (土) 09:12 (UTC)



「思想」の節に関する議論

「思想/活動/実践」などの解説を書くことに関する根本的な困難:2015年5月現在、山下氏の「思想」や「活動・実践」に関する「信頼できる二次資料」は、ほぼ存在しないと思われます。この状況のもとで、同氏の「思想」や「活動・実践」を解説しようとするためには、次のA・Bのいずれか又は両方を方途とするほかありません。
A:一次資料たる山下氏自身の著作に依拠する (もしもWikipedia執筆者が一次資料に対して分析・合成・解釈・評価などを加えるならば、それは独自研究に該当する可能性がありますし、Wikipediaにおいて明白に制止されています。)
B:一次資料や二次資料で未だ発表されていない内容を用いる (これは独自研究に該当するので、Wikipediaに載せないよう明白に要請されています)。

Bを執ることは、Wikipedia上では問答無用でNGです。Aを執っても、「分析・合成・解釈・評価」などを加えずに済む記述を執筆することができなければWikipedia上では問題があります。従いまして、Wikipedia上で執れる方途は次のCしかありません。

C:一次資料たる山下氏自身の著作に依拠し、かつ、Wikipedia執筆者の分析・合成・解釈・評価などを加えないこと (これは「解説する」という行為と両立しない可能性が高い。

Cも実際には成立しない可能性が充分にあるということになります。「信頼できる二次資料」が存在しない状況のもとで、Wikipediaのページ上において山下氏の「思想」や「活動・実践」を解説しようとすることに関して、このような根本的な困難が常に横たわっているということを念頭におく必要があると考えます。この困難さに留意している執筆者にとっては、〈信頼できる二次資料が現れないかぎりは山下氏の「思想」および「活動・実践」をWikipediaのページ上で解説しようと試みない〉という執筆態度(=不執筆)は合理的な執筆態度と言ってよいものです。どのように努力しようとも「独自研究」性をぬぐえない記述しか生まれないならば、そのような記述はWikipediaに掲載しないことが適切だと考えます。Wikipediaは独自研究を発表する場ではないし、「作文の努力に報いる」等の努力賞的な評価によって掲載の可否が判断されるべき場ではないからです。--Leonidjp会話2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)

コメント 厳密に言うと、『別冊サンガジャパン1』のように本人著作以外の一次資料もありますね。--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 13:17 (UTC)
テレビ・新聞・雑誌のインタビュー、結構いろいろありますね、一次資料。--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 13:33 (UTC)
反対 ついでに、「信頼できる二次資料が現れないかぎりは山下氏の「思想」および「活動・実践」をWikipediaのページ上で解説しようと試みない」という無根拠な主張に断固反対します。これは特定の思想家・宗教家を狙い打ち可能にする非常に危険な発想であり、許容しようがありません。記述に異論がある者は出典と共に併記すればいいだけです。--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 13:33 (UTC)
>無根拠な主張
コメント「合理的です」という判断に根拠はあるんですよ。「全力で努力しても独自研究にしかならない」という状況が予め見えていたら、「書かない」という選択が合理的(=理にかなっている)じゃありませんか。それを指して「合理的」と呼んでいるんです。「狭き門」を敢えて通過しようと試みないという態度には意味がありますよ、ということです。--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:22 (UTC)
(お知らせ):この議論の続きは、ページ「山下良道」の具体的な内容とは関係の薄い、「利用者個人間のやりとり」が長期間にわたって連続していますので、下記のサブページに移動しました。関心のないかたは、お読みにならなくても構いません。
--Leonidjp会話2015年7月3日 (金) 06:37 (UTC)

議論11

※議論内容が長大なので隠してあります(携帯・スマホでは表示されます)。内容を読むときは、右端の[表示]というリンクをクリックしてください。


議論12

  • したがって、テレビドラマ(仏教)が第一話(テーラワーダ仏教、仏教2.0)で完結せず、主体(主役)を代えて第二話(大乗仏教、仏教1.0)が作れたことには必然性があったと述べている。

コメント文中、「作れた」は、「作られた」のほうが適切なのでは?受動態の「~られた」として。--Leonidjp会話2015年6月29日 (月) 01:18 (UTC)

チェック ここは単純に誤記ですね。後で訂正しときます。--Themtheman会話2015年7月11日 (土) 01:15 (UTC)
コメント了解。--Leonidjp会話2015年7月30日 (木) 00:33 (UTC)

議論13(継続中)

  • 瞑想時に「シンキングマインド」(thinking mind)に代わって出現する「別の本質的な主体」についての説明が欠落しているため、行き詰まる者が多いこと として指摘する。

「出現」とは、誰がどこで使った表現か。本件の出典とされる『青空としてのわたし』p.47-52,55,57には「(主体が)出現する」などとは書かれていない。「別の本質的な主体」という記述もない。「本質的な主体」とさえ書かれていない。出典が存在しない記述を、他人の発言(指摘)と称してページに掲載することは不適切だと考える。 p.47-52,55,57に現に書かれている、本件に関連のありそうな表現を列挙しておく。【主体そのものが変わらなくてはならない/別の主体/本来の私/主人公/「私」の本質についての誤解を手放す/誤解を手放してしまう/(主体を)転換する/観点の転換/私の本質】。--Leonidjp会話2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)

コメント 言葉遣い・表現に関しては、出典の記述とつき合わせながら、より妥当な表現を提示・模索し合っていけばいいだけの話であって、独自研究というほど大げさなものではないと思います。第三者を交えるのも手ですね。私は問題ないと思いますが、あなたが具体的にその表現のどこがしっくり来ず、またどう言い換えたらいいと思うのかを具体的な根拠・出典と共に提示してください。--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 13:17 (UTC)
>言葉遣い・表現に関しては、出典の記述とつき合わせながら、より妥当な表現を提示・模索し合っていけばいいだけの話であって、独自研究というほど大げさなものではない
コメントこれが「独自研究というほど大げさなものではない」というのは、とんでもないです。たとえば、「出現する」と「変わる」は意味が違うのに、出典に無いほうの「出現する」という主張が使われていること自体、右記の「独自研究」にあてはまると思います。「出現する」というのが執筆者の「分析・まとめ・解釈」なら、その場合も勿論、独自研究に該当するでしょう。→「独自研究(original research)」とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがない(中略)事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、(中略)または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。(中略)ウィキペディアは独自研究を発表する場ではありません。」(参照)--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:31 (UTC)
>言葉遣い・表現に関しては、出典の記述とつき合わせながら、より妥当な表現を提示・模索し合っていけばいいだけの話
コメント 貴方のこういう言い方を読むと、どうも貴方は、言葉選びというのをさほどシビアに捉えてはいないように見受けられるのですけど(私の思い過ごしならすみませんが)、私はそういうのは、いただけないのです。たとえ単語1個でも違えば意味が変わるのは当たり前なのに、どうして出典に無い方の表現を敢えて使うんだろうか、と疑問に思います。しかもこの「主体」の件は、瞑想体験の内実を語る部分であるという意味において、出典のもつニュアンスを変えないようにするために最大限の注意を払って言葉を選ぶべき場所、デリケートな言葉選びが要請される局面であるはずなんですが・・・。この部分の出典においては、原理的には言語化がたいへん困難な事態を日常語で描写するために最大限の努力がなされることで或る表現が選ばれているとか、長大な記述を要しているという可能性があるわけですから、出典の著者のそういう努力の結果をWikipedia執筆者が不用意に改変しないようにしないといけないでしょう?
 「(表現を)模索し合っていけばいいだけの話」と貴方は仰るけれど、執筆者が貴方だけである場合(私のように添削的に介入する者がいない場合)は、貴方の選んだ言葉遣いが殆どそのままページに載るわけだから、「模索し合う相手」が居ない時でも貴方一人で注意深く言葉選びをして頂きたいなと私は思います。
 出典の中で使われている用語が、もしも専門用語(仏教用語とか哲学用語とか)だったとしたら、貴方も「貴方なりの言い換え」をしようとは試みなかったのではないでしょうか。もしそうなら、専門用語でない日常語についても、「執筆者による言い換え」をしてよいことには必ずしもならないのだ、という認識が成り立ちはしませんか。どうでしょうか。出典の中で使われている用語が日常語であったとしても、その用語がそこで実際に選ばれているということの重みが軽くなるわけではないだろう、と私は思いますが。--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:31 (UTC)
コメント「別の本質的な主体」という表現も、同様の問題があって、もともとp.47-52,55,57では「本質」と「主体」はバラバラに配置されているのに、それを貴方の(読者の)読解だけを根拠にして繋げたうえに「的」という意味付けを加えて「別の本質的な主体」という表現を創っているわけでしょう?それによって、まるで山下氏が「別の本質的な主体」というモノ/概念の存在をダイレクトに提唱しているかのような相貌ができてしまっているではないですか、Wikipediaのページ上では。
 p.47-52,55,57の中で、「私」・「主体」・「本質」という言葉がダイレクトに出てくる文を引用してみますね↓
  • (1)主体そのものが変わらなくてはならない。その別の主体こそが、本来の私なのだ。(p.47)
  • (2)私たちがすべきことは、シンキング・マインドを抑圧することではなく、「私」の本質についての誤解を手放すことなのです。(p.51)
  • (3)ですから、「私」が雲だという誤解を手放してしまうのです。そして、瞑想する主体を、青空へと転換するのです。(p.51)
  • (4)しかし日本人は、自分の本質は青空だという考えにどこかでつながっています。(p.55)
  • (5)じつはこの「私の本質は青空である」ということがわかってはじめて、(中略)できるのです。(p.57)
 「私」を「主体」と呼び替えることが(1)や(3)によって認められるとしても、(2)(4)(5)に実際にある表現はあくまでも「Xの本質」という表現であって「本質的なX」とは書かれていないですよ。また、(1)の「本来の」と「本質的な」が「同じだ」ということを出典がダイレクトに述べているわけではないでしょう?貴方は上述のように「本質的なX」という表現を使っておられるけれど。
 「Xの本質」と「本質的なX」を「同じだ」ととらえる立場とか、「本来の」と「本質的な」が「同じだ」と捉える立場とかは、それぞれ1つの立場(1つの哲学的な立場かな)としてはありうるけども、一次資料の中で明白にダイレクトに述べられているのでないかぎりは、山下氏の立場として採用することはできないはずでしょう?だから今のところこれらは貴方の立場でしかないのであって、山下氏の記述を貴方の立場(哲学的な立場)に引き寄せて読んだ結果を記述する(しかもそれを山下氏の主張内容として記述する)というのはWikipediaでは制止されていること(発表された情報を解釈すること・まとめること)ではないですか?→「独自研究(original research)」とは、(中略)発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。(中略)ウィキペディアは独自研究を発表する場ではありません。」(参照)--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:31 (UTC)
>具体的にその表現のどこがしっくり来ず、またどう言い換えたらいいと思うのかを具体的な根拠・出典と共に提示してください。
コメント繰り返しになりますが、この種の「まとめの創作」というものを、下記のようなWikipediaの「方針」に反さずに作ること自体、とても困難で殆ど無理だと思います。「信頼できる二次資料」が無いかぎりは。(今のところ、三次資料は全く無いでしょう)。Wikipediaの「方針」に反しているという問題性は、表現の善し悪しを「言い換え」で調整することで切り抜けられることではないと思います。執筆者が一次資料の「まとめ」を実行すること自体を、これらの「方針」が制止しているからです。
  • 「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。(中略)ウィキペディアの記事は通常、信頼できる二次資料に基づかなければなりません。分析や評価についての記述は、信頼できる二次資料で公表されているのでない限り、禁止されます。」(参照
  • 「独自研究(original research)」とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがない(中略)事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。(中略)ウィキペディアは独自研究を発表する場ではありません。」(参照
 だから、信頼できる二次資料が見つからない状態で出来ることがあるとすれば、一次資料の中の様々な場所に散在している記述を改変せずに切り貼りすることくらいじゃないですか。それでも、場合によっては上述の「合成」や「解釈」に該当するかもしれないけれど。切り貼りするにしても、文言を改変しないままでは文として接続させることができないとか色々と困難があると思います。
 ちなみに、「合成」に関しては、Wikipediaによる説明がすでにありますので、参考までにリンクしておきます。→(参照参照)。--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:31 (UTC)
コメント ずっと感じていたことですが、私はあなたの「独自研究」の「分析・合成・解釈・評価」の捉え方が過剰・極端に感じられます。あなたの言うとおりにしてしまうと、ウィキペディアは「一次資料・二次資料を一字一句変更せずに引き写すことしかできないサイト」になってしまいますよね。あなた風に言えば、一字でも違っていれば独自解釈の可能性があることになってしまうからです。私は「Wikipedia:独自研究は載せない」に書いてあるのは、そういうことではなく「用語や因果関係を創作しない」ということであって、「出典を一字一句変更してはいけない」ということではないと思います。「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」の説明にしても、別人・別媒体の出典情報を用いた独自判断や因果関係の創作・付加はダメだと書いているわけであって、「出典を一字一句変えてはいけない」と述べているわけではないですよね。
ここのボタンの掛け違いがどうも議論がかみ合わない原因になっていると思うんだなあ。まずはここに関してじっくり議論したいとこだけど、このノートで議論するような話でもないと思うなあ。Leonidjp氏の会話ページで議論しましょうかね。--Themtheman会話2015年6月3日 (水) 17:40 (UTC)
>あなたの言うとおりにしてしまうと、ウィキペディアは「一次資料・二次資料を一字一句変更せずに引き写すことしかできないサイト」になってしまいますよね
コメント「一字一句でも違っていたらNG」というのは、私が自分の名で現実に出している「要求」ではないのです。勘違いしないで下さいね。この件に対しては、別のところで詳しい反論・応答をしましたから、必ずそちら(参照)を読んで下さい。
>ボタンの掛け違い
コメント「一字一句」基準に関しては、「掛け違い」を起こしているのは私ではありません。私は、「一字一句まで合致せよ」という要求を現実に私の名で出しているのではないからです。上述のとおりに。勘違い=掛け違いにご注意下さい。書かれていないことは書かれていないのです。ノートページにおいても。--Leonidjp会話2015年6月6日 (土) 04:48 (UTC)
>あなたの言うとおりにしてしまうと、ウィキペディアは「一次資料・二次資料を一字一句変更せずに引き写すことしかできないサイト」になってしまいますよね
コメント二次資料を一字一句変更するな」なんてことを、私がどこで言ったのです?言ってないですよ。(私の論述や例示にすぎないものを「これは現実に要求が出されたのだ!」と早合点なさったものだろうと思われる。私がいちいち、貴方の発言に「>」印を付けて引用文化して併記しておくのは、「貴方の発言を改変したうえで応答しているのではないですよ」ということをハッキリ示すためなのです。貴方もそうやった方がいいかもしれない。ほんとに)。
他方、一次資料の扱い方に関しては、下記のようにハッキリと書かれた制止があります。
  • 「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。」(参照
一次資料の記述に対する「変更」が、この制止の言う「分析・合成・解釈・評価」に該当するかどうかという問題は、個別の「変更」箇所に対して個別に検討しないと、確かな答えは得られないでしょうが、一般論で考えれば、「変更が有るなら、少なくとも、解釈だけは行われただろう」とは言えるでしょう。(変更無しで解釈している場合は、他人には察知されないでしょう。「昼」と書いてあるものを「夜」と読み替えて、その読み替えを他人に告白しないなら、誰にも気づかれないはずです。だから逆に言えば、「一字でも変えたら気づかれる」ということ)。--Leonidjp会話2015年6月6日 (土) 04:48 (UTC)
>あなた風に言えば、一字でも違っていれば独自解釈の可能性があることになってしまう
コメント「一字でも違っていれば独自解釈の可能性がある」。一般論でいえば、それは当たり前ですよ。なにも私(Leonidjp)風に言わなくたって、至極当たり前のことですよ。一般論でなく個別論で言うなら、個々の議論対象になっている語句なり文なりに言及しないままで「独自解釈」性の有無を語り合うことは無理ですよ。私は既に、個別の議論も始めていますでしょう?このノートページの各所で。個別の議論には、個別の場所でそれぞれに応答して頂ければ議論は進みます。
個別の議論から一般論へと移行していくと、おそらく話は纏まらないです。議論の内容がどんどん抽象化していくから、ホンモノの言語学者や哲学者の領分になるでしょう。そういう専門家どうしの議論で結論を出すことが可能なら、もう既に学会なりで一定の結論が出されて、WikipediaのHelpページ等にも「結論!独自解釈とはコレだ!」みたいにシンプルに書かれているはずです。しかしそういうシンプルな結論は現に書かれていない、ということは、一般論や抽象論で語っても結論など出ないということの傍証でしょう。古代ギリシャあたりから数えてもおそらく2000年以上、延々議論しても結論が出ていないものを、私と貴方で話して結論を出すなんて無理に決まっています。
だから、一般論・抽象論に移行しないで、具体的な出典とWikipediaの記述とをピンポイントに議論対象として決めて語り合わないと話にならないと思います。--Leonidjp会話2015年6月6日 (土) 04:48 (UTC)
>「Wikipedia:独自研究は載せない」に書いてあるのは、そういうことではなく「用語や因果関係を創作しない」ということであって
コメントそういう解釈の出典はどこですか?用語・因果関係の創作がNGということ自体は私も異論ないのですけど、例えば「因果関係」という語句は「Wikipedia:独自研究は載せない」のページ内で1回だけしか出てきてないでしょう?同ページには、因果関係以外の論点が山ほど書いてあるではないですか。そこはどのように読んでおられるのですか?例えば同ページの冒頭に、右記のように書いてありますよ。→「独自研究(original research)とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがない(中略)事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです」と。貴方がページに書いたものは、他の媒体では発表されていない主張、まとめ、解釈等を含んでいます。私がこのノートページ各所で指摘しているとおり。それらって、まさに独自研究に該当していませんか?
>まずはここに関してじっくり議論したいとこだけど、このノートで議論するような話でもないと思うなあ
コメント私はこの件、このノートページで議論します。--Leonidjp会話2015年6月6日 (土) 04:48 (UTC)
>「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」の説明にしても、別人・別媒体の出典情報を用いた独自判断や因果関係の創作・付加はダメだと書いているわけであって、「出典を一字一句変えてはいけない」と述べているわけではないですよね。
コメントその「発表済みの情報」というのは、二次資料を指しているはずでしょう?だからそれは、「使える二次資料」がほぼ存在しない状況(我々の今の現状)とは直接関係ない話です。我々の手には今、一次資料しかないのですし、一次資料の扱い方は下記のように制約されているので、「一次資料の合成」というものを行う余地はもともと初めから無いはずですから。
  • 「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。」(参照
念のためお訊ねしておきますが、Themthemanさん自身は、御自分が御自分の執筆分の中で「一次資料の合成」を行なっているという自認をお持ちなのですか?もしそういう自認をお持ちなら、それは即、上記のような「Wikipediaの公式の編集方針」に抵触するはずです。一次資料に対して、「合成をしてはいけません」と上記のようにハッキリ書いてありますから。
「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」の説明にしても、別人・別媒体の出典情報を用いた独自判断や因果関係の創作・付加はダメだと書いているわけであって
コメント更に念のために付記しておきます。そこには「別人の~」とは書いてありません。同節の例文の中にある「出典例」の著者名が各々別人であるという事実は、単に「事実=例文の文面上の事実」であるにすぎず、「例文の文面上の事実であるだけでなく、現実の規範でもあるのだ」という意味の宣言は、同節の何処にも書かれていません。従って、同一人物を作者とする2個以上の資料(かつ各々が別媒体であるもの)を用いて行う「合成」も、やはり「合成」に該当するものとして禁じられていると解釈すべきです。
※「出典の無い因果関係の創作はNG」という「規範」は、同節の例文の「外側」にハッキリ書いてあります。この点が、「別人」論点とは明白に違うのです。ご注意下さい。「別人の」という制限条件は書かれていないのです。
「冷静・慎重」という態度を提唱しているはずの貴方が、このような早合点的読み方をなさってしまうという事例を目にしますと、誠に失礼ながら、危うさを感じざるを得ません。貴方、大丈夫ですか、本当に。--Leonidjp会話2015年6月9日 (火) 06:06 (UTC)
コメント ここもずいぶん議論が脱線してますが、私は冒頭で述べているようにこれも「文言調整」案件だと思います。具体的にこう文言を変えたらいいという提案が何かありましたらどうぞ。--Themtheman会話2015年7月11日 (土) 01:25 (UTC)
>具体的にこう文言を変えたらいいという提案が何かありましたらどうぞ。
コメントこれは大仕事だわ(笑)馬鹿には出来ない。--Leonidjp会話2015年7月30日 (木) 00:47 (UTC)
コメント ここの文言調整が、おそらく最後の議論になるのかなと個人的には思ってます。とりあえず後回しにさせてもらいましょうかね。--Themtheman会話2015年7月31日 (金) 22:33 (UTC)
>ここもずいぶん議論が脱線してますが
コメント脱線?いやいやいや笑、「独自研究」に関する貴方の根拠不明のガバガバな思い込み(下品な比喩ですよね)を糺すことに紙数費やしてあげたというのに、それについては一片の釈明も謝礼も無しにまるで他人事みたいに「脱線」とか仰っている。笑うところですかねこれ。脱線と言うなら、Wikipediaの公式の編集方針に反した執筆は全て「脱線」。例のZenji30君なんかが恥知らずにも無出典で好き勝手なこと書きなぐっていた(参照1参照2)のも全部「脱線」。あげくの果てに彼がソックパペットとして投稿ブロックされて漸くコンテンツが「脱線」から復帰できるのかと思いきや、また別の人が現れて「脱線」を再現したりする。「一次資料を解釈するな」という編集方針に反する執筆(私がたくさん指摘しましたよね)も「脱線」。そういう「編集方針からの脱線」を「正しい路線」へと復旧する取り組み自体が「脱線」なわけないんですけどね。--Leonidjp会話2015年8月6日 (木) 01:08 (UTC)
コメント どうも文言の提示が無いみたいなんで、こっちの記述も自分で考えますわ。--Themtheman会話2015年8月8日 (土) 00:41 (UTC)
コメント (追記)当該出典記述を参照したところ、
  • 瞑想時に「シンキングマインド」(thinking mind)に代わって出現する「私の本質」としての「別の主体」についての説明が欠落しているため、行き詰まる者が多いこと として指摘する。
といった感じになるでしょうか。--Themtheman会話2015年8月29日 (土) 01:07 (UTC)
コメント (追記)さっそくこれに基づいて当該・関連記述の編集をさせてもらいます。--Themtheman会話2015年8月29日 (土) 01:13 (UTC)
>当該出典記述を参照したところ、
コメント「当該出典記述」という6文字が意味不明。どの資料の何ページの何行目が「当該」で、その「当該」をどう読んだらどういう作文が出来るのか具体的に書かなければハナシにならない。「当該」というラベルだけがあり、その指示対象が明示されないのでは、何の説明にもなっていない。ノートページは独り言を書く場所ではない。--Leonidjp会話2015年9月5日 (土) 02:23 (UTC)
>瞑想時に「シンキングマインド」(thinking mind)に代わって出現する「私の本質」としての「別の主体」
コメント「出現する」というのは誰がどの資料で使った表現なのか、と5ヶ月も前に(2015年5月17日)訊ねているのだが、未だに回答が無い。皆さん、こういうの駄目ですよ。やめましょう。--Leonidjp会話2015年10月12日 (月) 01:50 (UTC)
>瞑想時に「シンキングマインド」(thinking mind)に代わって出現する「私の本質」としての「別の主体」
コメント「ピッチャー交代」というからには「交代する奴」が「現れる」んだろうから「出現」だろう、なんぞと勝手に判断して「出現」というワードを出しているかのように見受けられるけど、こんなのを読んで「何か主体が出現するんだな」と本当に信じてしまった人のケアを誰がする羽目になるかというと、結局、本人の手に負えない部分は山下氏が引き受けざるを得なくなるでしょうね。山下氏が「主体が出現する」などと書いているという出典は未だに見つかっていないというのに。Wikipediaの記事が引き起こしかねない諸々の誤解・混乱を解きほぐす作業の何割かは、そうやって山下氏にふりかかっていく。そういう意味でも、無出典のWikipedia執筆は迷惑行為。資料が冗長で困るというなら資料の著者に文句言うなりすべき。冗長なものを無出典で勝手に切り詰めてまとめて「分かりやすくなりました」なんて言ってみたところで、それが「プロクルステスのベッド」のように改変してはいけないものを改変した結果であったなら、それは実は「分かりにくく」変化したのだから、結局それも誰かが後始末しなければならなくなる。だからつくづくと全方位的に迷惑だ。ベッドより身体が大事であるように、読み手の頭の枠組みよりも大事なことがある。(だから、不調なthinking mindは読書の邪魔でもある訳だ。誰のが不調だとは言わんが)。--Leonidjp会話2015年10月21日 (水) 07:03 (UTC)
>これは大仕事だわ
コメント結局、この「大仕事」を他人まかせにして放り出して姿を消したわけですかこの人は。誰が後始末するの。--Leonidjp会話2015年12月9日 (水) 06:42 (UTC)

議論14

  • ちなみに山下によれば、テーラワーダ仏教(仏教2.0)の世界観では、般若心経の「色即是空」は認められるが、「空即是色」は絶対に認められず否定されるという。

「ちなむ」という程度の重要性しかなければ、本文でなく脚注に掲載すべきではないか。現状では、この記述が何にたいして「ちなんでいる=関連している」のか不分明だが、脚注化すれば、「関連する相手」を明らかにできる。--Leonidjp会話2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)

コメント 普通は文脈上わかると思うんですが、テーラワーダ仏教(仏教2.0)について書いている節なので、それに因んでいるわけですね。山下の著作・インタビュー(一次資料)にも複数回出てくる表現なので、その表現がしっくりくる人向けに付け加えておいたしだいです。--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 13:17 (UTC)
>テーラワーダ仏教(仏教2.0)について書いている節なので、それに因んでいる
コメントその節の中のどの文/段落に因んでいるんですか、という意味の質問だったのです。脚注化すればピンポイントになりますから相手が。でも、この件の処遇はお任せします。--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:34 (UTC)
チェック 現状でいいと思います。--Themtheman会話2015年7月11日 (土) 01:28 (UTC)

議論15

  • 以上述べてきた大乗仏教(仏教1.0)とテーラワーダ仏教(仏教2.0)それぞれの欠点や行き詰まりを解消するために、山下は「仏教3.0」へのアップデートを訴えており、それによって両者は1つに統合され、垣根が取り払われることになるので、彼はこれを「ワンダルマ」とも呼んでいる。

出典とされるp.56には、このような記述は一片も存在しない。直前のページを含めたp.53-56においても、「1つに統合され」・「垣根が取り払われることになる」・「ので」・「彼はこれをワンダルマとも呼んでいる」という記述は存在しない。適切な出典が存在しない記述を独自に書き加えることは「独自研究の発表」に該当し不適切であるので、執筆者には是正を求める。--Leonidjp会話2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)

コメント 「一片も存在しない」というのは嘘ですね。「3.0なら、日本の大乗仏教の人も2.0の人も救われます。それを私はワンダルマと呼んでいます。」という記述がまずありますね。そして、そこに至るまでの記述を要約すると、そういう内容で問題ないと思います。これも独自研究というほど大げさなものではなく、あなたが言葉遣いがしっくりこないと思うという類の案件でしょうから、第三者をからめつつ妥当な表現を模索していくのもいいかもしれませんね。--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 13:17 (UTC)
>「3.0なら、日本の大乗仏教の人も2.0の人も救われます。それを私はワンダルマと呼んでいます。」という記述がまずありますね。
コメントp.56ですね。この一文は、「ワンダルマ」と呼ばれる対象が「3.0=仏教3.0」という名詞(物事)または「救われる」という動詞(物事)だよ、と言っているだけじゃないですか?「それ」という指示代名詞の指示対象が、この2つのどちらか(または両方)だ、と言っているだけでしょう?だからp.56のこの一文には、「1つに統合され」・「垣根が取り払われることになる」・「ので」・「彼はこれをワンダルマとも呼んでいる」という含意は全然無いではないですか。この一文をどう読んでも、そういう含意は読み取れない。p.53-56にまで広げても、「統合」とか「垣根がどうこう」という記述は無いし、ましてや、「統合されるので/垣根が取り払われるので」という類の理由表示の表現もありません。
 「AをXと呼びます=呼ぶ対象を指定」というのと「AなのでXと呼びます=呼ぶ理由を陳述」というのは、意味が全然違うでしょう?出典(p.56またはp.53-56)にハッキリ書いてあるのは前者だけでしょう?(上述のとおりに)。「甲を乙と呼ぶ理由」なんて、出典の中に明白に書いてあるのでなかったら、ページに記述してはいけないはずでしょう。だから独自研究ですよと申し上げているんです。貴方はここで「理由の創作」をしているわけです。出典の中に書かれていない事柄と、出典の中に書かれている事柄とを、「ので」という単語で勝手に繋げることによって、「理由の創作」をしているわけです。こういうことは絶対にNGだと思います。
 「p.56に至るまでの記述を要約するとok」という貴方の2つめの論拠については下記↓で応答しました。--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:34 (UTC)
>そこに至るまでの記述を要約すると、そういう内容で問題ないと思います
コメントその「そこに至るまで」というのはp.53-56のことですか?それともp.1~p.56の全体または一部を指しているわけですか?いずれにせよ、その「要約」が何処にあるかというと、貴方の心の中にだけあるわけでしょう?それだけをもとにして執筆するというのが、下記のようなWikipediaの「方針」に反していますでしょう?(何度も繰り返し引用してすみませんが、読み飛ばされるといけないので載せます)。だからそもそも、Wikipediaというのは、そういう「要約」の結果を書いてはいけない場所であるはずなんです。
  • 「一次資料から得られる情報について、あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません。代わりに、そのようなことをしている二次資料を出典としてください。(中略)ウィキペディアの記事は通常、信頼できる二次資料に基づかなければなりません。分析や評価についての記述は、信頼できる二次資料で公表されているのでない限り、禁止されます。」(参照
  • 「独自研究(original research)」とは、(中略)発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。(中略)独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです。」(参照)--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:34 (UTC)
>言葉遣いがしっくりこないと思うという類の案件でしょうから
コメント「言葉遣いがしっくりこない」、つまり、個々の言葉の選び方も勿論大きな問題ですが、ただそれだけのこととして捉えるのは、違います。私が最も強く問題視していることは、出典に照らして不正確な記述がWikipediaのページに載ってゆくという構造そのものですので。
 一次資料自身が「要約」的な記述をもたないときに、そういう一次資料だけを出典にして「まとめ」的/「要約」的な文章を執筆しようとしたら、執筆者自身による解釈・評価の類いが混じります(上述のようなWikipediaの「方針」に違反せざるを得なくなるのは、そのせいでしょう)。執筆者自身の解釈・評価が混じるせいで、一次資料の記述との食い違い(出典とされる一次資料に照らして不正確な記述)が生まれてくるのでしょう。このノートページの各所で私が指摘しているように。
 要約的な記述をもたない一次資料を「要約する/まとめる」という行為じたいが不正確性を生む根本的な原因なので、私はこの根本的な原因の部分を断つことがベストだと思っています。つまり、信頼できる二次資料が見つかるまでは、「まとめ」的なものをWikipediaに書こうとしないということ。書くとしても、「まとめ」を受ける側たる大きなキーワードや大きな概念の説明だけに留めて、文脈の創出を図らないことがセカンドベスト(その場合も、説明文そのものは一次資料から改変せず切り貼りできればなお良い)。そういう考えです。他人に強要はしませんが。
 根本的な原因を断たないで、一次資料のみから「まとめ」的/「要約」的な文章を執筆することを続け、そこで出来上がった要約の内部を部分的に「言い換え」していくというのは、焼け石に水みたいなものです。それは、「焼かない」という根本的な対策をネグレクトすることですから。出来上がった要約の内部の言い換えは、やらないよりはやる方が良いでしょうが、私にとってはセカンドベスト未満、サードベストくらいの選択肢だと思っています。サードベストくらいの価値はあるとしても、Wikipediaの「方針」に反するという意味ではNGなのですが。
 不正確な記述を不正確と気づかないで信用してしまうWikipedia読者がいたら、もうその人自身が「歩く焼け石」みたいなものです。私は、Wikipediaがそういう人を作らないようにするべきだと思っています。Wikipediaを読んで「歩く焼け石」になった人に水をかける(=質問に答えたりして対応する)作業は誰がやることになると思います?Wikipedia執筆者がその作業に責任を持つことはできないでしょう?彼らが貴方や私に質問してくるとは限らないのだし、応答できる保証もない、応答する資格もおそらく無いのですから。だから最終的には、山下氏自身にその役目が回っていくと思いますね。Wikipediaが「焼け石」を作るのは、だから山下氏という他人の手間暇を奪うことになるんです。
 もともと、Wikipedia執筆者が使える資料が一次資料しかない間は、山下氏に関しては一次資料を各人ごとに直に読んで貰えれば充分じゃないですか?一次資料を「まとめる」といったって、出来上がった「まとめ」が不正確だったら、それは「適切な要約」というより「不適切な・余計な情報の付け加え」になってしまう。信頼できる二次資料が無いという構造的な問題を、Wikipedia執筆者の文献解釈能力と一次資料だけで乗り切ろうとするのは危ないですよ。私も貴方も、文献解釈者として何らの能力保証も信用も受けていない匿名人でしかないのですから。貴方が「第三者」と呼んでいる人も、Wikipedia利用者という資格で参加する以上は、基本的にはそういう無保証・無信用の状態でしょう?そういう我々でも執筆できる百科事典であるからこそ、「信頼できる資料(とりわけ二次資料)」の存在が重要なのだと私は認識しています。--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:34 (UTC)
コメント たしかにここに関しては、文言も出典の対応も雑でしたね。手直ししましょう。今日は時間的に文言を精査・推敲している余裕がないので、とりあえず使えそうな出典記述を列挙しておきたいと思います。
  • 「2.0の瞑想をしていて前に進めないでいる人達にも、「青空」からという観点を入れてみたらと提案したいのです。仏教3.0は、1.0と2.0の両方の人達にアプローチしています。1.0の人も2.0の人もアップデートできるのです。1.0の人にとっては、足踏み状態から前に出ていける。」(『青空』p.55)
  • 「2.0の人にとっては、2.0のままではどうしても何かが欠落してしまうのを補えます。」(『青空』p.56)
  • 「3.0なら、日本の大乗仏教の人も2.0の人も救われます。それを私はワンダルマと呼んでいます。」(『青空』p.56)
  • 「1.0では人の心の苦しみを癒やす技術がありませんし、2.0でも先に書いたように行き詰まる人が多い。」(『青空』p.57)
  • 「それを解決できるのが、3.0です。」(『青空』p.179)
  • 「仏教が今3.0にアップデートすべき最大の理由は~」(『青空』p.179)
  • 「この世界に執着することも、この世界を否定したものに執着することも、両方とも間違いなのです。~その二つの考えを改めて整理してみます。一つは~もう一つは~。この二つの考え方は、仏教のセクト的に言えば、前者がテーラワーダ、後者がマハーヤーナ(大乗)の考え方です。~この二つの対立を解決するものが3.0です。」(『青空』p.180-181)
  • 「ワンダルマ・メソッドとは、テーラワーダでもないし大乗でもない、それらが完全に統合された形でのワンダルマ仏教、つまり3.0の仏教の瞑想メソッドです。」(『青空』p.199)
  • 「「仏教3.0」は「仏教1.0」と「仏教2.0」を排除や否定しているわけでは決してありません。「仏教3.0」自身、その二つによって構成されているのですから。仏教の全ての伝統がそこに含まれます。「仏教3.0」になって初めていままでばらばらだったものの全体像が見えてきます。」(『アップデート』p.273)
  • 「「仏教3.0」ではいわばあらゆる象のパーツの情報が集められ、統合されることによって、そこから一頭の象が出現したようなものです。」(『アップデート』p.273)
具体的な文言の精査・推敲は来週にでも。--Themtheman会話2015年7月11日 (土) 02:40 (UTC)
コメント (追記・翌週)えーと、上記の出典の内、『青空』pp.55-56の記述で、「大乗仏教(仏教1.0)とテーラワーダ仏教(仏教2.0)それぞれの欠点や行き詰まりを解消するために、山下は「仏教3.0」へのアップデートを訴えて」いる、という記事記述部分までは裏付けできると思います。さらに、『青空』pp.180-181の記述も参照すれば、「大乗仏教(仏教1.0)とテーラワーダ仏教(仏教2.0)それぞれの欠点や行き詰まり、あるいは両者の対立を解消するために、山下は「仏教3.0」へのアップデートを訴えて」いる、といった加筆もできるでしょう。
また、『青空』p.199と『アップデート』p.273の記述から、仏教3.0が仏教1.0と仏教2.0の「統合」であるという表現を用いることも是認されるでしょう。さらに、『青空』p.56と『青空』p.199の記述から、山下がその3.0を「ワンダルマ」とも呼んでいるということを記述することも、是認されるでしょう。
以上をまとめると、以下のようになるでしょう。
  • 「以上述べてきた大乗仏教(仏教1.0)とテーラワーダ仏教(仏教2.0)それぞれの欠点や行き詰まり、あるいは両者の対立を解消するために、山下は「仏教3.0」へのアップデートを訴えており(『青空』pp.55-56)(『青空』pp.180-181)、それによって両者は統合されるという(『青空』p.199)(『アップデート』p.273)。彼はこれを「ワンダルマ」とも呼んでいる(『青空』p.56)(『青空』p.199)。」
これでどうでしょうか。--Themtheman会話2015年7月17日 (金) 22:37 (UTC)
コメント(追記)それではとりあえずこの表記に編集させてもらいます。--Themtheman会話2015年7月25日 (土) 04:44 (UTC)
コメント(追記)『別冊サンガ1』p.376上段の「そこで、一法庵で提案しているのが両者を統合した「仏教3.0」です。」という記述が、「統合」に関する出典の1つとして追加できると思うので、追加しておきます。--Themtheman会話2015年8月8日 (土) 00:41 (UTC)
コメント一連の出典付加と文言修正、了解しました。--Leonidjp会話2015年8月11日 (火) 01:35 (UTC)
チェック じゃあここも済ということでいいですね。--Themtheman会話2015年8月14日 (金) 22:57 (UTC)

議論16

  • 山下によれば、現在日本国内外で大乗仏教(仏教1.0)とテーラワーダ仏教(仏教2.0)の潮流がぶつかり合いながら仏教を捉え直していく潮流ができつつあり、山下らの日本における「仏教3.0」運動はその世界的潮流の最先端だという。

“「仏教3.0」運動”という名詞は、出典とされるp.178-179には存在しない。適切な出典が存在しない名詞を、他人の「実践・取り組み」の名称として独自に設定することは不適切だと考える。p.179には「今我々が日本でやっていることが、世界的潮流の最先端だと言っていいと思います」と書かれてあり、その「「今我々が日本でやっていること」が“「仏教3.0」運動”なるものを指しているということを示す出典は、現状、挙げられていない。--Leonidjp会話2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)

コメント あなた自身も書いているように、「仏教3.0」運動が「今我々が日本でやっていること」を指していることは、文脈からも明らかですね。おかしいと思うなら、第三者を交えてじっくり議論してもいいですよ。「仏教3.0」運動という表現がしっくりこなければ、「仏教3.0」に関する取り組み、「仏教3.0」に関する活動と言ってもいいですけど、それによって文意が変わるわけでもなく、たいした問題ではないですね。--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 13:17 (UTC)
>それによって文意が変わるわけでもなく、たいした問題ではないですね
コメント「たいした問題ではない」というのは、とんでもないと思います。出典の中で明白に記述されていない名詞を独自に創ったりしたらいけないと私は思います。本人たちが「運動」と呼んでいるという出典が存在しない時に、他人が勝手にそれを「運動」と呼び且つ「本人たちの使ってる名詞」のごとく文中に配置する、というような創作・密輸入はやめたほうがいいです。ここの呼び名に関しては【「仏教3.0」に関する取り組み/「仏教3.0」に関する活動と言ってもいい】という貴方の言い換え提案を支持します。--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:37 (UTC)
コメント上記の“「仏教3.0」運動”という表現は、上述のとおり無出典かつ不適切。従って、上述のとおりの「言い換え」を施すことにより、ページ本文を下記のように書き換えた。
  • 山下によれば、現在日本国内外で大乗仏教(仏教1.0)とテーラワーダ仏教(仏教2.0)の潮流がぶつかり合いながら仏教を捉え直していく潮流ができつつあり、山下らの日本における「仏教3.0」に関する活動は、その世界的潮流の最先端だという。
--Leonidjp会話2015年7月5日 (日) 01:22 (UTC)
コメント 既述の通り、この種の言い換えには特に異論はありません。--Themtheman会話2015年7月11日 (土) 02:45 (UTC)
チェック 済ってことでいいですね。--Themtheman会話2015年7月11日 (土) 03:28 (UTC)
コメント了解。--Leonidjp会話2015年7月30日 (木) 00:33 (UTC)

議論17(継続中)

  • 「ワンダルマメソッド」(青空の瞑想)と呼ばれる瞑想法

出典とされるp.199には「ワンダルマ・メソッドとは(中略)ワンダルマ仏教、つまり3.0の仏教の瞑想メソッドです」と書かれてあるにすぎず、「青空の瞑想」という名詞は現れていない。従ってp.199は「ワンダルマ・メソッド」の位置づけを述べているにすぎず、「青空の瞑想」というものには言及していない。また、現状の「甲(乙)と呼ばれる丙」という記述では、「メソッド」と「瞑想」と「瞑想」の相互の関係が不明瞭だと考える。「メソッド」と「瞑想」と「瞑想」の関係(同義であるとかないとか、一方が他方の原因や手段や事例であるとかないとか)を記述する際は、適切な出典がもちろん必要である。--Leonidjp会話2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)

コメント 公式サイトにも併記されてますし、「青空の瞑想=ワンダルマメソッド=インナーボディーワーク+慈悲の瞑想+アナパナ・サティ」で問題ないと思います。--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 13:17 (UTC)
>公式サイトにも併記されてますし、「青空の瞑想=ワンダルマメソッド=インナーボディーワーク+慈悲の瞑想+アナパナ・サティ」で問題ないと思います
コメント「公式サイトにも併記」って、坐禅会のプログラムを紹介する記事の中に載っているこれ↓ですか?
・青空の瞑想  ワンダルマ・メソッド
(インナー・ボディー・ワーク+慈悲の瞑想+アナパナ・サティ)
 「青空の瞑想」と「ワンダルマ・メソッド」を結ぶ等号は、サイトのこの表記に無いですよ。貴方は上記のように等号で結んでいますけれど。サイトの表記では、丸括弧の内と外との間にも等号は無いですが、貴方は等号を付けていますね↑。等号の有る無しでは意味がぜんぜん違いますでしょう?出典に存在しない等号をなぜ付けるのですか?等号(イコール)なんていう論理記号を独自に付けて解釈した結果を採用するというのは、明らかにNGだと思います。
>公式サイトにも併記されてますし
コメント:「併記」というのは「複数のものが並べて書いてある」という意味ですか?並べて書いてあるからといって、イコールで結んでよいということにはならないはずですが・・・。「併記されてる」という事実を貴方がどう解釈(意味づけ)しているのか、ちょっと私、分かりません。
 結局、公式サイトの記述↑と、『青空~』p.199の記述は明白に違っています。すると、貴方が設けている出典[52]に中身として入るべきなのは、公式サイトとp.199のどちらなのでしょう?両方入るべき?両方とも不適当?
 いずれにしても、出典[52]の中身はp.199や公式サイトだけでは足りないのではないですか?上述のとおりに。その「足りない部分」が何であるかといえば、それはおそらく、「貴方の解釈」ではないですか。貴方の解釈は貴方の心の中にだけあるので、外部の資料の中には書かれておらず、ゆえに、出典の欄に記入できない、というわけではないのでしょうか。どうですか。
 こういう例を見ると、資料に書かれていることを超えた領域にまで筆が奔り過ぎることの危うさを私は感じざるを得ません。資料に書いてないことは書いてないんだ、だからWikipediaのページにも書けないんだ、という節制を守りませんか。--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:37 (UTC)
字下げが機能していなかった部分を修正。--Leonidjp会話2015年6月4日 (木) 04:10 (UTC)
コメント 『別冊サンガジャパン1』p.380にも、「青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)」と書いてあります。これでどうですか。--Themtheman会話2015年6月3日 (水) 17:40 (UTC)
コメント即答不能のため、すこし後で回答させてもらいます。--Leonidjp会話2015年6月4日 (木) 05:37 (UTC)
>『別冊サンガジャパン1』p.380にも、「青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)」と書いてあります。これでどうですか
コメント「どうですか」というか、貴方の挙げているそういう出典が貴方の記述をどのように支持しているのかということを貴方がお語りにならないといけないと思うんですが・・・。
そこを貴方が書かないから、私から書きましょうか。貴方が挙げたその「青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)」というp.380の記述を、ページ本文と突き合わせるとどうなるか、見てみます↓。
  • (p.380):青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)
  • (ページ本文A):そしてその「仏教3.0」の具体的な実践内容が、下述する「ワンダルマメソッド」(青空の瞑想)と呼ばれる瞑想法である[52]。
【青空の瞑想】と【インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ】が、丸括弧の外と内という関係で繋がっている点はp.380で確認できました。それで、このp.380を、上述のページ本文Aの出典とするなら、丸括弧の内と外をp.380と一致させた方が良いんじゃないですか?つまり、下記の改案1のように。
  • (改案1):そしてその「仏教3.0」の具体的な実践内容が、下述する青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)と呼ばれる瞑想法である[52]。
更にもう一点。これは既に「5月17日 (日) 00:36」にも書いた↑ことですが、上述の改案1では「瞑想」と「瞑想法」の関係性を述べる記述が元通りに維持されているわけですね。つまり、【「瞑想法」と呼ばれるものが「青空の瞑想」や「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」である】という関係性(呼び方)が。その「関係性=呼び方」の出典は何処にあるのでしょうか?
特に、「青空の瞑想」を「瞑想法」と呼ぶという「呼び方」の出典が無いとすると、それはまずいのです。「瞑想は瞑想法と呼んでよいのだ」と言っている出典は挙げられていないはずですし、一般論的に言っても、「X」と「X法」というのは「後者は前者の方法である」という関係性をもつことが多いですから。「移動/移動法」とか「決断/決断法」とか色々と例は思いつくでしょう?「方法でない可能性があるもの(瞑想)」を「方法(瞑想法)」と呼んでしまっているという実態(=出典無しにそう呼んでいるという実態)があるとすると、改案1自体もその点でなお不正確だということになります。この「呼び方」の出典が無い場合、下記の改案2のような修正をすることになるでしょう。「法」の一字を取り除くわけです。
  • (改案2):そしてその「仏教3.0」の具体的な実践内容が、下述する青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)と呼ばれる瞑想である[52]。
改案2を本文として採用するとすれば、下記のページ本文Bにある「法」の字(2個)もおそらく取り除くことになるだろうと思います。整合性をつけるために。それを実行すると改案3が生まれます↓。
  • (ページ本文B):山下が自身や瞑想会の経験を元に、「仏教3.0」の瞑想法としてまとめ、提唱・実践しているのが、「ワンダルマ・メソッド」あるいは「青空の瞑想」と呼ばれる瞑想法である[52][53][4]。これは、(中略)という3行程によって構成されている[56][57][4]。
  • (改案3):山下が自身や瞑想会の経験を元に、「仏教3.0」の瞑想としてまとめ、提唱・実践しているのが、「ワンダルマ・メソッド」あるいは「青空の瞑想」と呼ばれる瞑想である[52][53][4]。これは、(中略)という3行程によって構成されている[56][57][4]。
そうしますと今度は、改案3の内部で「ワンダルマ・メソッド」が「瞑想」と呼ばれるという関係性(呼び方)が発生していますね。「メソッド」はおそらく「方法」に相当しますから、ここでは「方法」が「瞑想(=方法でない可能性があるもの)」と呼ばれるという不整合が発生しているわけです。「方法(メソッド)」が「瞑想(=方法でない可能性があるもの)」と呼ばれているという出典が存在しないとすれば、このような「呼ばれ方=呼び方」をページに記述しておくのは不正確です。これを是正するなら、例えば下記の改案4のようにならざるを得ないでしょう。
  • (改案4):山下が自身や瞑想会の経験を元に、「仏教3.0」の瞑想としてまとめ、提唱・実践しているのが、「青空の瞑想」と呼ばれる瞑想である[52][53][4]。これは、(中略)という3行程によって構成されている[56][57][4]。
そしてこの改案4が言う「3行程」が「ワンダルマ・メソッド」と名付けられている(呼ばれている)という出典(下記の出典x)が現実に存在するなら、改案4の末尾は下記のように書けるでしょう。
  • (改案4-2):これは、(中略)という3行程によって構成され、「ワンダルマ・メソッド」と名付けられている[56][57][4][x]。
※もともと、現状の本文は【「メソッド」と「瞑想」と「瞑想法」の相互の関係が不明瞭】ですよ、その相互関係をハッキリ書いている出典が必要ですよ、という件は既に「5月17日 (日) 00:36」に私から申し上げていることです。そこが出典によって解決されていかないと、この3者の関係性を出典に照らして正確に書くことは難しいのです、おそらく。--Leonidjp会話2015年6月6日 (土) 04:52 (UTC)
コメント えーと、『別冊サンガジャパン1』p.380の、「青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)」からも、「青空の瞑想」は「瞑想法」を意味しているのは明らかだと思いますし、『別冊サンガジャパン1』p.377の記述や、『青空』のワンダルマ・メソッド関連の記述からして、「ワンダルマ・メソッド」と意味する内容が同じであることは明らかだと思うんですがね。何を悩んでいるのかがよくわからないですね。--Themtheman会話2015年7月11日 (土) 03:28 (UTC)
>明らかだと思いますし
>明らかだと思う
コメント「明らか、明らか」と結論が投げ出されるばかりで、過程が示されない。これが結論投げ出し。やめよ、と言ったのに。--Leonidjp会話2015年7月30日 (木) 00:33 (UTC)
コメント うーん、何がいいたいのかよく分からないですね。どの出典と照らし合わせても、「ワンダルマ・メソッド」も「青空の瞑想」も共に、「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」という瞑想法を指しているという解釈以外しようがないと思いますし、それに異を唱えるLeonidjp氏の出典・根拠が不明ですし、何がいいたいのかほんとよく分かりません。まず主張の出典・根拠を示してもらえます?--Themtheman会話2015年7月31日 (金) 22:33 (UTC)
>「青空の瞑想」は〜(中略)〜『別冊サンガジャパン1』p.377の記述〜(中略)〜からして、「ワンダルマ・メソッド」と意味する内容が同じであることは明らかだと思う
コメントこのp.377では「青空の瞑想」という用語そのものは出現していないし、言及もされていない。このp.377は、「メソッド」・「方法」の構成内容を語っているだけ。ページ中頃に「ワンダルマ・メソッドは〜(中略)〜で構成されています」とあるように。このページでインタビュアーが「方法」と呼んでいる対象は「ワンダルマ・メソッド」のみであり、山下氏もその「呼ばれる対象」に「青空の瞑想」を付け加えたりはしていない。従ってこのp.377では「青空の瞑想」が「方法」であるとか「メソッド」であるとか「瞑想法」であるとかいう記述は存在しない。
>『別冊サンガジャパン1』p.380の、「青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)」からも、「青空の瞑想」は「瞑想法」を意味しているのは明らかだと思いますし、
コメントその「明らか」という判断を導く過程を貴方は1文字も書いてないわけですが、書かずにすませる気ですか。貴方が挙げてるそのp.380の1行って、「青空の瞑想」という用語と“インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナパーナ・サティ”が丸括弧で隣接しているという「事実」が読み取れるだけにすぎないじゃないですか。〈この丸括弧という記号が、ここで何を意味しているか〉という問いの答えになる記述が、そのp.380やp.377に書いてありますか?書いてないですよ。p.380にはもちろん無いし、p.377には「青空の瞑想」という用語そのものが無いから。上述のようにp.377では「方法」・「メソッド」の構成内容が語られているにすぎず、「青空の瞑想」そのものについての言及は無い。
コメントしたがって、このp.377,380を読む限りでは、「青空の瞑想」が「方法」だとか「メソッド」だとか「瞑想法」であるとかいう旨の判断は下せない。p.377,380から確実に言えることは、「ワンダルマ・メソッド」の【構成内容】が「青空の瞑想」と丸括弧で隣接している、ということだけ。ただそれだけ。記号で書けば下記の通り。
  • p.377:Mの構成内容がX ※M=メソッド、方法。X=“インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナパーナ・サティ”
  • p.380:A(X) ※A=青空の瞑想。
で、このp.380の丸括弧内のXに、p.377の記述を代入すると下記のようになる。
  • A(Mの構成内容たるX) ※もちろんこの丸括弧の「意味」は上述のように未だ不明確。
コメント※おそらく貴方は、このp.380に書いてある丸括弧を「イコール(等号)の代用」・「イコールと同義」くらいの意味として解釈しておられるのだろう。とすれば勿論、その解釈の出典を挙げてもらわないといけない。資料たるp.380には単に丸括弧という記号が書いてあるにすぎず、「これはイコールという意味です」という旨の宣言・記述は載っていない。要するに、「丸括弧の内側と外側がどういう関係にあるのか」という問いの答えは、出典から導くのでないかぎりは読者(貴方や私)の独自解釈に他ならない。それをWikipediaのページに披露したら、もちろんそれは「独自研究の披露」となる。
>『青空』のワンダルマ・メソッド関連の記述からして、「ワンダルマ・メソッド」と意味する内容が同じであることは明らかだと思うんですがね。
コメント「関連の記述」って何ページですか。具体的に挙げてもらわないと。こんなアバウトな指定でお茶を濁すのはイタダケナイ。
>どの出典と照らし合わせても、「ワンダルマ・メソッド」も「青空の瞑想」も共に、「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」という瞑想法を指しているという解釈以外しようがないと思いますし
コメント【「青空の瞑想」は「瞑想法」である】旨の判断は、現状では成り立たない。根拠は上述のとおり。--Leonidjp会話2015年8月11日 (火) 02:59 (UTC)
コメント貴方が「出典候補」っぽく挙げている『別冊』p.380下段4行目(=一六時一〇分 青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナパーナ・サティ))について、その1行が含まれる文脈を加味して読むと、次のようなことも言えなくもない。→この1行は「日曜ワンダルマ坐禅会」の「タイムスケジュール」を時間順に列挙したリストの中の1行だから、これは「青空の瞑想」という概念なり事柄の意味説明を言葉で書いたものというよりもむしろ、単に「日曜ワンダルマ坐禅会」の16時10分以降に「参加者が行う事柄」を書いたものにすぎない、と。※「タイムスケジュール」という小見出しは、p.380のそこにハッキリ付いている。※「青空の瞑想」と「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナパーナ・サティ」の2つが、同じ「16時10分」の「スケジュール内容」であっても、だからといって両者が「等しい」などと言えるわけではない。「この2つは、坐禅会においては同じ時間帯に行われることであるらしい」というくらいのことが読み取れるにすぎない。--Leonidjp会話2015年8月12日 (水) 03:41 (UTC)
コメント いやだから笑、あなたはここまで自説の根拠(出典)を全く示してないですよね?こちらは「ワンダルマ・メソッド」も「青空の瞑想」も共に、「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」を指しているという出典を、複数提示しているのにも関わらず、あなたは根拠(出典)を提示しないまま「そうじゃない可能性もある」という「独自解釈」を繰り返し強弁しているだけ。「青空の瞑想」の内容が「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」ではないという根拠(出典)を提示するところからまずは始めてください。じゃなきゃ話にならないですよ。--Themtheman会話2015年8月14日 (金) 22:57 (UTC)
>「青空の瞑想」の内容が「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」
コメント「青空の瞑想」の「内容」! 「青空の瞑想」に“「内容」がある/「内容」は○○である”などということを誰が(どの資料が)書いているというのか。出典たる資料がないなら、読み手(Themtheman)の瞑想観を吐露したものでしかあるまい。そんなものは個人ブログに書くべきであって、Wikipediaに書き込むべきものではない、という至極当たり前の編集方針さえ踏まえられていない。
そもそも、「青空の瞑想」に「内容がある/内容は○○である」という意見は誰の説なのだ。いったいどの資料の何処にそんなことが書いてあるというのか。※『別冊1』p.377や『青空』p.199には「青空の瞑想」という単語そのものが存在していない、という点は過去に何度も指摘済み。--Leonidjp会話2015年9月11日 (金) 02:19 (UTC)
コメントWikipedia:独自研究は載せない」にはこう書いてある↓
“「独自研究(original research)」とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがない(中略)事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、(中略)または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。”
【「青空の瞑想」の内容が「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」】という「理論、主張、アイデア」は何処で発表されたというのか。「何処に・どういう資料があるのか」という個別具体の問いから逃げ続けるのが、常習的な独自研究家。「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません」という公式の編集方針をネグレクトし続けるのが、常習的な責任転嫁家。--Leonidjp会話2015年9月11日 (金) 03:03 (UTC)
>「ワンダルマ・メソッド」も「青空の瞑想」も共に、「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」を指している
コメント【「青空の瞑想」が「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」を指している】などという出典は挙げられていない。上述のとおりに挙げられている資料の中では、「青空の瞑想」と「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」は丸括弧で隣接しているにすぎない。A(B)という形式で。
>あなたは根拠(出典)を提示しないまま「そうじゃない可能性もある」という「独自解釈」を繰り返し強弁しているだけ。
コメント上述A(B)の丸括弧が何を意味しているか、という問いの答えになる記述が資料の中に見つかっておらず、資料の中に書いてあるのは単に丸括弧という「記号」のみである、という事実こそが、くだんの「根拠」である(=Themthemanの持論を支持できない根拠である)、という明白な文脈が読めていないThemtheman氏。丸括弧という記号を「指示元と指示対象」という意味として勝手に(無出典で)解釈してしまっているらしいThemtheman氏。記号の意味が書かれていないなら「書かれていない」という地点で立ち止まればよいだけである。「書いてないものは書いてない」という節度。--Leonidjp会話2015年9月5日 (土) 02:53 (UTC)
>「青空の瞑想」の内容が「インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ」ではないという根拠出典)を提示するところからまずは始めてください
コメント責任転嫁を始めたThemtheman氏。「AはBである」ということを示す根拠が無い限りは、「AはBであるとはいえない」という言明は正しい。AとBは別々の単語・フレーズである以上、両者を「別のもの」と見ることは当然できるからである。AとBが別々の単語・フレーズであるときに「AはBである」と見なす判断は、「根拠・推論抜きに当然できる」ものではない。「AはBである」ことを示す根拠を挙げる責任を負っているのは、「AはBである」と主張している当人であり、本件の場合、それはThemthemanである。Themthemanの挙げる根拠が根拠たりえない、という論述は既に私から済ませており、その論述の内容面に対するThemthemanからの反論は未だに無い。Themthemanは「自分は出典を複数挙げている」という「自己の行為描写」を行っているだけである。議論の内容面にタッチしないために「話にならない」=議論が成立しない事態を招いているのはThemthemanである。--Leonidjp会話2015年9月5日 (土) 03:13 (UTC)
>「青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)」の丸括弧が何を意味しているか、という問いの答えになる記述が資料の中に見つかっておらず、資料の中に書いてあるのは単に丸括弧という「記号」のみである、という事実
コメント『別冊1』p.380や坐禅会のプログラムページにおける「青空の瞑想(インナー・ボディ・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)」という記述に使われている丸括弧の意味を明白に指示している出典は未だに見つかっていない。丸括弧という「記号」の意味を無出典で確定するのは、丸括弧に関する「読み手の思想・信条」を吐露することに他ならない。Themthemanという人は、【「記述」を巡る検証が、「思想・信条」によって邪魔されてしまわないように】したい旨を宣言し且つその宣言を取り下げてもいない人物であるから、自己の「思想・信条」のみを根拠とした解釈なり記述なりをWikipediaのページに書き込むことはできないはずであるし、みずからそれを自粛せねばならない立場であるはずである。『別冊』p.380の下段4行目だの坐禅会のプログラムだのを「思想・信条」を排除して読めば何が読めるか。「丸括弧が存在する」という「事実」が知れるだけである。「意味不明瞭な記号が存在する」。この意味不明瞭を始末するためには「意味不明瞭でない資料」が当然必要であり、それは今のところ見つかっていない。--Leonidjp会話2015年9月11日 (金) 02:19 (UTC)
コメントさて、情報提供。2015年12月発売の山下氏の新著『本当の自分とつながる瞑想入門』(河出書房新社)でも、やはり、ワンダルマ・メソッドのことを「瞑想」だとは書いてない。同書p.117には、体の微細な感覚を観る瞑想、慈悲の瞑想、呼吸を観る瞑想、歩く瞑想を指して、こう書いてある→「私は、青空へ入っていくためのこれらの瞑想を、「ワンダルマ・メソッド」と名づけています」。
だから、「ワンダルマ・メソッド」というのは「瞑想」の名前であって、「瞑想〈法〉」の名前だとは言われてないんですよ。--Leonidjp会話2015年12月9日 (水) 06:35 (UTC)

議論18

ページ本文中、コメントアウトとして書き込まれている部分↓。

<!--出典調査中につきコメントアウト
===仏教と近代(「仏教3.0」と「世界3.0」)===
[[2015年]]初頭より、[[ISILによる日本人拘束事件]]などもあって[[ISIL]]の問題が日本でも顕在化してくると、こうした反動的・反人道的・反近代的な過激主義は、かつての[[オウム真理教]]とも共通したものであり、野蛮さ・残忍さ・狂信性を孕んだ前近代的宗教性を封印してきた(「死んだら終わり」という発想に象徴されるような)「唯物主義的近代」が生み出す構造的な病であると指摘している。

そして、そんな「唯物主義的近代」(世界2.0)の「生きづらさ」と、「前近代」(世界1.0)的な「野蛮さ」を同時に回避するためには、「仏教3.0」を経由した新たな世界観(世界3.0)が必要だと主張している。

それゆえに、そうした世界観を伴わない(「唯物主義的近代」(世界2.0)の世界観に留まったままの)表層的な「[[マインドフルネス]]」ブームを、意味が無いものとして批判している。-->

コメント出典情報が揃ってからページ本文に書けばよい。コメントアウト済みとはいえ、作文中の文章をページ本文に置いておく必要はない。ページから削除して此処に移した。
ちなみに、この↑コメントアウト部分は、Zenji30という利用者が2015年2月23日に記入した記述とほぼ同じである。2015/2/23以前においても、山下氏に関する二次資料は殆ど皆無だっただろうから、このISIL云々の部分の「出典候補」も一次資料しかありえまい。ISILによる拘束事件の報道開始が2014年8月だから、2014年8月〜2015年2月の山下氏の著作とポッドキャスト配信分に、とりあえずの「出典候補」があることになる。この時期、公刊された著作としては『サンガジャパンVol.19』の寄稿文しかない。いずれにしろ、一次資料に対する「分析・合成・解釈・評価」がお粗末であったならばWikipediaのページに載せるべきではない、ということは言うまでもなく、2015/2/23から半年余りにも渡って出典が1個も明示されていない(にもかかわらず何故か加筆はされている)この文章は、「叩き台」としてノートページに載ってさえいれば充分である。(しかし、出典を付けずに加筆できているというのも不思議なものだな。加筆の出典があるなら併記するだろう、普通は。)--Leonidjp会話2015年9月5日 (土) 07:20 (UTC)
取り消し線で2字修正↑。--Leonidjp会話2015年9月5日 (土) 07:26 (UTC)
>加筆の出典があるなら併記するだろう、普通は。
コメントとはいえ、「加筆」をした主体はZenji30だろうから、既に投稿ブロックされたZenji30がこの加筆なり執筆の出典を今から挙げることは無理ではある。出典の在り処を書かないからこうして他人が迷惑する。「迷惑だ」とワザワザ書き込んでいる私以外に、迷惑を感じつつ黙っている読者がどのくらい居るものか考えてみよ、とZenji30の「中の人」に言いたいところだ。(独り言めくが、Zenji30の「中の人」が今もココを見ていそうだから、あえて書き残しておく)。--Leonidjp会話2015年9月5日 (土) 10:42 (UTC)


議論28

(ページ本文)↓

そして山下はこの原因を、大乗仏教(仏教1.0)の前提となる、仏教が始まってから大乗仏教(仏教1.0)に至るまでの過程情報が欠落していているがゆえに、大乗仏教教義の出発点で、それがピンと来ず、実感が持てないまま、その内容を受容せざるを得ないところにあると指摘し、その状態を
「テレビドラマ(仏教)をいきなり第二話(大乗仏教、仏教1.0)から見始めた状態」
として表現する[34]。したがって、この問題はテレビドラマの第一話に相当するテーラワーダ仏教(仏教2.0)の内容を踏まえれば、解決する問題であると指摘する[35]。

コメント上記の出典[35]の中身は『青空』 pp.42-44であるが、そこには「テーラワーダ仏教(仏教2.0)の内容を踏まえれば○○は解決する」という意味の記述は無い。そこから1ページ遡ったp.41には「(問題が)今ではすっかり解決しています」という記述があるが、これも、「AをすればBが解決する」といった具合に「問題の中身」と「解決のために必要な条件」とを具体的に明示している記述なのではなく、単に総括的に「今では解決しました」と述べているにすぎない。したがって、上記のページ本文にある「テーラワーダ仏教(仏教2.0)の内容を踏まえれば○○は解決する」という意味の記述は、現状では無出典である。
その他の文言の微修正をも含めて、この段落は下記のように書き換えることを提案する。出典は『青空』 pp.41-44。

  • 山下はこの原因を、仏教が始まってから大乗仏教(仏教1.0)に至るまでの過程情報が日本にいきいきと伝わらなかったためであると指摘し、その事情を「二話連続のテレビドラマ(仏教)をいきなり第二話(大乗仏教、仏教1.0)から見始めた状態」と喩えている。第一話(仏教2.0)を知らないまま第二話(仏教1.0)を見ているので、第二話としての大乗仏教(仏教1.0)の前提がピンとこず、大乗仏教の教義の出発点に実感を持てないままでその教義を受容せざるを得なくなる状況があるという。このような事情を山下は「大乗仏教の悩み」・「日本仏教の悲劇のもと」であると述べ、第一話に相当するテーラワーダ仏教(仏教2.0)の内容を踏まえる必要性を説く。

直上↑の投稿に署名を忘れたので補足。Leonidjpの2015年10月6日 (火) 05:48(UTC)の投稿でした。--Leonidjp会話2015年10月6日 (火) 05:51 (UTC)

コメント上記2015年10月6日 (火) 05:51 (UTC)の提案から7日経ち、その間、コメント等がつきませんでしたので、この提案のとおりに書き換えました。--Leonidjp会話2015年10月13日 (火) 06:57 (UTC)




「実践・活動」の節に関する議論

※「解説を書くことに関する根本的な困難」を指摘した上述の文章も併せて参照ください。--Leonidjp会話2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)


議論19

コメントこの「脚注52」の内容そのものが無出典。
また、この「脚注52」は、ページ本文中の「微細な身体」という用語に付けられた註であるので、この「脚注52」の内容は、山下氏の言うところの「微細な身体」という用語の意味説明を担っているのであろう。「脚注52」が、山下氏の言うところの「微細な身体」の意味説明として正しいということを示す出典が無い。
ヨーガやチベット密教のチャクラ理論に「微細な身体」という用語が存在するとしても、それが山下氏の言う「微細な身体」と同じ意味である旨をダイレクトに述べている出典が無ければ、山下氏の言う「微細な身体」の意味説明を上述の「脚注52」のように「ヨーガ」や「チベット密教のチャクラ理論」に基づく説明によって代用することはできない。その他の「理論」などによる代用的説明も同様に不可。
山下氏の言う「微細な身体」の意味説明を述べている出典が無いなら、本文中の「微細な身体」に付けられた意味説明としての「脚注52」そのものを削除すべき。
出典なき用語解説は独自研究。→「独自研究(original research)とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがない(中略)事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。」(参照)--Leonidjp会話2015年6月28日 (日) 00:31 (UTC)
コメント文中↑、語句を増補(下線部)。--Leonidjp会話2015年6月29日 (月) 01:18 (UTC)

コメント上記「脚注52」は内容が無出典。かつ、これが山下氏の言う意味での「微細な身体」の説明として適切であることを示す資料も未だ挙げられていない。従って、この「脚注52」自体をページ本文から削除。--Leonidjp会話2015年7月5日 (日) 01:10 (UTC)

チェック これはまあしょうがないね。了解。--Themtheman会話2015年7月11日 (土) 03:51 (UTC)
コメント初めっから、しょうがなかっただけ。気づいてる人は気づいてるの。--Leonidjp会話2015年7月30日 (木) 00:33 (UTC)

議論20(継続中)

  • こうした具体的で確度の高い行法と、それによって得られる覚醒感覚を経ることで、仏教1.0としての日本の各伝統宗派も共通して、3.0へとアップデートでき、確信を持って現代人の悩み・要望に応えていけるように再生していけると主張している。

出典とされるp.219-229には、「こうした具体的で確度の高い行法と、それによって得られる覚醒感覚を経ることで」という記述は存在しない。「具体的で確度の高い」という評価は、信頼できる情報源を出典としないかぎりは独自研究と見なしうる。「それによって得られる覚醒感覚を経ることで~」という記述も同様である。「甲によって得られる乙を経ることで○○できる」という表現は因果関係の存在を意味していることが明らかだから、本件の執筆者は、このような因果関係の存在が明白に述べられている資料を出典として挙げなければならない。「覚醒感覚」という素性不明の名詞の出典も勿論必要。--Leonidjp会話2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)

コメント ワンダルマメソッドの具体的な説明に続き、「凡人でも、メソッドを使うことによって、~内山老師の言われていた「自己ぎりの自己」とか「出会う処我が生命」ということが、全て感得できるようになるのです。~名人でなくても失敗することはありません。」等といった一連の記述を「具体的で確度の高い行法と、それによって得られる覚醒感覚~」と要約することは妥当だと思いますし、何の問題もないと思います。第三者を交えて検討してもいいですよ。--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 14:08 (UTC)
コメント ここに関してはもう少し表現をブラッシュアップできるでしょうね。--Themtheman会話2015年7月11日 (土) 03:51 (UTC)
>ここに関してはもう少し表現をブラッシュアップできるでしょうね
コメント執筆者として自分で担いなさい、自分で。--Leonidjp会話2015年12月9日 (水) 06:45 (UTC)

議論21

  • 上記の「ワンダルマメソッド」の段階から、呼吸や心への気づきを脱落させたもの[56]、言い換えれば「ワンダルマメソッド」で得た実感を持って行われる只管打坐を、山下は「只管打坐3.0」と呼ぶ[57]。

コメント※検証対象の文↑を増補。文中、[56]および[57]は出典番号(消さないように)。--Leonidjp会話2015年6月28日 (日) 00:35 (UTC)
コメントこのような「言い換え」および「呼びかた=名詞の意味設定」は出典(p.217-218)に記述されていない。Wikipedia執筆者自身による「言い換え」や「名詞の意味設定」を披露するべきではない。そのような記述は独自研究に該当すると考える。--Leonidjp会話2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
コメント文中↑、取り消し線で一部撤回。--Leonidjp会話2015年6月28日 (日) 00:35 (UTC)

コメント どれのこと言ってるんですかね?「ワンダルマメソッド」も「只管打坐3.0」も出典に書いてありますけど?--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 14:08 (UTC)
>(ページ本文):上記の「ワンダルマメソッド」の段階から、呼吸や心への気づきを脱落させたもの[59]、言い換えれば「ワンダルマメソッド」で得た実感を持って行われる只管打坐を、山下は「只管打坐3.0」と呼ぶ[60]。
コメント言い換えの問題について:【「ワンダルマメソッド」の段階から、呼吸や心への気づきを脱落させたもの】 を 【「ワンダルマメソッド」で得た実感を持って行われる只管打坐】 と 【言い換え】る、という言い換えが、出典[60](p.217-218)に書かれていないです。
 「名詞の意味設定」の問題については、指摘自体を取り下げます。指摘する価値のないことでした。失礼しました。--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:37 (UTC)
(ページ本文)>上記の「ワンダルマメソッド」の段階から、呼吸や心への気づきを脱落させたもの[56]、
コメントこの部分の出典とされる『別冊1』p.381の記述と比較すると、このページ本文の記述は色々と違っている。下記に比較。
  • (ページ本文):上記の「ワンダルマメソッド」の段階から、呼吸や心への気づきを脱落させたもの、
  • (『別冊1』p.381 冒頭):「ワンダルマ・メソッドで青空に立ったのち、瞑想の気づきの対象としての呼吸やチッタ(心)も脱落させて、青空(である自分)が青空に気づいてゆく。これが究極のヴィパッサナーである『只管打坐3.0』です」
両者の相違点は次のとおり。
  1. 出典では「メソッドで青空に立ったのち~」とあるのに対し、ページ本文は「メソッドの段階」という、より不鮮明な表現である。
  2. 出典では、「脱落させるもの」は「瞑想の気づきの対象としての呼吸やチッタ(心)」であるが、ページ本文では、「脱落させるもの」は「気づき」だという旨が書いてある。「脱落させるもの」が違っている。--Leonidjp会話2015年6月28日 (日) 00:35 (UTC)
コメント上記の相違点1および2を始末して出典に忠実な記述にするために、ページ本文を下記のように書き換えた(変更後)。変更前の記述に含まれている「言い換え」は上述のとおり無出典であるので、この部分も出典に忠実たるよう書き換えた。
  • (変更前):上記の「ワンダルマメソッド」の段階から、呼吸や心への気づきを脱落させたもの、言い換えれば「ワンダルマメソッド」で得た実感を持って行われる只管打坐を、山下は「只管打坐3.0」と呼ぶ。
  • (変更後):上記の「ワンダルマ・メソッド」で青空に立ったのち、瞑想の気づきの対象としての呼吸やチッタ(心)も脱落させて、青空(である自分)が青空に気づいてゆく。これを山下は「只管打坐3.0」と呼ぶ。
--Leonidjp会話2015年7月5日 (日) 01:16 (UTC)
チェック それでいいですよ。--Themtheman会話2015年7月11日 (土) 03:51 (UTC)
コメントそれでもいいですよ。--Leonidjp会話2015年7月30日 (木) 00:33 (UTC)

議論22

  • 山下が曹洞宗出身だから例として「只管打坐」を出したに過ぎず

「曹洞宗出身だから」および「出したに過ぎず」という意味の記述は出典(p.217-218)に存在しない。p.217には「私が自信を持って説明できる只管打坐を例として」とある。--Leonidjp会話2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)

コメント 「只管打坐」というのは曹洞宗の概念であり、「私が自信を持って説明できる只管打坐を例として」と書いていること、そしてその直前に他宗派に言及する記述が来るわけですから、この説明の仕方で何の問題もないと思います。第三者を交えて検討してもいいですよ。--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 14:08 (UTC)
>この説明の仕方で何の問題もないと思います
コメントこれは、とんでもないです。問題大有りです。貴方がページに書いている「曹洞宗だから」という部分の「だから」というのは、「只管打坐を例として出した」の「理由」を指すわけでしょう?理由の陳述にあたる部分を創作したらいけません。貴方の解釈だけを根拠にして創作したらいけません。「理由」の陳述じたいは出典(p.217-219)に書かれていないのですから。→「独自研究(original research)」とは、(中略)発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。(中略)ウィキペディアは独自研究を発表する場ではありません。」(参照
>「只管打坐」というのは曹洞宗の概念であり
コメント【「只管打坐」というのは曹洞宗の概念である】というのは、出典(一次資料)の中に明白にそう書いてあるのでなかったら、山下氏の主張として採用することはできないでしょう?また、二次資料・三次資料の中にそう書いているのでなければ、読者の(貴方の)読解でしかないでしょう。
>「私が自信を持って説明できる只管打坐を例として」と書いていること
コメント「自信を持って説明できるAを例として出した」というのと、「出身が○○宗だからAを例として出した」というのは、明白に意味が違います(前者には「だから」という類の理由表示の表現が無いという点にも注意してください)。貴方はなぜか後者を採用しているんです。出典の中に記述が無いのに。何故でしょうか?
>そしてその直前に他宗派に言及する記述が来るわけですから
コメント「他宗派に言及する記述」というのはp.217の「お念仏3.0」「お題目3.0」「即身成仏3.0」のことですか。念仏、題目、即身成仏は、どれも「宗派」ではないです。「宗派の意味で書いてます」という意味の記述はp.217-218に無く、p.219まで含めてようやく「著者は宗派にも言及しているんだな」と読めるわけですね。とはいえ、「曹洞宗だから」という理由の陳述には依然として出典が無いままです。--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:37 (UTC)
コメント 「資料に書かれていないことは、書かれていないんだ」という節制を守りませんか。資料の著者が書いていないという空隙、間隙を見つけても、Wikipedia執筆者はそれを埋めようとはしない、という節制を持ちませんか。あえて陳腐な言い方をすれば、「事実と意見の区別をつけましょう」ということです。或る意見が資料の中に現実に書かれているということ自体は「事実」なんです。しかし、資料の著者が書いていないという間隙、空隙を、適切な資料無しにWikipedia執筆者が埋めていくというのなら、そういう埋め方はWikipedia執筆者による意見の開陳でしかない。Wikipediaは、そういうことをする場所ではないはずなんですが。
 貴方がWikipedia執筆者として構想した文章の文脈構造を現実化するために必要な部品(=段落や文)それぞれに適切な出典が見つからないなら、それはそもそも部品として使えないものなんです。部品に欠落があるなら、文脈構造を全体として現実に完成させることはできないでしょう。部品の不備を「執筆者の意見」で穴埋めしていくことによって、そもそもの全体的な未完成状態を弥縫する(取り繕う)、というようなことはやめましょう。こういうことになりやすいから、「一次資料しか使えない間は、文脈を構成することを目指さないほうがいいですよ」と私は提案しているのですが。--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:37 (UTC)
ページ本文)>これは実感が無いまま行われる「只管打坐1.0」をアップデートしたものであり、山下が曹洞宗出身だから例として「只管打坐」を出したに過ぎず、「お念仏3.0」「お題目3.0」「即身成仏3.0」といったように、他宗派でも応用可能だという。
コメント上記のページ本文【山下が曹洞宗出身だから例として「只管打坐」を出したに過ぎず】は、上述のとおり無出典。従って、削除。
また、上記のページ本文のなかの【これは実感が無いまま行われる「只管打坐1.0」をアップデートしたものであり】の部分は、その「実感」の中身が出典(下記)に照らすと不明確であるので、出典にヨリ忠実たるよう、下記のように書き換えた。
  • (変更前のページ本文):これは実感が無いまま行われる「只管打坐1.0」をアップデートしたものであり
  • (出典=『青空』p.217):只管打坐1.0では、「私の本質は青空である」という前提を実感できずに、建前にしてしてしまっていました。
  • (変更後):山下によれば、これは「私の本質は青空である」という前提を実感できずに建前にしてしまっていた「只管打坐1.0」をアップデートしたものであり
※この部分の本文は、すぐ下記↓の論点に続く。--Leonidjp会話2015年7月5日 (日) 01:19 (UTC)
チェック それでいいですよ。--Themtheman会話2015年7月11日 (土) 03:51 (UTC)
コメントそれでもいいですよ。--Leonidjp会話2015年7月30日 (木) 00:33 (UTC)

議論23

  • 「お念仏3.0」「お題目3.0」「即身成仏3.0」といったように、他宗派でも応用可能だという。

他の「宗派」で「応用可能」であるとの記述は出典(p.217)に存在しない。〈何をどうすることを誰が「応用」と呼んでいるのか〉という点を明瞭に説明できる出典が挙げられなければ、「応用」という記述そのものが不適切だと考える。--Leonidjp会話2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)

コメント p.217の記述から、ワンダルマメソッドで「「私の本質は青空である」という前提を実感」することで曹洞宗の「只管打坐1.0」が「只管打坐3.0」になり、そうしたアップデートは「お念仏3.0」「お題目3.0」「即身成仏3.0」としても可能と書いているのだから、「他宗派への応用も可能」という表現は妥当であり問題ないと思います。そしてそれは、続くp.219の記述によっても補強されます。これも第三者を交えて詳細に検討してもいいですよ。--Themtheman会話2015年5月19日 (火) 14:08 (UTC)
>p.217の記述から、(中略)曹洞宗の「只管打坐1.0」が「只管打坐3.0」になり
コメント【曹洞宗の「只管打坐」】なんてp.217-219に書いてないです(この本の他のページにも書いていなかったのでは?)。「曹洞宗の」という所有格の出典が無いということです。p.218-p.219にある「道元が○○した、内山老師が○○した」というのが、「曹洞宗の」という所有格の出典になるか?どうでしょう。「道元/内山の教えなら、それは即、曹洞宗のものと読み替えてよい」というふうになるかならないか・・・ということを考えること自体、「一次資料に対する解釈」に該当するでしょうね。それはするな、とWikipediaに言われていることだから、やらずにおく(触れない)というのが一番適切な態度だと思います。つまり、所有格を独自に付けたらいけないし、独自に付けたうえで解釈した結果をページに書くのもいけないんですよ、本当は。--Leonidjp会話2015年5月29日 (金) 04:37 (UTC)
ページ本文)>「お念仏3.0」「お題目3.0」「即身成仏3.0」といったように、他宗派でも応用可能だという。
コメントこの部分のページ本文は、上述のとおり、出典に照らして不正確。
そもそも、「応用」という用語は出典(『青空』p.217,219)に存在しない。出典たる『青空』p.219には下記のようにある。「応用」ではなく「やってもらえたら」。
  • (変更前のページ本文):「お念仏3.0」「お題目3.0」「即身成仏3.0」といったように、他宗派でも応用可能だという。
  • (出典=『青空』p.219):日本仏教のそれぞれの宗派の人たちに、ワンダルマ・メソッド・メソッドをやってもらえたら、それぞれの宗派の大事にしているものが本当にリアルに感じられるようになります。
従って、この部分のページ本文は、上記の『青空』p.219の記述を取り入れて、下記のように書き換えた。
  • 日本仏教のそれぞれの宗派の人たちにワンダルマ・メソッド・メソッドをやってもらえたら、それぞれの宗派の大事にしているものが本当にリアルに感じられるようになるという。
--Leonidjp会話2015年7月5日 (日) 01:20 (UTC)
コメント ここに関しては、より文意を明瞭にするために、「お念仏3.0」「お題目3.0」「即身成仏3.0」といった文言を活かしていきたいところ。他の議論が片付いてからじっくり文言を精査したい。--Themtheman会話2015年7月11日 (土) 03:51 (UTC)
コメント (追記・翌週)以下のような文言ではどうでしょうかね。
  • 日本仏教のそれぞれの宗派の人たちにワンダルマ・メソッド・メソッドをやってもらえたら、それぞれの宗派の大事にしているものも本当にリアルに感じられるようになり(『青空』p.219)、「お念仏3.0」「お題目3.0」「即身成仏3.0」といったようにアップデートしていくことが可能だという(『青空』pp.217-218)。
--Themtheman会話2015年7月17日 (金) 23:12 (UTC)
コメント(追記)それではとりあえずこの表記に編集させてもらいます。--Themtheman会話2015年7月25日 (土) 04:46 (UTC)
コメント了解しました。--Leonidjp会話2015年8月11日 (火) 01:41 (UTC)
チェック じゃあここも済ということでいいですね。--Themtheman会話2015年8月14日 (金) 23:00 (UTC)

議論24

  • 基本的な構成は以下の通り。
16時10分~ - ワンダルマメソッド(青空の瞑想)

コメントこの部分の出典は、『別冊サンガジャパン 1』 p.380および「一法庵公式サイト」であるらしい。(ただし、「公式サイト」のほうは、より正確に言えば、日曜ワンダルマ坐禅会のプログラムを記述した記事だろう。『別冊1』p.380およびページ自体の小見出しにもその旨が書いてあるので。
上述の「16時10分~」の内容は、出典とされる『別冊1』p.380および「公式サイト」=「日曜ワンダルマ坐禅会のプログラム」のいずれとも違う。出典とされる2つの資料の記述は下記のとおり。

  • (『別冊1』p.380):16時10分~ - 青空の瞑想(インナー・ボディー・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)
  • 公式サイト 日曜ワンダルマ坐禅会 差定):04:10 pm 青空の瞑想
(インナー・ボディワーク+慈悲の瞑想+アナパナ・サティ)

『別冊1』p.380および「公式サイト」の内容は、上述のとおり長音符号「ー」と中黒「・」の有無が違っているのみだから、基本的に同じモノであると見てよかろう。
というわけで、この本文の記述を上述の出典の内容に忠実になるよう、下記のように書き換えるべき。(長音符号と中黒は『別冊1』p.380のほうを採用した)。

  • 16時10分~ - 青空の瞑想(インナー・ボディー・ワーク+慈悲の瞑想+アーナーパーナ・サティ)

--Leonidjp会話2015年6月29日 (月) 01:15 (UTC)
コメント文中↑、取り消し線で一部撤回。--Leonidjp会話2015年7月1日 (水) 03:35 (UTC)

コメント上記「16時10分」の行の内容は、上記のとおり出典に忠実な記述に修正。--Leonidjp会話2015年7月5日 (日) 01:12 (UTC)

チェック それでいいですよ。--Themtheman会話2015年7月11日 (土) 03:51 (UTC)
コメントそれでもいいですよ。--Leonidjp会話2015年7月30日 (木) 00:33 (UTC)

議論27

ワンダルマメソッド、青空の瞑想」の節にて

  • “インナーボディーワーク --- 四大分別観(四界分別観、四界差別観)の基本部分に当たるもの”

という本文があるが、この部分の出典たる『別冊1』p.377・『青空』 pp.201-214・一法庵公式サイトには「四界分別観、四界差別観」という用語は出てこない。出典たる資料に無いこの2つの用語の除去を提案する。--Leonidjp会話2015年9月20日 (日) 00:55 (UTC)

上記2015年9月20日 (日) 00:55 (UTC)の提案から7日経ち、その間、コメントが付きませんでしたので、この除去を実行しました。--Leonidjp会話2015年9月27日 (日) 02:48 (UTC)




その他の節に関する議論

(記述歓迎!)--Leonidjp会話2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)





宗派について

議論25

知る所を記せば、この方は曹洞宗をやめ、ミャンマーに移り、その後上座部仏教もやめ、現在は単立の寺院を運営なさっているように記憶しています。 主張が正しいのであれば、出展を添えて頂きたいと思います。

2015年4月現在、「曹洞宗僧侶である」・「テーラワーダの比丘である」ことを肯定または否定する「信頼できる情報源」が見当たりません。従いまして、記述そのものを削りました。参照:Wikipedia:信頼できる情報源 これに伴い、カテゴリ設定も編集しました。--Leonidjp会話2015年4月24日 (金) 02:29 (UTC)
コメント あなたの削除行為に対して、差し戻しを行いました。出典が欲しいと思う記述に対しては、削除するのではなく「要出典」タグで対応してください。--Themtheman会話2015年5月13日 (水) 09:15 (UTC)
コメント 「出典が欲しいと思う記述に対しては、削除するのではなく「要出典」タグで対応してください」という貴方のこの要望は、Wikipediaのいかなる方針に適合するものですか。お答えください。--Leonidjp会話2015年5月14日 (木) 05:45 (UTC)
コメント ここでのやり取りが二重に重複しているので、以降は下の項目のみでやり取りしましょう。--Themtheman会話2015年5月14日 (木) 07:48 (UTC)
了解しました。--Leonidjp会話2015年5月15日 (金) 01:47 (UTC)



必ず出典を明記しましょう(すべての節に関して)

議論26

(お知らせ):この部分の議論は、ページ「山下良道」の具体的な内容とは関係の薄い、「利用者個人間のやりとり」が長期間にわたって連続していますので、下記のサブページに移動しました。関心のないかたは、お読みにならなくても構いません。

--Leonidjp会話2015年7月7日 (火) 00:27 (UTC)