ノート:四畳半物語 娼婦しの

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校正・検証[編集]

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  • 見出し(節)はたった1つや2つの段落には用いないことが推奨されているため、少量の文章の見出しは除去しました。量が増えたら、見出しを追加してください。→Wikipedia:スタイルマニュアル (見出し)#使用は適度に
  • 製作節と概要節に評価が混ざっていたので新たに見出し(併映を含む)を設け、移動。
三田は翌1967年東映を退社しフリーとなり[1][2]テレビ舞台を中心に活躍した[3]
  1. ^ 「欲望する映画 カツドウ屋、岡田茂の時代 岡田茂さんへ-最後のことば 三田佳子」『キネマ旬報』2011年7月上旬号、54-55頁。 
  2. ^ 岡田茂・東映名誉会長安らかに 菅原文太が「お別れの言葉」…通夜に2400人参列 スポーツ報知2011年5月11日(archive)
  3. ^ 『日本映画俳優全集・女優編』キネマ旬報社、1980年、644頁。 
  • こちらは三田の記事に加筆し、当該記事から除去しました。三田のその後は本作の製作に何ら関係ないでしょう。
検証して出典に載ってないものは除去しました。
東映のメイン映画は1960年代半ばから1970年代半ばまでは「任侠映画」と「実録映画」で、そのB面(併映)は「東映ポルノ」や「不良番長シリーズ」、「カラテ映画」などが担当したため、この間「女性文芸映画」はほとんど作られなかった[1]
  1. ^ 東映キネマ旬報 2010年春号 Vol.14 2-7頁
  • 「B面」、「不良番長」、「カラテ映画」と言う文言は全く見当たらず、当該文の典拠に同出典は満たしておりません。文と出典、および他も典拠してますが、本作を全く触れてないので除去。
急激に量産されるようになったのは1982年の『鬼龍院花子の生涯』の大ヒット以降となる[1]歴史|東映株式会社(任侠・実録)</ref>[2][3]
  1. ^ 東映キネマ旬報 2010年春号 Vol.14 2-7頁
  2. ^ 『クロニクル東映:1947-1991』 1巻、東映、1992年、309頁。 
  3. ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生:東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、288頁。ISBN 4-87932-016-1 
  • 上の二つの文(うち一つの「文芸路線の一本」は概要節へ移動)が上記の理由で除去したため、特筆する理由もなくなり除去しました。
  • 1つの脚注に複数の出典が入ってるので脚注一つに出典一つにしましたが、一つの文にいくつも出典をつけるのはWikipediaでは推奨されておりません。
過剰な脚注は、記事の読みやすさを損なうだけではなく、他のウィキペディア編集者に対して特筆性に関する疑問を持たせる原因ともなります。経験の少ない編集者がウィキペディアの特筆性の基準に満たない記事を載せようとするとき、出典の量で他の編集者を圧倒しようとすることがあるためです。このような記述は、ウィキペディア上での経験を積んだ編集者に対して、より注意深い検証を必要とするというメッセージとなり得ます。(Wikipedia:脚注過剰