ノート:丹下健三

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

前振り[編集]

  • 大東亜記念営造計画は、誤って「造営」と引用される事が多いが、正しくは「営造」である。本来、建築学会の若手を対象にした地味な、したがって実施案となり得ない懸賞行事であったが、横山大観風の日本画とも言えるパースペクティヴともあいまって、この丹下健三案の存在により、後世このコンペが人々に記憶される事になった。なお、丹下案のタイトルは「忠霊神域計画」である。--茶々 2006年10月13日 (金) 11:14 (UTC)[返信]

提案[編集]

  • これだけのボリュームがあれば、

「経歴」

「業績」(プラス評価、確定された評価など)

「評価」(批判など、評価の分かれるところ)

の三つの独立した項目を立てたいよね。どうでしょうか? 磯崎さんの所がすっきりしてるよ。
それにしても、ここの代々木第一体育館の写真は超かっくいいよね! 撮ったの誰?ーー茶々 2006年10月13日 (金) 13:59 (UTC)[返信]
  • 山梨文化会館の画像もあるようですので、メガストラクチャーへの言及もあった方がいいでしょうかね。
どなたか挑戦してみられては... もっとも磯崎さんの方へ書くべきかな? むふふ。--茶々 2007年1月10日 (水) 19:50 (UTC)[返信]

宣言![編集]

がんばって、然る後には、この項目を秀逸ページに登録するぞ!   --茶々 2006年10月14日 (土) 08:24 (UTC)[返信]
道は遠いな。←(2006年10月25日 (水) 17:30 (UTC)のあと少しばかりの虚脱感とともに記す)

旧都庁舎の写真の投稿をお願いします。[編集]

  • どなたか旧都庁舎の写真の投稿をお願いいたします。Tokyo Watcher
↑ 本当にそのとおりです !! --茶々 2006年12月26日 (火) 13:13 (UTC)[返信]

計画案のみで実現しなかった案件の掲載について[編集]

主要作品の節に、計画案のみ列挙は不要と考えます。計画案だけで終わったものを「主要作品」に実現せずと、コメントを付けて多数リストアップすること自体が丹下健三氏のマイナスイメージを狙った意図的・作為的なものにも思えます。ましてあの掲載画像のインラインフレーム枠を広げるため…を目的としているなら、断固掲載する必要性はない。他の建築家の記事にも計画案のみで終わった案件を「主要作品」として多数列挙する記事なども存在しない。--U ssop 2007年9月24日 (月) 03:18 (UTC)[返信]

それは、建築学をあまりご存じない方の誤解だとはっきり申し上げておきます。建築史家の藤森照信東京大学生産技術研究所教授が強調されていることですが、丹下健三氏は実現の見込があるなしに関わらず、終生、都市計画に取り組まれていた方で、そのDNAは磯崎新氏やメタボリストの方々にも受け継がれております。建築計画の実現やその実施案は社会情勢や社会経済にも深く関係しておりますから、すぐれた建築計画でもその通りに実現されないことは多々あります。それは残念なことですが、建築学的には実現未実現に関わらず、そのプランの良否のみで評価されます。ですから、スケッチ一枚で建築史に残る建築家もいますし、「作んない方がよかったなあ」と評される建築家もおります。優れた建築家は、コンセプトや理念の提示の為だけに、実現の見込もない計画案を上梓することも多々あり、都市計画ではその大規模な計画の性質上そちらの方が多いくらいです。それを建築家も建築界もよく承知しておりますから、たとえ実現しなかった文字通り「絵に描いた餅」に終わったプランも決して建築家に取っては、不名誉なことではないのです。むしろ建築計画の中身によっては、妥協して実施したことこそが、マイナスイメージにつながることもあります。しかしながら事の性質上、未実施の計画案には「実現せず」と注記せざるを得ないわけです。
「主要作品」に対する御疑念に関しては、本来掲載してしかるべき作品は、ざっとあの2倍はありますから、あれでも少ないくらいですが、主要作品に掲載したものも、編集面に特記しておりますように、丹下健三氏逝去に伴う2005年9月発行のCASA BRUTUS 丹下健三追悼特別号の藤森照信教授監修の記事「ベスト100」に依拠しております。(ですから、もちろん計画案のみで実現しなかった案件もその中に沢山選ばれております)。
他の建築家の項目との比較に基づく御疑念は、出来ましたらもう一度建築学をよく復習下さりまして、丹下健三氏の日本建築史のみならず、世界建築史の上での重要性をご理解いただけましたら、なんら不思議のないものとわかって戴けるものと確信しております。その際には、なんなりとも疑問点を私のノート欄にお書き下さいましたら、浅学非才な一建築好きではありますが、不肖この私がお答え出来る範囲で、あなたさまの性急な正義感から来る誤解を解いて差し上げたいと思っております。また追々他の建築家の項目も充実して来るものと思っています。ウィキペディアが始まってまだ6年なのですから。これで、よろしいでしょうか? --茶々 2007年9月24日 (月) 05:40 (UTC)[返信]
大東亜建設記念営造計画や東京計画1960の構想も重要な実績と考えます。実際に建てられなかったことや構想のみで終わったことをマイナスイメージととるのはどうかと思われますので、断固記載すべきです。(エティエンヌ・ルイ・ブーレーのように、実現しなかった建築計画のことばかりが今も話題にされる人もおります、念のため。)--Nopira 2007年9月24日 (月) 12:24 (UTC)[返信]

丹下健三氏に興味を持ちこのページへアクセスした利用者はすべて建築学に精通している訳ではありません。「1959年 東京計画1960(1959年~1961年)実現せず」 このような記述から何が理解できるのでしょうか? 適切な解説もなく主要作品の一覧に並べれば理解が深まるとも思えません。>実現しなかった建築計画のことばかりが今も話題にされる人もおります…と仰ってますが、話題になったことがWikipediaの百科事典の記述として有意義な解説もある記事なら掲載には反対はしません。が、単なる計画案のみをリストアップするだけなら他の個人的なホームページや建築学を専門にしたWebページで続けて頂けれはと考えます。--U ssop 2007年9月24日 (月) 16:39 (UTC)[返信]

「適切な解説」は本文記事に言及してあると思います。よく本文をお読みになって頂きたいと思います。記事がわかりやすく書かれるべきなのは当然のことですが、私は何故に建築学に精通しておられない「特定の個人の方を基準にして」ウィキペディアの記事が書かれなければならないのかがわかりません。ウィキペディアは既存の百科事典のうちでも世界最高峰とされるエンサイクロペディア・ブリタニカと、項目数、記事内容、正確性などを各国で、ことあるごとに比較されております。
「単なる計画案のみをリストアップするだけなら他の個人的なホームページや建築学を専門にしたWebページで続けて頂けれはと考えます」とありますが、建築学にとっては、どのような建築計画であれ、「単なる計画案」というものは存在しません。実現しようがしまいが、内容こそが建築学的に問われ、建築史に残って行くのです。たとえ実現された建築物が取り壊されてこの世から無くなったとしても、建築プランの素晴らしさ故に、建築史に残って行くのと同じことだからです。それをも業績や主要作品に列記して「現存しない」と補記するわけです。「ビルド・アンビルドにかかわらず、優れた一作品によって建築家は記憶される」とは高名な建築家・槙文彦氏の言葉です。実現されなかった単なる計画案にもかかわらず、優れた計画案がたくさんあることこそが、丹下健三氏の特徴なのであって、事実、丹下健三の都市計画の中で一番有名で名高いのが、本文記事でも言及されております海上都市計画「東京計画1960」であり、丹下の建築界への衝撃的なデビューと言えば、実施が端から計画されていなかった「学生コンペ」の応募作「大東亜建設記念造営計画」なのです。それは建築学の常識であり、そのことをこそ「建築学に精通している訳ではない、丹下健三氏に興味を持ちこのページへアクセスした利用者」がまず、この開かれた百科事典ウィキペディアで知り学ぶべきことです
おわかりでしょうか。そのことは本文をよく読み、記事内容と主要作品の年譜と相互にご参照いただければ、閲覧者の方が「意図的・作為的」でなければ誤解しようのないことであると確信しております。実現しなかった計画案をも、建築学に貢献し建築史に残る立派な作品として記載することが「丹下健三氏のマイナスイメージを狙った意図的・作為的なもの」とするのは、建築学の常識以前の明白な誤解に基ずく「曲解」ともいうべきもので、なんら説明不足でも記事の筆者のほうに説明責任があることでもないと考えます。
また、あなた様の手によって「この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります」とのテンプレートが貼付けられておりますが、年譜が一覧的な時系列での人物像の把握を、主要作品の欄では建築内容の変遷の流れを一瞥的に把握するのに有意義であると思いますから、なんらWikipedia:雑多な内容を箇条書きした節を避けるにも当たらないと思います。仮に百歩譲って「実現せず」ではなく、どういった「補記」ならば、あなた様のような方にご理解が戴けるようになるのか、どうか一方的な改善要求をされるのではなく、建設的な御提言が戴けると有り難いのですが。--茶々 2007年9月25日 (火) 12:18 (UTC)[返信]
単に作品名や計画名をリストアップしているだけなら分かりにくいでしょうが、既に本文内に計画についての説明はなされています。作品リストしかない記事よりははるかに有用でしょう。--Nopira 2007年9月26日 (水) 04:30 (UTC)[返信]

>すぐれた建築計画でもその通りに実現されないことは多々あります。
これを説明するためのスケッチや模型等の画像があれば良いのですが、難しいでしょうか?--福太郎 2007年12月11日 (火) 11:14 (UTC)[返信]

ウィキメディア・コモンズにはないでしょうから、外部リンクを張ることになると思いますが、そのうち捜してみますね。--茶々 2007年12月11日 (火) 16:53 (UTC)[返信]
「東京計画1960」の画像なら、丹下事務所のオフィシャルサイト(既に外部リンク済み)にあります。--茶々 2007年12月11日 (火) 17:05 (UTC)[返信]
丹下先生の活動がただ単に「ビル造ってました。たまにポシャってました。」ではなく、実現の可否に問わず活動全体そのものが高度経済成長〜昭和史に絡む「世界の丹下」たらしめる所である、と文脈上説明する上で、「業績」節や「評価」節で「未完の作品」を画像で紹介すると、次に来る「主要作品」年表も生きてくる、則ち上の方で言われている「雑多な内容〜」という議論も起きない事ではと考えて画像があれば良いのに、と考えました(なぜ「注記」が「評価」と「主要作品」の間に挟まれているのでしょう…)。しかし実際、著作権クリアしてアップして…としていると色々と難しいでしょうね。ご返答有り難うございました。--福太郎 2007年12月12日 (水) 09:05 (UTC)[返信]
お申し出のご趣旨、よくわかりました。本文の書き方の工夫の方も「ゆっくり」検討してみることにします。これは私感ですが、『丹下健三』の記事は完成にはほど遠く、まだまだ検討の余地があり、一応査読に回せるようになるまでには、まだ大分かかりそうです。今の所、3合目くらいの印象です。注記の中には、本文の中で独立項目を立てて詳しく論じたいものもあります。すべて分量次第、今後の検討課題です。「注記」の位置のことは、私にもよくわかりません。本文に「補記」すると自動的にその位置に来ます。記事の編集の仕方の問題ではなく、プログラムの方の関係だと思いますが、最近、本文の注をクリックすると淡いブルーの背景で該当部が強調されて表示されるようになったのは、ありがたいです。
実は今回の「編集合戦」(でもないか... )でわかったことなのですが、建築界以外の人は、未実施の建築計画を何か本当にネガティブに捉えられているようですが、建築界ではその差をほとんど気にしていません。コルビュジエ全集とかライト全集とか、巨匠の作品集は未完の模型や図面やドローイングだらけです。まあ、一般的な感覚からいえば、街場の工務店の大工さんか何かが、実際に建てた家ならばともかく、未実施の設計図面をも自分の作品だと世間に向かっていうならば、それはちょっとという感覚なのかもしれませんが、コンペに応募するような建築家は実施未実施を区別しないばかりか、様々な要因で時には不本意な変更を迫られ、自分の考えていたのとはまるで違ったものになる実施設計の方を、自分の作品として評価しない人もいます。建築学科を卒業した学生ならば、卒業制作も自分の作品だと見なしていますし、それがちゃんとしたものであるならば、建築界もそれなりに評価します。また歴史的にはクロード・ニコラ・ルドゥーエティエンヌ・ルイ・ブーレーが有名ですが、現在でもCG表現だけで生きている建築デザイナーもいることはいます。--茶々 2007年12月12日 (水) 12:51 (UTC)[返信]
注記ですが註釈を置きたい場所に註釈節を作って<references />を置いておかないとちゃんと表示されませんよ(自動表示されるようになっているとは私も知りませんでした…)。なので注記節を関連項目の上に移動。
>コンペに応募するような建築家は実施未実施を区別しない
安藤忠雄曰く「コンペで若い奴らに負ける事もしょっちゅう。負けたらそりゃ凹むよ」との事。何年か前に東京現代美術館でやっていたルイス・バラガン展も言われてみれば半数近く「未実施」作品だったような…。一方で「イタリアの著名建築家が設計した」という某奇天烈公共施設もあり。。。建築界の事は良く解りませんが、安藤、磯崎年代の建築家やそれに類する人物を見るに「三島由紀夫の如く闘う連中」だという認識を何となく抱いております。--福太郎 2007年12月12日 (水) 16:38 (UTC)[返信]

独自研究的な記述について[編集]

本文、脚注ともに独自研究、エッセイ的な記述が多いように思います。この分野に詳しい方による整理をお願いしたく思います。--水原怜雅 2008年1月23日 (水) 11:22 (UTC)[返信]

東京帝国大学[編集]

経歴の欄に東京帝国大学大学院と出ていますが、戦前・戦中の帝国大学に大学院なるものは存在しないのではないでしょうか?確証はありませんが、念のため…。以上の署名の無いコメントは、124.24.213.126(会話履歴)さんによるものです。

東京大学#年表の項目をご覧下さい。>1886年3月 工部大学校を統合し、帝国大学令により「帝國大學」と改称(法・医・工・文・理の5分科大学および大学院を設置)とあります。また、ウィキペディア内の検索ツールで「東京帝国大学大学院」と打ち込んでいただければ、戦前戦中の数多くの人物の大学院入学卒業履歴を例示することが出来ます。また、ノートページに投稿される場合には署名をお願い致します。Wikipedia:ノートページでの慣習的な決まり#守るべきルールを参照下さい、念のため。以上、利用者:124.24.213.126さんの疑問に対する回答でした。--茶々 2008年6月8日 (日) 08:36 (UTC)[返信]

画像「東京カテドラル聖マリア大聖堂 1964」の差し戻しについて[編集]

「東京カテドラル聖マリア大聖堂 1964」の写真をシフトレンズで撮影、あるいは、Adobe Photoshop Element 6.0 Macintosh でシフト加工、または、広角レンズで被写体の垂直を出した構図で撮影した写真のトリミング加工による画像「ファイル:St. Mary's Cathedral Tokyo.jpg」を掲載した版に差し戻しました。項目「丹下健三」では丹下健三氏の作品(建築物)をより忠実に再現した画像を掲載する方が適切であると考えます。遠近歪みが顕著な画像を掲載することは丹下氏の作品を理解あるいは例示する上で不適切であると考えます。--Nzrst1jx 2010年3月7日 (日) 23:06 (UTC)。語句変更。--Nzrst1jx 2010年3月8日 (月) 08:06 (UTC)[返信]

「要出典」に対する情報源の開示[編集]

 お断り:「要出典」に対する当該箇所執筆者の側からの応答としては、本来であればリファランス・タグ(脚注)で処理すべきなのでしょうが、丹下健三記事内での他の「注記」の表現との整合性を考え、このノートページでの詳解をもって、「要出典」への回答に代えさせていただきたいと思います。

「日本の近代建築は、丹下の東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)によって初めて世界のトップレベルに引き上げられたと言ってよい」という一文の、どの箇所への信憑性の疑義なのかは、「2009年12月9日(水)01:17の版」編集内容要約を見ても判然としませんが、まず「日本の近代建築は、丹下によって世界のトップレベルに引き上げられたと言ってよい」の部分は衆目の一致するところであり、大方の識者にとりましては自明なことであると思われます。したがって問題の箇所は、「丹下の東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)によって」という部分なのか、あるいは「初めて」という部分ということになります。

『丹下が、広島ピースセンター(広島市平和会館 原爆記念陳列館・本館. 現名称は広島平和記念資料館西館・東館1955年), 東京都庁舎(1957年), 香川県庁舎(1958年)の初期三部作でデビューした時, 熱い視線を送ってくれたのは,ヨーロッパではなくてアメリカだった. とりわけ,ワルター・グロピウスをはじめとするバウハウスCIAM系の建築家や論客たちだった』(藤森照信「新建築」2005年5月号pp.020-021)とは言えるのですが、一方で『戦後のアメリカがなぜあれほど丹下に注目したかについて, 磯崎さんから鋭い説を聞いたことがある. ヨーロッパから自立するためだった, と言うのである』(同書p.021)との指摘もあります。

『丹下は, 少なくとも3回は,心から尊敬するル・コルビュジエに会っている. (...)ル・コルビュジエに初めて会ったのは,1951年の第8回CIAM大会の時で,丹下の広島計画について「良い」とひと言だけ言ってくれたそうだが, 弟子の前川が連れてきた細身で小柄の,38歳でまだ一作も竣工作のない建築家について記憶にとどめたかどうか. 2度目は8年後の1959年に開かれた第11回大会の時で,この8年間に初期三部作をはじめ愛媛県民館(1953年)や図書印刷原町工場(1955年)などができあがり,丹下は世界のタンゲにとなり,ル・コルビュジエは,丹下を自分に続く次の世代のリーダーと見ていたらしく,大会に先立ちパリのアパートに丹下を呼んで,何事か託している』(同書p.021)ということも、また『ル・コルビュジエが丹下をどう見ていたかについて,丹下本人に直接は何も言っていないが,ルシオ・コスタには語ったと言う.(...)「ル・コルビュジエがブラジリアを見に来た時, 私の次ぎはタンゲだ, と言った」というのである』(同書p.021)ということもある意味、コルビュジエ派の丹下(孫弟子に当たる)に対するものですから、当然と言えば当然です。このコルビュジエの評価がどの時点でのものかは、コスタの証言中にはっきりとした言及がないのでわかりません。ブラジリアが1958年-1960年ですから、1960年の東京計画を受けたものとするのが順当ですが、コルビュジエが急逝したのは1965年のことですから、1964年の東京オリンピックプールを踏まえたものだった可能性もあります。

国際的なコンペティションという観点から見ると、1958年のトロント市庁舎計画においても、また国際指名コンペでしたが、1960年のWHO(世界保健機構)本部計画においても丹下案は採用されず、国際的なコンペでの丹下の初勝利は、1965年-1966年のスコピエ都心部再建計画ということになります。

一般的に言えば、『もちろん、60年代のアーキグラムの活動は、丹下さんの東京計画1960に影響を受けました。あれは日本の建築を追従者としてではなく、指導者へと昇格させたプロジェクトでした』(ピーター・クック 建築家・アーキグラムの中心人物 「CASA BRUTUS」2005年9月号p.085)といったものや、『丹下作品に初めて遭遇したのは1961年頃、「東京計画1960」がそれでした。(...)これらがコンセプト面での影響だとするなら、実際の建築作品として国際的に影響を与えたのは、やはり1964年の国立屋内総合競技場でしょう。あのフォルムと構造は、まさにセンセーションでした』(デニス・シャープ 建築家・建築評論家・DOCOMOMO英国代表 同書p.081)といったところが、世界的に見たときの一般的な見方かと思います。

国内的に言っても、『代々木オリンピックプールは、丹下健三の代表作であり、20世紀の日本建築の最高の作品であるといっても過言ではないでしょう』(磯崎新 芸術新潮2004年6月号 p.79)という評価が定着しており、『ル・コルビュジエ以降では丹下さんが最高だと思います。ルイス・カーンがいくら凄いと言っても「代々木」にはかなわない』(藤森照信 GA JAPAN 85 2007年3-4月号p.130)という見方さえありますから、一般的な認知度や歴史的なメルクマールという見地から、「日本の近代建築は、丹下の東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)によって初めて世界のトップレベルに引き上げられたと言ってよい」と表現して差し支えないと思います。--茶々 2010年8月2日 (月) 14:27 (UTC) 字句修正。--茶々 2010年8月4日 (水) 18:30 (UTC)[返信]

雨漏り[編集]

なんで誰も雨漏りのこと書かないの?--以上の署名のないコメントは、122.16.144.240会話/Whois)さんが 2011年3月24日 (木) 20:47 (UTC) に投稿したものです(茶々による付記)。[返信]

東京カテドラル聖マリア大聖堂#建築構造の記事中では、「そのこと」についても触れられていますが、一般的に言えば、特筆すべきほどのことでもない、誰にでもあるありふれたことだからです。「フランク・ロイド・ライトの屋根」のことは建築界では有名な話です。閑話休題。以下は簡単な論理的命題です。
>なんで誰も雨漏りのこと書かないの?
の「誰も」の中に、あなたさま(=IP:122.16.144.240会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんのことです)は含まれているのでしょうか? ルールとエチケットを守って頂けるのなら、ウィキペディアの記事編集の機会は「誰にでも」開かれていることです。遠慮なさることはありません。あなたさま(=IP:122.16.144.240会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんのことです)が「そのこと」について書かない理由は、「誰よりも」あなたさまご自身(=IP:122.16.144.240会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんのことです)がよくご存知のことかと思います。「丹下健三の雨漏り」の心配をなさるより、ウィキペディアンとしてのご自分(=IP:122.16.144.240会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんのことです)の雨漏りの方の心配をなさって頂けると、いちウィキペディアンなわたくしとしては嬉しい限りです。老婆心になりますが、Wikipedia:ノートページのガイドラインWikipedia:署名Wikipedia:エチケットWikipedia:編集方針Wikipedia:ウィキペディアへようこそ、などを熟読されて、あなたさまが(=IP:122.16.144.240会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんのことです)有意義なウィキペディアン・ライフを送られますよう、陰ながらお祈り致しております。--茶々 2011年3月25日 (金) 04:36 (UTC)[返信]


そうですか。私は丹下の建物の雨漏りは「ありふれたこと」の範囲をはるかに超えているように思ったので聞いてみたんですが、編集者はありふれたことだと思っているのならそれで結構です。 それから、「誰も」の中に一読者である私が含まれているわけがないでしょう。編集の機会を誰にでも開くのはあなた方の勝手ですが、読者が同じように考えているとは限りません。記事の不備を指摘しただけの一読者を一方的に「ウィキペディアン」とやらにされるのは不愉快です。--以上の署名のないコメントは、122.16.144.24会話/Whois)さんが 2011年3月26日 (土) 01:57(UTC) に投稿したものです(T_suzuによる付記)。

これは、Wikipedia:ウィキペディアについてのルールの総体であるWikipedia:方針とガイドラインについて不案内な読者が陥りがちなある典型的な誤解、すなわちWikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと#記事ごとに筆者が存在すると考えることなのですが、私は当該記事の執筆編集者のひとりであり、上記に示されたような私の見解は「記事編集者」を代表する意見でもなければ、執筆者有志による議論を経た現時点での合意でもありません。ですから私は最初に私の投稿の要約欄で、これは参考意見であるとお断りしたつもりです。したがいまして、おかしな言い方になりますが、私の「ありふれたこと」という答えに対して、あなたさまが(=IP:122.16.144.24会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんのことです)
>そうですか
と納得されても、「なんだかなー」というのが私の偽らざる感想です。つまり、
>なんで誰も雨漏りのこと書かないの?
という「」に宛てたのか不明な無署名な問いかけは、ウィキペディアでは「必要」なことかもしれませんが、「十分」ではないのです。この「」は、Wikipedia:ウィキペディアについてのルールの総体であるWikipedia:方針とガイドラインについて不案内な読者にとっては、論理的には自分以外の地球上のすべての人間を意味しますが、ウィキペディア・プロジェクトの内で(たとえば丹下健三のノートページで)なされる見解表明の立場をウィキペディア・プロジェクトの外部に置いて、いわばご自分だけを神のような立ち位置にいる例外的な存在者に擬してなされるこのような、本人が「正しいと思っていること」を記事内容に加筆すべく質問の形を借りて自分以外の他者に対してあれこれと要求する「弱者(=読者)の恫喝」は、ここウィキペディアでは推奨されません。ウィキペディアは記事の権威(自己正当性の論拠)をウィキペディアの外部においておりウィキペディアは読者に対して記事内容の不備や瑕疵についての一切の説明責任を負っていないからです。それは記事執筆者においても同様であり、もしあなたさまが(=IP:122.16.144.240会話 / 投稿記録 / 記録 / WhoisさんやIP:122.16.144.24会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんのことです)丹下の建物の雨漏りは「ありふれたこと」の範囲をはるかに超えているように思っておられ、かつそれを百科事典の特筆性に値する事象だとお思いであれば、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:出典を明記するに留意されて、ご自分で記事を自由に編集されればよいことです。そのことにつきましては、Wikipedia:編集方針#議論の場ではありませんWikipedia:よくある批判への回答が参考になるかも知れません。
またウィキペディアンが何であるかはそれぞれに見解の相違があるでしょうが、たとえノートページであれクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンス 3.0およびGFDLの下で、ご自身(=IP:122.16.144.240会話 / 投稿記録 / 記録 / WhoisさんやIP:122.16.144.24会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんのことです)の投稿を公開することに同意してウィキペディア・プロジェクトの一端に参加された以上、私はあなたさまを(=IP:122.16.144.240会話 / 投稿記録 / 記録 / WhoisさんやIP:122.16.144.24会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisさんのことです)「ウィキペディアンとやら」のお一人と見なしておりますが、それでもご納得頂けないようでしたら、このようにお考え頂ければよいと思います。
>なんで誰も雨漏りのこと書かないの?
というご質問の件は、2ちゃんねるで、どうして(他の2ちゃんねらーは)誰も「丹下健三の雨漏り」のことを書かないの? とおっしゃっておられるのに等しいことではないでしょうか。たとえば、2ちゃんねるの丹下健三のに「雨漏り」の指摘がないのはなぜなのかとご不満にお思いであれば、その「名無しさん」がそこにカキコするなり、「丹下ケンゾーの雨漏りスレ」を新たにたてれば済むことで、わざわざ質問の形を取って他の2ちゃんねらーにお伺いを立てながらカキコを要請するほどのことでもないかと思います。もし、その「名無しさん」が自分は純粋に2ちゃんねるの読者であって、ご自分は「2ちゃんねらーとやら」ではないとおっしゃりたいのであれば、その方は2ちゃんねるに投稿することもなくただ大人しく2ちゃんねるを閲覧しているだけのことであり、したがって「名無しさん」ですらなく、その方は他の2ちゃんねらーとの間で不愉快な記号上の言葉のやり取りをする機会さえ持てなかったのではなかろうか、と私は思います。感情論としてはどうであれ、この無矛盾な理路はご理解いただけるものと「私」は確信致しております。私の見解表明で心証を害されたのであれば、なにとぞ深意をお汲み取り頂いてご海容のほどをお願い申し上げたく、そのように申し添えておきます。--茶々 2011年3月26日 (土) 13:02 (UTC) --茶々 2011年3月26日 (土) 14:27 (UTC) 表現上の微修正。--茶々 2011年3月29日 (火) 07:01 (UTC)不要な一文字除去および読点ひとつ追加。[返信]