Wikipedia:よくある批判への回答

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

ある人々はほとんど一瞬でウィキペディアのアイディアを気に入り、虜になります。別の人々はこんなアイディアは馬鹿げていて、真面目に考慮するには値しないと考えます。これまで私たちはウィキペディア・プロジェクトに対するたくさんの批判を受けてきました。ここでは、それらに対する回答を提示します。

ちなみに、ウィキペディアに向けられた批判の多くは、ウィキペディアが誰でも自由に編集できるウィキであることに根本原因があります。ですから他のウィキに対しても同様の異議が唱えられています。

ウィキペディアの記事は質が悪い[編集]

書きかけの記事だらけだ[編集]

私が知っているトピックを調べてみたが、そこにあったのは数個の単語しかない記事だった。ばかばかしい話だ!
このウェブサイトのすべてのページに巨大な「工事中」マークが必要みたいだ。参考文献として役に立たないし、要領を得ていない。

ウィキペディアは結果でもあり過程でもあります。結果としては、今現在はそれほど刺激的でもないし、まして立派なものなどではないと思われます。実際、「スタブ」(書きかけの記事)止まりの項目はたくさんあります。抜け落ちている重要な項目や情報もたくさんあります。月並みな成果しか得られていない部分もたくさんあります。しかしながら、過程として見るならば、ウィキペディアをある時点での状態によってではなく、いかに成長しているか、最終的な形にいかに近づきつつあるかによって判定することができます。

過程を理解する一つの方法は、完璧な記事、百点満点の記事を想像することです。まだ存在していない記事は零点、スタブ記事はおそらく1点でしょう。ウィキペディアの過程は、ある重要な編集が記事を10%完成に近づけるといったような、すべての記事の継続的な質の改善によって行われます。最初の編集は記事を百点満点中の零点から10点にするかもしれません。結果として見るならば、10点の記事はとても不完全に思われるに違いありません。しかし過程が進展するにつれて、記事は継続的に向上します。次の編集では10%近づいて20点に、その次には30点に、という具合です。さらなる編集が蓄積して記事の質は完成に向けてしだいに近づき、百科事典全体の質も同様に完成に近づきます。

また、製品としての評価にせよ、もしくは過程としての評価にせよ、スタブを根拠にプロジェクト全体を判断することは無意味です。2001年1月から始まったものにあらゆる重要な主題についてのあらゆる内容が備わっていることを期待するのは理不尽です。ウィキペディアにはたくさんの素晴らしい記事だってあるのです。そしてほとんどの記事は、単に「問題のない記事」です。

すべての記事は変化しています。なぜなら、私たちは常に作業し続けているからです。私たちが一般的な項目の大部分を網羅して、ほとんどすべての記事について少なくとも「スタブ」を得られる日が来るだろうということは、想像に難くありません。そのあとは、それらのスタブをさらに詳しくしていくのです。そして私たちは、その日を楽しみにしているのです!欠けている情報を補うために、ぜひあなたもウィキペディアの執筆に参加してみてください!

間違いだらけだ[編集]

自分が詳しい分野の記事を見てみたが、数多くの誤記や情報の欠落を発見した。はっきり言って、私はこんな低品質なものと関わろうとは思わない。

このプロジェクトは2001年1月に始まりました[1]。いろいろな人たちによって書かれた、一つの巨大な百科事典の草稿だと考えてください。

質の悪い記事に失望することは私たちにもあります。ただ、私たちは間違いを修正し、品質を高める方向に努力しています。私たちはお互いの仕事を編集できます。私たちは多くの異なるページで作業をしていますが、多くは全体がどう見えるかということに対してある種の共同責任のようなものを感じています。目玉の数さえ十分あれば、どんな間違いも深刻ではありません。私たちは常に最近更新したページをモニターしています。あまりにひどい誤りについては、ウィキペディアを毎日読んでいる多数の人々によってすぐに直されるものが少なくありません。そして、私たちはお互いの間違いを見つけ訂正するのを楽しんでいます。少しごらんになってまわれば、プロジェクトの若さのわりにはそれほど悪くないものがあるでしょうし、いくつかの記事は本当によいものだと思います。

また私たちはすべてのページの版を保存しており、過去の版にとても簡単にアクセスできます。変人がやってきてページを破壊すればほとんど即座にもとに戻されます。

もしウィキペディアを否定する理由が特定分野の記事の質の悪さであるなら、来年、あるいは数年後に戻ってきてみてください。その頃には、記事の誤りは修正され、さらに多くの詳細な情報が提供されているでしょう。これは、かなりあり得る話だと思います。もちろん、あなた自身がその誤りを修正してくだされば、その瞬間に記事はよりよいものになるわけです。あなたが私たちの作業に参加してプロジェクトの品質を高める手助けをしてくだされば幸いです。記事の品質が悪いのは、無知やゲリラ組織、変人たちやその他の悪意によるものだけではありません。限りある人々が限りある時間のなかで働いているということなのです。

「おたく」の書く記事は偏ってる[編集]

ウィキペディアへの寄稿者のほとんどは「おたく」だ。おたくは自分が重要だと考える情報を余さず書き込むことに熱心なあまりに、全体のバランスに気が回らない。結果としてウィキペディアの内容にはムラがありすぎる。

ごもっともです。基本的に、今ウィキペディアに書いている人々の多くは何らかのマニアや、インターネットのヘビーユーザーです。また、最初に立ち上げられた時には、甚だしく偏った記事もたくさんあります。ですが、たくさんの批判的な人々が最近更新したページを毎日見ています。その結果、ウィキペディアにはかなり出来の良いバランスの取れた記事もあるのです。

不特定多数の利用者に編集させるなんて非常識だ[編集]

アマチュアの書く記事なんて[編集]

著者や著者の経歴が記事や論文の信頼性の判断に大きく関わるというのは、研究の初歩だ。専門家なのか無学なのかもわからない人々による百科事典なんて信頼できるわけがない。そんな人間が書いた記事は間違いだらけに決まっている。無知を知識に混ぜても、知識が増えたりはしない。

正直なところ、ウィキペディアには情報不足なアマチュアが作った記事もあります。ですが、私たちはそれを歓迎しているのです。何もないよりは、後で改善されるだろうアマチュアによる記事の方がよいと考えているからです。そして、たいていの場合、そういった記事は、時間とともにより詳しい知識をもった新たな参加者によって完全に書き換えられます。そして参加者が増えるにしたがって、記事を平均水準まで引き上げてくれる真の専門家の数も増えています。

一般にアマチュアは、専門家と話をすると自分がアマチュアであることを自覚し、記事執筆そのものとは違った方法、例えばわからないところについて質問したり、記事のどの部分が不明確かを指摘したり、調査の下働きをしたりすることで貢献し始めます。記事の全体の構成や専門用語、文体がアマチュアにもわかるものになるようになっていなければ、専門家以外の人は誰も読むことができないような難解な記事の寄せ集めになってしまいます。これは「一般向けの百科事典」を目指すウィキペディアには望ましいものではありません。ウィキペディアでは、アマチュアと専門家が一緒に作業することによって、一般の人でも概要がわかるような記事を作り上げることができるのです。

ウィキペディアでは、誰もウィキペディアへの加筆を個人のものとして「所有」しようとしません。人類共有の知識として、さまざまな主題について「知られていること」をまとめるために、私たちは「一緒に」作業しています。この考え方は、みんなにとって有益です。確かに一人で取り組むのであれば、何かの項目について百科事典の記事を執筆することは、専門家が膨大な調査を行うのでなければできません。しかし大勢で取り組めば、それぞれの努力はわずかでも、そしてすぐには完成しなくても、すばらしいものを作り上げることができるのです。これはウィキペディアで数えきれないほど起こっていることです。

さて、この方法で一緒に作業するために、私たちには中立的ではない観点から書くことに反対するという方針があります。つまり、どんな主題についても、単に「ウィキペディアの観点」を記述しようとせず、すべての競合する観点について公平に記述するように配慮することです。例えば科学的な記事では極端に少数の意見には充分に触れられない傾向があります。しかしウィキペディアは紙媒体ではなく、枚数制限がないので、ウソ理論に関する情報もいくらでも書けます。ただし、その理論を「信じている人がいる」ことが真実であることを除けば、単に真実として説明されるわけではありません。

どんな論点についても、何が正しい観点なのかは、それぞれの人の理性に任せるべきですから、さまざまな競合する観点ができるかぎり明確に、完全に、そして共感をもって記述されることが最も重要です。このような中立的な観点から書くという共通の目的をもって、一つの記事にたくさんの人々が関わるということが、ウィキペディアプロジェクトを達成する最良の方法なのです。私たちは、この世界は理性的な人々であふれていて、ごく少数の破壊者の極悪の努力に負けることなく、理性的な結論に達せると信じています。これが楽観主義というものです。

そして、私たちはGNU FDLライセンスのもとでの配布や、誰でも使えるようなインターフェースと更新プロトコルを備えることで、「石のスープ」を作ることができるのです。ウィキペディアのトラフィック(データ量)が増えるに従い、今以上に専門家の助力を得るでしょうし、記事間の品質ギャップは埋められていくでしょう。これによって、高水準にある更なる専門家たちがプロジェクトにひきつけられていくでしょう。現在の、そして未来のウィキペディアの執筆者たちがあるべき水準についてしていないなどというのは、根拠のない発言です。

署名のない記事なんて信頼性がない[編集]

誰かが責任をもって執筆し署名していない記事の信頼性など判断できない。少なくとも主張を裏付ける適切な参考文献があげられていなければ、主張の信頼性を評価することはできない。

まず、私たちはWikipedia:出典を明記するという方針を掲げ、できるかぎり詳しく出典を示すよう執筆者たちに要求しています。

また、ある記事に「どの」専門家が寄与したかを知らなくとも、記事が何ヶ月もの間存在して、その分野に何人かの専門家が関わっていれば、その分野の記事は彼らによって査読されていると考えるのが妥当でしょう。ある意味、この方法とさまざまな領域の専門家の参加が保証されていることは、特定の記事を特定の専門家が書いた(とされている)ことよりも信頼性が高まるかもしれません。このようにいうと、「ウィキペディアの参加者の専門性はどの程度なのか?」とお考えになるでしょう。その答えは「いくつかの領域で専門家がいますし、つねに新規の高度な能力を持つ人々がやってきている」ということです。私たちが求めているのは、プロジェクトの水準をすこしずつ高めてくれる数人の専門家の継続的な参加です。たくさんの、あるいはほとんどの専門家が私たちにそっぽをむいたり、私たちのことをどうしようもないと思ってもかまわないのです。

また、百科事典の記事はオリジナルな情報源ではないということを忘れないでください。百科事典の記事はそのトピックを概括するものであり、良い記事であればその情報の出典を示しているものです。すなわち、その情報は情報源の質と、その情報源に照らした時に正確であるかどうかによって判断できます。逆に言えば、出典が明記され、出典に忠実であることが守られていれば、執筆者自身の経歴によって信頼性を確保する必要はないのです。

専門家の査読がないなんて[編集]

高い品質を確保するには専門家の査読が必要だ。『ブリタニカ百科事典』に権威があるのは、専門家の執筆と査読体制によって品質を確保しているからだ。専門家の参加も査読もないウィキペディアは『ブリタニカ』の水準に達することも、『ブリタニカ』の権威を持つこともないだろう。

『ブリタニカ』の記事が高い品質を持っており、そのために権威があるのは確かです。そしてウィキペディアは『ブリタニカ』ほどの信頼を得たソースではありません。ですが、専門家の執筆と査読体制のみが高い水準を維持し達成する唯一の方法でしょうか。もっとオープンな方法が他にもあるのではないでしょうか。

ウィキペディアは、その良いテストなのです。ウィキペディアでは実際に素晴らしい記事も生み出せていますし、しかも、このプロジェクトの秀逸な記事全てが博士や専門家によって書かれたというわけではありません。

ウィキペディアの自己修正の過程(ウィキペディアの共同創設者であるジミー・ウェールズは、これを「自己回復作用」と呼んでいます)は非常に健全です。この健全性の価値は、公開されたレビューの過程を経験していない人から、とても過小評価されやすい部分です。オープンであることが品質に利益をもたらすという仮説はすでに検証されており、仮説を裏付けるように、ウィキペディアの中で多くの人々によって作られた記事のいくつかは、いまや立派な百科事典の記事と比べても遜色ないのです。

また、参加者同士での査読の試みも行われています。英語版やドイツ語版では、少人数のグループによって記事の品質の認定を行うシステムも始まっています。このシステムでは、査読した版に承認の印をつけて品質を責任を持って保証することで、これまで同様のオープンな編集を可能としつつ、高い品質のコンテンツを固定して提供することを可能としています。

トンデモ話の寄せ集めになるにちがいない[編集]

どんな変人でもウィキペディアに書くことが「できる」。ホロコーストはなかったとか、月面着陸は映画のスタジオで行われたとか、フリーメイソンやらユダヤやらが政府を支配しているとか言っているものさえある。誰でもどのページでも編集できるなら、変人が記事を全く無意味なものに変えてしまい、何もかもめちゃくちゃにしてしまうだろう。

たしかにそういうことはあります。ですが、それほど多くはありませんし、容認できないようなトンデモを削除することは可能です。

「トンデモ」にもいろいろあります。まず、善意からではあるけれども情報の不足した素人仕事があります。正直なところ、ウィキペディアにはこういうものはかなりあります。でも、時間が経てば、たいていは新たな投稿者、特にそのことに関する専門家がやってきて執筆し、素人仕事の形を整えてくれるのです。

これの対極に全くの支離滅裂なものもありますが、こういうものは最近更新したページに現れるやいなや、あっという間に削除されます。「トンデモ」を主張するウェブサイトは、無断で編集されることを絶対に許さないような人々によって書かれているので、どんなに間違っているとわかっていても訂正することができません。そういった変人たちの多くは議論ができないか、連絡がつきません。しかし、他の人が自由に文章を改変することのできるウィキペディアでは、彼らの居場所はありません。そういうものは単に育たないのです。

両極の間にはより判断の難しいものがあります。支持されてはいないけれど理にかなっていそうな情報、強く偏った記事、そして情報とトンデモの混ざったものです。ウィキペディアには偏った記事や、奇異な観点を呈している記事に反対する「中立的な観点」という強い方針があります。この方針の主旨は、奇異な観点を沈黙させたり削除したりすることにはありません。むしろ、それらは文脈の中に置かれるのです。項目が奇異であればあるほど、修正されやすくなります。ウィキペディアの記事には所有者がいないので、執筆者それぞれが自分が真実だと納得できるような情報を投稿していきます。書いたものに対する批判的な編集を受け入れられない変人たちは、ウィキペディアには自説を披露する演壇がないことを知り、去っていきます。他の人の意見を受け入れられる人は、変人であることを止めます。

つまりこういうことになるでしょう。確かにトンデモはウィキペディアに加えられます。しかし、それは迅速にウィキペディア化され、百科事典にふさわしいものに成長していくのです。

けれども、すごくしつこい変人もいる。誰かが自分の主張するトンデモがいつも最新版になるようにしていたらどうするのだ。

ウィキペディアンは中立の方針を実施することに対しては、かなり強固な立場を守っています。たいていの場合、論争が起きても、少なくとも大局的な合意には達することができています。個人的な偏見を記事に反映することを強情に主張する人々はまれですし、もしいたとしても、大抵ガツンとやられます。

自説にしつこくこだわり、他の人の編集や意見をどうしても受け入れない人物に対しては、他の利用者が合意すれば、ウィキペディアへの編集をブロックすることもあります。

論争の場になるだけだ[編集]

議論好きがやってきて、論争だらけになって炎上するだろう。ウィキペディアはネットニュースみたいになって終わるだけだ。

たしかに、議論や論争は少なくありません。ですが、ウィキペディアにはネットニュースにはない、非常に重要な二つの特徴があります。まず、多くのネットニュースでは、他人の文章を編集することはできませんが、ウィキペディアでは編集できます。これによって創造的で平等に責任をもつ共同作業が奨励されます。より強い言い方をすれば、ウィキペディアには情報の所有者がいないので「他人の文章」などというものがありません。第二に、ネットニュースには仲間からのプレッシャーやコミュニティーで同意され強制されるルールがありませんが、ウィキペディアにはあります。

その上、ネットニュースは議論のための場ですが、ウィキペディアは百科事典プロジェクトです!百科事典を一緒に作っているという仲間意識が、多くのオンラインのディスカッション・フォーラムでは見られない礼儀をウィキベディア内にもたらしています。私たちはお互いを尊重しなければなりません。なぜなら私たちはお互いの編集者なのですから、そして多かれ少なかれ同じ目標をみんなが持っているのですから。巨大で高品質なフリーの百科事典を作るという目標を。

記事に関する議論は、記事本体から関連するノートページや、その議論を中立的な文脈で提示する新しい記事に移動されます。ノートページでの議論は、さまざまな競合する観点の長所についてよりも、どうやって記事を改善するかに集中する傾向があります。私たちには、記事を改善するのに何ら役に立たない口論をするゲリラ組織のためにはノートページを使わないという方針があります。

宣伝に使われるだけだ[編集]

製品やサービスを販売する人々が彼らの製品についての新規記事を書いたり、もっとひどい場合には製品に関連する一般的記事を編集して彼らの製品の広告を追加したりすることはないのか?

この種のことはすでに起こっています。基本的には、必要以上に会社への外部リンクを加える、正当な記事を広告で完全に置き換える、自分の会社についての熱烈な記事を書く、の3つの方法があります。1つ目と2つ目の方法は真の荒らしとして扱われ、記事は以前の版に戻されます。もちろん、スパマーは特に厳しく扱われます。3つ目の方法は、通常中立的な観点に従って記事が編集し直されます。

ちなみに、まともな企業の広報担当者なら、ウィキペディアを魅力的な広告媒体だとはあまり思わないでしょう。バナー広告、ポップアップ広告、電子メール広告などの従来型のウェブベースの広告は、ウェブビーコンやサーバー・ログを使って応答率を直接計測できます。ですが企業が製品を広めるためにウィキペディアを使っても、応答率は計測できません。

結果を計測できないからといって、新しいマルチ商法の広告を出したい人を止めることはできませんが、他の利用者の編集に対抗して、見せたい広告が見える状態にウィキペディアの記事を常に戻しておくには多大な時間と労力が必要でしょう。

皮肉にも、広告スパムはウィキペディアにとって実際に利益をもたらすこともあります。例えば視力を矯正する製品の広告主が、ウィキペディアの視力についての記事に製品の広告を書き加えたとします。そのスパムに偶然遭遇した読者は、広告として書き込まれた方法や主張を視力についての知識を深める情報としての形に書き直すかもしれません。結果として、視力についての記事は以前よりも健全な記事になるのです。

スパム攻撃の標的になるに決まっている[編集]

ウィキペディアの全てのページにバイアグラ広告を投稿するスクリプトを書くのはたやすいことだ。スパマーや荒らしがウィキロボットを使えば、格好の標的になる。

ウィキペディアを荒らすスクリプトは実際にあります。多くは検索エンジン最適化を目的にしています。しかし、大問題になるほどではありません。それにはいくつか理由があります。まずスパムを元に戻すのは簡単ですし、誰でもできます。また、IPアドレスをブロックするだけで、スパムを防止できますし、スパムを検知し、差し戻すためのスクリプトも稼働しています。

しかし、そもそもウィキペディアは、法的理由によっても、スパムの標的になりにくいのです。多くの国では、ネットニュースや電子メールのスパムに対する法律はありませんが、私たちが荒らしとよんでいるウェブサイトの破壊行為についてはこれを制限する法律があります。

IPアドレスをブロックできないように別々の場所から、スクリプトを走らせて破壊行為やスパムを繰り返し投稿し始めたらどうするのか?

さまざまな大手ウェブサイトを苦しめているDoS攻撃などのことですね。ウィキペディアでもこのような攻撃は若干経験していますが、今までのところうまく防御できています。

もし広範囲にわたる攻撃を企図する者が現れた場合、管理者は関係するすべてのIPアドレスをブロックすることができますし、特定の編集をできないようにしたり、特定の編集を自動的に差し戻したりするような技術的手段をとることもできます。例えば、一部のウェブサイトについてはリンクを加える編集ができないようになっています。緊急の場合には、特定の時点以降に行われた全ての編集を差し戻すこともできますし、ウィキメディア財団が決断を下せばシステム管理者は一時的に全ての編集やアカウントの作成を停止することもできます。ただし、多くの良識的なボランティアのおかげで、実際にこういった処置が必要なほどにスパム問題が深刻化したことは今のところありません。

そもそもこんなもの要らない[編集]

アマチュアの作った百科事典なんて必要ない。『ブリタニカ』を見れば十分だ。

ウィキペディアの強みは、誰にでもフリーに使えるサーバスペースと綿密に設計されたページ構築ツールを使用し、フリーかつオープンなコンテンツを提供している点です。これは、誰もがコンテンツを「いかなる目的にも」、特に、教育目的に使えることを意味しています。世の中には、ブリタニカを家に揃えることが出来る人、ブリタニカのオンライン版購読料を月々払える人ばかりではありません。また、専門の研究機関に属している研究者たちだけが世の中の全ての事象を知っているわけではありません。ウィキペディアには、ブリタニカにはできないことができる可能性があるのです

いったいどうして百科事典が必要なのか?検索エンジンを使って探している情報を検索すれば十分だし、もっと面白くてもっと最新の情報が見つかるだろう。

素晴らしい検索エンジンをもってすれば、インターネットそのものが巨大で使いやすい百科事典のように機能しないこともありません。しかし、それがオープン・コンテンツでコミュニティによって作られた百科事典が必要ないということになるのでしょうか?必ずしもそうとは限りません。

実際、検索エンジンが単に「たいていの場合に」便利であるという事実は、価値がありません。ウェブには無価値なものがたくさんあり、ゴミ情報へと誘導されやすいのです。このページでウィキペディアに向けられた多くの点はウェブ全体にも当てはまります。インターネット上の情報を適切に利用するには、何らかのフィルタリング・システムが必要です。

そのメカニズムは、例えば、個人的な懐疑主義によるもの、仲間内の意見によるもの、一般論によるもの、中央集権化によるものなど、いろいろな形態があります。ウィキペディアは、それ以外、すなわち大衆による査読を採用しています。あなたが見つけたものを置いておくには手軽な場所です。ですが、あなたの言っていることを実証できなければ、他の人がそれを除去するでしょう。百科事典は、真実かどうか確かでないものを置く場所ではないのです。

そもそも、従来のウェブ上の個人ページも組織のページも時代遅れになりがちです。"mailto:"という唯一のフィードバック・メカニズムが(スパムのせいで)ほとんどなくなっていることにより、誤った事実が何年間もそのままにされています。一方、ウィキシステムでは、全ての読者が編集者です。最初の著者が興味を失ったり、あまり時間をかけなくなって長期間が経過した後も、記事に興味を持った人が記事を最新のものに置き換えることができます。

ウィキペディアは、時満ちて、いかなる主題に関しても、検索エンジンで簡単に見つかる情報よりも、より適切で信頼できる情報をもつようになる可能性があります。それこそが、私たちの目指すところです。

マークアップが使いにくい[編集]

ウィキペディアの使っているソフトウェアは百科事典を共同記述する仕事には不十分である。WYSIWYGで編集できないし、複雑なことをするにはHTMLCSSの知識が必要だ。

そういう観点では、ウィキペディアは理想に届いていない部分もあります。ですが、私たちはこうした問題のいくつかを改善しようとがんばっています。ウィキペディアの使用しているソフトウェア(MediaWiki)はオープン・ソースで、多くの技術者が有償無償で開発に貢献しています。このことによって、例えば初期に最も大きな懸案事項であった数学関係に関しては、TeX記述法を導入し問題はなくなりました。同様に、画像などのファイルのアップロードや挿入のシステムも導入済みです。表の作成方法も簡略で、HTMLやCSSの知識がなくても基本的なページの編集ができます。

私の文章をいじられたくない[編集]

ウィキペディアに協力したとして、自分が精魂込めて書いた文章を通りすがりの人に編集させることは耐えられない。そんなシステム自体、非常識だ。

自分の文章に手を入れられるのが耐えられないのであれば、ウィキペディアへの参加には向いていないかもしれません。ですが、世の人すべてがそう思っているわけではありません。自分の書いたものが他の人によって直され、よりよいものに育っていくこと、あるいは他の人が書いたものを自分の貢献でよりよいものに育てていくことを面白いと感じる人もたくさんいます。ウィキペディアはそういう人たちの貢献によって成長しているのです。

ウィキペディアの継続的発展という推定は疑わしい[編集]

いままで成長してきたからといって、これからも成長し続けるとは限らない。ブームが去ればさびれるだけだ。

私どもが「これまで伸び率Rで成長してきたから今後いつまでも伸び率Rで成長するだろう」とだけ考えているとお思いなのでしょうか?確かにそれだけではいただけません。しかし、それだけではないのです。実のところ、伸び率を明確に予測するのは間違う危険が大きいと考えています。しかし、ウィキペディアが急速に成長して行くであろうこと自体は十分に考え得ることです。

ここで、ウィキペディアが成長するだろうという根拠になっているのは単純な統計推測ではなく、これまでの成長に貢献してきた因子に注目した結果です。例えば、Google検索経由の大量のアクセスがあります。Googleからのアクセスが多ければ多いほど、ここを見て書き込んでいく人も増え、結果としてGoogleからのリンク量はさらに増えることになります。脱落していく人もいるとはいえ、活動的な参加者数も差し引きでは増加しています。

ウィキペディアへリンクを張る人もどんどん増えています。このこともGoogleでのウィキペディアのランクを上げる結果となります(そしてアクセス数も増え、内容も増え…)。すでにウィキペディアのページが大量にGoogleの上位検索結果に並んでいるのです。言ってしまえば「金持ちはより金持ちになる」のです。これは単なる予想ではありません。ウィキペディアがこれまで成長してきた理由なのです。

サイトが大きくなれば質も良くなっていくことを前提にしているようだが、量がそのまま質になるわけではない。放っておけば記事が良くなっていくなんて根拠はどこにもない。

少なくともウィキペディアに関してですが、記事数・参加者の増加が質の向上につながる根拠はあり、三つは挙げることができます。

まず、基礎的な「問題のない記事」がなければ専門家のやる気を削いでしまいますが、参加者が多くなればそのような記事をより早く揃えることができるので、専門家にはより高度な記事を執筆してもらうことができ、プロジェクトをより面白くしてくれることになります。

次に、記事に目を通す人の数が増えれば、それだけ間違いが発覚しやすくなります。いつでも編集できるシステムには時間も味方です。その分野に詳しい人がここに来るのが月に一人や二人でも、一年間では10~20人が来ることになり、誤りが直される可能性も増えます。

そして、参加者が増えればそれだけ各分野の専門家の絶対数も多くなるというのがこれまでの経験から言えることです。専門家の絶対数が多ければ記事の質もより高く保たれるでしょう。下手なことを書けばすぐに専門家によって添削されてしまうとか、記事がすでに充実しているなどの状態では、誰だってよく知らない事柄について書き込もうとなんて思わないでしょう。

本当に巨大になったら悪意のある人々の注意を引き始めるだろう。結局は、荒らしが編集者の手に負えないほどひどくなるだろう。

あなたに賛同し、ウィキペディアがそのうち限界に到達すると考える人も私たちの中にいます。ですが、私たちの多くはウィキペディアは永遠に限界を迎えることがないと信じています。これまでスラッシュドット現象に見舞われたり、マスメディアで記事が取り上げられたりして膨大なトラフィックが来て、「悪意ある人々」も少しはやってきましたが、彼らはすぐに荒らし甲斐がないことに気づきました。データ量が増えるに従い、プロジェクトに関わり、関心を持つ人が増えます。荒らす人が増えれば増えるほど、荒らしを撃退する人が増えるのです。

まともな知識人は参加しないだろう[編集]

大半のまともな知識人は間違いなくウィキペディアに参加しないだろう。結局、ウィキペディアは誰からも何も引き出すことはないだろう。

確かに私たちは、すべての人に船に飛び乗ってくれることを期待しているわけではありません。ですが、「まともな知識人」の参加を得る可能性は「ある」のです。なぜなら多くの立派な知識人が「実際に」ウィキペディアに参加しているからです。

ウィキペディアに参加することは、まず何より楽しいのです。そして私たちが何かしら良質なものを作っているのだと知りさえすれば、これは知に真剣に取り組んでいる人々にとっても面白いものになるのです。そのことは、エリック・レイモンドによるオープン・ソース運動についての有名な論文「伽藍とバザール」[2]を読んだ人なら誰にでも明らかなはずです。

もしも私たちのプロジェクトに関わっていることを明らかにしたくないのなら、あなたはいつでも匿名を選ぶことができます。

責任の所在がわからない[編集]

ウィキペディアで名誉を毀損されたということで抗議をする人たちもいます。しかし、責任は本来各執筆者にあり、裁判等の手続きは各執筆者に対してなされるべきです。なお、ウィキペディアでは各執筆者のプライバシーを重視し、IPアドレス以外個人を特定できる情報は一切保有していません。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ ところで、現在は2014年です。
  2. ^ Eric S. Raymond, The Cathedral and the Bazaar山形浩生による日本語訳

関連項目[編集]