ノート:おみ漬け

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「近江商人と山形」[編集]

2012年2月17日 15:35 (UTC) の編集で下記「近江商人と山形」が加筆されていますが、

  • 記事との関連が薄いこと - 近江商人との関係は山形県に特有の事情ではないし(近江国内に飛地を領する藩は山形県外にも多数ある)、おみ漬けの語源が「近江漬け」というのも伝承に過ぎない
  • 独自研究の傾向が強いこと

以上の理由から除去し、本ノートに転記しました。

近江商人と山形


近江商人は、その営業形態が今日の商社活動の原型であったため古くから全国に広がった。だから、山形にも居て特産品を遠国へ売りさばいていたにちがいない。その後、幕末の30年間は山形と近江は直接結びつく。天保の改革を断行した老中筆頭水野忠邦は浜松藩主であったが、浜松3万石のほかに近江に5千石の飛領があった。忠邦が失脚した後、水野家は浜松の領地を失って山形へ転封されたが、近江の領地は残った。近江側からは奥州水野藩 (引用者注:山形藩を「奥州」と呼ぶことがないとは断言できないが、一般には「羽州水野藩」または「出羽水野藩」?) と呼ばれ、近江商人が山形と遠隔地との商社活動を担った。

--KAWASAKI Hiroyuki会話2014年5月4日 (日) 03:24 (UTC)、加筆・修正: 2014年5月4日 (日) 04:35 (UTC)、2014年5月4日 (日) 07:54 (UTC)[返信]