ジャネット・ジェローム

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1874年の肖像写真
ビザンティン風の衣装に身を包み、テオドラ皇后に扮したジェニー

ジャネット・ジェローム (Jeanette Jerome、1854年1月9日-1921年6月9日)は、イギリスの政治家ランドルフ・チャーチルの妻で、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの母親。愛称はジェニー(Jennie)。結婚後はレディー・ランドルフ・チャーチル(Lady Randolph Churchill)と呼ばれた(なお、フランスでは婚姻後も元の姓を名乗る夫婦別姓である)。

結婚[編集]

ユグノーの血を引くアメリカの銀行家レナード・ジェロームと妻クラリッサの間に、4人姉妹の次女として、ニューヨークブルックリン区で生まれた。父は大のオペラ好きで、ソプラノ歌手ジェニー・リンドにちなんで次女の名前をつけたという。若い頃から社交界の美女として知られ、1874年にパリのイギリス大使館で第7代マールバラ公ジョン・スペンサー=チャーチルの三男ランドルフと結婚。新郎新婦は、初めて会ってからわずか3日で結婚を決めたが、両親の同意に時間がかかったため数か月遅れることになった。

この結婚で、長男ウィンストン(1874年-1965年)と次男ジョン・ストレンジ(1880年-1947年)の2子をもうけた。当時の上流階級のならいとして、母であるジェニーは育児にほとんど関わらず、大部分は乳母エヴェレスト夫人がおこなった。ウィンストンは大変このエヴェレスト夫人を慕ったが、同時に母を崇拝しており、寄宿制のハーロー校へ入学してからおびただしい量の手紙をジェニーへ送った。ジェニーが返事を出したのは希であったというが、成人したウィンストンとジェニーは強い絆で結ばれた友人同志となった。ウィンストンにとって、ジェニーは母というより姉であり、政治的な師とみなしていたとされる。

男性遍歴[編集]

ジェニーは、イギリス上流階級や政治サークルの中の、最も上に位置する人々と交わった。彼女は周囲を魅了し引き込み、機知に富み知性がある強烈な個性の持ち主でありながら、常に周囲を笑いで包み尊敬もされていた。プリンセス・オブ・ウェールズアレクサンドラも、彼女の人間性に魅せられた一人だった。ジェニーは、アレクサンドラの夫アルバート・エドワード(のちのエドワード7世)の愛人であると言われており、そのことをもちろんアレクサンドラは知っていたにもかかわらず、である。自身の家族のつながりや華やかな男性遍歴をとおして、ジェニーは夫ランドルフと長男ウィンストンの初期の出世に大変な後押しをしていた。

次男ジョン・ストレンジはランドルフ卿の子供ではなく、アイルランド貴族である5代ロードン伯ジョン・ストレンジ・ジョスリンの子であると長く噂されてきた。実際、ジェニーは一時ロードン伯と関係があった。彼女がランドルフの妻である間、キンスキー伯爵プリンス・オブ・ウェールズのアルバート・エドワード、セルビア王ミラン1世といった、夫以上に名の知られた人物と愛人関係にあったという。

再婚[編集]

ランドルフが1895年に亡くなると、5年後にジェニーは軍人ジョージ・コーンウォリス=ウェスト(1874年-1951年)と再婚した。長男ウィンストンとジョージは、誕生日が16日しか違わなかった。彼とは1914年に離婚し、その4年後にはナイジェリア派遣のイギリス軍人モンタギュー・ポーチと再々婚した。この3度目の夫はウィンストンより3歳若く、第一次世界大戦後に帰国するものの、一攫千金を求めて1921年に再度アフリカへ渡った。 ジェニーはランドルフの妻である間、夫以外の男性と関係をもったが、夫への忠誠は最後まで変わらなかった。ランドルフの出世を支え、自身が使える権力を夫のために用いたし、彼の演説の多くを筆記するというほどであった。2度目・3度目の夫たちには、そのような忠誠は示さなかったようである。ランドルフの死後、再婚をしてもジェニーは「レディー・チャーチル」として扱われることを好んだ。再婚すれば前夫の称号を使えないのが当然のことであり、ジェニー自身はその称号を使いはしなかった。彼女は変わらずに上流階級の輪の中におり、それを誰もとがめなかった。

1921年、ジェニーはロンドンの自宅で急逝し、遺体はランドルフの眠るチャーチル家の墓に葬られた。

関連項目[編集]