シルキーサリヴァン

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シルキーサリヴァン
欧字表記 Silky Sullivan[1]
品種 サラブレッド[1]
性別
毛色 栗毛
生誕 1955年2月28日[1]
死没 1977年11月18日[1]
Sullivan
Lady n Silk
母の父 Ambrose Light
生国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生産者 Mrs. Nell Frances Roberts and Dr. Riley Roberts[1][2]
馬主 Tom Ross and Phil Klipstein[1][2]
調教師 Reggie Cornell(アメリカ[2]
競走成績
生涯成績 27戦12勝[1]
獲得賞金 157,700ドル[1]
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シルキーサリヴァンSilky Sullivan1955年2月28日 - 1977年11月18日)は、アメリカ合衆国競走馬種牡馬。後方一気の追い込みのスタイルを得意とし、1958年のサンタアニタダービーを制するなど活躍、以後も追い込みの代名詞として名を馳せた。

経歴[編集]

  • 特記がない限り、競走はすべてダートコース。また、当時はグレード制未導入。

出自[編集]

カリフォルニア州の歯科医ライリー・ロバート、およびその夫人ネル・フランシス・ロバートが所有するメリーマンファームにて生産したサラブレッドの牡馬である[1]。「ビッグ・レッド」に例えられるような輝く栗毛の馬体で、絶大な筋肉量に16ハンドの体高、3歳時で1080ポンド(約490キログラム)の馬体重を誇る雄大な馬であった[2]。食欲も旺盛で、1日に12-15クォーツの穀物を食べ、最終的には1200ポンド(約544キログラム)を超えていたという。胴回りも一段と大きく、特注の腹帯を使っていた[2]

1956年のデルマーイヤリングセールにおいて、シルキーサリヴァンはトム・ロスとフィル・クリプスタインの2名に10,700ドルで購入された[1]。両名はシルキーサリヴァンをレジー・カーネル調教師に預け、バンデージシャドーロールなどの馬具を赤で統一させた[3]。また、蹄鉄は通常でつくられるが、シルキーサリヴァンには特注のアルミニウム製の蹄鉄が用意されていた[2]

競走馬時代[編集]

シルキーサリヴァンはデビュー当時から追い込み一辺倒の競馬を続けていった。2歳で迎えたデビュー戦では先頭から8馬身1/4差を覆しての追い込みで勝利し、それから2戦後の一般戦でも12馬身差を追い抜いて勝利を手にした[4]。バークレーハンデキャップでは14馬身差を詰めての3着であったが、その次の一般戦では再び同じ追い込みで17馬身差を差し切って勝利した。特に有名なものがその後に迎えたゴールデンゲートフューチュリティ(12月7日・8ハロン)で、ここでシルキーサリヴァンは先頭から27馬身離れたところから追い込みを開始し、その上で全馬を追い抜いてステークス競走勝ちを収めた[4][3][5]

3歳シーズン(1958年)初戦の一般戦においても追い込みのスタイルは崩すことなく、ここでも25馬身差から追い込んでクビ差での勝利を手にした。続くカリフォルニアブリーダーズチャンピオンステークスでは32馬身後方から追い上げを開始し、残り1ハロンで14馬身差だったところから先頭までクビ差まで迫ったものの、そこでゴールして2着に敗れた[4][3]。勝ったオールドペブルに騎乗していたエディ・アーキャロは、自身が手綱をしごき始めた時点ではシルキーサリヴァンの姿がまったく見えていなかったという[3]サンタアニタパーク競馬場で迎えた次の一般戦において、シルキーサリヴァンは6.5ハロンの短距離戦で先頭から41馬身も離れた位置から追い上げを始め、最後の直線ですべてを追い抜いて勝利する絶大なパフォーマンスを見せた[4][3]

1958年のサンタアニタダービー(3月8日・サンタアニタパーク・9ハロン)は、シルキーサリヴァンの人気も相まって61,123人の観衆が詰めかけていた[3]。スタートからいつも通りの最後方に位置したシルキーサリヴァンは、最初の5ハロン時点で先頭から28馬身離された位置にいた。ここで鞍上のウィリー・シューメイカーが合図を送ると即座に動き出し、どんどん先行く馬を追い抜いて、ついには2着馬ハーコールに3馬身1/2差をつける完勝劇を見せつけた。勝ちタイムは1分49秒40[3]

シルキーサリヴァンはケンタッキーダービーを目指してチャーチルダウンズ競馬場へと送られ、そこで7ハロンの前哨戦に出走するが、ここでは30馬身差から追い上げて4着に終わっている[3]。5月3日に迎えた本番でも追い込みは不発に終わり、ティムタムが優勝するなか14頭立ての12着に沈んだ。また続くプリークネスステークスにおいても8着と大敗し、これをもって西海岸へと戻っていった[3]。その後地元で2戦して1勝を挙げたものの、関節を痛めたことによりデルマーの海で海水浴治療にあたっている。競走能力こそ取り戻したものの、以前のようなパフォーマンスには戻らなかった[3]。また同年の冬に風邪を引き、これがもとで喘鳴症が出るようになってしまった[6]。シルキーサリヴァンは4歳になる1959年まで競走を続け、27戦12勝の戦績で引退した[4]

引退後[編集]

シルキーサリヴァンは種牡馬としては失敗で、133頭の産駒のうち勝ち上がりが63頭(47.4%)、ステークス勝ち馬も4頭のみ、母の父としても影響を残すことはなかった[1]。1963年、シルキーサリヴァンが売りに出されると、サンフランシスコの外国車輸入業者であったジェル・クヴェールによって買い取られ、以後グリーンオークスタッド牧場で余生を過ごした[1]。シルキーサリヴァンは温厚で、写真撮影にはポーズをとって対応し、また子供を乗せるのも容易だったという[1]

1977年11月18日に心不全で死亡、その遺骸は活躍の場であったゴールデンゲートフィールズ競馬場の内馬場に埋葬され、同地には記念碑も建設された[1]。没する前年の1976年、ゴールデンゲートフィールズ競馬場では「シルキーサリヴァンハンデキャップ」を創設し、その栄誉を称えている。

血統表[編集]

シルキーサリヴァン血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 エクリプス系
[§ 2]

Sullivan
栗毛 1944 イギリス
父の父
Panorama
栗毛 1936 イギリス
Sir Cosmo The Boss
Ayn Hali
Happy Climax Happy Warrior
Clio
父の母
My Aid
栗毛 1933 イギリス
Knight of the Garter Son-in-Law
Castelline
Flying Aid Flying Orb
Aideen

Lady n Silk
栗毛 1948 アメリカ
Ambrose Light
栗毛 1933 フランス
Pharos Phalaris
Scapa Flow
La Roseraie Niceas
Eblouissante
母の母
Foxhole
鹿毛 1941 アメリカ
Chance Play Fair Play
Quelle Chance
Coffee Cup Whichone
Afternoon
母系(F-No.) (FN:4-m) [§ 3]
5代内の近親交配 Orby 5x5, Sundridge 5x5, Dark Ronald 5x5 [§ 4]
出典
  1. ^ [7], [8]
  2. ^ [8]
  3. ^ [7], [8]
  4. ^ [7], [8]


脚注[編集]

参考文献[編集]

  • William H. P. Robertson (1964). The History of Thoroughbred Racing in America. Bonanza Books. ASIN B000B8NBV6 

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n Avalyn Hunter. “Silky Sullivan (horse)”. American Classic Pedigrees. 2021年2月16日閲覧。
  2. ^ a b c d e f Robertoson p.523
  3. ^ a b c d e f g h i j Robertoson p.524
  4. ^ a b c d e J. Keeler Johnson (2017年4月25日). “What’s in a (Race) Name? The Stunning Rallies of Silky Sullivan”. America's Best Racing. 2021年2月16日閲覧。
  5. ^ This Day In History: 1957-12-7”. NTRA.com. 2021年2月16日閲覧。
  6. ^ Robertoson p.525
  7. ^ a b c 血統情報:5代血統表|Silky Sullivan(USA)|JBISサーチ(JBIS-Search)”. JBISサーチ(JBIS-Search). 日本軽種馬協会. 2021年2月16日閲覧。
  8. ^ a b c d Silky Sullivanの血統表”. netkeiba.com. 2021年2月16日閲覧。