シャルル・ド・ベルジック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シャルル・テオドール・ド・ベルジック(フランス語名:Charles Théodore Henri Antoine Meinrad de Belgique, オランダ語名: Karel Theodoor Hendrik Anton Meinrad van België, 1903年10月10日 - 1983年6月1日)は、ベルギーの王族。フランドル伯。
アルベール王子(後のアルベール1世)と妃エリザベートの次男としてブリュッセルで生まれた。兄はレオポルド3世、妹は最後のイタリア王妃マリー=ジョゼ。ナチス・ドイツに囚われの身となった兄レオポルド3世の代わりに、1944年から1950年まで『摂政王子』として統治した。
シャルルは、1944年にナチス・ドイツから解放された時に摂政に任命された。レオポルド3世の第二次世界大戦中の統治は、平民のリリアン・バエルとの再婚同様に疑問視され、彼が王位にとどまることは激しい議論を巻き起こした。
シャルルの摂政政治は、ドイツによる占領で生じた出来事とレオポルド3世を巡る議論に終始した。この時期は後の十年間に重要な影響を及ぼす出来事があった。彼の摂政政の間、重要な政治経済の決定がなされたのである。
ベルギーは、マーシャル・プランによるアメリカ合衆国の支援を受けて国内経済の急なスタートを切った。建設部門は、政府が戦争で傷んだ建物の修繕を許可し、社会全体に新規の住宅建築が進められたため刺激を受けた。財政部門は、カミーユ・ギュット法を通じて衛生化され、戦争を目的とした間に非合法に利益をあげることが禁じられた。社会福祉制度が導入され、労使交渉制度が整備された。
もっと重要なことは、1948年の議会選挙で初めて女性参政権が導入されたことである。
さらに、摂政制下でベネルクスが成立し、ベルギーは国際連合の一員となり、北大西洋条約機構に加入した。
1950年、国民投票によってレオポルド3世が復位し、シャルルは摂政の座から降りた。彼は公的生活から引退し、オーステンデに家をかまえ、芸術に没頭する日々を送った。彼の描いた絵には、"Karel van Vlaanderen"(フランデレンのシャルル)と署名してあった。1983年6月、オーステンデで死去。それからわずか3ヶ月後に、兄レオポルド3世も死去した。棺は、ラーケンの聖母教会にある王室霊廟に葬られた。

