シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール

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シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール・エ・ド・ラフェト
1727年2月7日 - 1797年1月9日
Marquis de Boishébert - Charles Deschamps de Boishébert et de Raffetot (1753) McCord Museum McGill.jpg
生誕 ケベック
死没 フランス、ラフェト
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シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール・エ・ド・ラフェト(Charles Deschamps de Boishébert et de Raffetot、1727年2月7日 - 1797年1月9日)は、アカディア人追放への反対運動の指導者である。アカディアに拠点を置き、ニューブランズウィックの川沿いに住むアカディア難民たちの保護に力を尽くした[1]ボワシェベール砦は、彼の名にちなむ。ニューブランズウィック州ボーベア島の、ボーベア国立公園には、アカディア人の追放により、難民となったされたアカディア人をここに住まわせたことによる彼の記念碑が建てられている。

ジョージ王戦争[編集]

アナポリスロイヤルの戦い (1746年)[編集]

1746年10月から11月3日まで[1]、ボワシェベールはジャン=バティスト・ラムザイの指揮のもと、1746年のアナポリスロイヤルの戦いに参戦した[2]が、これは成功しなかった[1]

ポール・ラ・ジョワイエの戦い[編集]

ポール・ラ・ジョワイエ(アマースト砦)

1745年5月から6月ルイブールの戦いの後、ニューイングランド民兵主体のイギリス軍は、サンジャン島(現在のプリンスエドワード島)へ針路を取り、首都ポール・ラ・ジョワイエに向かった。ここには、フランス系15人とミクマク族の兵100人の駐屯隊がいた[3]。2隻のイギリス海軍軍艦に分乗した200人のニューイングランド兵は、ポール・ラ・ジョワイエに駐留した。アカディアを取り戻すべく、1746年にラムザイがケベックからサンジャン島に派遣された。シグネクト地峡ボーセジュール砦に着いたラムザイは、サンジャン島にボワシェベールをやり、イギリス軍の規模を偵察させた[4]

ボワシェベールが戻ったのち、ラムザイはジョゼフ=ミシェル・レガルデュール・ド・クロワジーユ・エ・ド・モンテソンと500人の兵をポール・ラ・ジョワイエに送り込んだ[5]。500人の兵のうちの200人は、ミクマク族の兵だった。1746年7月にポール・ラ・ジョワイエの近く、ノースイースト川(ヒルズボロ川)の岸で戦闘が行われた[6]モンテソンは40人のニューイングランド兵を殺し、残りを捕囚して、初めての自分自身による陣頭指揮で名を挙げた[7]

グランプレの戦い[編集]

ボワシェベールはグランプレの戦いにも参戦した。1747年の冬、ラムザイはグランプレに駐留していたアーサー・ノーブルと一戦交えるため、ケベックから進軍した。1747年2月11日、ボワシェベールはこの戦闘で負傷し、フランスの勝利の後、残りの部隊とケベックに戻った[1]

ル・ルートル神父戦争[編集]

ル・ルートル神父戦争の間、ボワシェベールはイギリス海軍士官のジョン・ルースと、先を争いつつセントジョン川河口へ到着した。ルースはこの河口をイギリスのものであると主張していたが、ボワシェベールはそこにボワシェベール砦を建て、その後ボーセジュール砦の建物と合わせて、メナガッチ砦として改築した。また彼は漁師に変装し、アカディア人のフランスへの忠誠心が、どのようなものであるかを確認するために、アカディア中の川を行ったり来たりした[1]

フレンチ・インディアン戦争[編集]

メナガッチ砦の記念碑

1754年、ボワシェベールは、メナガッチ砦の指揮官となり、イギリス軍のセントジョン川の拠点作りを阻止した。しかし、1755年6月16日の、ボーセジュール砦の戦いで、ロバート・モンクトン軍が勝利したことで、ボワシェベールの戦歴は転換点を迎えることになった。その後の戦いでボワシェベールは、フランス軍に属する士官でありながら、ミクマク族とアカディア人を率いて、イギリスにゲリラ戦を仕掛けた[8]。ボーセジュール陥落直後、モンクトンは少人数で守っていたメナガッチ砦に大規模な分遣隊を送り込み、もはや勝利の見込みはないことに気付いたボワシェベールは、敵軍の到着前に砦を焼いて、敵との交戦を続けながら、地元民の中から難民を探し出した[1]

プティクーディアクの戦い[編集]

ニューブランズウィックの地図。右にシェディアクやミラミチ、左にセントジョン川が見える。

ボーセジュール砦の戦いからほどなくして、ボワシェベールは、イギリス軍によるシプディ(シェポディ)、プティクーディアク(ヒルズボロの近く)、そしてメムラムクックの諸集落の襲撃計画を知り、すぐにシプディに向かったが、時遅く、この村への襲撃を阻止できなかった。しかし、1755年の9月3日、ボワシェベールはイギリス軍に立ち向かい、3時間に及ぶ激闘の末敵軍に完勝し(この時のイギリス軍の被害は50人戦死、60人負傷)[9]、イギリス軍は逃走した。ボワシェベール率いるフランス軍は、戦死はわずかに1名で、最も困窮していた30家族を連れてセントジョン川に戻った[1] が、シェディアクからコカーニュまでの間には、追放から逃れてきた200もの家族が新たに定住することができた[9]

1756年1月20日、ボワシェベールはフランソワ・ブーシェ・ド・ニヴェルヴィユをヴェルテ湾(Baie Verte)にやって、イギリスのスクーナー船に放火させた。ニヴェルヴィユは水兵たちの不意を襲って、7人を殺し、1人を捕囚して船を燃やした。同じころ、ボワシェベール自身は120人の兵と共にカンバーランド砦(かつてのボーセジュール砦)を攻撃した[10]。同じ年の5月にはルーネンバーグ奇襲を行った。

また、10月12日には、モンクトン砦(かつてのガスパロー砦)への遠征に着手したが、到着前に敵軍が兵を撤退させ、砦を燃やした[11]

1758年7月26日ルイブールが陥落してからは、ポールトゥールーズ(現在のノバスコシア州セントピーターズ)付近の多くのアカディア人を、ミラミチの駐屯隊のもとへ逃がした[4]

アカディア難民キャンプ[編集]

ボーベア島

追放から逃れてきたアカディア人のために、ボワシェベールはシェディアク、ミラミチ、そしてレスティガッチ川流域に難民キャンプを作った。1755年から1756年の冬は一時期、600人のアカディア人がいるシェディアクで過ごした。その翌年、ボワシェベールはシェディアクを発ってミラミチに行き、ル・キャン・デスパランス(ケープ・ホープ)をボーベア島に建てた。この難民キャンプには1000人から3500人ものアカディア人がいたと言われる[12]1757年1月には、キャン・デスパランスは配給物資を巡って雰囲気が悪化し、暴動が起きたため[13]、ボワシェベールはミラミチ川沿いのボーベア島に行って、彼の本拠地とアカディア人の難民収容所を作った。シャルル・ジェルマン神父の援助もあって、彼は、イギリスへのアカディア人の抵抗勢力を維持しようと努めた[1]

その後レスティガッチ川沿いのプティロシェル(現在のケベック州ポワント・ア・ラ・クロワ)にも難民キャンプを作った[14][15]エイブラハム平原の戦いの後、1760年レスティガッチ川の戦いが起き、キャンプの300人以上のアカディア人が捕虜となった[16]また翌1761年末には、別に330人が捕虜となった[17]

ボワシェベールは、キャンプには常に注意を払っていた。彼が、最も困窮している家族を連れて行こうとしていたにもかかわらず、ボーバサンの入植者がすでに入植地を後にしていたこともあった。物資が足りないためできることは限られていた。この物資不足は1756年から1758年の、多くのアカディア人が最も困窮していた時期と合致していた[1]

ボワシェベールはまた、サンジャン島方面作戦で、アカディア人の脱出を取り仕切り、セントジョン川方面作戦でもアカディア人を手助けした。

トマストン(メイン州)の包囲[編集]

フレンチ・インディアン戦争中の1758年8月13日、ボワシェベールはミラミチを400人の兵と共に発って、メインのトマストンにあるセントジョージ砦を目指した。彼の部隊は9月9日に到着したものの、待ち伏せされ、撤退せざるを得なかった。これはボワシェベールにとって最後のアカディア遠征となった[18][19]。その後彼らはメインのフレンドシップを襲い、住民を殺しまたは捕囚した[20]

ケベック攻略とその後[編集]

ボワシェベールは、アカディアの志願兵による軍団とともに1759年夏、ケベックの防御とエイブラハム平原の戦いに参戦した。その年の冬、彼はこれが最後となるアカディアへの帰還をし、カナダへの援軍を集め、気迫を欠いたアカディア兵のモラルを立て直した。1763年、ボワシェベールはアカディア人をカイエンヌ(フランス領ギアナ)に定住させる計画に加わり、その任務を受けようとしたが受けられなかった。1774年の植民地軍の検査官への申し入れも却下された。彼の領地ラ・ブーティユリエ(またはリヴィエール・ウエル)はその年に売却された。その後はフランスのラフェトに住み、1797年1月9日にそこで死んだ。このラフェトは結婚によって得た領地だった[1]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j Phyllis E. Leblanc Dictionary of Canadian Biography Online
  2. ^ John Clarence Webster's, "Memorial on Behalf of Sieur de Boishebert" Saint John: Historical Studies No. 4, Publications of the New Brunswick Museum, 1942,p. 12.
  3. ^ Canadian Military Heritage
  4. ^ a b DESCHAMPS DE BOISHÉBERT ET DE RAFFETOT, CHARLES - Dictionary of Canadian Biography Online
  5. ^ John Clarence Webster's, "Memorial on Behalf of Sieur de Boishebert" Saint John: Historical Studies No. 4, Publications of the New Brunswick Museum, 1942 p. 11.
  6. ^ Mi'kmaw History - Timeline (Post-Contact)
  7. ^ LEGARDEUR DE CROISILLE ET DE MONTESSON, JOSEPH-MICHEL - Dictionary of Canadian Biography Online
  8. ^ John Gorham. The Far Reaches of Empire: War In Nova Scotia (1710-1760). University of Oklahoma Press. 2008. p. 177-206
  9. ^ a b ARSENAULT, Bona, Histoire des Acadiens, Bibliothèque nationale du Québec. 1978. Lemaéac p. 180
  10. ^ John Grenier, p. 186
  11. ^ John Grenier, p. 188; Phyllis E. Leblanc Dictionary of Canadian Biography Online
  12. ^ John Grenier, p. 185
  13. ^ John Grenier, p. 188
  14. ^ Faragher, p. 414
  15. ^ History: Commodore Byron's Conquest. The Canadian Press. July 19, 2008
  16. ^ John Faragher, p. 415
  17. ^ John Grenier, p. 211
  18. ^ Phyllis E. Leblanc Dictionary - Canadian Biography of Dictionary Online
  19. ^ Cyrus Eaton's history, p. 77 (文献の詳細情報が未記載)
  20. ^ The history of the state of Maine: from its first discovery, A. D ..., Volume 2 By William Durkee Williamson, p. 333

参考文献[編集]

  • John Grenier. The Far Reaches of Empire: War in Nova Scotia, 1710-1760. Oklahoma University Press.
  • John Clarence Webster, "Memorial on Behalf of Sieur de Boishebert" (Saint John: Historical Studies No. 4, Publications of the New Brunswick Museum, 1942)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]