プティクーディアクの戦い

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プティクーディアクの戦い
フレンチ・インディアン戦争
Deportation of Acadians order, painting by Jefferys.jpg
イギリス軍によるアカディア人への立ち退き命令
1755年9月4日
場所 アカディアのヴィヤージュ・デ・ブランシャール(現ニューブランズウィック州ヒルボロー近く)
北緯45度55分56秒 西経65度10分29秒 / 北緯45.93222度 西経65.17472度 / 45.93222; -65.17472座標: 北緯45度55分56秒 西経65度10分29秒 / 北緯45.93222度 西経65.17472度 / 45.93222; -65.17472
現況 フランス、アカディア、先住民連合の勝利
衝突した勢力
グレートブリテン王国の旗グレートブリテン王国 アカディア民兵
ミクマク族
指揮官
ジョセフ・フライ
シルヴァナス・コッブ
シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール・エ・ド・ラフェト
戦力
200 120
被害者数
戦死22
負傷数人
戦死1
負傷6
ヴィヤージュ・デ・ブランシャールの位置
ヴィヤージュ・デ・ブランシャール
アカディア(ニューブランズウィック)

プティクーディアクの戦い(仏 Bataille de Petitcoudiac、英 Battle of Petitcodiac)は、フレンチ・インディアン戦争の戦闘である。イギリス植民地軍と、フランス士官シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール・エ・ド・ラフェトに率いられたアカディア反乱軍とが、1755年9月4日に、プティコディアック川に面したヴィヤージュ・ド・ブランシャール(現在のカナダニューブランズウィック州ヒルボロー)で交戦した。

目次

概要[編集]

ボーセジュール攻略後[編集]

シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール・エ・ド・ラフェト

1755年6月16日ボーゼジュール砦の攻略ののち、ノバスコシア総督チャールズ・ローレンスの命令のもと、イギリス軍はアカディア人の追放作戦に出た。指揮官の大佐ロバート・モンクトンは、多くのアカディア人の村や、民兵に奇襲をかけた。一方で、アカディア側の指揮官ボワシェベールは、攻略後姿をくらましていた。モンクトンは、ボワシェベールが、ニューブランズウィックのどこかにいることは気づいていた。ボーゼジュールの攻略で、指揮官のヴェルゴが降伏したものの、この攻略で、ニューブランズウィックすべてが降伏したわけではなく、イギリスを倒す機会はいくらでもあった。[1]

攻略の後、モンクトンは、セントジョン川の河口のサンタンヌ砦(フレデリクトン)[1]を守っていたボワシェベールを立ち退かせるため艦隊を送った。守りきれないと悟ったボワシェベールは砦を壊した。[2]イギリス軍が、プティクーディアク川への遠征を計画しているという情報を受け取ったボワシェベールは、シプディに急いだ[3]。フランス本国からも、ルイブールからも、そしてケベックからも、今後のアカディアに関して命令らしきものは来なかったが、ボワシェベールは、対イギリス同盟のため、個人的な人脈も活用して先住民とも接触を図り[1]120人のアカディア人、先住民マリシートミクマクとともにゲリラ軍を結成した。反乱軍のリーダーとなったボワシェベールは、ミラミチ川の谷を拠点に、アカディア人をイギリス軍からのがれさせ、ケベックに送るための手助けをした。[3]

ファンディ湾作戦が行われていた8月28日、モンクトンは少佐ジョセフ・フライと200人の民兵の遠征軍を、かつてのボーゼジュールであるカンバーランド砦から、2隻の武装したスループに乗せ、プティクーディアク川に面したアカディア人の入植地を、根絶やしにするよう命令を出した[2]シェポディの建物に火を放った後、遠征軍は川を前進し、集落に火をつけ、道すがら村人を捕虜としてつかまえた[2]

戦闘[編集]

9月2日、遠征軍がヴィヤージュ・ド・ブランシャールの内外に火を放ち、集落地根絶の作戦を開始した。本隊はプティコディアック川の東岸にいて、50人から60人ほどの、ジョン・インディコット率いる分遣隊が西岸にいた。[4] 彼らが教会に火を付けた時、ボワシェールと80人の兵[5]とあるため、が攻撃を仕掛けた[2]。イギリス軍は堤防の陰に引き揚げ、フライが残った兵と上陸して指揮を執った時は、かなり動転していた。3時間に及ぶ激戦の後、フライは結局兵たちをせきたててボートに乗せ、退却した。イギリス軍の戦死者は22人、負傷者は6人だった。[6]

難民キャンプ[編集]

ボーベアール島

イギリスにとっては手痛い敗戦だった。フランソワ・ル・グエルヌ修道院長[7]によれば、この戦いは「ボーゼジュールのすべての大砲よりもイギリス軍を震え上がらせた」[8]反乱軍の多くにとっては、初めての戦闘体験であった[9]

この戦いはアカディア人にとって初めて見えた希望だった、ボワシェベールはアカディア人家族30人を救出し、農作物と備蓄食糧とが賄えるほどの畑もいくつか確保した[10]。ラフェトは「キャン・ド・レスペランス」(Camp de l’Espérance)として知られる、アカディア難民のキャンプをボーベアール島、今のニューブランズウィック州ミラミチに作った。シャリュール湾レスティゴーシュ川にもキャンプがあり、そこには、アカディア人たちはどうにか自分たちでたどり着いた[11]。レスティゴーシュ川の難民キャンプは、プティ・ロシェルにあった。ここは、今のニューブランズウィック州キャンベルトンの近くである。[12]

脚注[編集]

  1. ^ a b c The Battle of the Petitcodiac, September 2, 1755 (Bradley Shoebottom) - Academia edu.
  2. ^ a b c d Faragher, p. 350
  3. ^ a b Faragher, p. 350; Grenier, p.180
  4. ^ Grenier, p. 180. 注:歴史家のグルニエは、戦場はプティコディアクではなく、むしろシプディであったとしている。一方で、一次資料として、ジェレディア・プレブル少佐の手紙に、戦いは「シポディア」で行われた旨のことが書かれている。 (参照:Peter Landry. The Lion and the Lily. Trafford Press. 2007. p. 535)
  5. ^ 英語版では300人の兵と記されているが、他国語版のInfoboxの人数から判断する限り不自然であるため、前出のこの資料に準じた。
    The Battle of the Petitcodiac, September 2, 1755 (Bradley Shoebottom) - Academia edu.
  6. ^ Grenier, p. 180. フランス軍によれば、イギリス軍戦死者は80人となっている。 (参照 Grenier, p. 180).
  7. ^ Histoire de Acadiens et de l'Acadie - François Le Guerne, l'abée
  8. ^ Faragher, p. 351
  9. ^ Grenier, p. 180
  10. ^ Grenier, p. 181
  11. ^ Lockerby, 2008, p.17, p.24, p.26, p.56
  12. ^ Faragher, p. 414; 参照: History: Commodore Byron's Conquest. The Canadian Press. July 19, 2008 http://www.acadian.org/La%20Petite-Rochelle.html

参考文献[編集]