エデン・ミハロヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

エデン・ペーテル・ヨージェフ・ド・ミハロヴィチÖdön Péter József de Mihalovich [[ˈødøn ˈmihɒlovitʃ]], *1842年9月13日 フェリチャーンチ(現クロアチアオシエク=バラニャ郡フェリチャーンツィ – †1929年4月22日 ブダペスト[1])はハンガリー作曲家・音楽教育者。独語名エドムント・フォン・ミハロヴィチEdmund von Mihalovich)でも知られる。

Edmund-von-Mihalovich.jpg

略歴[編集]

クロアチアの由緒ある貴族を父親にスラヴォニア地方に生まれる。最初にペシュトミハーイ・モショニーに師事した後、1865年ライプツィヒに移ってモーリッツ・ハウプトマンに師事し、1866年ミュンヘンペーター・コルネリウスのもとで学業を終えた。その後ペシュトに帰郷。ミュンヘンリヒャルト・ワーグナーと知り合い、1872年にペシュト・ワーグナー協会の会長に就任している。1886年から1919年までフランツ・リストの後任として、ブダペスト王立音楽院の院長に就任した。

4つの交響曲や多数の交響詩、いくつかの演奏会用序曲ピアノ協奏曲に加えて、6つのオペラ合唱曲歌曲を手懸けた。《交響曲ニ長調》は、1883年ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社によって出版されている[2]。ミハロヴィチは、ワーグナーの作風に徹底的に影響されているが、ハンガリーのナショナリズムの支持者であり、ゾルタン・コダーイベラ・バルトークのような後進を激励した。

主要作品一覧[編集]

  • 歌劇《鍛冶屋ヴィーラント(Wieland der Schmied )》(1876年-78年)
  • 歌劇《ハクバルトとジクネ(Hagbart und Signe )》(1882年、ドレスデン
  • 歌劇《トルディの恋(Toldi Szerelme )》(1893年)
  • 交響曲 第1番 (1879年)
  • 交響曲 第4番 (1902年)

註記[編集]

  1. ^ Musiklexikon Online: Biography Entry identifying Ödön Mihalovich with E. von Mihalovich”. 2008年6月10日閲覧。
  2. ^ Sonneck, Oscar George Theodore: Orchestral Music (Class M1000-1268) Catalogue: Scores in the Library of Congress - Google ブックス, page 582. OCLC link to Worldcat Information for Ödön (Edmund) Péter József von Mihalovich's D minor symphony”. Breitkopf & Härtel (1883年). 2008年6月10日閲覧。

参考文献[編集]

  • Don Randel, Harvard Biographical Dictionary of Music. Harvard, 1996, p. 588.

外部リンク[編集]