ウラジーミル・ヴォローニン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ウラジーミル・ヴォローニン
Vladimir Voronin
Vladimir Voronin 2006.jpg
ウラジーミル・ヴォローニン(2006年)

任期 2001年4月7日2009年9月11日

モルドバの旗 モルドバ
議会議長
任期 2009年5月12日8月28日

任期 1989年1990年6月6日

出生 1941年5月25日(72歳)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
Flag of Moldavian SSR.svg モルダビア・ソビエト社会主義共和国、キシニョフ県
政党 ソビエト連邦共産党
モルドバ共和国共産党

ウラジーミル・ニコライ・ヴォローニンモルドバ語: Vladimir Nicolae Voronin1941年5月25日 - )はモルドバ政治家。第3代大統領(在任:2001年 - 2009年)。日本語では慣例として「ウラジミール・ボローニン」とも表記する。

1941年5月25日、当時ソビエト連邦の構成国だったモルダビア共和国のキシニョフ県(現在の沿ドニエストルのデュバサリ地区コルジョヴァ村)に生まれる。ヴォローニンはスラブ風のフルネームであるが、民族的には生粋のルーマニア系である。祖父の名はIsidor Sârbuといい[1][2][3]、2005年に亡くなった母親の名はPelagheia Bujeniţăである。

学歴・経歴[編集]

1961年キシニョフ技術専門高等学校を卒業。パン製造工場の企業長を歴任する。1971年ソ連食品工業大学を卒業。同年共産党に入党し党活動を開始する。1983年ソ連共産党中央委員会付属社会科学アカデミーを卒業後、モルダビア共産党中央委員会組織部副部長。1985年ベンデル(現ベンデリ)市共産党第一書記。1989年モルダビア共和国内相を歴任する。

1991年ソ連内務省アカデミーを卒業。ソ連駐ベトナム大使に任命され赴任するが、ソ連8月クーデターに遭遇。クーデター後はロシア連邦内務省に籍を置いた。

政治経歴[編集]

1994年モルドバ共産党第一書記に選出される。1998年3月モルドバ議会議員選挙に立候補し当選する。この選挙でモルドバ共産党は議会で議席の四割を占めた。

ヴォローニンは、共産党議会内党派代表に就任し、2000年7月に大統領を議会で選出するという憲法改正を実現した。2001年ペトル・ルチンスキー大統領は議会を解散し、2月25日に選挙が行われ、総議席101議席中、共産党は71議席を獲得し第一党となった。4月4日、憲法の規定によりヴォローニンは議会で大統領に選出された(4月7日就任)。

ヴォローニン率いるモルドバ共産党は、モルドバにおけるロシア語公用語化、ロシア・ベラルーシ連合国家への参加などを当初は主張していたが、実際は外交政策を親欧米的なものに転換しようと図り、バラ革命オレンジ革命後は米欧との接近をより顕著にしたため一方でロシアとの関係はかなり冷え込んだ。モルドバ政府が、ルーマニア語学校を閉鎖した沿ドニエストル地方に対する経済制裁を科し、それに対抗してロシア側も、モルドバのワインや農産物などの国内輸入を制限したからだ。結局、沿ドニエストルのロシアに対するエネルギー債務を、モルドバが肩代わりする代わりに、互いに制裁解除する方向で解決を目指したが合意には至らなかった。

大統領退任へ[編集]

2009年4月5日に実施された総選挙で、ヴォローニン率いる共産党は引き続き第1党を維持したと見られているが、選挙結果に不満を募らせた野党支持者が翌6日から首都キシナウで反政府デモを開始。翌7日にはデモ隊が暴徒化して議会や大統領府を襲撃する事態に発展した。これらの動きに対し、政府側は再集計を実施するなどの妥協案を提示し事態収拾を模索している。前回(2005年)の総選挙の際も、前述のバラ革命・オレンジ革命に触発された野党支持者が反政府デモを行ったものの、その際には短期間で下火になっている。ヴォローニンは連続3選を禁じた憲法の規定により、大統領職を退かなければならないものの、その政治的影響力の大きさからロシアウラジーミル・プーチン首相のように首相に横滑りするなど何らかの形で院政を行使すると見られていた。そして、2009年5月12日にモルドバ議会の議長に就任した。これにより、院政を行使すると思われたが、大統領選挙で共産党の候補ジナイダ・グレチアニを大統領に選出することが野党のボイコットにより失敗。議会を解散しなければならなくなった。解散の結果、共産党は大きく議席を減らし、ヴォローニン自身も2009年9月11日に辞職した。

脚注[編集]

  1. ^ (ロシア語) An early publication about this fact was in 2005 by Gheorghe Budeanu in the Romanian weekly Timpul, issue 328 (Russian translation of the article).
  2. ^ (ルーマニア語) Ziua, 27 March 2008 (full article in Romanian)
  3. ^ Ziua, 27 March 2008 (Short version of the article in English)