ウォード・ヴァン・オーマン

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ウォード・ヴァン・オーマン
フルネーム Ward Tunte Van Orman
生誕 1894年9月2日
オハイオ州ロレイン
死没 1978年3月11日(83歳)
オハイオ州アクロン
国籍 アメリカ合衆国
飛行経歴
著名な点 1920年代から1933年にかけての気球レース
初飛行 1918年
免許 1918年
賞罰 ゴードン・ベネット・トロフィー (en優勝(1926年, 1929年, 1930年)

ウォード・ヴァン・オーマン(Ward Tunte Van Orman 、1894年9月2日 - 1978年3月11日)はアメリカ合衆国の技術者、発明家、気球乗りである。生涯を通じてグッドイヤー社で働き、膨張救命ボートや自動漏洩防止燃料タンクの発明者とされる。気球の国内レースで5回優勝し、気球の国際レース、ゴードン・ベネット・トロフィーに10度参加し、3回優勝した。(1926年, 1929年, 1930年)

オハイオ州ロレインに生まれた。少年時代から科学と機械を好み、自ら稼いだ資金でケース応用科学学校Case School of Applied Scienceを卒業した。1917年にオハイオ州アクロンのグッドイヤー社のスタッフとなった。1917年に気球と飛行船の免許を取った。1921年にガソリンタンクの漏洩防止カバーを発明し、1928年に最初の特許を得た。後に自動漏洩防止燃料タンクの開発をおこなった。発明家としての業績のほうが、気球乗りとしての業績よりも大きかったとされている。

1925年の国際気球レースで、公海上の汽船の甲板に夜間に気球で緊急着艦した経験を持つ。1925年6月9日にブリュッセルを離陸した気球Goodyear IIIはフランスを越えて、スペインに向かったが、風向きが変わり大西洋上に流された。同乗者のカール・ウォラムは絶望してコニャックをあおり、2度まで飛び降りようとするのを押しとどめた。ヴァン・オーマンは海上に航海灯を見つけた。ドイツの小型貨物船ファーターラントであった。発光信号でモールス信号を送り、貨物船はすべての灯りを点して、気球の降下するほうに航行した。ヴァン・オーマンらは無事に貨物船の前部甲板に着艦した。ヴァン・オーマンと船長のルドルフ・ノルマンは生涯を通じて友人となった。この飛行は1925年の参加者中最長の飛行距離であったが、失格とされた。ゴードン・ベネット・トロフィーのルールに地上に着陸すること必要という項目が追加された。ヴァン・オーマンは15年後になってもこの決定への不満を述べた。

1926年の国内レースで、新しく選んだパートナーのウォルター・モートンと勝利し、国際レースの出場権をえて、1926年アントワープからスウェーデンのSolvesborgまで飛行し、ゴードン・ベネット・トロフィーを獲得した。翌年のレースでは3位となった。

1928年5月30日にピッツバーグで行われた国内レースは悲劇的な結果となった。3台の気球が雷の直撃を受け、ヴァン・オーマンの気球にも落雷し、モートンが死亡し、気球も炎上した。気球は墜落したが気嚢に残されたパラシュートに助けられ、ヴァン・オーマンは失神していたが重大な負傷をすることなく生き残った。

その後もさまざまな出来事にあったが、生き抜いた。競争相手に雇われた男たちに襲われたり、違法な酒造を行っている場所に着陸し、警察と間違われ、散弾銃の銃撃を受けたりした。カナダの森林に不時着して、森林の中をさまよい、森の中を走る電話線を破壊し、修理の人々による救援をまったこともあった。

1932年に妻を失い、子供を育てるために気球レースから引退した。気球レースから引退しても1962年までグッドイヤーでの研究を続けた。開発したものには燃料タンクや、ダイビング・スーツ用の防水繊維、プレッシャー・スーツ用のジッパーなどがある。

引退後は全国で熱心に講演を行い、死ぬまで、時々は熱気球で飛行した。