イオニア七島連邦国

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イオニア七島連邦国
Επτάνησος Πολιτεία
ヴェネツィア共和国
フランス第一帝政
フランス領イオニア諸島
1800年 - 1807年 イリュリア州
ギリシャ第一共和政
イオニア七島連邦国の国旗 イオニア七島連邦国の国章
(国旗) (国章)
イオニア七島連邦国の位置
イオニア七島連邦国の位置
公用語 ギリシャ語(1803年以降公用語)
イタリア語
首都 特に指定はないが、行政の中心はケルキラ島で執り行われた。
評議会
1800年 - 1807年 評議会
変遷
建国 1800年5月21日
フランス領 1807年7月7日
フランスによる支配開始 1807年9月1日

イオニア七島連邦国Επτάνησος Πολιτεία)は、ギリシャイオニア諸島の島7つで構成されたオスマン帝国が宗主権、ロシア帝国が保護権を持つ短期間、存在した国家のことである。

連邦国はケルキラ島パクシ島レフカダ島イタキ島ケファロニア島ザキントス島ストロファデス島で構成されていた[1]

歴史[編集]

1770年、オスマン帝国支配下のギリシャ、ペロポネソス半島においてギリシャの名望家を中心にして蜂起が発生した。この蜂起はオスマン帝国のアヤーン(イスラム教徒の地方豪族)に鎮圧されたが、これはロシア帝国のエカテリーナ2世による南下政策に刺激されており、蜂起したギリシャ人はロシア帝国と通じ合っており、徐々に独立の気運が高まりつつあった[2]

この蜂起以降、列強三国、イギリスフランス、ロシアによるオスマン帝国に対する活動が活発化しており(東方問題)、また、オスマン帝国自体の弱体化のため、1774年、キチュク・カイナルジャ条約により、ロシア保護下ではあるがギリシャ商人の活動が活発化した。そしてフランス革命が発生したことにより、地中海東部からフランス人が駆逐されると、その利権はギリシャ人へと渡った。徐々に独立の気運が高まりつつあったギリシャにおいてイオニア諸島は共和国時代のヴェネツィアフランス革命後のフランスの手に渡り、徐々にその係争地と化しつつあった[1][# 1]

1796年、イタリア北部を占領したナポレオンはヴェネツィアが領有していたイオニア諸島への関心を持った事から、イオアニアのテペデレンリ・アリー・パシャ[# 2]の下へ使者を派遣した。この翌年、カンポ・フォルミオ条約が結ばれた事により、イオニア諸島はフランスの領有下となった[# 3][5]

このためにバルカン半島南部ではフランス、ロシア、アリー・パシャらが対立する図式が完成したが、ナポレオンがアドルア海だけでなくレヴァントまでの支配を目論んでいた。ナポレオンは1798年にエジプトへ遠征したが、これを契機にトルコとロシアが共同してフランス攻撃を開始した。この時、アリー・パシャはフランス人部隊の協力を得てイピロスの一部とプレベザなどを奪取して勢力を拡大したが、1799年にトルコ・ロシア艦隊がイオニア諸島の占領に成功した。

このため、イオニア諸島はトルコ、ロシアの共同管理下となったが、1800年、コンスタンティノポリスで結ばれた条約により、『イオニア七島連邦国』として自治国化、オスマン帝国が宗主権、ロシアが保護領化することとなった。この中でケルキラ島が行政の中心を担うこととなったが、限定的ながら貴族主義的憲法、国旗、外交権などの権利が与えられた[1][6]。ただし、3年ごとに宗主国トルコへの貢納が義務付けられ、ロシア軍が駐屯することとなった[# 4][7]

その中でケルキラ島の名望家カポディストリアス家は連邦国の政治にかかわり、その一員として1803年に評議会に参加したのが後のギリシャ初代大統領となるイオアニス・カポディストリアスであった[6]

1803年に制定された憲法はフランス革命の影響を受けており、自由主義的な内容であったが、ロシア皇帝アレクサンドル1世の抗議を受けて変更を余儀なくされた。また、1807年アリー・パシャはその支配地に近い位置に存在するレフカダ島の占領を目論み、これを攻撃した。そこで共和国は外務大臣を務めていたカポディストリアスへこれを託したが、カポディストリアスはこれを巧みに防御、アリー・パシャを撃退した[4][8]

この時、ギリシャ本土から多くのクレフテスらがイオニア諸島へ避難していたが、この中にはギリシャ独立戦争で活躍するテオドロス・コロコトロニス、マルコス・ボツァリスらが含まれていた[9]

結局、1807年、ロシアとフランスの間でティルジットの和約が結ばれるとイオニア諸島は再びフランス軍に占領され、連邦国は消滅した。結局、イオニア諸島がギリシャ領になるのは1864年のことであった[6]

意義[編集]

短命に終わったが、このイオニア七島共和国の建国はギリシャ人らに三世紀半ぶりの自らの統治を経験させる重要な期間であった。憲法は制約され列強の意向に左右された儚い存在ではあったが、この統治により東方問題が発生することになった[9]

ギリシャがロシア、オーストリア、イギリス、フランス、アリ・パシャ、オスマン帝国のいずれの領土になることが問題と化していたが、ギリシャの独立には皆、懐疑的であった[10]

しかし、この連邦国の建国を通じて、コロコトロニス、ボツァリスらと出会って意気込んだカポディストリアスはギリシャの独立を志したとされている[11][9]

関連項目[編集]

注釈等[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 詳細に説明すると1386年から1797年までヴェネツィアが支配、1797年から1800年までがフランス、1800年から1807年がイオニア七島連邦国(事実上のオスマン帝国、ロシア帝国の共同統治)、1807年、フランス、1809年から1810年、1814年から1864年がイギリスと支配国が変遷を遂げ、最終的にギリシャ領になったのは1864年であった[3]
  2. ^ テペデレンリ・アリー・パシャ(1750年? - 1822年)、イオアニアアルバニアを中心として勢力を誇った地方豪族。オスマン帝国からは半ば独立状態であったが、フランスやイギリスと独自の外交を行ったため、オスマン帝国の反感を買い、1822年、オスマン軍の攻撃により殺害された。彼は過酷な支配から『イオアニアのライオン』と呼ばれていた[4]
  3. ^ ナポレオンは「ケルキラ、ザキントス、ケファロニアの島々はイタリア全土以上に我々の利害関係がある」と執政府に語った[5]
  4. ^ ただし、これはアリ・パシャがイオニア諸島に触手を伸ばす事を防ぐために行なわれたとする説がある[7]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 周藤芳幸・村田奈々子共著 『ギリシアを知る辞典』 東京堂出版、2000年ISBN 4-490-10523-1
  • 桜井万里子著 『ギリシア史』 山川出版社、2005年ISBN 4-634-41470-8
  • ニコス・スボロノス著、西村六郎訳 『近代ギリシア史』 白水社、1988年ISBN 4-560-05691-9
  • C.M.ウッドハウス著、西村六郎訳 『近代ギリシァ史』 みすず書房、1997年ISBN 4-622-03374-7