フェリーかしい

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フェリーかしい
基本情報
船種 フェリー
船籍 日本の旗 日本
所有者 名門カーフェリー(1972-1976)
日本カーフェリー(1976-1978)
運用者 名門カーフェリー(1972-1976)
日本カーフェリー(1976-1978)
建造所 林兼造船下関造船所
姉妹船 フェリーあつた[1]
航行区域 沿海[1]
IMO番号 7218228
改名 フェリーかしい
さいとばる
経歴
起工 1971年10月23日[1]
進水 1972年1月21日[2]
竣工 1972年4月22日[3]
就航 1972年5月
最後 1978年9月6日来島海峡で沈没
要目
総トン数 6,496トン[3]
全長 140.9 m[3]
垂線間長 128.0m[3]
22.4 m[3]
深さ 8.0 m[3]
満載喫水 5.6m[1]
デッキ数 5層
機関方式 ディーゼル
主機関 三菱MAN V9V 2基[3]
推進器 四翼可変ピッチプロペラ 2軸
最大出力 20,000馬力(連続)[3]
定格出力 17,000馬力[3]
最大速力 23.5ノット[2]
航海速力 21.5ノット[3]
航続距離 約2,450海里[1]
旅客定員 468名[2][3]
乗組員 55名[1]
車両搭載数 トラック116台、乗用車16台[2][3]
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フェリーかしいは、名門カーフェリーが運航していたフェリー。後に日本カーフェリーに売却されさいとばるとなるが、来島海峡でタンカーと衝突、沈没した。

概要[編集]

名門カーフェリーの第1船として、僚船のフェリーあつたとともに林兼造船下関造船所で建造された。船名は香椎宮に由来する。 1972年5月に四日市門司航路に就航、同年10月からは航路が名古屋港まで延長された。 1976年4月、航路休止により係船され、同年10月に日本カーフェリーに売却、さいとばると改名して、神戸日向航路に就航した。

船内[編集]

船室[編集]

  • 特別室(4名)
  • 一等(64名)
  • 特二等(16名)
  • 二等(304名)
  • ドライバー室(80名)

沈没[編集]

1978年9月6日、1時45分ごろ、神戸発の下り便で運航していたさいとばるは、来島海峡で韓国船タンカー「チャン・ウォン」(CHAN WON)と衝突した。通常、土佐沖を経由する第一基準航路で運航するところ、事故当日は昭和58年台風第15号接近のため、瀬戸内海を経由する第二基準航路で運航されていた。衝突の結果、左舷中央部外板に、高さ約12メートル、幅15メートルのくさび形の大破口を生じたため、機関室に浸水、航行不能となった。乗員45名、旅客199名は総員退船し、救助にあたった船舶に収容された。来援した曳船により曳航が試みられ、5時35分ごろには準備が完了したが、潜水調査の結果、来島どっくへの曳航を断念、大島東端の照埼付近へ任意乗揚を図ることとした。その後、照埼へ向けて曳航されたが、船体の沈下および傾斜が増大し、7時17分ごろ、照埼の南約60mの地点で左舷に転覆した。 転覆した船内には2億円相当の宝石や装身具などの積荷が残されており、引き揚げが行われるまで1ヶ月以上24時間体制の監視が行われた[4]。船体はその後、サルベージされ広島県で解体された。

本件は、さいとばるが推薦航路線の左側に侵入したことが原因で発生したが、チャン・ウォン側の回避措置が不適当であったことも一因とされた[5]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 新造船写真集 自動車航送客船 フェリーかしい FERRY KASHII 名門カーフェリー株式会社 - 船の科学1972年7月号
  2. ^ a b c d 世界の艦船(1972年4月号,p62)
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 世界の艦船(1972年7月号,p125)
  4. ^ 転覆船内に宝石2億円 瀬戸内の「さいとばる」海賊恐れて厳戒態勢『朝日新聞』1978年10月8日朝刊、13版、23面
  5. ^ 昭和53年広審第116号 機船さいとばる機船チャンウォン衝突事件』(PDF)(レポート)広島地方海難審判所、1978年9月29日https://www.maia.or.jp/wp-content/uploads/pdf/accidents/%E3%89%9Eshouwa%20tyuu%20kouki.pdf2024年2月21日閲覧